241228㊳ 「匂兵部卿の巻」42帖 「紅梅の巻」43帖 「竹河の巻」44

今日から「源氏物語」の続編に入る。光源氏亡き後の物語である。続編には、宇治十帖に入る前に三つの巻がある。匂兵部卿の巻、紅梅の巻、竹河の巻の三つである。匂兵部卿の巻は略して匂宮の巻ともいう。今回はその三つを取り上げる。「源氏物語」の続編には、作者が紫式部ではないとする説が昔から存在する。但し私は「湖月抄」の配列通り、「源氏物語」54帖を通読し、54帖で一纏まりの作品だと理解するのが良いと思っている。

 

先ず匂兵部卿の巻から読む。これからは匂宮と呼ぶ。もみ間光源氏亡き後、残された者たちの事が語られる。巻の名前は言葉、散文から付けられた。この巻から年譜である年立は、薫の年令が基準となる。匂宮の巻は薫の14歳~26歳という事で、「湖月抄」と本居宣長で一致している。幻の巻で薫は5歳だったので、幻の巻に8年の空白がある計算である。この巻の冒頭部分を読む。

朗読①

光隠れたまひし後、かの御影にたちつぎたまふべき人、そこらの御末々にありがたかりけり。(おり)()の帝をかけたてまつらんはかたじけなし。当代の三の宮、その同じ殿(おとど)にて生ひ出でたまひし宮の若君と、この(ふた)ところなんとりどりにきよらなる御名とりたまひて、げにいとなべてならぬ御ありさまどもなれど、いとまばゆき際にはおはせざるべし。ただ世の常の人ざまにめでたくあてになまめかしくおはするをもととして、さる御仲らひに、人の思ひきこえたるもてなしありさまも、いにしへの御ひびきれはひよりもややたちまさりたまへるおぼえからなむ、かたへはこよなういつくしかりける

 解説

光源氏はもういないのである。

光隠れたまひし後、かの御影にたちつぎたまふべき人、そこらの御末々にありがたかりけり。

世間の人々から光源氏とか光る君とか呼ばれ、憧れと尊敬を集めていたお方は、幻の巻の後、嵯峨野の寺に隠棲して、それから2~3年してお隠れになった。満月が雲に隠れたかのように、世の中は淋しくなった。光る君の美しかった姿、全ての面で抜きんでていた才能、誰にでも優しかった人柄などを、受け継げる人など誰もいない。光る君の長男である夕霧の子供や、光源氏の娘である明石の中宮がお産みになった宮様たちを見渡しても見つからない。

(おり)()の帝をかけたてまつらんはかたじけなし。

天皇を退位された冷泉院を、光る君の子孫に数え論評するのは差し控える。

当代の三の宮、その同じ殿(おとど)にて生ひ出でたまひし宮の若君と、この(ふた)ところなんとりどりにきよらなる御名とりたまひて、

今上天皇の第三皇子で明石中宮を母とする匂宮、朱雀院の第三皇女を母として生まれ、六条院で育てられた若君・薫、この二人がそれぞれに美しいという評価である。

げにいとなべてならぬ御ありさまどもなれど、いとまばゆき際にはおはせざるべし。

成る程世間の評価が納得できる、素晴らしいご様子である。けれども光る君のように超絶しているようには、語り手の私には思われない。私は光る君の様子を知っているので。

ただ世の常の人ざまにめでたくあてになまめかしくおはするをもととして、

けれども匂宮と薫の二人は、世間一般の人と比べた場合には、素晴らしく気品があり優雅である。その上に更に長所がある。

さる御仲らひに、人の思ひきこえたるもてなしありさまも、いにしへの御ひびきれはひよりもややたちまさりたまへる

何といっても匂宮は今上帝が父親、明石の中宮が母親という尊い血統である。薫は父親は光る君、母親は女三宮、そして冷泉院の養子という立場である。この様な血筋を世間の人々は過大評価し勝ちなので、不思議な事ではあるがかつて光源氏が若かった頃の世間の評価よりも、現在の匂宮と薫の方が勝っている。

