240720⑯「須磨の巻1

今回と次回、須磨の巻を読む。「源氏物語」54帖の内の12帖である。この辺りで「源氏物語」を諦める読者も多く、須磨源氏とか、須磨返りなどと言う。このため山場を乗り越える様に、「湖月抄」のアドバイスがあるので安心である。巻のタイトルとなっている須磨という言葉は、和歌でも散文にもみられる。「湖月抄」の年立てでは25歳の3月~26歳3月まで。賢木の巻末は24歳の夏までだったので、その年の秋と冬のことは書かれていない。その間に光源氏は政治的な窮地に追い込まれた。「湖月抄」はこの巻には仁義礼智信という儒教の教えや交友即ち友情の素晴らしさが書かれている。

主君である光源氏を信じ、都での地位を捨て愛する家族たちとも別れ、須磨に同行した従者たちの忠義心を称賛している。また須磨まで光源氏に会いに出かけた頭の中将の友情も称賛している。「湖月抄」は又、この巻には風雅の道、文芸の道で大切とされる 思い(よこしま)なし という理念が書かれているとも述べている。これは光源氏が須磨で心を澄ませて、漢詩を口ずさみ和歌詠んだ姿勢を称えているのである。尚本居宣長の年立てでは光源氏が26歳の2月~27歳の3月までとなっていて、現在ではこれが採用されている。

 

それでは須磨の巻の冒頭部分を読む。光源氏が須磨へ移り住むことを決断する場面である。

朗読①須磨の巻の冒頭部分

世の中いとわづらはしくはしたなきことのみまされば、せめて知らず顔にあり経ても、これよりまさることもやと思しなりぬ。

かの須磨は、昔こそ人の住み()などもありけれ、今はいと里離れ心すごくて、海人の家だにまれに、など聞きたまへど、人しげくひたたけたらむ住まいはいと本意(ほい)なかるべし、さりとて都を遠ざからんも、古里おぼつかなかるべきを、人わるくぞおぼし乱るる

 解説

世の中いとわづらはしくはしたなきことのみまされば、

(さか)()の巻で光源氏が、朧月夜と密会しているのを目撃した右大臣は弘徽殿の大后と図り、光源氏を失脚させようとする。その様な状況の中、光る君は居心地の悪い思い思いをする機会が増えていく。

せめて知らず顔にあり経ても、これよりまさることもやと思しなりぬ。

せめては我慢して努力しているという意味である。光る君には自分が都から追放される様な罪を犯していないという確信がある。但し熟慮した結果、一つの結論に達した。右大臣たちの動きには気付かない振りをし、今のまま都に留まりやり過ごすことも出来るだろう。但しそれだと悪政を行う右大臣達によって、今以上に厳しい処断が下り遠い国へ追放されてしまう恐れがある。

かの須磨は、昔こそ人の住み()などもありけれ、今はいと里離れ心すごくて、海人の家だにまれに、など聞きたまへど

光る君の念頭に浮かんだのは、追放される前に都から近からず遠からずの丁度良い場所に、自分の方から進んで退去するという戦略だった。例えば摂津の国の須磨、ここはかつて在原業平の兄の行平が蟄居していた所である。

その須磨についてどんな所かかと人に尋ねたら、昔は人も住んでいたものの最近では人家がある所からも遠く、ぞっとするほどに淋しく漁師たちの住まいですら殆どないという返事だった。

人しげくひたたけたらむ住まいはいと本意(ほい)なかるべし、さりとて都を遠ざからんも、古里おぼつかなかるべきを、人わるくぞおぼし乱るる

いつの間にか間接話法に変わっている。

ひたたく を 「湖月抄」は人が多く賑やかであると解釈している。それに対して本居宣長は締まりがなく無秩序であるという意味と言っている。私は人が多く賑やかなので雑然としていることだろうと思う。どちらの説も同じことを言っている。それを聞いて光る君の心は揺れ動いた。人が多く住んでいた賑やかな辺りに移り住むのは、都での社会的活動を謹慎する為であるという本来の意図から離れてしまう。そうかといって人が殆ど住まない遠い所に移るのも、都の事が心配で堪らせず気持ちが落ち着かないだろう。

