241116㉝ 若菜下の巻 2 35帖
今回は若菜下の巻の後半である。47歳となった光源氏は人生の大きな試練に直面する。柏木と女三宮の裏切り、そのことを光源氏は知ったのである。前回の最後で発病した紫の上は、心静かに静養する為に女三宮のいない二条院に移る。少女時代から住み慣れた屋敷である。看病の為に光源氏は六条院を留守にしがちである。女三宮に仕える小侍従という女房がいた。小侍従の母親は女三宮の乳母である。しかも小侍従の伯母は柏木の乳母であった。柏木はこの小侍従に頼み込み、到頭女三宮の部屋に入り込む。柏木は以前の蹴鞠の際に、偶然に女三宮の姿を見て感動したことなど自分の思いを伝えたいと思っていた。実事に及ぶ積りはなかった。けれども実際に対面するとそうではなかった。
女三宮を目の前にした柏木の心を語る場面を読む。
朗読①柏木は唯、思いを申しあげるだけの積りであった。
よその思ひやりはいつくしく、もの馴れて見えたてまつらむも恥づかしく推しはかられたまふに、ただかばかり思ひつめたる片はし聞こえ知らせて、なかなかかけかけしきことはなくてやみなむと思ひしかど、いとさばかり気高う恥づかしげにはあらで、なつかしくらうたげに、やはやはとのみ見えたまふ御けはひの、あてにいみじく思ゆることぞ、人に似させたまはざりける。さかしく思ひしづむる心も失せて、いづちも率て隠したてまつりて、わが身も世に経るさまならず、跡絶えてやみなばやとまで思ひ乱れぬ。
ただいささかまどろむともなき夢に、この手馴らしし猫のいとらうたげにうちなきて来たるを、この宮に奉らむとてわが率て来たると思しきを、何しに奉りつらむと思ふほどにおどろきて、いかに見えつるならむと思ふ。
解説
よその思ひやりはいつくしく、もの馴れて見えたてまつらむも恥づかしく推しはかられたまふに、
柏木はこれまで女三宮の人物について遠くから想像するだけだった。朱雀院が最も可愛がられた皇女なので寄り付きにくい人柄で、自分の様な男が馴れ馴れしく近付いたり、まして男女の関係など思いもよらないと思っていた。女三宮の威厳に圧倒されて気落ちするだろうと予測していた。
ただかばかり思ひつめたる片はし聞こえ知らせて、なかなかかけかけしきことはなくてやみなむと思ひしかど、
かけかけし は、好色がましい という意味である。
柏木は女三宮の事を思っている恋心の一端だけを申しあげて真心を分かって貰えれば、それ以上の好色な振舞いに及ぶことなく潔く部屋を出ようと決めていた。女三宮と実事に及ぶことなど念頭になかった。
いとさばかり気高う恥づかしげにはあらで、なつかしくらうたげに、やはやはとのみ見えたまふ御けはひの、あてにいみじく思ゆることぞ、人に似させたまはざりける。
所が実際に会ってみた女三宮は、思っていたような近寄りがたい気品の持ち主ではなかった。それどころか魅力的でなよなよとした様子であった。品が良くて素晴らしいのは、他のどの女性よりも優れていた。予想と現実は違っていた。これが柏木の心を変動させる。
さかしく思ひしづむる心も失せて、いづちも率て隠したてまつりて、わが身も世に経るさまならず、跡絶えてやみなばやとまで思ひ乱れぬ。
「湖月抄」の解釈を加味して現代語訳をする。
柏木が実事に及ぶまいと決心していたにも関わらず、女三宮が余りにも弱々しい女性であったために、男の気持ちに火が付いたのである。光る君という最高権力者の正妻と、この様な関係になってしまったからには、このままでは生きていられない。