おぼえからなむ、かたへはこよなういつくしかりける。

世間の人々は光る君に対して抱いていた気持ちをそのまま匂宮や薫に投影し、真に素晴らしいお方であると思っているのであった。

 

その薫は自分が光源氏の子供でないことに薄々気付いていく。

朗読② 薫は実父が源氏の君でないことに気付いているが、聞く人もいない。

幼心地ほの聞きたまひしことの、をりをりいぶかしうおぼつかなう思ひわたれど、問ふべき人もなし。宮には、事のけしきにても知りけりと思されん、かたはらいたき筋なれば、世とともの心にかけて、「いかなりけることにかは。何の契りにて、かう安からぬ思ひそひたる身にしもなり出でけん。(ぜん)(げう)太子のわが身に問ひけん悟りをも得てしがな」とぞ独りごたれたまひける。

  おぼつかな 誰に問はまし いかにして はじめもはても 知らぬわが身ぞ

答ふべき人もなし。

 解説

幼心地ほの聞きたまひしことの、をりをりいぶかしうおぼつかなう思ひわたれど、問ふべき人もなし。

孤独な少年であった。薫は幼い頃から身近に仕えている女房達のひそひそ話を耳にして、ずっと心に(わだかま)っている疑問があった。それは柏木と女三宮に関する疑問であった。けれども耳にした内容が不明瞭だったので、はっきりとした事実を知りたいという気持ちがあった。しかし尋ねる相手など誰もいなかった。
宮には、事のけしきにても知りけりと思されん、かたはらいたき筋なれば、

薫は自分の出生に関して(いぶか)しく思っていることを、母君に知られたら心苦しいので、何も気付いていない振りをしていた。

世とともの心にかけて、「いかなりけることにかは。何の契りにて、かう安からぬ思ひそひたる身にしもなり出でけん。

世ととも は、四六時中・いつもという意味。薫は絶えず、自分がどういう風にしてこの世に生まれてきたのだろう。前世からのどういう因縁があって、現世ではこの様に苦しい悩みが離れない人間になってしまったのだろうと悩んでいる。

(ぜん)(げう)太子のわが身に問ひけん悟りをも得てしがな」とぞ独りごたれたまひける。

「湖月抄」の解釈は次の通りである。

(ぜん)(げう)太子 は、自分の出生について悩んだけれど、自分自身に尋ねることで悟りを得た。そういう悟りを自分も得たいものだと、薫は独り言を言う。この (ぜん)(げう)太子 は釈迦の子供である羅睺(ラゴ)()尊者のことである。釈迦の妻のヤショ-ダラは夫が出家した時に子供を宿していた。所が釈迦は出家後も6年間悟りが開けず苦労したので、ヤショ-ダラの懐妊の苦しみも6年間続いた。その為釈迦が出家した後、6年後に生まれた羅睺(ラゴ)()の父親はだれであろうかと世間の人々は疑った。疑われたヤショ-ダラは我が子を火に投じたが、焼けなかったので羅睺(ラゴ)()が釈迦の子供であると証明された。この羅睺(ラゴ)()のように自分の父親について、確かな事実を知りたいと薫は願っていた。

 

本居宣長は反対意見を述べている。わが身に問いかける人物が、羅睺(ラゴ)()以外にもいるのではないかという。けれども現在でもその人物は分かっていない。

  おぼつかな 誰に問はまし いかにして はじめもはても 知らぬわが身ぞ 薫の歌である

私の父は光る君ではないようなので、自分の人生の始まりを知らないでいる。また薄々噂されている様に、私の本当の父親が誰か別の人、柏木だとすれば、光る君の子である高い評価を失ってしまうので、人生の先行きがどうなるか分からない。ああ困ったことだ。

