科学と人間「私たちはどこから来たのか?~人類700万年史」            講師 馬場 悠男(国立科学博物館名誉研究員)

150918⑫徳川将軍親族遺骨の研究

徳川家の墓は芝の増上寺と上野の寛永寺にあり将軍、親族がほぼ半分ずつ埋葬されている。50年前増上寺改装工事の時、埋葬されている人骨は発掘調査され、東大人類学教室で研究・報告された。又上野谷中にある将軍家親族の墓が寛永寺に移されることに

なり講師が49体の遺骨を研究することになった。この中で全身の遺骨が残っていたのは15体であった。最新のDNA解析や食物分析

或いは寄生虫卵検査も実施した。ここで分かった将軍の正室、側室の人骨から分かったことを述べる。

「将軍の正室、側室、生母の遺骨」

浄円院(8代 吉宗の母 吉宗の父 光貞の側室)

  紀州藩下級武士の娘で、紀州藩主 徳川光貞の側室。その子吉宗は4男であったが兄たちが亡くなったので紀州藩主となり次に

 将軍となった。

 浄円院の顔は庶民と同じように巾が広く骨がしっかりしている。鼻は江戸時代人としては立派に隆起して美人であったと思われる。

身長 147cm 当時としてはやや高い方である。腕、足の骨は逞しく一般市民として肉体労働をしていたと思われる。72才で亡くなる

が、殆どの歯は残っており極めて健康であった。吉宗は享保の改革で知られており、活動的な体質は母譲りと思われる。

(享保(きょうほう)の改革)  倹約・武芸・新田開発等を奨励し目安箱の設置、養生所の設立などを行い体制の立て直しをおこなった。

           江戸三大改革(享保→吉宗、寛政→松平定信、天保→水野忠邦)

証明院(8代 家重の正室  伏見宮邦永親王の娘)

 家重の子を早産して23歳で死亡。顔の幅は狭く華奢な作り、貴族として育った状態を示している。つまり軟らかいものを食べる

習慣が昔から続いている事を示す。鼻は非常に強く隆起しておりいかにも貴族の出身という高貴な雰囲気を持つ美人であったろうと

思われる。若いにも関わらず、下顎の切歯が失われているので余り健康ではなかったであろう。

手のひらと指の間の関節が普通とは逆に手の甲の方に強く曲がっていた。これは座敷を移動する時に立ち上がらずいわゆる

(イザル)という動作であったこと。もう一つ、足の親指にも足の甲の方に90度傾いていて曲げた時にできる独特の関節面があった。

手の状態、足の状態より子供の頃から正座の習慣が強かったことが推察できる。これと同じことが高貴な人によく見られる。

・心観院(10代 家治の正室 閑院宮直仁親王の娘)

 二人の女子を出産し34才で死去。やや小柄で骨も細い。顔が幅広い割には顔面が狭く所謂小顔。鼻は細くすんなりと隆起し上品な

顔立ち。若いにも関わらず背骨と肋骨が癒着しており、特殊な病気か老化現象。

・浄観院(12代 家慶の正室 有栖川宮織仁親王の娘)

三人の子供を出産、46才で死亡。頭は広いが顔は狭く、特に下の方が狭いという特徴を表している。逆三角形の小顔。顎が華奢

で細いので咀嚼筋の発達は弱い。つまり固い食物をかむことはなかった。鼻は高く隆起していかにも貴族出身と言う感じ。

46才で死亡したにも関わらず歯が全て抜けていて、余り健康ではなかったのか。骨盤の腸骨という横に張り出している部分は

華奢で、大臀筋などの股関節を動かす筋肉は弱い。又踵の骨の細いので足をけり出すふくらはぎの筋肉も脆弱。つまり歩行能力は

弱く、肉体労働は全くしていないことを表す。

 

(4人の女性の特徴)

3人の正室は顔が細く華奢なのが特徴。それに対し吉宗の母(父の側室)の顔は幅広く頑丈であった。側室は皆頑丈であったのか。

そこで12代 家慶の側室で13代家定の母である本寿院の顔を見てみる。NHKドラマ(篤姫)で高畑 淳子が本寿院を演じた。

下級武士の娘であったが、家慶の側室となり家定を出産して大いに地位を高めた。長生きをして明治になり79才で死亡。やや小柄

である。上半身は平均であるが下半身が発達している。顔は非常に細長く、逆三角形。鼻は高く隆起している。まるで正室のような

顔である。

 

(女性遺骨調査の総括)

