241109㉜ 若菜下の巻 1 34

今回は若菜下の巻の前半を読む。光源氏41歳から47歳である。若菜上の巻で、柏木が女三宮の姿を見たのは、唐猫が大きな猫に追われて逃げる際に、ついていた綱が簾を巻き上げたからである。その猫を柏木は巧妙な交渉術を駆使して手に入れる。東宮が日本猫を愛玩しているのを見た柏木は、女三宮が飼っている唐猫の見事さを話題にする。興味を持った東宮は中宮である明石の姫君に頼んで、女三宮から唐猫を貰い受けた。それを強引に柏木が自分の屋敷に連れ帰った。その続きの場面を読む。

朗読①柏木は無理やり唐猫を借り出して、可愛がる。

心の(うち)に、あながちにをこがましく、かつはおぼゆ。つひにこれを尋ねとりて、夜もあたり近く臥せたまふ。明けたてば、猫のかしづきをして、撫で養ひたまふ。人げ遠かりし心もいとよく馴れて、ともすれば(きぬ)の裾にまつわれ、寄り臥し、(むつ)るるを、まめやかにうつくしと思ふ。いといたくながめて、端近く寄り臥したまへるに、来てねうねうといとらうたげになけば、かき撫でて、うたてもすすむかな、とほほ笑まる。

  「恋わぶる 人のかたみと 手ならせば なれよ何とて なく()なるらん

これも昔の契りにや」と、顔を見つつのたまへば、いよいよろうたげになくを、懐に入れてながめゐたまへり。御達(ごたち)などは、「あやしくにはかなる猫のときめくかな。かやうなるもの見入れたまはぬ御心に」と咎めけり。みやより召すにもまゐらせず、とり籠めてこれを語らひたまふ。

 解説

心のうち)に、あながちにをこがましく、かつはおぼゆ。

柏木は熱に浮かされた様になって、女三宮が飼っていた唐猫を手に入れた。ふと冷静になった時に、我ながら愚かしい事だと自嘲する。

つひにこれを尋ねとりて、夜もあたり近く臥せたまふ。明けたてば、猫のかしづきをして、撫で養ひたまふ。

冷静な心境は長続きはせず、熱中する時間の方が長い。やっと手に入れたので、夜も自分の近くに寝かしつける。

朝になると唐猫を、自分の主人であるかのように世話をするなどしては慈しんでいる。

人げ遠かりし心もいとよく馴れて、ともすれば(きぬ)の裾にまつわれ、寄り臥し、(むつ)るるを、まめやかにうつくしと思ふ。

うつくし は可愛い である。唐猫の方でも最初は懐かなかったのだが、ここまで可愛がるのでよく懐くようになった。気が附くと唐猫は柏木の衣の裾にまつわりついて、柏木の体に自分の体をおっつけて甘えていたりする。そういう猫を見ると、柏木は心底可愛いと思う。

いといたくながめて、端近く寄り臥したまへるに、来てねうねうといとらうたげになけば、かき撫でて、うたてもすすむかな、とほほ笑まる。

ねうねう は、猫の鳴き声である。柏木が女三宮への深い物思いに沈みこんで、庭の端で物に背中を持たれて横になっていると、唐猫が近寄ってきて、ねうねう と可愛い声で鳴く。柏木は猫の鳴く声に気付いたので猫を掻き撫で、お前が可愛らしく鳴くと、女三宮への恋心が一層強くなるので などと言いながら猫に向かってほほ笑む。
 「恋わぶる 人のかたみと 手ならせば なれよ何とて なく()なるらん

柏木の歌である。恋しくて堪らないあの人の形見だと思って猫を可愛がっていると、御前は何だってそんなに可愛らしい声で鳴くのか。その声を聞くと更に恋しい気持ちが募ってしまう。可愛い猫よ。

