1705011⑥「戦争一色の俳壇と何気ない日常 戦中期」
今日は昭和の戦争一色の時代の作品を見て行く。時代時代に特有な作品がある。
現在の俳句ではこういうのがある。
(原発の煙たなびく五月来る)
後になると、いかにも原発事故の平成らしい作品と受け取られる。現在は、ごく当たり前と受け止められているが。しかし同時にこういう句もある。
(濃い桜薄い桜を呼びわける)
時代とは関係なく、日常の生活の中で自分の喜び・感動を詠んでいる。
「戦時下の俳句」
(戦時下を詠んだ作品)
一番有名なのは「京大俳句」に代表される新興俳句の人々。これらの人々の作品が、戦争批判として治安警察(特別高等警察=特高)に検挙される事件があった。新興俳句弾圧事件又は昭和俳句
弾圧事件と言われる。
(戦争が廊下の奥に立っていた) 渡辺 白泉
具体的には何が立っていたかは、分からないが戦争批判ととられ不謹慎とされた。
(散る桜海青ければ海に散る)
(母の手に英霊震えおり鉄路)
(蝶墜ちて大音響の結氷期) 富沢 赤黄男 新興俳句のメンバ-。現代詩の一分野としてモダニズム
俳句を作った。張りつめた戦時下の雰囲気を表している。
(包帯を巻かれ巨大な兵となる)
負傷して包帯でぐるぐる巻きにされ、巨大に見える兵隊を詠んでいる。
(鼻を顎を膝を空に向け戦死)
戦死した兵の姿を描写している。
「戦時下の日常」
上の作品は「ホトトギス」からは絶対に出て来ない。人の心象風景を詠んでおり、現代詩に近い。
しかし俳句をやる人々の多くは、普通の生活をしており日常の事を詠んでいた。現在は、当時の事をとてもひどい時代とみるが一般の人々は日常に一喜一憂して生きていたのである。
(バスを降りて風に向えば芹匂う)
(遠足の子ら次々と門覗く)
連作 自分の子供を詠んだもの
(春光にまつ毛の長き子が笑う)
(春風に重たく腕に眠りたる)
(窓に振る手と別れきて青き海)
(森閑と絵本が残り春の暮れ)
(春夕べ麦飯を噛む一人となる)
普通のレベルの市民には国家の行方や時代の変化よりは、自分の日常の喜怒哀楽の方が大事
なのである。そして、戦時体制に呑みこまれていく。それがごく当たり前と思って生きていたのである。
「種田山頭火」
この時代で忘れてならないのは、種田山頭火である。奇行の人として知られる。自由律俳句の代表の一人。山口県防府市出身。地主であったが、父は自分とで蕩尽してしまう。早稲田大学。
荻原井泉水門下で尾崎放哉と並び称され、「層雲」で頭角を現す。全国を放浪、熊本で出家した。
次の言葉が有名。「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった。」
(分け入っても分け入っても青い山)
(どうしようもない私が歩いている)
(酔うてこほろぎと寝ていたよ)
(ほろほろほろびゆくわたくしの秋)
(風の中おのれを責めつつ歩く)
(柳散るそこから乞いはじめる)
(まつすぐな道でさみしい)
これらを見ても戦時色が強まっていく中で、一般人の日常生活は淡々と続いていることを実感する。俳句と言う切り口で戦時下を俯瞰して見た。
「コメント」
講師の敢えて戦時下の日常と言うことがもう一つ不可解。そもそも世の中で全体を考える人は10%、そして更にその10%がリーダ-というのは常識。その他は自分のことで精いっぱい。
故に京大俳句会に代表される新興俳句の人々が戦時批判し、その他一般が日常生活を詠むのはごく当たり前の事。
それにしても、五七五で戦時批判したのも、自由律俳句というか現代詩的なのも面白い。山頭火が熊本に夫婦で住み商売をし、更には出家したのは知らなかった。色々知ると俳句も中々面白い。
改めて、どうしてこんなに世の中には知らないことが多いのだろうとつくづく感じる。