191005 ㉗「日野の草庵」(其の一)家づくりの才能
今日は長明の仏教説話集「発心集」巻13話を中心に話す。前回は長明が御所から失踪して、5年間大原に住んだことを話した。大原での生活を、長明は方丈記で「空しく大原の雲に伏して・・・」と書いている。そこには大原での生活が、長明にとって気に染まない納得いかないものであったこと様子が伺われる。その大原から京都の南の日野に移住した。
その理由として考えられるのは
・大原は京都の北で、市内より2~3度低くて寒い。
・この頃、隠遁が流行りとなって、京都から大原を訪れる人が多く、静かでなくなった。
「方丈の庵」日野の庵
日野に方丈の庵(一丈四方→3m四方、高さ7尺→2m) 解体移動が容易な作り
〇この詳細は方丈記に記されている。
〇発信集巻5の13話に庵に関することが書かれている。ある男の挿話
「年を取った貧しくて身の振りようのない男がいた。官位はあったが出仕して働くつもりもない。古風な気持ちの男で、見苦しい振る舞いはなかった。俗世間への執着もないわけでもなかったので出家は
しなかった。定まった住まいはなくて荒れたお堂に住んでいた。特に何もしないで過ごしたが、反故紙(使い古した紙)を人から貰って、そこに家の設計図を書いていた。母屋は…、門は・・・。あれこれ想像しながら心を慰めていた。これを人々は素晴らしいことだと言った。よくよく考えると、心を慰めることが一番である。大きな敷地に大きな家を建てて得意になっている人もいるが、実際に人間が寝起きする広さは一間二間である。その他は他の人や牛馬の為なのだ。このようにつまらないことに心を苦しめ、材木を選び、磨き立てることに何の意味があろうか。命は短いのでこの家に長く住むこともない。後々には他人の持ち物になり、台風で破損したり、火事で焼けたりする。それに比べて、あの男の
想像の家は破損したり、火事になることもない。使うのは,紙一枚で、心を楽しませることが出来る。」
「方丈記と発心集」
この二つは、語句や構文が似ている所が多い。方丈記は自伝的で、発心集は自画像的である。
「この時期の隠遁者の家や草庵について」
家の在り方について、当時の人々が興味を持っていた。特に隠遁者。
・十訓抄に、後白河院の時、公家の中山忠親が、知人の家を見に行ったことが書かれている。
・西行は(山家集725番)で、人の庵を見ての感想を述べている。
・吉田兼好(徒然草 10段、11段)で、家について述べている。
「床しい家だと思ってよく見ると、その庭先に実をつけた大きいミカンの木があった。しかしその木の
周りに垣根があった。それを見て、人が取らないようにとする料簡にがっかりしている。」
「コメント」
当時の隠遁者の例に漏れず、長明も自分の庵について、考え方があった。このことは、方丈記・発心集に色々と述べられている。この考え方は、後の日本の家の考え方に繋がっているのだろう。