これも昔の契りにや」と、顔を見つつのたまへば、いよいよろうたげになくを、懐に入れてながめゐたまへり。

柏木はこの歌を口ずさみながら、猫の顔を見ながら、私が女三宮を恋焦がれるのも、御前がこんなに(いと)おしいのも、全てが前世から定まっている宿命なのだろうと言う

和泉式部に

  これもみな さぞな昔の 契りぞと 思ふものから あさましきかな 千載集
という歌がある。

又唐の時代に、後宮の女性が亡くなった後で、猫に転生したという話もある。

猫には運命的な恋、命を懸けた恋の話が似合う。

柏木の心を知ってか知らずか、唐猫はなおも ねうねう と可愛らしく鳴き続ける。柏木は猫を懐に入れて、うつけたようにその顔を見続ける。これが「湖月抄」の解釈である。猫が生れ変わるという話は、更級日記にもある。菅原孝標の(むすめ)のもとに、書道の名人である藤原行成大納言の娘が、猫になって転生してきたという話である。

御達(ごたち)などは、「あやしくにはかなる猫のときめくかな。かやうなるもの見入れたまはぬ御心に」と咎めけり。みやより召すにもまゐらせず、とり籠めてこれを語らひたまふ。

御達(ごたち) は身分の高い女房達である。

柏木に長く仕えてきた年配の女房達は、不思議な事があるものだ。ある日突然、猫をこれ程までに可愛がり始めるとは。

これまではこんな小動物などに全く興味が無かったのになどと、不思議がっている。柏木は東宮から早く唐猫を返すようにと催促されても、返さず手元に置いたままにしている。自分一人のものとして、溺愛し親密に語りかけている。

 

この物語は、我が国の猫の物語の代表的なものである。

さて、「源氏物語」ではこの後、4年間の空白を設定している。18年天皇であった冷泉帝が退位した。退位した冷泉帝と、その実の父親である光源氏の心中は複雑である。次の場面を読む。

朗読②

はかなくて年月も重なりて、内裏の帝御位に()かせたまひて十八年にならせたまひぬ。「次の君とならせたまふべき皇子おはしまさず、もののはえなきに、世の中はかなくおぼゆるを、心やすく思ふ人々にも対面し、私ざまに心をやりて、のどかに過ぐさまほしくなむ」と、年ごろ思しのたまはせつるを、日ごろいと重くなやませたまふことありて、にはかにおりゐさせたまひぬ。

 解説 「湖月抄」を踏まえた現代語訳をする。

さてあっという間に時間が経過して、光る君は46歳となった。柏木が唐猫を愛玩していたのは、光る君が41歳の年であった。光る君の42歳~47歳までの4年間の出来事は省略する。

さて光源氏が46歳になった年の話である。冷泉帝は澪標(みおつくし)の巻で即位されてから、18年が経過した。その間ずっと自分の退位する時期について考え続けていた。なお冷泉帝の在位期間は18年であったことについて、二つ補足説明をしておく。一つは18年という数字の数え方である。冷泉帝が即位した時、光る君は28歳であった。現在光る君の年令は46歳。即位した翌年を一年正味として数えると、今年は確かに18年に当たっている。二つ目の補足は、18年の在位期間の前例がある。清和天皇の正味18年の在位であった。

さて冷泉帝の考えは次のようなものであった。

私は次の天皇になる男皇子にも、さらには皇女にも恵まれなかった。自分の子孫が皇位を継承しないので、何とも張り合いがない。世の中は無常だから私の命もいつまで持つか分からない。こうなってきたら天皇の位を下りて気楽な立場になり、親しい人たちと気楽に対面したり個人的に興味のある事を楽しんだりして、ゆっくりと余生を過ごしたいと常日頃からお考えになられ、周囲の者にも漏らしておられた。所がここ数日、体調が優れない状態が続いたので、突然ではあるが退位を表明された。なお病気によって退位した前例としては、清和天皇の後に即位した陽成天皇がおられる。

 