近くもなく遠くもない所がないものか、あるとしたらやはり須磨ではあるまいかなどと思う。普段は心乱れている様子など他の人には見せない光る君なのに、この時ばかりは体裁が悪い位に悩んでいる。須磨に下る決心をしたものの、ためらいも大きかった。この後、「湖月抄」は次の様に細く説明している。

さて光る君が須磨に行った事には、五人の歴史上の人物の面影が重ねられている。まず須磨で蟄居した在原行平、中国古代の聖人で周から退去した(しゅう)(こう)(たん)、大宰府に流された菅原道真、同じく大宰府に左遷された源高明、隠岐島に流された小野篁、この五人である。五人のモデルが一つに溶け合って光源氏の旅になったのである。

 

「源氏物語」は様々に旅人の人生を重ね合わせ、光源氏という一人の人間の旅として描き上げているというのである。この後、須磨へ移り住む決意を固めた光源氏は、都に残る人々と別れを交わす。平安時代の政治状況では、一度失脚した人物が政界に返り咲き、権力の頂点に立つことはあり得ない。須磨への旅立ちは今生の別れとなる可能性が高い。紫の上、花散る里、東宮、亡き葵の上の両親である左大臣、頭の中将、我が子の夕霧、朧月夜、
そして亡き桐壷帝の眠る陵などを光る君は訪れた。

 

そして春の押し詰まった3月下旬、光源氏は須磨へと旅立った。それでは光源氏が紫の上とわかれ、須磨へと旅立つ場面を読む。

朗読② 紫の上との別れ

その日は、女君に御物語のどかに聞こえ暮らしたまひて、例の夜深く出でたまふ。狩の御()など、旅の御よそひいたくやつしたまひて、「月出でにけりな。なほすこし出でて見だに送りたまへかし。いかに聞こゆべきこと多くつもりにけりとおぼえむとすらん。一二日(ひとひふつか)たまさかに隔つるをりだに、あやしういぶせき心地するものを」とて、御簾(みす)()き上げて端に(いざな)ひきこえたまへば、女君泣き沈みたまへる。ためらひてゐざり出でたまへる。月影に、いみじうをかしげにてゐたまへり

 解説

ここは「湖月抄」の理解に基づいて現代語訳で理解を深める。

いよいよ明日は出発という日になった。恒例として旅立ちは夜明け前という事になっている。旅立ちを控えた前の日はとっぷりと日が暮れるまで、紫の上と二人で親密な語らいの時を持った。そして夜が明ける直前の、まだ暗い時間帯に屋敷を後にする。紫の上に向かって別れの挨拶をする。さあ別れの時になった。今は3月下旬なので、月の出は遅いが、東にはやっと月が顔を見せている。
そんなに部屋の奥に引き込んでいないで、もう少し庭近くまで出て来て見送って下さい。これからは私だけでなく、あなたも別れの時にこんなことを言っておきたかったなどと後悔することになりますよ。私はたった一日か二日、あなたと会えない日があると、自分でも不思議な位気持ちが落ち着かず不安になったものである。今後もそうだろう。これからはずっとそれが続くのです。などと言いながら簾を巻き上げる。そしてもっと庭の近くまで出ていらっしゃいとお誘いになる。女君はそれまで涙にくれていたので、しばし時間をかけて気持ちを静め、少しずつ少しずつ前へとにじり寄ってきた。月の光を浴びてとても可愛らしい姿で座っている。光源氏25歳、紫の上18歳の別れである。

 

それでは今読んだ文章に続く場面を読む。最初に光源氏が歌を詠み、次に紫の上が歌を返す。

朗読 紫の上と歌を交換して舟で出発する。追い風で須磨に到着する。

わが身かくてはかなき世を別れなば、いかなるさまにさすらへたまはむと、うしろめたく悲しけれど、思し入りたるが、いとどしかるべければ、

  生ける世の 別れを知らで 契りつつ 命を人にかぎりけるかな

はかなし」など、あさはかに聞こえなしたまへば、

  惜しからぬ 命にかへて 目の前に 別れをしばし とどめてしかな

げにさそ思さるらむといと見棄てがたけれど、明けはてなばはしたなかるべきにより、急ぎ出でたまひぬ。

道すがら面影につと添ひて、胸もふたがりながら、御舟に乗りたまひぬ。日長きころなれば、追風さへ添ひて、まだ(さる)(とき)ばかりに、かの浦に着きたまひぬ。

 解説

行間に込められた人間心理に分け入る。

わが身かくてはかなき世を別れなば、いかなるさまにさすらへたまはむと、うしろめたく悲しけれど、

紫の上を都に残して旅立つ光る君の思いである。

うしろめたく は、自分がいないとこの人はどうなるのかと心配だというニュアンスである。光る君は、私は都を離れたまま、ここには戻って来ないかも知れない。そうなれば彼女は頼りなく生きて行かなければならない事だろうと、紫の上のこれからが心配でたまらず悲しい。なお本居宣長は、光源氏は自分は死んでしまうかも知れないといるのだと主張する。そうかもしれない。