「伊勢物語」第6段芥川は、清和天皇の后である二条の后(藤原高子)と道ならぬ関係になった在原業平が后を連れて宮中から脱出し逃亡しようとする話である。柏木もまた女三宮を連れて、この六条院から脱出しよう。どこでもいいから全てを捨て去って辿り着いた所で隠れて暮らそう。私の政治の世界での未来などどうでも良いことだ。全てを棄て去って都の人々との縁を切り、女三宮と2人で暮らしたいと現実離れした願いに取り付かれていた。
ただいささかまどろむともなき夢に、この手馴らしし猫のいとらうたげにうちなきて来たるを、
柏木は宮との実事の後で知らず知らずの内に眠っていたので、すこし微睡んだ。浅い眠りの中で夢を見た。かつて女三宮の形見として愛玩していた唐猫がとても可愛らしい声で鳴きながら、2人の方へ近付いてくる夢だった。
この宮に奉らむとてわが率て来たると思しきを、何しに奉りつらむと思ふほどにおどろきて、いかに見えつるならむと思ふ。
「湖月抄」は次の様に解釈している。
この猫を渡してしまうのは惜しいと考えた。そして猫を直接渡せるほどに私達は接近した。光る君の怒りが恐ろしいなどと考えたりもした。その内にハッと目が覚めた。今の猫の夢は何の諭なんだろうと思った。実は動物を夢に見るのは、その夜の契りで女が子を身籠った事の兆しであると言われる。この時女三宮は柏木の子を宿したのである。一夜孕みと言われるモチーフである。神話では瓊瓊杵尊が、妻の木花咲弥姫命との一夜の契りで子に恵まれている。「伊勢物語」の在原業平にも、狩の使いで派遣された伊勢の国で、斎宮と一夜孕みの子供を作ったという言い伝えがある。柏木も女三宮との密通は、薫という宇治十帖の主人公を登場させるために必要だったのである。
柏木は女三宮と別れねばならない朝が近づいていて来た。その場面を読む。
朗読② 夜が明けるので、二人は歌を詠み交わす。
ただ明けに明けゆくに、いと心あわたたしくて、「あはれなる夢物語も聞こえさすへきを、かく憎ませたまへばこそ。さりとも、いま、思しあはすることもはべりなむ」とて、のどかならず立ち出づる明けぐれ、秋の空よりも心づくしなり。
起きてゆく 空も知られぬ あけぐれに いづくの露の かかる袖なり
と、引き出でて愁へきこゆれば、出でなむとするにすこし慰めたまひて、
あけぐれの 空にうき身は 消えななむ 夢なりけりと 見てもやむべく
とはかなげにのたまふ声の、若くをかしげなるを、聞きさすやうにて出でぬる魂は、まことに身を離れてとまりぬる心地す。
解説
あけぐれ は、世の明ける前のまだ暗い時間帯という意味である。 この場面は「湖月抄」の解釈を踏まえて、現代語訳する。
柏木はいつまでも女三宮と一緒にいたいのに、夜は刻一刻と明けて行くので、気がせいてならない。女三宮に向かって実は先程不思議な夢を見たのですよ。その夢がどのような内容であるかを、あなたに詳しくお話ししたいのですが、あなたは私の事を嫌って口もきいてくれないので夢の話はしません。いづれ思い当たることもあるでしょうと言い残す。夢が懐妊の予兆であることを話したかったのである。柏木は慌ただしく去っていく。外はまだうす暗い。今は4月の中旬で初夏だったが、別れの切なさは秋の空よりも悲しく感じられる。
柏木は歌を詠む。
起きてゆく 空も知られぬ あけぐれに いづくの露の かかる袖なり
私は起きてこの部屋を出て行きますが外は薄暗く、私の心も暗くどこに向かうのか全く分からない。ほら、私の袖にはこんなに露が降りているが一体この露はどこから降りてきたのだろうか。私の涙なのです。