冷泉帝が位を下りたことに対して、父親である光源氏はどう思ったかであろうか。その部分を読む。

朗読③

六条院は、おりゐたまひぬる冷泉帝の御(つぎ)おはしまさぬを飽かず御心の中に思す。同じ筋なれど、思ひ御事なうて過ぐしたまへるばかりに、罪は隠れて、末の世まではえ伝ふまじかりける御宿世(すくせ)、口惜しくさうざうしく思せど、人にのたまひあはせぬことなればいぶせくなむ。

 解説 現代語訳する。

光る君は退位された冷泉帝に世継がいないのを、返す返すも残念であると心の中で思う。冷泉帝は朱雀院の弟であり、系図的にはどちらも桐壺帝の血を引いている。けれども世間には知られることはなかったが、冷泉帝の本当の父親は桐壺帝ではなく光君であった。冷泉帝は()()僧都(そうず)の口から、自分の出生の秘密を知った。にも拘らず18年間の天皇在位中に、心を悩まされることもなく平穏に天下の政をした。光る君と藤壺の罪も暴かれることもなかった。その代償であるかのように帝には自らの皇子に恵まれず、自分の子孫に皇位を継がせることが出来なかった。その冷泉帝の運命が残念だし、勿体ないと光る君は思う。但し冷泉帝と光る君の親子関係は、誰にも言い含める事の出来ないもので、光る君一人の心の中に留まりいつまでももやもやが晴れない。

 

本居宣長は冷泉帝の在位が18年であったことに注目する。「湖月抄」は冷泉帝が即位した次の年を1年として計算すると、今年が18年という。所が本居宣長に言わせると、数える時には我が国では、正味でなく即位した年を一年目とするのが通例で、即位した次の年は2年目だというのである。この数え方によれば、今年は18年目となって計算が合う。

(はは)(きぎ)の巻から藤裏葉の巻まで光源氏の年令は、「湖月抄」と本居宣長で1歳の食い違いがあった。本居宣長の方が1歳年上である。その正しかった事が、この18年という数字で証明されるというのが本居宣長の主張である。何年間という

正味の在位期間で数えるか、即位して何年目で数えるかの違いである。

私は結論を留保したいと思う。「湖月抄」が18年間の在位期間だったという清和天皇は正味で計算している。

 

さて今上帝の即位によって、明石の姫君が中宮になる事が確実になった。光源氏は明石の姫君女御とその女御である紫の上、更に明石の尼君、明石の君の(がん)(ほど)きの為に、摂津の国の住吉神社に詣でる。幸福になったらこれこれの事をしますと、神様に約束したことを果たしに行くのである。光源氏と明石一族を守り続けてくれた住吉大社への感謝を表すのである。

朗読④

大殿(おとど)、昔のこと思し出でられ、中頃沈みたまひし世のありさまも、目の前のやうに思さるるに、その世のこと、うち乱れ語りたまふべき人もなければ、致仕(ちじ)大臣(おとど)をぞ悲しく思ひきこえたまひける。入りたまひて、二の車にしのびて

  たれかまた 心を知りて 住吉の 神世を経たる 松にこと問ふ

畳紙(たとうがみ)に書きたまへり。尼君うちしほれたる。

 解説

大殿(おとど)、昔のこと思し出でられ、中頃沈みたまひし世のありさまも、目の前のやうに思さるるに、

大殿(おとど) は、光源氏の事である。

光る君は都を離れられない右大臣左大臣を除く上達部を引き連れ、紫の上、明石の入道、明石の君、明石の姫君たちを同行し、盛大な儀式を住吉大社の社頭で催した。それにつけても光源氏は、過ぎ去った昔の出来事が思い出される。

20年前に都を追われ、須磨と明石を彷徨(さまよ)った悲しみが、つい今しがた起きた事のように鮮明によみがえる。

その世のこと、うち乱れ語りたまふべき人もなければ、致仕(ちじ)大臣(おとど)をぞ悲しく思ひきこえたまひける。

致仕(ちじ)大臣(おとど) は、太政大臣を辞任した人のことで、かつての頭の中将である。その頃のことをざっくばらんに語り合える人々も、生きている人々の中には少なくなった。この度の御代代わりで、太政大臣を辞任した 致仕(ちじ)大臣(おとど) かつての頭中将のことを恋しく思い出した。彼は光る君と会うために右大臣や弘徽殿の大后の思惑も憚らず、須磨の浦まで訪れてくれたのだった。