思し入りたるが、いとどしかるべければ、

「湖月抄」は 思し入りたる の主語を光源氏と解釈している。いとど は、紫の上の悲しみが一層勝るという意味である。光源氏は自分が悲しんでいる心の中をそのまま口にすると、ただでさえ悲しんでいる紫の上が更に追い詰められると思いやって、悲しみを抑えた歌を詠む。

  惜しからぬ 命にかへて 目の前に 別れをしばし とどめてしかな 源氏

光源氏の詠んだ惜別の歌である。別れには死別・死に別れ、生別・生き別れもあるのだという悲しみを詠っている。私はこれまで命が終わる時までは、どんなことがあってもあなたを大事にしますと誓ってきた。けれども世の中には死に別れだけではなく、生き別れもあったのですね。不覚にもそのことに気付かなかった。

はかなし」など、あさはかに聞こえなしたまへば、

光源氏が主語である。光る君の本心は悲しみに打ち萎れているのが、何ともあてにならない。約束してしまったなどと敢えて淡白にいう。

  惜しからぬ 命にかへて 目の前に 別れをしばし とどめてしかな 紫の上

僅か31音の中に深い思いが込められている。私には死別の悲しみよりも、今目の前で起きている生き別れの方が悲しく感じられる。あなたは命がある限り、一緒にいますと約束してくれた。だからあなたは少しでも長生きして欲しいし、私も長く生きたいと思ってきた。けれども二人とも命があるのに、都と須磨にひき割かれてしまうのなら、私は命など惜しくはない。私の命を削るかわりに、少しでもあなたの須磨への旅立ちを引き伸ばせるのなればと願うばかりである。

げにさそ思さるらむといと見棄てがたけれど、

光る君は紫の上は本当にこの歌の通り、思い詰めているのだろうと思うので、彼女を後に残して都を離れるのが辛く感じられる。

明けはてなばはしたなかるべきにより、急ぎ出でたまひぬ。

けれども周りが明るくなってしまうと未練がましい旅立ちだったと人に思われるだろうと危惧して、大急ぎで屋敷を後にした。

道すがら面影につと添ひて、胸もふたがりながら、御舟に乗りたまひぬ。日長きころなれば、追風さへ添ひて、まだ(さる)(とき)ばかりに、かの浦に着きたまひぬ。

あっという間に須磨に到着した。須磨へ向かう途中でも紫の上の面影が心に浮かび、一瞬たりとも目から離れない。悲しみに心が一杯になりながら、淀川で舟に乗った。晩秋なので日は長い。舟は早い。追い風までが吹いてきたので、何とその日午後には目的地の須磨に着いた。「湖月抄」は都を旅立った当日に須磨に着いたと考え、次の様に説明する。

それにしても暗いうちに都を出たとはいえ、その日の午後4時頃には摂津の国の須磨に着くのは早すぎる。

けれども物語の作者が文章を書く際には、こういうスピ-ド感で書くものである。日が長いことに加え、追い風も吹いたとあるので、その日のうちに着いたと考えて良いだろう。これに反対したのが本居宣長である。
(さる)(とき)
 に須磨に着いたのは、「湖月抄」がいうような都を出たその日ではない。そもそも都から難波まで一日掛る。翌日難波から舟に乗って、(さる)(とき) リアリティの無いことを紫式部が書くことはない。須磨が都からどれくらい離れているか、紫式部は誰かから聞いて知っていたのであろう。現在は本居宣長の説に従っている。けれども私は都を出たその日のうちに須磨に着いたと考えても悪くはないと思う。文学はこういう誇張した書き方があると思う。

 