「湖月抄」は次の様に解説している。この歌は仏法の教えを踏まえている。輪廻転生を繰り返す人間の生死には、始まりも終わりもない。薫の父親が誰であるか確定できないのは、まさに始まりでないという事である。薫だけでなく、全ての人間がそうなのである。本居宣長はこの歌の第4句 はじめもはても という部分と一致する人物を、羅睺(ラゴ)()尊者以外で探して、(ぜん)(げう)太子 が誰であるかはっきりさせるべきであると述べている。「湖月抄」が、 無始(むし)無終(むしゅう) という仏法の協議をもっともらしく説いているのは無用のことだと、本居宣長は批判している。

答ふべき人もなし。

ここは草子地で語り手のコメントである。薫は 誰に問はまし と歌ったが、例え誰かに問いかけたとしても、応えてくれる人はいなかったであろう。それほど柏木と女三宮の密通は秘密であったし、人間はどこからきてどこに行くのかという哲学的問いかけには、そもそも答えなどない。

 

所で薫には生まれながらにして、天然の香しい香りが身に付いていた。匂宮も対抗意識から、人工的な薫物(たきもの)を用いて香を身に付けていた。この二人を人々は光源氏の後継者として並び称した。巻の名前の由来となった場面である。

朗読③ 世間では匂う兵部卿、薫る中将と言ってもてはやす。

かかるほどに、すこしなよびやはらぎて、すいたる方にひかれたまへりと世の人は思ひきこえたり。昔の源氏は、すべて、かく立ててそのことと(よう)変りしみたまへる方ぞなかりしかし。

(げん)中将、この宮には常に参りつつ、御遊びなどにもきしろふ物の()を吹きたて、げにいどましくも、若きどち思ひかはしたまふつべき人ざまになん。例の、世人は、匂う兵部卿、薫る中将と聞きにくく言ひつづけてあ、そのころよきむすめおはするやうごとなき所どころは、心ときめきに聞こえごちなどしたまふもあれば、宮は、さまざまに、をかしうもありぬべきわたりをばのたまひ寄りて、人の御けはひありさまをも気色(けしき)とりたまふ

 解説 ここは「湖月抄」の解釈を取り込んだ現代語訳で理解を深める。

匂宮について世間の人々は、いささか優美過ぎて恋愛に熱心でと評判しあっている。昔一世を風靡した光る君は、この様に一つの方面のことばかりに過度に関心を向けることはなかった・この光る君の生きていた頃のことを昔と呼ぶのは、時の流れが余りにも早い事を痛感する。いずれにしても人の目に立つほどの恋であれ何であれ、一つのことだけに目を向けるのは良くないことである。

さて源中将・薫は、匂宮が住む二条院に足繁く通っている。音楽の催しがあれば競い合って、笛の音を響かせ合っている。誠に好敵手でお互いを認め合っている間柄である。話題好きな世間の人々は、二人を匂う兵部卿、薫る中将と称し、大げさにはやし立てる。その頃適齢期を迎えている娘のいる、しかるべき家柄の家では、二人のどちらかを婿に迎えたいと期待している。そこで匂宮はあの家、この家と、美しい娘のいるあたりに手紙を送ったりして、姫君たちの人柄や容貌などを熱心に探っていた。

 

この後橋姫の巻からはじまる 宇治十帖 では、宇治の姫君たちとの薫・匂宮の恋が語られる。宇治での恋愛と平行して、おなじ時期に都では薫と匂宮の華やかな恋が繰り広げられていた。竹河三帖の二つ目・紅梅の巻に入る。

この巻では致仕(ちし)大臣(おとど)・頭中将の子孫のことが語られる。長男の柏木は死去しているので、次男の按察使大納言つまり紅梅大納言が一門を率いている。大納言は繁栄を極めている。その彼をもってしても匂宮を婿に迎えるのはむつかしいようである。この巻の年立は複雑で次に配列されている竹河の巻よりも、後の時代なのである。薫が21~22歳であるとするのが「湖月抄」の結論である。けれども合理的な本居宣長は、厳密な年立てを作成している。現在は本居宣長の年立てに従い、薫 24歳の春としている。それでは巻のタイトルとなった由来となった箇所を読む。