こう歌いながら柏木は自分の袖を引っ張り出して、涙で濡れている様子を宮に見せ恋心を訴える。宮はこれまで無言であったが、柏木がやっと部屋を出て行くようなのでホッとして返事位はする。
あけぐれの 空にうき身は 消えななむ 夢なりけりと 見てもやむべく
まだ暗い空に生きているのが辛い私の命は、消えてしまえばよい。昨晩から出来事が全て夢の中の出来事であったとして済ませるように。
女三宮の声が若々しく魅力的なので、柏木はもっと聞いていたいのだが、これ以上部屋には留まれない。自分の体から魂が抜け出て宮の部屋に留まり、魂の無い体だけがふらふらと部屋から彷徨い出たかのように感じられた。
柏木の積極性と宮の受動性とが対照的である。
さて二条院で病を養っていた紫の上であるが、重体に陥り一時は絶命したかのように見えた。けれども光源氏は物の怪の仕業と疑い、祈りをさせた。すると紫の上は息を吹き返し、六条御息所の死霊が出現した。その告白はまさに鬼気迫るものであった。自分は出来る事なら紫の上の命を奪い、自分がなめて居るのとおなじ苦しみを光源氏にも味わわせたかった。けれども光源氏は紫の上の命を守りたいと、全身全霊で嘆き悲しんでいる。それを見るにつけ、深く感じるものがあった。自分は今も成仏できず死霊として彷徨い続けているが、昔、命があって光源氏とお会いしていた頃の心がまだ残っている。光源氏に執着する自分だからこそ、紫の上に執着する心の苦しさが理解できる。その同情心から紫の上に祟っている物の怪の正体が、自分であることを見破られてしまった。残念である。こう語った六条御息所の死霊は、髪の毛を振り乱し泣きわめく。その姿はかつて葵の巻で葵上を執り殺した、六条御息所の生霊と全く同じであった。
そして物の怪は歌を詠む。その場面を読む。
朗読③ 六条御息所は泣きながら恨み言を言う
ほろほろといたく泣きて、
「わが身こそ あらぬさまなれ それながら そおぼれする 君は君なり
いとつらし、つらし」と泣き叫ぶものから、さすがにもの恥ぢしたるけはひ変らず、なかなかいと疎ましく心憂ければ、もの言はせじと思す。
解説
ほろほろといたく泣きて、
取り付いていた紫の上の体から、少女の体へと移された六条御息所の死霊は、ほろほろと大粒の涙を流して泣き始めた。それから言葉を絞りだした。それは五七五七七の和歌になっていた。
わが身こそ あらぬさまなれ それながら そらおぼれする 君は君なり
それながら の解釈が分れている。「湖月抄」は次の様に解釈している。わが身はこんな死霊となってしまい姿は全く違ってしまった。けれどもあなたは紫の上に取り付いた物の怪が私、六条御息所である事を分っている筈である。それなのに私が誰であるか分からない振りをする。あなたもひどい人である。この歌について本居宣長は反対意見を述べている。
わが身こそ あらぬさまなれ は、わが身は変わってしまったという六条御息所の嘆き。
それながら は、光源氏が昔の光源氏で全く変わらないという意味である。
そらおぼれする 君は君なり は、光源氏は昔と同じ光源氏なので、私の事を良く知っているだろうに、知らぬ振りをする一体なぜなのか と 咎めていると言っている。けれどもこの本居宣長説でも今一つ、彼女の思いは伝わらないように見える。現在は私は変わってしまったが、あなたは昔も今も変わらずに空とぼけをしていると解釈されている。私は次の様に解釈したい。わが身は変わり果てたが、我が心は変わっていない。それなのに私が誰なのか分からない振りをして、私を無視するのが辛い。
いとつらし、つらし」と泣き叫ぶものから、さすがにもの恥ぢしたるけはひ変らず、