こうして光源氏の須磨での暮らしが始まった。次に続く場面を読む。

朗読④ 須磨での住まいの様子

おはすべき所は、行平の中納言の藻塩(もしお)たれつつわびける家居ちかきわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり。垣のさまよりはじめてめづらかに見たまふ。茅屋(かやや)ども、蘆ふける(ろう)めく屋などをかしうしつらひなしたり。所につけたる御住まひ、様変りて、かかるをりならずはをかしうもありなましと、昔の心のすさび思し出づ。近き所どころ御庄(みさう)の司召して、さるべきことどもなど、(よし)清朝(きよあ)(そん)、親しき家司(むけいし)にて、仰せ行ふもあはれなり。時の間に、いと見どころありてしなさせたまふ。水深う遣りなし、植木どもなどして、今はと静まりたまふ心地(うつつ)ならず。(くにの)(かみ)も親しき殿人なれば、忍びて心寄せ仕うまつる。かかる旅所ともなく人騒がしけれども、はかばかしうものをものたまひあはすべき人しなければ、知らぬ国の心地していと埋れいたく、いかで年月を過ぐ覚ましと思しやらむ。

 解説

おはすべき所は、行平の中納言の藻塩(もしお)たれつつわびける家居ちかきわたりなりけり。

藻塩(もしお)たれ というのは、海人が袖を海水で濡らしている様に、袖が悲しみの涙でびっしょり濡れている状態である。ここには在原行平の歌が引用されている。これから光る君が暮らす予定の場所は、あの在原行平がわび住いをしていた所の近くなのだった。行平中納言は文徳天皇の御代に朝廷から咎めを受け、この須磨に蟄居したと伝えられる。行平は

  わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ 八代集

という歌を詠んだ様に、須磨で泣きぬれた日々を過ごした。

光る君もまた精神的に追い詰められた日々をこれから過ごすことになる。住まいになるのは須磨といっても、海に面してはおらず、少し陸地の方に入って行って、物悲しい雰囲気が濃厚に漂っている山の中である。

垣のさまよりはじめてめづらかに見たまふ。茅屋(かやや)ども、蘆ふける(ろう)めく屋などをかしうしつらひなしたり。

しつらひ はきちんと整える、整理するという意味である。「湖月抄」の説明を取り込んで現代語訳する。

敷地を取り巻いている垣根をはじめとして、大層珍しいというのが光る君の受けた第一印象だった。光る君はこれまで平安京のある山城国から外に出たことはなかった。このため殊のほか、珍しく感じた。茅で作られた家や、蘆で吹かれている渡り廊下の様な建物が、物珍しく作ってある。これまでだれが住んでいたのか分からないけど、元々あった家を取り合えずの家としたのである。

所につけたる御住まひ、様変りて、かかるをりならずはをかしうもありなましと、昔の心のすさび思し出づ。

いかにも須磨という雰囲気の漂う住まいは、これまでの都での華やかな暮らしぶりとは一変して新鮮ではある。

私は政治的に追いつめられてここに来た訳であるが、こういう風にではなく 罪なくして配所の月を見ばや といったような風流心からここに住みたかったなと光る君は思う。その心の中では、華やかな都で風流心にまかせて、楽しく過ごしていたことが蘇っている。なお 罪なくして配所の月を見ばや と語った源顕基(あきもと)は、光源氏の準拠・モデルの一人とされる源高明(たかあきら)の孫にあたる。「源氏物語」より後の時代の人物なので、源顕基(あきもと)のことばを踏まえた可能性はない。むしろ源顕基(あきもと)の方が「源氏物語」須磨の巻を意識していたのかも知れない。

近き所どころ御庄(みさう)の司召して、さるべきことどもなど、(よし)清朝(きよあ)(そん)、親しき家司(むけいし)にて、仰せ行ふもあはれなり

御庄 は、荘園の事である。光源氏の経済力の源である。彼の所有する荘園の一つが須磨の近くのにもあった。

(よし)清朝(きよあ)(そん) は藤原惟光と並んで、光源氏の腹心である。この須磨に近い所には光る君が所有している荘園がある。
園の管理をしている役人たちを須磨まで呼んで、(よし)清朝(きよあ)(そん) がてきぱきと指示を出し、この住まいを住みやすいように改装させている。それを御覧になるにつけても、都では高い地位の人々に光る君の威光を伝えていた
(よし)清朝(きよあ)(そん) が今では下々の者と直接に対応している姿に有為転変を感じる。