・正室は庶民に比べて頭は広いが顔は狭く、特に顔の下の方が狭くなっている。又鼻は狭く高く突出している。いわゆる貴族顔。

・側室は庶民と正室の中間。それは貴族出身の正室と身分の高い庶民出身の側室という出身母体の違いを表している。

・興味深いのは側室の顔が時代によって違う事。江戸時代の前期や中期は庶民と同じ幅広い顔が多いが、後期から末期にかけて

 は細長く華奢な顔が多くなる。その典型が本寿院の顔である。それは美人のモデルとして細長く華奢な顔が美人のモデルとして

 一般に流布されたからではなかろうか。

 

(将軍の顔)  増上寺で発掘された将軍の遺骨の顔を調べた結果

江戸末期の将軍の顔は典型的な貴族の顔になったとされている。殆どの将軍は正室の子ではなく側室の子である。従って貴族的

な顔が遺伝することはないはず。これは正室の影響が生物学的に将軍の顔に遺伝したのではなく、美人の価値観を変えてきたと

言った方がよい。側室の顔は貴族顔が好まれるようになってきたこと。

(鉛中毒)

正室では鉛中毒が著しくて本人や子供が早く亡くなった原因の一つと考えられる。鉛白(塩基性炭酸塩)を用いた白粉(おしろい)の影響で

ある。白粉は本人が付けるだけではなく乳母も付けているので子供がなめたり、母乳を介して子供が吸収したのであろう。

(ミトコンドリアDNA)

今回の調査で正室や側室のミトコンドリアDNA が検出されたので子供である4人の将軍のミトコンドリアDNAのタイプが明らかに

なった。ミトコンドリアDNAは母親から子供に伝わるものなので将軍の遺骨がなくとも母親が分かると、将軍のタイプが分かる。

ミトコンドリアDNAは、母親から子に受け継がれる特性を生かして、家系を追跡するための研究に利用される。

(浮世絵の美人はなぜ瓜実顔で一重まぶたなのか)

細長い瓜実顔は貴族への憧れとして理解できるが、何故一重まぶたか。

それは前回話したように日本人の形成過程が影響している。弥生時代に渡来してきた人々が主体となって古墳時代以降に

中央集権国家が築かれ平安時代には貴族階級が形成された。源氏物語絵巻などには引き目、鉤鼻、鼻の平らでのっぺりとした

一重まぶた顔で描かれている。彼らは富と権力を持ち進んだ技術力と華やかな文化を持っていたので彼らの顔がいい顔と

みなされたのである。一方大昔から日本に住んでいた縄文人の子孫たちは、そのはっきりとした顔が、人相の悪い、甚だしいのは

鬼の顔にされた。歌舞伎の泥棒の顔は縄文人で、顔の下半分は黒く塗られている。一種の社会的差別である。浮世絵の美人の

顔のルーツは北方アジア人の血を引く渡来系アジア人で一重まぶたの顔がいいとされたのである。但し明治以降欧米の文化が

入ってきて、はっきりした彫の深い顔で二重瞼がいいとされるようになってきた。

 

「現代の子供の顔」  噛む機能の低下→歯並びの悪さ

江戸時代の人々は身分の高い少数の人々を除いて全体としては健全な噛む能力を持っていた。この状態は昭和20年代、30年代

生まれまで続き、歯並びの大きく乱れた人は少ない。ところが最近の子供や若者には歯並びの良い人の方が少ない。本土日本人

北方アジア人の影響を受けて、世界中の人々の中で歯が大きい。そこで歯槽骨の発達が十分でないと全ての歯が並びきれ

なくて乱杭歯となる。おそらく今の日本人の子供や若者は世界中で最も歯並びの悪い集団であろう。貴族や将軍の顔は狭く華奢で

あるが歯並びの悪い人は少ない。これは親の代よりの異常な食生活の影響である。アメリカ食文化のせいであるのは周知のことで

ある。歯並びが悪いと美しくないというだけではなく様々な障害が起きる。

下顎の未発達→歯並びの悪さ→口腔内容積の減少→無呼吸症候群→血管の老化・心臓や脳の障害

  無呼吸症候群は昔は肥満の中高年特有の病気であったが、最近では痩せた中学生にも見られるようになった。

その対策は堅いものを食べて顎の発達を促すことである。ヨ-ロッパ人から見れば今の日本人の食生活はまるで病人食である。

  軟らかいご飯、パン、肉・・・・。これを防ぐには幼児期から固く歯応えのある食物を食べさせること。しかし今の母親自身が柔らかい

食物を好む習慣を持っているので意識を変えることはとても難しい。

 

「コメント」

このテーマは自分がやった調査なので選択されたようであるが、不要。本土日本人と先住の縄文人との関係もっと詳しく話して

もらいたかった。講師の最初の目線は高かったけれど、ここのところで下に下って来たのは不愉快。なめられた感じ。