こころをよむ 「いま生きる武士道」 講師 笠谷 和比古(帝塚山大学教授)
151011② 武士の誕生~家と氏の誕生
(一所懸命)
武士の誕生は中世まで遡る。今日武士の存在を我々に繋ぐ言葉に一所懸命と云う言葉がある。日本人の根本精神である。しかしながら今日では一生懸命という。一生、命を懸けて頑張るという意味だろうが、変な感じである。
本来は一所懸命である。一つの所に命を懸けて守っていくというのが正しい。一つの所とは中世では自分の所領である。
父祖が粒粒辛苦の果てに開拓し、そして命を懸けて戦い守ってきた所領は自分も命を懸けて子々孫々に向けて守り抜くという信条、決意を一所懸命と言うのだ。
それは中世の武士の根本精神であって、今日においても我々日本人の核心的な精神と言える。そもそも一所懸命の元に
なった武士と言うものはどういうものであり、どのように成立してきたのかを考えてみたい。
(武士の成立)
時代としては平安時代の後半から院政時代、そして源平合戦の時代において明確な姿を作り上げてきた。彼らの事を
武士とも、サムライともモノノフともツワモノともいう。これは一つの実態を指して表現する場合の色々な側面から捉え表現する場合の名称である。
武士と言うのは戦う人と言う意味で、戦士を指す表現である。文士の対語。サムライと言う言葉は侍うという言葉から
来ており、これが転じてサムライ。侍るという意味で高貴な人の側に仕えるのがサムライという事である。本来的には戦う人と言う意味はない。鎌倉の頼朝の下に侍う、近侍する人を御家人と呼ばれる人の事である。それからその御家人を
サムライと呼ぶようになった。サムライは鎌倉武士の様に戦う人と言うイメ-ジに変化した。武士はどのようにして社会に登場してきたのか。制度として確立したというより社会的に自然発生してきた存在であり社会の中で人々が武士として
認知してきたのである。一般庶民、農民が武器を取って戦っても武士ではない。武士と言うには共通の条件がある。一つは騎馬・弓射の術、人々はこれを賞賛と畏敬を込めて武士と呼んだのである。その術は幼少からの訓練が不可欠で、
親子代々世襲的にならざるを得ない。
(清和源氏)
武士の本流に清和源氏と呼ばれる一族がいる。武士の本流中の本流と言われている。清和源氏と言うのは清和天皇(56代)の皇子貞純親王の子経基王(六孫王)が臣籍降下し、源経基と名乗ったことに遡る。臣籍降下して源を名乗ったのは21流あったが、武士化したのは清和源氏だけであった。
源経基は武蔵介として関東に赴任、その時に平将門の乱勃発し、これを鎮圧して武勇の人とのイメ-ジが出来、有力な武士となっていく。経基の子・源満仲(多田満仲)は、藤原北家の摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成した。そして彼の子である頼光、親、頼信らも父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大した。のちに主流となる頼信の嫡流が東国の武士団を支配下に置いて武門の棟梁としての地位を固め、源頼朝の代に鎌倉幕府を開き武家政権を確立した。その後の子孫は、嫡流が源氏将軍や足利将軍家として武家政権を主宰したほか、一門からも守護大名や国人が出た。また一部は公卿となり、堂上家として竹内家が出た。
(八幡太郎義家)
源頼信の子、源頼義の長男として、河内源氏の本拠地である河内国(羽曳野市)に生まれ、京都郊外の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称す。
前九年後三年の役で活躍し、多くの武士団を支配下に置き武士の統領としての地位を確立した、数ある源氏の中で武士の本流であるという形を作った。
*前九年の役 1062年
源頼義、義家親子が奥羽地方の豪族安倍頼時とその子貞任、宗任を討伐した戦役。
*後三年の役 1083年
源義家が奥羽の清原一族の乱を平定した戦役。
(清和源氏の分流)
この清和源氏の本流は鎌倉幕府の頼朝に繋がる。頼朝・頼家・実朝と続くがここで本流は途絶える。ただ分家筋があって分家筋から足利、新田という武士団が登場する。この2人も清和源氏の流れであり、当時の正しい名前は源尊氏、源義貞である。本流は源を名乗るが分家筋は姓(源)の代わりに名字を名乗ることになる。在地の名前が多い。足利、
新田・・・。
分家 足利からの分家→武田、小笠原、細川、
新田からの分家→畠山、吉良、山名、徳川
(在地領主)