ここに紅梅という言葉が見られる。紅梅大納言が息子に匂宮への伝言を依頼する場面である。

朗読④大納言は匂宮に梅一枝差し上げさせる。そして往時の光源氏を思い出す。

この(ひむがし)のつまに、軒近き紅梅のいとおもしろく匂いたるを見たまひて、「御前の花、心ばえありて見ゆめり。兵部卿宮()()におはすなり。一枝折りてまゐれ。知る人ぞ知る。」とて、「あはれ、光る源氏といはゆる御盛りの大将などにおはせしころ、童にてかようにてまじらひ馴れきこえしこぞ、世とともに恋しうはべれ。この宮たちを、世人(よひと)もいとことに思ひきこえ、げに人にめでられんとなりたまへる御ありさまなれど、端が端にもおぼえたまはぬは、なほたぐひあらじと思ひきこえし心のなしにやありけん。おほかたにて思ひ出でたてまつるに、胸あく世なく悲しきに、け近き火の後れたてまつりて生きめぐらふは、おぼろけの命長さならじかしとこそおぼえはべれ」など、聞こえ出でたまひて、ものあはれにすごく思ひめぐらししをれたまふ。

 解説

全盛期の光源氏が大納言の記憶の中で生きている。

この(ひむがし)のつまに、軒近き紅梅のいとおもしろく匂いたるを見たまひて、

紅梅大納言は寝殿の東の端の軒近くに、紅梅の花が咲き香しい香りを放っているのを御覧になる。

(わらわ)殿上(てんじょう)をしているので、これから宮中に向かおうとしている息子の大輔の君に向かって、良いことを思いついたと言わんばかりに声をかけた。(わらわ)殿上(てんじょう)は元服前の少年が宮中行事の見習いの為に出仕することである。

「御前の花、心ばえありて見ゆめり。兵部卿宮()()におはすなり。一枝折りてまゐれ。知る人ぞ知る。」

我が家の庭先で咲き誇っている紅梅の花はとても素晴らしい。ぜひともこの花の素晴らしさを理解できるお方に、お見せしたいものだ。そうそう今の時間には匂宮が宮中に参内していらっしゃるそうだ。庭の紅梅を一枝折り取って、宮中に持参し匂宮にお見せしなさい。

  きみならで 誰にか見せむ 梅の花 色をも香をも 知る人ぞ知る 古今和歌集 紀友則

という歌の通りだ。

とて、「あはれ、光る源氏といはゆる御盛りの大将などにおはせしころ、童にてかようにてまじらひ馴れきこえしこぞ、世とともに恋しうはべれ。

大納言は昔、自分が幼かった頃の思い出を話す。これからお前は匂宮とお会いする。この私も幼かった頃、(わらわ)殿上(てんじょう)をしていた。思い出しても懐かしい。光源氏と仰ぎ見られている今は亡きお方が、大将と呼ばれていた頃に、今のお前と匂宮の様に、光る君のお側近くで親しく話をさせて貰ったことが今もなお、懐かしい思い出として私の心に生きている。

賢木の巻で、私が催馬楽の高砂を歌い、光る君から絶賛されたことは、私の人生の(ほまれ)なのだよ。

この箇所について本居宣長は深い解説をしている。ここに 御盛りの大将 と書かれている理由は、物語の主人公がどのような昇進をしているか調べてみると分る。源氏の大将だけでなく、夕霧の大将、薫の大将、更には羽衣の大将というように、若く盛りの時には皆大将なのである。

この宮たちを、世人(よひと)もいとことに思ひきこえ、げに人にめでられんとなりたまへる御ありさまなれど、端が端にもおぼえたまはぬは、なほたぐひあらじと思ひきこえし心のなしにやありけん。

今上帝の宮様たちは、光源氏の孫たちであり、世間からも特別な方たちだと高く評価されている。また私の目からに見ても、この宮様方は世間から賞賛されるだけの素晴らしさをお持ちであると思われる。それでもこのお方たちをもってしても、あの光る君と比較するならば、全くお話にならないと見えるのだった。光る君は空前絶後の卓越したお方だと、身に染みて感動した幼い頃の心が残っているからであろう。