つらし は、恨めしいという気持ちである。物の怪は ああ恨めしい 恨めしいと泣き叫んでいるものの、どこかわが身を恥じている素振りがある。その恥じらい方がいよいよ六条御息所を連想させる。
なかなかいと疎ましく心憂ければ、もの言はせじと思す。
光源氏は気味が悪く感じられるので、この物の怪にこれ以上は言葉を語らせたくないと思う。この様に六条御息所が物の怪になったことは人々の噂にもなり、娘である秋好中宮を苦しめる。鈴虫の巻で語られる。
さて柏木と女三宮の密通を光源氏が知ってしまう場面に進む。柏木からの手紙を女三宮が読んでいると、急に光源氏が部屋に入ってくる。この場面を読む。
朗読④ 光源氏は宮の部屋で柏木の手紙を見付ける
まだ朝涼みのほどに渡りたまはむとて、とく起きたまふ。「昨夜のかはほりを落として。これは風ぬるくこそありけれ」とて、御扇置きたまひて、昨日うたた寝したまへりし御座のあたりを立ちとまりて見たまふに、御褥のすこしまよひたるつまより、浅緑の薄様なる文の押しまきたる端見ゆるを、何心もなく引き出でて御覧ずるに、男の手なり。紙の香などいと艶に、ことさらめきたる書きざまなり。二重ねにこまごまと書きたるを見たまふに、紛るべき方なくその人の手なりけりと見たまひつ。
解説 淡々とした筆致で悲劇が語られている。
まだ朝涼みのほどに渡りたまはむとて、とく起きたまふ。
光る君は二条院の紫の上と、六条院の女三宮の間を忙しく往復している。今は六条院にいるが、紫の上の病勢が心配なので、朝の涼しい内に二条院に移ろうと考えて早くから起きた。
「昨夜のかはほりを落として。これは風ぬるくこそありけれ」とて、御扇置きたまひて、昨日うたた寝したまへりし御座のあたりを立ちとまりて見たまふに、
かはほり は、紙製の扇の事である。扇を開いた形が かはほり こうもりに似ているので。昨夜どこかに扇を置き忘れた様なので、今は木製の大きな檜扇しかないが、これは風が生ぬるくて良くないと言って手から離す。どこかに忘れてしまった扇を探そうとして、昨夜女三宮と話をしてウトウトとした、御座所の所で足を止めてあちこち探す。
御座のあたりを立ちとまりて見たまふに、御褥のすこしまよひたるつまより、浅緑の薄様なる文の押しまきたる端見ゆるを、何心もなく引き出でて御覧ずるに、
御褥、座布団が迷うという表現が面白い。本居宣長は 褥のまよう とは、俗にたぐまっている ということなりと説明している。たぐまる は、裾などに皺が寄って、くしゃくしゃになる事である。女三宮が座っていた敷物の裾が少しめくれて丸まっており、その裾から浅緑色の薄く漉いた紙に書いた手紙がくるくると捲いてあった。光る君は無意識の内に手に取って見る。
男の手なり。紙の香などいと艶に、ことさらめきたる書きざまなり。二重ねにこまごまと書きたるを見たまふに、紛るべき方なくその人の手なりけりと見たまひつ。
なりけり は、発見や気付きを表す。
その手紙は男の筆跡だった。読者は気付いただろうが、柏木が女三宮に宛てた恋文だったのである。恋文なので、良い匂いがたっぷり焚きしめてある。格別の思いをこめて書かれた文面である。二枚にわたって細々と思いを書き綴ってある。光る君はそれを読み終わって、これは間違いなく柏木から女三宮に宛てに書かれた恋文であると理解した。光る君は
これまでに柏木の筆跡を見たことがある。書き癖を知っている。
文学作品では手紙が重要な役割を果たすことがある。ここでは秘密の手紙の露見というモチーフである。明治の文豪森鴎外が、山県有朋たちと催した常磐会という歌の会がある。その常磐会に森鷗外の妹である小金井喜美子も歌を出している。
