190727⑰「方丈記」の補足とまとめ
この講座の16回で、方丈記全部を読了した。今回はその補足とまとめを行う。まずはその有名な
出だしについて。
「朗読1」 書き出し
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或いは、去年焼けて今年作れり。或いは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人がなかに、わずかに一人二人なり。朝に死し、夕に生まるるならひ、ただ水野泡にぞ似たりける。」
・日本文学の中でも、屈指の名文である。下鴨神社のある境内は糺の森といって、太古いらい平安京
が出来る以前からの森が残っている。その中の流れを写し取ったような描写である。
・方丈記の成立は1212年。その40年後の説話集「十訓抄」(編者不明)の中に「・・・ゆく川の流れ・・・
とあること、いとあわれなり」とある。方丈記の評価の最初である。
「十訓抄」 教訓説話集
仏典に発想し、十ヶ条の教訓を掲げ、古今和漢の教訓的説話280話を通俗的に説く。年少者の啓蒙を目的に編まれ,教訓書の先駆。
・金沢文庫で最近発見された「千字文説草」(僧侶が説法するときのネタ本)に、方丈記の、この出だし
が架かれている。ということは、法話に方丈記が使われていたということである。
「朗読2」福原遷都のくだり 木の丸殿
「その時、おのづからことの便りありて、津の国の今の京に至れり。所のありさまを見るに、その地、ほど狭くて条理を割るに足らず。北は山にそひて高く、南は海近くて下れり。波の音、常にかまびすしく、潮風ことにはげし。内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなか様かはりて、優なるかたも侍りき。」
・「木の丸殿」 これを使うことで、遷都の批判。
丸太で作った粗末な殿舎。特に筑紫朝倉にあった斉明天皇の行宮のこと。朝倉は、のちに歌枕と
なる。
急づくりの宮であったので、皮付きの丸太が使われたところから、こう言われた。
この言葉は、古典の随所に使われている。
●「朝倉や木の丸殿に我がをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」 天智天皇
・斉明天皇 皇極天皇→舒明天皇の皇后、夫の死後天皇となる。天智、天武の母。
7世紀の天皇。皇極天皇の重祚。百済救援の為に筑紫の朝倉の宮に移り、その地で没す。
大規模土木工事を好み、「たぶれ心の溝・・」と言われ、人民からの批判を受けた天皇。
・福原遷都への批判
木の丸殿からの連想は斉明天皇であり、それは悪政の象徴。清盛の福原遷都への批判に
つながっている。西行も遷都を批判している。
「朗読3」
「静かなる暁、このことわりを思ひ続けて、みづから心に問ひといわく、「世を遁れて、山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむとなり。しかるを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり。すみかは、すなはち、浄名居士の跡をけがせりといへども、たもつところは、わづかに周利槃特が行ひにだに及ばず。もしこれ、貧賤の報いの、みづから悩ますか、はたまた、妄心のいたりて狂せるか。」そのとき、こころさらに答ふることなし。ただかたはらに舌根をやとひて、不請の阿弥陀仏、領三遍申して止みぬ。時に建暦の二年、三月の梅ころ、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす。」
・今まで書いたように、方丈の庵を愛するのは、仏教で戒める「執心」ではないかと自問自答して
自省している。
この自問自答は、長明の文章の特徴。「鴨長明集」 和歌
・暁 アカトキの転。現在ではやや明るくなってからを指すが、古くは、暗いうち、、夜が明けようと
する時。
東雲、あけぼの、あさぼらけ・・・
また、ある事柄が実現したその時。→成功の暁に
・式子内親王 新古今 1969
「静かなる暁ごとに見渡せばまだ深き世の夢ぞ悲しき」
長明は、これを真似ているのかとも。
「コメント」
物書きは古典をしっかり読み込んで、それを応用し、また有名な文章は後世に真似られるのだ。
またそれらのケースを、探し出してくる人もすごい。