おほかたにて思ひ出でたてまつるに、胸あく世なく悲しきに、け近き火の後れたてまつりて生きめぐらふは、おぼろけの命長さならじかしとこそおぼえはべれ」

私がほんの少し、たまにお会いしただけでも、胸が締め付けられるほどに懐かしい。まして直接に接した人々が、光る君の亡き後に感じている悲しさは、どんなにか大きい事だろう。さぞかし生き残った自分の命の長さを辛く思っている事だろうと思いやられる。命長ければ恥多し という言葉通りだ。この様にしみじみと述懐される。

など、聞こえ出でたまひて、ものあはれにすごく思ひめぐらししをれたまふ。

大納言は光る君の思い出が脳裏を横切り、心の底から懐旧の念が込みあげてくる。こらえきれない程に恋しくなって、泣きたいように気持ちになる。

 

光源氏はもういないのだと恋しくなる。次に匂宮三帖の三つ目 竹河の巻 を読む。玉かづらが結婚した髭黒太政大臣の後日談が語られる。この巻も長い時間にわたっている。

「湖月抄」の年立てでは、薫の1415歳~22歳まで。本居宣長の年立てでは、始まりは同じであるが、終わりの年令が1歳違っていて、23歳までとなっている。竹河という言葉は巻の中で歌われる催馬楽の曲名である。竹河の巻の冒頭部分を読む。草子地と名付ける語り手のナレーションである。

朗読⑤源氏の君の子孫については、色々な噂が流れていたようである。

これは源氏の御族にも離れたまへりし後の大殿わたりにありける(わる)御達(ごたち)の落ちとまり残れるが問はず語りしおきたるは、紫のゆかりにも似ざめれど、かの女どものもの言ひけるは、「源氏の御末々にひが事どものまじりて聞こゆるは、我よりも年の数つもりほけたりけるひとのひが言にや」などあやしがりける、いづれかはまことならむ

 解説

これは源氏の御族にも離れたまへりし後の大殿わたりにありける(わる)御達(ごたち)の落ちとまり残れるが問はず語りしおきたるは、

源氏の御族 は、光源氏の子孫。後の大殿 は、髭黒を指す。これから語り手である私が話すのは、光る君の子孫ではない方々の話である。後の太政大臣と呼ばれた髭黒の一族の物語である。髭黒の北の方である玉かづらは光る君の養女であるが、実の娘ではない。髭黒と玉かづらの屋敷で長く使えてきた女房達の中で、真に口さがないものが長生きをして今も健在である。彼女は自分が目撃した事実を私に語って聞かせてくれた。彼女の方から進んで話しかけてきたのである。

紫のゆかりにも似ざめれど、

少し前に匂宮の巻で私が書いたのは、紫の上に仕えていた女房から聞いた話である。紫の上も最初は光る君の養女の様な扱いであったが、後には北の方となった。玉かづらは後には光る君の妻同様になった。だから二つの家に仕えていた女房達の話は、違っている様に感じた。

かの女どものもの言ひけるは、

玉かづらに仕えていた口さがない女房達に言わせると、

、「源氏の御末々にひが事どものまじりて聞こゆるは、我よりも年の数つもりほけたりけるひとのひが言にや」などあやしがりける、いづれかはまことならむ。

紫の上に繋がる女房達の昔話には、色々と道理に合わないことが混じっている。例えば冷泉帝は桐壷帝の息子と言われているが、本当の父親は光る君である。玉かづらは光る君の娘として六条院に迎えられたが、本当の父親は内大臣・頭中将であった。薫は光る君の子供とされているが、本当の父親は柏木である。これらのことは道理に合わない僻事(ひがごと)

なのである。玉かづらの女房達は、紫の上に仕えていた女房達の昔話に実際と違った内容が混じっているのが、恐らくその話をした女房が私より年を取って記憶力が無くなり、とんでもない嘘を話しているのだと思います などと不思議がっている。どちらの女房の話が真実に近いのだろう。作者である私にも分らない。

 