入りたまひて、二の車にしのびて、

光源氏は盛大な儀式を社頭に設けた桟敷で見物していたが、懐旧の念を抑えきれず奥に入った。そして女君たちの乗っている 二の車 の中にそっと歌を詠み入れた。因みに一の車には明石女御と紫の上が乗っている。

  たれかまた 心を知りて 住吉の 神世を経たる 松にこと問ふ

ここ住吉大社に参拝すると、昔のことをだれかと語り合いたい気持ちになる。けれども尼君を除いては昔の物語を知っていて、住吉大社の社頭に生えている神代の昔からの事を知っている松を前にして、昔話が出来る人はいません。

畳紙(たとうがみ)に書きたまへり。尼君うちしほれたる。

光る君はこの歌を旅先の事で気の利いた紙が無かったので、畳紙(たとうがみ) に書き付けて詠み入れた。

この歌を送られた尼君は、懐旧の涙と嬉し涙が溢れてくる。この住吉大社には紫の上も同行して歌を詠んでいる。

 

さて話題が変わって、光源氏が47歳になった正月の話になる。六条院に集う女君たちだけによる楽器の演奏、いわゆる女楽が催された。女三宮、紫の上、明石女御、明石の君の四人。紫の上は和琴・六弦、明石の君は琵琶・四弦、明石の女御は筝・13弦、女三宮は琴・7弦を演奏した。夕霧も招かれた。

 

この四人の女君たちの人柄が、花や植物に例えられる。

明石の君は花も実もある花橘を折り取った(かぐわ)しさ、明石の女御は朝景色の中に咲き誇る藤の花に例えられている。女三宮は青柳に例えられる場面と、紫の上が桜に例えられる場面を読む。

朗読⑤先ず女三宮である。

月、心もとなきころなれば、灯籠こなたかなたにかけて、灯よきほどにともさせたまへり。宮の御方をのぞきたまへれば、人よりけに小さくうつくしげにて、ただ御衣のみある心地す。にほひやかなる方は(おく)れて、ただいとあてやかにをかしく、二月の中の十日ばかりの青柳の、わづかにしだりはじめたらむ心地して、鶯の羽風にも乱れぬべくあえかに見えたまふ。桜の細長に、御髪(みぐし)は左右よりこぼれかかりて、柳の糸のさましたり。

 解説

月、心もとなきころなれば、灯籠こなたかなたにかけて、灯よきほどにともさせたまへり。

今は1月の20日過ぎ、19日の月だけでなく20日以降を ()し待ちの月 と呼び、月の出は遅く今宵もまだ月の顔を見ていない。暗いので灯籠をあちらこちらに掛け渡して、今日は丁度良い明るさに調節して(とも)させてある。

宮の御方をのぞきたまへれば、人よりけに小さくうつくしげにて、ただ御衣のみある心地す。

光る君は女三宮の部屋を覗き込む。その目に見えた女三宮の様子を、語り手の私が説明する。

宮は他の女君たちより小さな体付なので、可愛いという印象を受ける。顔も体も小さいので、人の体ではなく御召し物だけがそこにあるという感じである。

にほひやかなる方は(おく)れて、ただいとあてやかにをかしく

華やかな面には欠けているが、はなはだ気品があって美しい。

二月の中の十日ばかりの青柳の、わづかにしだりはじめたらむ心地して、鶯の羽風にも乱れぬべくあえかに見えたまふ。

2月中旬、20日頃の青柳 の糸がやっとしだれ始めた雰囲気である。その 青柳 の糸は、 鶯 の落とす羽根の風にも乱れそうで、いかにもか弱く感じられる。「白氏文集」にはこのような青柳を詠んだ漢詩がある。