御褥の 迷いの見えし 浅緑 あさましかりし 契りならずや
浅緑 と あさまし の頭韻が印象的である。この歌は「源氏物語」で柏木の手紙が光源氏に見つかってしまう場面の本歌取りである。この様にして女三宮と柏木の密通の事実は光源氏の知る所となった。光源氏はここで我が身を振り返る。かつて自分と藤壺が犯した過ちを、父親である桐壺帝が気付いていた可能性はあるのだろうか、と思い至った光源氏は慄然とするのだった。
次の場面を読む。
朗読⑤自分の過ちを故院はご存じだったのだろうかと光源氏は思う。
故院の上も、かく、御心には知ろしめしてや、知らず顔をつくらせたまひけむ、思へば、その世のことこそは、いと恐ろしくあるまじき過ちなりけれ、と近き例を思すにぞ、恋の山路はえもどくまじき御心まじりける。
解説 現代語訳する。
光源氏は正妻である女三宮が自分を裏切り、柏木と密通している事実を知った。思い起こせば、亡き桐壺帝も自分の寵愛している藤壺の女御が、私と秘密の関係になっていることをご存じの上で、何も気付いていない振りをしていたのだろうか。もしそうだったとしたら、あの頃私は藤壺と密通し子供まで作ったのはまことに恐ろしく、あってはならない過ちであった。私の過失を知りながら、それを許すという生き方を父はなさった。それを思えば柏木の犯した罪を腹だたしく思う一方で、一方では非難するべきではないと思う気持ちもある。
いかばかり 恋の山路の しげければ 入りと入りぬる 人のまどうらん
光源氏は亡き桐壺帝が光源氏と藤壺の過ちを知りつつ、許した可能性があると気付いたのである。それならば自分は柏木と女三宮の事を知りつつ許せるだろうか。桐壺帝は光源氏を深く愛し、藤壺も愛していた。愛していた者同士の過ちなら赦せたという面もあった。一方光源氏は女三宮をそれほど愛していないし、柏木にも特別の好意を持ってはいない。
しかし女三宮の懐妊が明らかとなる。子供の父は柏木である。12月に予定されている朱雀院の五十の賀の為の音楽や舞の予行演習が六条院で行われた。密通が露見した事が分っている柏木は、光源氏と顔を合わせるのを避け続けていたが、思い切って六条院に参上した。前の予行演習で自分の孫たちが見事な舞を披露する姿を見て、年老いた人々は嬉し涙をこぼしていた。
次の場面を読む。
朗読⑥ 光源氏はねちねちと、酒を絡めて柏木をいたぶる。
主の院、「過ぐる齢にそへては、酔泣きこそととどめがたきわざなりけれ。衛門督心とどめてほほ笑まるる、いと恥づかしや。さりとも、いましばしならむ。さかさまに行かぬ年月よ。老は、えのがれぬわざなり」とてうち見やりたまふに、人よりけにまめだち屈じて、まことに心地もいとなやましければ、いみじきことも目にとまらぬ心地する人をしも、さし分きて空酔ひをしつつかくのたまふ、戯れのやうなれど、いとど胸つぶれて、盃のめぐり来るも頭いたくおぼゆれば、けしきばかりにて紛らはすを御覧じ咎めて、持たせながらたびたび強ひたまへば、はしたなくてもてわづらふさま、なべての人に似ず
をかし。
解説 2人の対決は光源氏の圧倒的な勝利となる。
主の院、「過ぐる齢にそへては、酔泣きこそととどめがたきわざなりけれ。
この宴会の主催者の光源氏は柏木を意識して語り掛ける。私は47歳になった。齢を重ねるにつれて、私も老人によくあるように涙もろくなった。今も孫の世代の幼い者たちの舞を見て、感動の涙を堪えきれなかった。
衛門督心とどめてほほ笑まるる、いと恥づかしや。
