私の日本語辞典「万葉語の由来をさぐる」                     講師    夛田 一臣(東京大学名誉教授)

                                                聞き手   秋山和平アナウンサ-

151017③  万葉語の由来をさぐる

「秋山」

前回の話では赤、遊び、いぶせしという言葉が出た。今回はカ行で香・影・形見・語る・心

「多田」

どれも難しい言葉である。香は匂と関係の深い言葉でその違いについては微妙な所がある。最初に述べたようにどちらも今は嗅覚であるが、視覚的な意味合いが非常に強いとされている。それは古代の人間の感覚で、彼らは視覚優位であった。視覚はあらゆる感覚を統御しているのだ。「正香(ただか)」という言葉がある。その人から発散する魅力の様なものをという。

面白いのは男女両方にある。自分がその人の魅力にひき寄せられた時にその対象を正香という。或る霊的なものを発している存在、それを自分に中で捉えた時にその「香」というのを使う。正香と言うのは相手に対して使う言葉「私はあなたの正香に引かれる」と。恋というのは自分の魂が相手に引き寄せられてしまう、自分にはどうしようもない、その状態を

いうのであろう。これがの本質であろう。

「秋山」

(カゲ)はどうですか。

「多田」

単純に考えても二通りある。光によって作られる背後の暗い部分を普通言うが、その光そのものを影と言ったりする。

月影とか星影とか言った時には光そのもの。そこから影の意味と言うのを何とか統一的に考えようとしてみた。影という

時には何か霊的なものが影の中にあると思う。例えば人影と言うのがあるが影は人間と切っても切れない関係である。

影は人間の魂の姿、魂のありかたに関わっている。影自身が魂の姿ではないのか。「影が薄い」という言い方がある。

それは生命力が弱っているからこそ「影が薄いと言われるわけで、それは魂の力が影に現れているだとすれば、説明がつく。影を切りとっとしまうとその人は死ぬ。「影取り」という妖怪がいて、これは沼に住んでいるが通行人の影を奪い

取る。影を奪い取られると死ぬ。

「秋山」

(陽炎)かぎろい」「(耀う)かがよう」等は影と繋がっているのか。

「多田」

影は単に光と言ったが、実はちらちらとか明滅するものを影と言っている様でもある。光の移ろいみたいなもの。かぐや姫の「かぐ」も光り輝いている意味。一方的な強い光ではなくそこに霊的なものが宿っているゆらめきというか、そういうものが影という言葉で表現されている。不思議な力が宿っている感じである。

それが暗い方に行くと人間の影と言うのはその人の霊的なもの、魂と言うか、生命力と言うかそういうものに繋がって

行く。影というのは奥行きの深い言葉である。

「秋山」

カ行でもう一つ「心」というのがあるが。心と魂との関係は?

「多田」

魂と心とははっきりと分けて考えている。心と言うのは元々内在しているが、但し自分でははっきり自覚できていない。

わだかまる様な状態で内在しているもの。しかし何かの刺激によってその心の在り方に気が付くという、それが心だと

思う。魂と言うのはそうではなくてむしろ外在的で、これは例えば人が死んでしまえば体から魂が離れていくわけだから、或いは魂は分割できるので恋する人がいればその人の元に魂の一部がフワフワと飛んで行って相手の魂と出会おうと

する。そういうのを「魂合う」という。面白いのは魂と言うのはその人自体を支える根源能力だから、その一部分が恋人の元に抜け出すと、ぼっとしておかしくなってしまう。沖縄では魂の事を「まぶい」と言うが、びっくりするとか何かをするとその魂を落っことしたりする。すると元気がなくなっておかしい状態になるので、それを「ゆた(巫女)」に連れて行く。「ゆた(巫女)」は「まぶい付け」と言って魂を入れる。魂と言うのはそういうもので基本的に言うと外在的なものである。時としては

分割が可能でフワフワとどこかに飛んでいく。

所が心と言うのは内在的で、普段は気が付かない。何かあって外界の刺激によって心の在り方に八ッと気付く。そこで

自分の心と言うのがどういうものであるのかに気が付く。それが心と言うものであると考えている。心と魂と言うのは微妙な関係にあるが、大本では区別がある。

「秋山」

古代人の世界観ではそこを区別しているのですね。

「多田」

心と言うのは掴みようがないし、自分でもよく分からない。でも何かあった時に改めて自覚されるというか気が付くというか、これは現代でも同じだと思う。結局心と言うのはそういうものだろう。だから心は固有のものであるが、魂と言うのは元々は外在的なものだから固有のものと言っても、そうでない部分もある。だからこの二つの関係はとても微妙である。

「秋山」

そこまで分析しているのは、色々な歌の研究の中から読み取って来たのですか。

「多田」

そうだが万葉集の中でも心と魂が重なってきて、例えば心と言うのは内在的なものだから相手の元に届けるという事は

出来ない筈で、本当は魂の働きなのだけどいつの間にか心の働きになっている例もある。言葉と言うのは時代によって

動いているので、心と魂の区別と言うのが、段々境目が曖昧になっていくこともある。

「秋山」

古代にとって心も魂も重要なものだったはずなので当時の人々の感覚は敏感であったのでしょうね。

「多田」

特に恋でも今の様にお互いに携帯やスマホを使って地球の裏側まで一瞬に連絡し合える状況ではないので離れているとお互い何をしているか分からない。そうすると夢を通じて出会うしかない。そうするとその時魂の動き、お互いの魂同士が惹かれあって、出会って夢を見る。それて相手の安否を知るという。これは日本でも数十年前まで続いていた事である。

古代のそういう事を考えると今の我々の位置と言うものが見えてくる。現在の我々の生き方在り方を反省する材料も、古代の事の中から得られる。

「秋山」

とても大事なことだと思う。

「多田」

万葉集と言うのも先の戦争に利用されたり、その反動で戦後のある時期排斥されたり色々あったが、又研究が

進んでとても面白いと思う。

 

「コメント」

心と魂の違いは講義ではよく分からない。でも古代人が魂を大事に考え、自分の核心だと認識していた事を理解した。

生命力そのものなのだろう。魂は身体的・生命そのものので、心は精神・思考なのだと理解してはおかしいかな?