桜の細長に、御髪(みぐし)は左右よりこぼれかかりて、柳の糸のさましたり。

(かさね)の細長の上に、髪の毛は左右からこぼれ落ちるように掛かっていて、本当に柳の糸のように見えるのである。因みに「紫式部日記」では、紫式部の女房仲間である小少将の君が 二月(きさらぎ)ばかりのしだり柳のさましたり と形容されている。

 

次に紫の上が桜の花に例えられる場面である。

朗読⑥ 紫の上の描写

紫の上は、葡萄(えび)(ぞめ)にやあらむ、色濃き小袿(こうちぎ)、薄蘇芳(すおう)の細長に御髪(みぐし)のたまれるほど、こちたくゆるやかに、大きさなどよきほどに様体(さまたい)あらまほしく、あたりににほひ満ちたる心地して、花といはばたとへても、なほ物よりすぐれたるけはひことにものしたまふ。

 解説

紫の上は、葡萄(えび)(ぞめ)にやあらむ、色濃き小袿(こうちぎ)、薄蘇芳(すおう)の細長に

紫の上が着ているのは濃い紫色だろうか、色の濃い小袿(こうちぎ)に薄い赤色の細長であった。

御髪(みぐし)のたまれるほど、こちたくゆるやかに、大きさなどよきほどに様体(ようだい)あらまほしく、あたりににほひ満ちたる心地して、
その上に髪の毛がゆったりとたまっている。髪の豊かさは驚く程である。体つきは丁度良い位の大きさで、理想的な容姿である。
見るからに華やかで本人の周囲にまであでやかさが溢れ出ている。

花といはばたとへても、なほ物よりすぐれたるけはひことにものしたまふ。

この美しさを花に例えるとすれば桜の花だろうが、最高の花とされる桜よりも更に美しい雰囲気を漂わせているので、格別の美しさといえる。

中国で花と言えば、楊貴妃が例えられた牡丹であり、我が国で花と言えば桜の事である。これらは最高の花であるが、それよりも更に美しい無双の美しさを紫の上は持っている。この場面は誰の目に映った情景なのか様々な解釈がある。「湖月抄」には夕霧の視点であるとする説、光源氏の視点とする説、草子地である語り手の視点とする説の三つが紹介されている。

本居宣長は光源氏の視点であると述べている。現在は本居宣長説に従って、光源氏の視点だと解釈されている。私は本居宣長は草子地という手法を軽視しているのではないかと思う時がある。ここは光源氏の視点ではあるが、語り手の視点と融合して語られ、それが読者に伝えられていると考えられている。

紫の上は今年37歳になったと本文には書かれている。「源氏物語」のこれまでの流れと整合性がなく、計算が合わない。

「湖月抄」の年立では40歳のはずであるし、本居宣長の説では39歳。にも拘らず紫の上は37歳と明示してある。その理由について 紫式部思うようありて書けるなるべし と「湖月抄」は述べている。37歳はこの時代の女性の大厄であるし、藤壺の死も37歳であった。

 

さて光源氏が女三宮の部屋で夜を過ごしている時、紫の上は胸を病む。これから半年に及ぶ、彼女の長くて苦しい闘病生活の始まりである。その場面を読む。

朗読⑦紫の上発病する。

(たい)には、例のおはしまさぬ夜は、(よい)()したまひて、人々になど読ませて聞きたまふ。かく、世のたとひに言ひ集めたる昔語どもにも、あだなる男、色好み、二心(ふたこころ)ある人にかかづらひたる女、かやうなることを言ひ集めたるにも、つひによる方ありてこそあめれ、あやしく浮きても過ぐしつるありさまかな、げに、のたまひつるやうに、人よりことなる宿世(すくせ)もありける身ながら、人の忍びがたく飽かぬことにするもの思ひ離れぬ身にてややみなむとすらん、あぢきなくもあるかな、など思ひつづけて、夜更けて大殿籠りぬる暁方より、御胸をなやみたまふ。人々見たてまつりあつかひて、「御消息(しょうそこ)聞こえさせむ」と聞こゆるを、「いと便(びん)なきこと」と制したまひて、たへがたきをおさへて明かしたまひつ。御身もぬるみて、御心地もいとあしけれど、院もとみに渡りたまはぬほど、かくなむとも聞こえず。