この様にして武士の戦闘スタイル、家筋が出来てきたが武士を武士足らしめる重要なポイントがある。それは所領を持つという事、これが武士の一番大事な条件である。所領がどのようにして形成されるのか。濠と土塁で囲まれた領主の館、武士団の本拠地であるが周辺に耕地が存在する。
耕地は農民が交錯し、年貢を徴収するのが在地領主である。中世に在地領主が生まれる。対の概念は都の領主。摂関貴族、高級貴族、寺社がこれである。在地領主はどのようにして所領を形成したか。土地開発である。主として東国に多く存在する。特に足柄、箱根から東は都の支配が及ばない、アウトロ-な地域である。古代律令制度があるが、箱根以東は力の支配する地域で、武力が無いと存在しえない地域であった。こうして武力で以て所領を形成していく。これには
経営的才覚を必要とし、武力だけでなく、経営力、政治力、技術力も必要であった。この例として大庭御厨13郷と称される有名な所領がある。今の藤沢市で、藤沢、茅ケ崎、鵠沼・・・湘南海岸から奥に向かった一帯である。
広大な所領だが、開発したのは鎌倉権五郎景政。在地領主の分かりやすい例である。後に伊勢神宮に寄進されたので御厨と名付けられた。
*鎌倉権五郎 大庭景政
武勇をもって知られ、16歳の時、源義家の陣営に連なって後三年の役(1083年-1087年)に従軍して活躍した際の
エピソードがよく知られている。『奥州後三年記』の伝えるところによれば、景政は左目を敵に射られながらも屈することなく、射手を倒し帰還した。左目に突き刺さった矢を抜こうと、一人の武士が景政の顔に足をかけたところ、景政はその非礼を叱責したと言う。御霊神社の祭神であり歌舞伎でも有名。
*歌舞伎「暫」
皇位へ即こうと目論む悪党の清原武衡が、自らに反対する加茂次郎義綱ら多人数の善良なる男女を捕らえる。清原武衡が成田五郎ら家来に命じて、加茂次郎義綱らを打ち首にしようとするとき、鎌倉権五郎景政が「暫く~」の一声で、さっそうと現われて助ける。
以上の様に武士団の二つの側面。一方では騎馬・弓射による戦闘力、もう一方は合理的に領地経営を行う領主としての立場である。大事なことは斯の所領を分散させてはならないという事。父祖が苦労して開発し命を懸けて守ってきた所領を分散させてはならない、そこで相続の問題が重要。
(長子相続)→家の形成
当時兄弟間では分割相続はするが、勝手に土地の処分は出来なかった。惣領が全体を把握し支配するのである。この
惣領制が重要な役目を果たした。しかしながら南北朝、室町時代になると内乱が続き、惣領でない庶子(嫡子以外の子)が独立し始める。そこで所領を分散相続せずに、長子単独相続となっていく。家業と家産が一体化しこれを名字と言うものが表現するという家業、家産、家名の三位一体としての家と言うものが形成されていく。これは武士の形成と共に日本社会における家の形成でもあった。それでは次男三男はどうなるか。
これは他家へ養子に行くか、長子の土地の一部を貰い分家を立てるかである。そして父祖が行ったように開発を行い、
独自の家筋を作っていくのである。この場合兄の家筋と区別するために独自の名字を立てる。
(日本の家) 直系が家族
この様にして源という所から始まって、足利・新田と分かれ、新田が山名・里見・徳川と足利が武田・畠山・細川・吉良と
分かれた。苗字はドンドン増える。故に日本人の名字は多い、韓国と比較すると一目瞭然。日本 20万、韓国 200、中国 5千。
此れから見ると中国韓国は親族形成と構造が似ていると言える。日本の20万は突出している。これは家と言うものの
あり方が違うからである。中国、韓国の家の概念は一族、日本は父・子・孫という直系的なイメ-ジで傍系を家族とは
呼ばない。
中国韓国とは大きく異なる。何故そうなったのか。それは中世から所領の一体的継承が大きな課題であり、それに事業の継承が結びつき直系子孫をしてその継承者とし、他の庶子は分家させ別の名字を立てさせたことによる。
武士の形成と家の形成が不可分の関係にあったという事が武士の研究、家の研究、ひいては日本社会の研究に重要である。
「コメント」
成程、成程。さすれば我が家は分家なので名字を変えねばならない。何にするか。そうか所領がないからいいのか。
20万の名字と言うが、所領を持つ分家が出来ないからもう増えないのだ。
社会と言うのは政治より社会の仕組み、経済の在り方で決まっていくのだ。それも長い時間をかけて。
親が生きている内は子供・孫も家族だが、死ぬと子供たちそれぞれが本当に独立して家族ではなくなるのだ。束ねるためにも長生きしなければならない???