時の間に、いと見どころありてしなさせたまふ。水深う遣りなし、植木どもなどして、今はと静まりたまふ心地(うつつ)ならず。

この荘園の者たちが手入れをしたのでたちどころに、見た目の良い住まいになった。庭には鑓水を奥深くまで流れさせ、春や秋の景色を楽しめるように植木を植えさせた。さあ取り合えず今はこれで良い。ここで過ごそうではないか と落ち着いた光る君は、とてもこれが現実と思えず夢を見ているような気持である。

(くにの)(かみ)も親しき殿人なれば、忍びて心寄せ仕うまつる。

須磨のある摂津国の国司を務めている者は、個人的には光る君に仕えている関係で何かと便宜を図ってくれる。但し光る君は朱雀帝や右大臣、弘徽殿の大后たちの怒りを買ってここに退去しているので、朝廷から任命された国司が表立って光る君を援助することには差し障りがある。

かかる旅所ともなく人騒がしけれども、はかばかしうものをものたまひあはすべき人しなければ、知らぬ国の心地していと埋れいたく、いかで年月を過ぐ覚ましと思しやらむ。

仮の住まいではあるが何かと出入りする者たちも多く、閑静な暮らしという訳ではない。けれども楽しい会話を交わして、心の鬱屈を取り払える話し相手もおらず、ここが自分が暮らすのに相応しい場所であるとは到底思えない。侘しい気持ちになって、ここでどうしたら長く暮らせるだろうかと絶望的になる。さて須磨に到着した光源氏は都に残っている紫の上、藤壺、朧月夜、花散る里や、伊勢に下っている六条御息所へと手紙を交わし心を慰める。

 

そうこうする内に早くも秋になった。次に須磨の巻の名場面が現れる・

朗読⑤ 光る君は深夜、浦風を聞きながら琴を奏で歌を作る

須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、関吹き越ゆると言ひけん浦波、夜々(よるよる)はげにいと近く聞こえて、またなくあすはれなるものはかかる所の秋なりけり

御前にいと人少なにて、うち休みわたれるに、独り目をさまして、枕をそばだてて四方(よも)の嵐を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに枕浮くばかりになりにけり。(きん)をすこし搔き鳴らしたまへるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、弾きさしたまひて、

  恋ひわびて なく()にまがふ 浦波は 思ふかたより 風や吹くらん

とうたひたまへるに人々おどろきて、めでたうおぼゆるに忍ばれて、あいなう起きゐつつ、鼻を忍びやかにかみわたす。

 解説

須磨には、いとど心づくしの秋風に、

秋になった。  

  木の間より ()りくる月の かげ見れば 心尽くしの 秋は来にけり 

  古今集 よみ人知らず

という歌があるように、秋は人間の心を落ち着かなくさせる。物思いの限りを尽くさせる季節である。

須磨に浦にも光る君の心を悲しくさせる秋風が吹いている。

海はすこし遠けれど、行平の中納言の、関吹き越ゆる と言ひけん浦波、夜々(よるよる)はげにいと近く聞こえて、またなくあすはれなるものはかかる所の秋なりけり。

住いの所は海から少し離れた山の中にあるが、風に乗って海岸に打ち寄せる波の音が絶えず聞こえてくる。行平中納言が

  旅人は (たもと)涼しく なりにけり 関吹き越ゆる 須磨の浦風 続古今集

と詠んだという浦風である。壬生忠峰に

  秋風の 関吹きこゆる たびごとに 声うちそふる 須磨の浦風

というよく似た歌もある。

行平の歌は題を志賀の浦風としたり、歌の作者を行平ではなく大中臣能宣(おおなかとみよしのぶ)としたりする説もあるが、この場面の解釈にこれ以上の詮索は不要である。毎晩毎晩光る君の住いにも、浦風の音が聞こえてくる。それがすぐ近くまで波が打ち寄せてきている様に聞こえるのである。これ以上はない程にもの悲しいのはこういう所の秋なのである。なお 浦波、夜々(よるよる)は の部分は、昼、夜の夜と波が打ち寄せるとの枕詞とする解釈が主流である。但しこの解釈は「湖月抄」にも見えないし、本居宣長も指摘していない。当たり前だから書いてないだけかも知れない。