衛門督 は、宮中を警備する右近衛府の長官の、柏木の事である。おや、珍しく衛門督が私の目に浮かんだ涙をみて、いかにも老人をあざ笑うような笑みを浮かべておられるようだ。若者の目に老人がどう映るか想像すると、まったくもって気恥ずかしいものだ。
さりとも、いましばしならむ。さかさまに行かぬ年月よ。老は、えのがれぬわざなり」とてうち見やりたまふに、
けれども自分が若いと言って、老人を冷笑出来るのも長くは続かない。誰の身の上にも老いは訪れるものだ。
さかさまに 年もゆかなむ とりもあえず すぐる齢や ともにかへると 古今和歌集 よみびとしらず
と歌があるが、時間は逆行して欲しい。年月はあっという間に過ぎ去り二度ともとには戻らないので。老いは人間がどうしても避けられない宿命なのである。と言いながら柏木の方に視線を向け、じっと柏木の顔を凝視する。古今和歌集の和歌は身に染みる。
人よりけにまめだち屈じて、まことに心地もいとなやましければ、いみじきことも目にとまらぬ心地する人をしも、さし分きて空酔ひをしつつかくのたまふ、
作者は客観的に柏木を見ている。
人よりけに は、他の人と違って、屈じて は、柏木は苦しんで、本居宣長説では気持ちがくじけて という。現在では本居宣長説である。光源氏は柏木が光る君の涙を見て、冷笑していると口にしたが、これは悪意があっての発言である。
柏木は決して笑ってはいなかった。柏木は自分と女三宮のとの密通が、光る君に知れたことを分っているので、今日は緊張して生真面目に振る舞っている。気分も甚だ優れず、本来なればよく感じる今日の演出も全く目に入らない。その柏木を多くの中からわざわざ選んで注視し、酒に酔ったふりをして意地悪な言葉を掛ける。この時光る君は目を据えて、柏木を睨みつけたので、柏木は恐怖に駆られ体調を崩す原因となった。
戯れのやうなれど、いとど胸つぶれて、盃のめぐり来るも頭いたくおぼゆれば、けしきばかりにて紛らはすを
光る君の言葉は他愛の無い冗談のようであるが、聞いている柏木の胸はひどく苦しくなる。元々密通の事で胸が潰れるように感じていたので、この様に皮肉を言われたので一層胸が痛くなった。酒宴なので盃が回ってくる。頭が痛むので酒を飲む気持ちになれず、形だけ盃に口をつけて胡麻化している。
御覧じ咎めて、持たせながらたびたび強ひたまへば、はしたなくてもてわづらふさま、なべての人に似ずをかし。
これは草子地で語り手のコメントである。
すると酒を飲むふりをしている柏木を咎めて光る君は、柏木に何度も盃を勧め酒を無理強いする。
柏木は困り果てている。柏木はこのまま病気になり重病となった。
かつての第一者であった光源氏と、これからのリ-ダ-である柏木が酒の席で向かい合っている。「源氏物語」の研究を志した当初、私はこの場面が室町時代の御伽草子である 酒呑童子 と似ていることに注目した。光源氏は自分より20歳以上も若い女三宮と結婚しながら、彼女を苦しめていると柏木には見えた。柏木から見て光源氏は酒呑童子の様な鬼なのである。鬼の酒吞童子を退治した源頼光の立場になるのが柏木である。
酒吞童子も「源氏物語」もどちらも酒が重要な役割を果たしている。けれども「源氏物語」のスト-リ-は、御伽草子のスト-リ-とは違い、年老いた側の圧勝で終わった。ここに「源氏物語」の矛盾が表れていると感じる。紫式部が光源氏に勝たせたのは良いとしても、何故柏木を死なせねばならなかったのだろう。
読者は重く苦しい宿題を背負わされる。
「コメント」
最後の講師の問いは、「源氏物語」が誰の為に書かれたかが鍵となるのではないか。