161020③「治承の辻風と福原遷都~五大災厄 その二」
「治承の辻風」
「現代語訳」
また、治承四年四月のころ、中御門京極の辺りから、大きな辻風が起こって、六条の辺りまで吹いた事があった。三、四町を吹き荒れる間に、囲まれている家々は、大きい物も小さい物も、一つとして壊れない物はない。そのままの状態で、
完全に倒れた家もあれば、桁や柱だけが残っているものもある。門を吹き飛ばして四、五町離れた所に置いたものもあれば、また、垣根を吹き払って隣の家と一つになった物もある。まして、家の中の家財は、残らず全て空に舞ってしまった。檜皮や葺板の類は、まるで冬の時期の木の葉が風に吹かれて乱れているかの様である。塵を煙の様に吹き立てるので、全く視界も見えない。
風の音が騒がしく鳴り響くので、物を言う声も聞こえない。あの地獄の風であっても、このような事はあるまいと思える。
家が壊れたり、なくなったりしただけではない、これらを修理している間に、体を怪我する人は数知れず。この辻風は、
未の方角(南南西)に移っていって、多くの人を嘆かせた。辻風は常に吹くものではあるが、このような事があるだろうか。ただ事ではない、神仏のしかるべきお告げであろうかと疑ったことである。
「解説」
ここでは今日の都の辻風(竜巻)の凄まじさを話しているが、これが次の災厄(福原遷都)への伏線となっている。
・辻風
竜巻
・治承
高倉・安徳天皇の時代、平家の末期の時代。
「福原遷都」 福原→神戸市兵庫区
その時、偶々つてがあって、摂津国福原の現在の都に行ってみた。その場所の様子を見ると、南は海が近く、土地が
下っている。波の音が常にうるさく、汐風が大変に激しい。内裏は山の中にあるので、その昔斉明天皇が西征された時、筑紫朝倉宮が丸木のままの宮殿だったという木の丸殿もこんな風であったかと、却って変わった様で、これもいいと
思えるのだが。日々に家が解体され、材木として筏に乗せて川いっぱいに運び下されていく。今度はどこに家を建てる
つもりだろうか。まだ空き地の方が移築された家よりも多い。古き都は荒廃し、新しい都はいまだ都として機能して
いない。あらゆる人が浮雲のように心細い思いをしている。以前からこの地に住んでいた者は土地を失って悲しむ。
今度移ってきた人は住まいの不自由を嘆く。道のほとりを見れば、車に乗るべき身分の人は馬に乗り、衣冠・布衣を着ているべき身分の人は平服の狩衣を着ている。都の風習はたちまち改まり、ただもう田舎武士と変わらない。世の乱れる
前兆だと聞いていたのも予想通りで、日数が経つごとに世の中は浮き足立って、人の心もおさまらず、民の憂いが無視
できなかった物と見え、同年冬、福原に堪り兼ねてやはり帝は平安京にお帰りになられた。
「解説」
厭な予感が的中する。治承の辻風の時に、悪い予兆ではないかと思った通り福原(今の神戸)への遷都が決まった。
この原因は、以仁王の源頼政への「平氏討伐」の令旨騒動。事は露見して、以仁王・源頼政は刑死したが、これが平清盛に福原への遷都を決断させた。京の治安への不安。これは何の準備もなく始まったので、大混乱。
そこで鴨長明は、下見に行ってこれはひどい所だという。全く狭い土地ですぐ山は迫り、前は海で潮風がべたついて
煩い。結局、天皇から庶民、平氏の中でも散々の不評で、全員の反対に抗しきれず5カ月で元の京に戻ることになる。
この事を当時伊勢にいた西行は次の様に評している。
雲の上や古き都になりにけり すむらむ月の影はかはらで
捨てられた京の都は古い都になってしまったが、まだ澄んだ月が昇っているものだ。
西行は多くの人々と同じく平家の福原遷都に極めて批判的。
しかし、鴨長明は自ら見に行っている、行動的。安元の大火もそうだが、何か事件があると現場を見に行くタイプ。
見かけによらず、ミ-ハ-。そして、福原はダメだと結論づけている。
「コメント」
段々と、この時代を生きた人達が分かってきた。後白河・平清盛・西行・源三位頼政・以仁王・・・・。
今までは、縦でしか理解してなかったことが、横糸も少し分かってきた。これは楽しい。歴史が徐々に立体的に
なってきた。