 解説 読むのが苦しい場面である。

(たい)には、例のおはしまさぬ夜は、(よい)()したまひて、人々になど読ませて聞きたまふ。

女三宮が降嫁してから早くも7年目になった。光る君が女三宮と一緒に過ごすことが多い。寝殿の放出(はなちいで)を女三宮に譲って、今は東の(たい)に住んでいる紫の上は、光る君が不在の夜は遅くまで起きて物語など読ませて、それを聞いて時間を過ごすのが常である。

かく、世のたとひに言ひ集めたる昔語どもにも、あだなる男、色好み、二心(ふたこころ)ある人にかかづらひたる女、かやうなることを言ひ集めたるにも、

様々な性格の男と女が登場し、様々な恋愛模様が繰り広げられる物語を聞きながら、紫の上は心の中で考え続ける。女房達が語り聞かせる物語には、世間で話題となった恋愛の様々を書き集めてある。それには移り気ですぐ女に飽きてしまう男や、二人の女性の間で二股をかける男など、真にいい加減な男たちが登場する。そういう男たちと関わった女たちはどんなに苦しかったことだろうか。

つひによる方ありてこそあめれ、あやしく浮きても過ぐしつるありさまかな、

女房達の語る物語を聞いている紫の上の気持ちである。物語ではそういう苦しい体験をした女達でさえも、最終的には然るべき男と満足できる生活をしているようだ。それに対してこの私はどうだろう。自分自身で信じられない位、寄る辺なく状況の変化に流され続けてきた。

げに、のたまひつるやうに、人よりことなる宿世(すくせ)もありける身ながら、人の忍びがたく飽かぬことにするもの思ひ離れぬ身にてややみなむとすらん、あぢきなくもあるかな、など思ひつづけて、

この前光る君が私に向かって言ったように、他の女性達とは違う格段に恵まれた運命のもとに生まれてきたのかも知れない。

けれども普通の女性なら到底耐えきれない嘆きから、逃れられない不幸な身の上のまま、命を終えてしまいそうだ。誠に私の人生は詰まらないものだった。などと思い続けている。

夜更けて大殿籠りぬる暁方より、御胸をなやみたまふ。

その夜がかなり遅くなってから、紫の上は床に就いた。その明け方から突然胸が痛くなった。これは後に六条御息所の死霊の仕業と判明するのだが、無論その時には分る筈もなかった。

人々見たてまつりあつかひて、「御消息(しょうそこ)聞こえさせむ」と聞こゆるを、「いと便(びん)なきこと」と制したまひて、たへがたきをおさへて明かしたまひつ。

女房達は紫の上の余りの苦しみに黙って見守り続けることが出来ず、今、女三宮の部屋に泊っている光る君に、この事、紫の上の病と苦しみを伝えましょうかと申し上げる。けれどもそのような事はしてはならないと止める。耐え難い苦しみを、ただ一人で耐え忍び朝を迎えた。朱雀院の手前、女三宮の部屋に滞在している光る君の立場を理解している紫の上の自制心は立派なものではある。

御身もぬるみて、御心地もいとあしけれど、院もとみに渡りたまはぬほど、かくなむとも聞こえず。

紫の上は高熱を発して気分も優れない。けれどもこんなに紫の上の状態が悪いのを知る由もない光る君は、紫の上の部屋に戻ってこない。女房達は光る君にこの危機的状況を、夜が明けてからも暫くは知らせることが出来なかった。

この後紫の上の体調の急変を知った明石の女御が、女三宮の部屋にいる光源氏にこの緊急事態を知らせたので、光源氏は慌てて紫の上の部屋に戻ってきた。ここから若菜下の巻は更に大きく展開する。

 

「コメント」

 

夫々が頂点から下り坂。今までのつけが回ってくる時。若い時より現実的で興味深い。