190810⑲「川への想い」其一

前回で「方丈記」の購読は終了。今日からは、第二部として長明の人生を中心として話す。

長明の「発心集」という仏教説話集と、「無名抄」歌論書を中心に、長明の人物像に迫る。二つとも、原文と口語訳の文庫本があるので、参照願いたい。

「発心集」

方丈記は末尾で大きな問題を書いて終わっている。方丈の草庵と、その周辺の閑寂を愛することは、仏の戒める執心なのではないかと。「お前は仏者の形はしているが、心は濁っているのではないか」と自問自答。阿弥陀仏を二三回唱えて終わるという結末である。この問題を、発心集は本格的に取り上げている。原文は略して大意を述べる。

「序」

仏が教えて下さったことは、「心の師とはなるとも、心を師としてはならない」本当にその通りである。人は人生を過ごす間に、思う事、することに悪行でないことはない。もしは姿形を変えて、墨染めの衣にしても、俗世の塵埃にけがされない人はいない。良い心は戸外に遊ぶ鹿の様に繋ぎ留められない、逆に悪の心は犬のように纏わり付き、離れようとしない。

因果の道理を弁えず、名門の利用を過ちに陥る人については、言うまでもなかろう。空しく欲望の縄にとらわれて、最後には奈落の底に落ちていく。心ある人であれば、誰がこのことを恐れず平気でいられようか。

・「心の師とはなるとも、心を師としてはならない」  長明の考え方の核心である。

 →心を支配するべきではあるが、心のままに生きてはいけない。

第一話「玄賓僧都遁世蓄電の事」

昔、言賓僧都という人がいた。山階寺(興福寺の旧称)の僧であったが、俗世を嫌い、俗塵にまみれた他の僧との交わりをしなかった。そして、三輪明神の三輪川(初瀬川)のほとりに、草庵を建てて隠棲していた。平城天皇の時、大僧都昇格を授けたが、これを辞退して次の歌を詠んだ。

「三輪川の清き流れにすすぎてし衣の袖をまたはけがさじ」

→三輪川の清き流れで洗い清めた生き方を、天皇の思し召しでも汚すことは出来ない。

そうこうするうちに、弟子にも知られずに、出奔してしまった。

その後年月を経て、弟子であった人が、北陸に行く途中で、大きな川があった。渡しがあり、その船頭に見覚えがあったので、よくよく見ると玄賓僧都であった。ここで挨拶するのは、却って人目に付くとして、帰り道に挨拶しようとそのままやり過ごした。帰り道に寄ってみると、もうその船頭はいない。聞くと、弟子が出会ったその時から、姿をくらましていた。

第二話「同人伊賀の国の郡司に使われ給う事」
伊賀の国の郡司の所に見苦しい法師が「下男でもいいから雇ってくれ」ときた。よく働くので郡司も喜んでいた。

3年くらい経った頃、具合の悪いことがあって郡司は国司によって追放された。法師はその事情を聴いて、都に存じ上げる人がいるので、行ってみましょうという。都に行って国司である大納言の所に行くと、大納言が法師に向かって膝まずついて、敬意を表したので、郡司は大いに驚いた。そして大納言は「玄賓僧都が好意を持っている郡司を、なんで罷免なぞしょう」と言って元の郡司に戻した。玄賓僧都は、事が決着したのを見届けて、またどこかへと立ち去った。

・郡司 律令政治の地方行政官。国司の下で郡を治めた。地方の有力者。

〇ここで共通しているのは我が身を隠している、何かのことで露見してしまう、また姿を隠す。

 このパタ-ン。つまり名利を嫌っているのである。この姿が、長明に大きな影響を与えた。 

〇「閑居の友」 慶政 鎌倉初期の仏教説話集 ここにも玄賓僧都の話が出てくる。

〇「三輪」能  大神神社には、言賓僧都ゆかりの杉の木がある。

 三輪川の草庵で玄賓を世話する女の人がいる。ある日寒いというので、玄賓僧都は自分の

 衣を与える。神社に行ってみると、自分の衣が杉の木に掛かっている。女の人が三輪明神であったことを知るという筋である。

「コメント」

隠れて隠棲するのであれば、そのまま出てこなければいいのだが、どこかで出てくるのが

説話集のパタ-ン。何処か納得できにくい感じ。一休宗純、西行などもこの系譜。

後世に何かをそれぞれ残しているのも少し嫌味。