これが「湖月抄」の解釈である。本居宣長は反対意見を述べている。いかにも「湖月抄」が冷泉院や薫の本当の父親を持ちだして解釈するのは誤りも甚だしいと述べている。私も本居宣長に賛成する。本居宣長は、「源氏物語」は作り物語であるのだけれども、女房が実際に語るのを聞いてこの巻に書き記したという建前であるのが面白いとも言っている。

「源氏物語」の話題提供者は何人もいるのである。だから草子地の語り手も何人かいる。もしかしたら巻の数だけ語り手がいるかも知れない。

 

さて3月になり桜が満開となった。髭黒の息子たち、そして彼らの母親である玉かづらが美しい桜の花を見ながら、語り合う場面である。髭黒が死去した為に、自分たちは家門の衰えに直面していると嘆き合う。幸福だった子供時代を語り合う場面を読む。

姉の大君(おおいきみ)と妹の中の君が碁を打っていると、兄の左近中将がやってくる。弟が囲碁の審判を務めている。兄は自分が宮仕えで忙しいので、弟が姉妹の信頼を勝ち得たのだろうと冗談を言う。兄は美しく成長した妹たちを見て、幸福な結婚をさせてあげたいと思う。この場面を読む。

朗読⑥

御前(おまえ)の花の木どもの中にも、にほひまさりてをかしき桜を折らせて、「外のには似ずこそ」などもてあそびたまふを、「幼くおはしましし時、この花はわがぞわがぞと争ひたまひしを、故殿は、姫君の御花ぞと定めたまふ、上は、若君の御木と定めたまひしを、いとさは泣きののしらねど、安からず思ひたまへられしはや」とて、「この桜の老木になりにけるにつけても、過ぎにける(よはひ)を思ひたまへ出づれば、あまたの人に(おく)れはべりにける身の(うれ)へもとめがたうこそ」など、泣きみ笑ひみ聞こえたまひて、例よりはのどやかにおはす。人の婿になりて、心静かにも今は見えたまはぬを、花に心とどめてものしたまふ。

 解説

ここは「湖月抄の解釈を踏まえて現代語訳する。

姫君たちは庭の等の花が美しく咲いたので、もっとも情緒豊かで華やか枝を折り取らせて瓶に挿し、目の前にその美しさを賞美していた。その花を見ると父親が健在で幸福だった幼い頃を思い出した。「今、思い出しました。大君(おおいきみ)と中の君がまだ幼かった頃のことです。二人がこの奇麗な桜の花は私のよ。いいえ、私のものよ。と言い争ったことがあった。その時亡き親が長女である姉君大君(おおいきみ)の物だよとお決めになった。母親・玉かづらは、いいえ 妹君の物ですとお決めになった。それを聞いていた私もこの桜を気に入っていたので、自分の物にしたかった。幼かったので聞き分けなく泣きわめいても良かったのでしょうが、じっと黙って我慢した。でも心の中では父上も母上も二人とも、妹たちのことばかり可愛がって私のことなど考えてくれないのが不満たらたらだったのですよとしみじみ話される。中将は更にあの時の桜が今、この様な老木になったのを見るにつけても時の流れを痛感する。父親をはじめとして大切な方々が先立たれた。今、私は宮仕えの辛さに直面しているので、ついつい愚痴を言ってしまったと泣いたり笑ったりしながら話し続ける。中将はいつもは実家に顔を出してもすぐに帰るのだが、今日だけはゆったり腰を据えて屋敷に留まっている。良縁に恵まれて、結婚相手の屋敷で婿として過ごしているので、公私にわたって忙しいのだが、今日ばかりは家族が幸福だった頃を思い出してくれる桜の花に引かれてのんびりと過ごしている。

 

私は何故か樋口一葉の「たけくらべ」の世界を連想する。子供のままで時が止まったならば、人間はどんなに幸福な事でしょう。けれども時は進み続け、子供は大人になっていく。その時幸福はいつの間にか失われて、もう取り戻すのは不可能になる。

 

「コメント」

 

実の父が違うという事件が頻発しながら、それが物語の題材となる。というのは表ざたにならないケースが多数あったという事か。