御前にいと人少なにて、うち休みわたれるに、独り目をさまして、枕をそばだてて四方(よも)の嵐を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに枕浮くばかりになりにけり。

ここには漢詩と和歌の引用がある。夜の事とて光る君の近くには誰も控えていない。皆はぐっすりと寝入っている。光る君は唯一人、目がさえて眠れずに起きている。何か大きな音が枕のすぐそこで鳴り響いている。頭を乗せていた枕を横にして、あちらこちらに聞こえている嵐の様な音の正体を突き止めようとすると、須磨の浦風がこの枕元まで聞こえているのだった。白楽天、白居易の詩句が思い起こされた。

草堂の東壁に題す 白居易

日高く睡り足りて なお起くるに(ものう)

小閣(きん)を重ねて 寒を(おそ)れず

遺愛寺(いあいじ)の鐘は 枕を(そばだ)てて聴き

香炉峰の雪は (すだれ)(かか)げて看る

匡廬(きょうろ)便(すなわ)ち是 名を逃るるの地

司馬は(なお) 老いを送るの官と為す

(ゆたか)かに身(やすき)きは (これ)()する処

故郷何ぞ独り 長安にのみ在らんや

 

日は高く昇り眠りも十分とったのにまだ起きるのが面倒臭い。この小さな二階家で蒲団を重ねているので寒さも恐れない。

遺愛寺の鐘の音は寝たまま枕を傾けて耳を澄ませて聞き、香炉峰に白く積もった雪は手を伸ばし簾を押し上げてみる。

廬山は俗世間の名声から隠れ住むのに相応しい場所であり、軍事を司る官職の司馬という閑職も老人が余生を送るに丁度良い。

心安らかで身も無事である事こそ安住の地であり、長安だけが故郷ではない。

 

白楽天もまた左遷されたわび住いでこのような詩を詠んだのだった。今のわが身と同じだと重ね合わせた光る君は、いつの間にか故知らず涙をこぼしていた。その涙が先ほど横にしたばかりの枕を押し流す程に、大量に溜まっている。光る君は和歌を思い浮かべた。

独り寝も ここに溜まれる 涙には 石の枕も うちにべらなり

涙川 水増さればや しきたえの 枕の浮きて とまるざるらん

等の歌であった。そして光源氏は歌を詠む。

(きん)をすこし搔き鳴らしたまへるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、弾きさしたまひて、

(きん) は弦が七本ある琴の事である。

漢詩と和歌によって心の琴線をいたく刺激された光る君は、都から持ってきた琴を手に取り少しばかり搔き鳴らす。その琴の奏でる音が自分の耳にもぞっとする程、殺伐として聞こえるので直ぐに演奏を止めた。

そしてして和歌を口ずさんだり

  恋ひわびて なく()にまがふ 浦波は 思ふかたより 風や吹くらん

私が懐かしい都の事を恋慕う気持ちを我慢できずに泣く声と、須磨の浦から聞こえてくる浦波の音はよく似ている。私が都の事を懐かしく思うと同じ様に、都の人達も私の事を懐かしく偲んで、私と同じ様な泣き声をたてているのだろう。だから都の方から聞こえてくる風は、私の泣き声と似ているのだと光る君は口ずさんだ。

人々おどろきて、めでたうおぼゆるに忍ばれて、あいなう起きゐつつ、鼻を忍びやかにかみわたす。

その音で眠っていた従者たちも目を覚まして、光る君の声の素晴らしさとその歌の悲しみの深さに、従者たちも今の日々がどうにも味気なく感じられたであろう。そして我慢できなくなり、鼻水をすすり上げて泣いてしまうのであった。

あいなう は、「湖月抄」の解釈では味気ないという気持ちである。本居宣長は桐壷の巻などで「湖月抄」の解釈に反対している。

本居宣長の解釈では あいなう は、深く考えた結果ではなく、どこにでもある行動をしてしまうことである。この場面で当てはめると、従者たちは訳もなく泣きたいという感情に突き動かされて、涙をこぼしたという事になる。この様に須磨の秋は、光源氏も従者たちも涙、涙なのであった。旅の悲しみが読者の心に残る。

 

「イベント」

 

身から出た錆びで都を追われた光源氏。それでも従者もつけてちゃんとした家で暮らせそうである。都から幾らも離れていないではないか。ほとぼりを覚ますのには最高、これは現代人の感覚か。