240420③「桐壺の巻 2」
江戸時代から昭和の戦前まで「源氏物語」は「湖月抄」で読まれてきた。この古典講読も「湖月抄」の解釈をスタートラインに設定する。本居宣長の新解釈もその都度紹介する。今回は桐壺の巻の二回目である。亡くなった桐壺の更衣の葬儀の場面を読もう。更衣の母親が最愛の娘に先立たれて、激しく心乱れている場面である。
朗読① 葬儀の時の桐壺の更衣の母の様子
限りあれば、例の作法にをさめさせたてまつるを、聞き母北の方、同じ煙にのぼりなむと泣きこがれたまひて、御送りの女房の車に慕ひ乗りたまひて、愛宕といふ所に、いといかめしうその作法したるに、おはし着きたる心地、いかばかりかはありけむ。「虚しき御骸を見る見る、なほおはするものと思ふがいとかひなければ、灰になりたまむを見たてまつりて、
今は亡き人とひたぶるに思ひなりなん」とさかしうのたまひつれど、車よりも落ちぬべうまろびたまへば、さは思ひつかしと、人々もてわづらひきこゆ。
解説 「湖月抄」基づいて行間を味わう。
限りあれば、例の作法にをさめさせたてまつるを、
更衣の母、北の方は亡くなった娘の死を認めることが出来ず、火葬にしたくなかった。けれども亡骸をそのままにしておけない。仕方なしに作法通りの葬儀を執り行うことにした。限りあれば という言葉に切ない思い母心が感じられる。
母北の方、同じ煙にのぼりなむと泣きこがれたまひて
母君は娘と一緒に私も焼いて欲しいと、娘の亡骸を焼いた火葬の煙と一緒に空に上ってしまいたいと、身もだえしながら泣き伏している。本居宣長は泣きこがれたまひて、の こがれ は、直前の同じ煙にのぼりなむ の縁語であると指摘している。
御送りの女房の車に慕ひ乗りたまひて、愛宕といふ所に、いといかめしうその作法したるに、おはし着きたる心地、いかばかりかはありけむ。
「湖月抄」はこの部分を、草子地であると指摘している。草子地 とは物語を語っている語り手から読者に向けられたコメントのことである。このニュアンスをはっきりさせて訳す。
女房達が亡き桐壺の更衣の亡骸を野辺送りするために、焼き場に向かう牛車に乗り込もうとしていると、母君は突然私も見続けたいと仰って、牛車に中に強引に乗り込んでしまわれた。更衣の火葬は鳥辺野の愛宕の里の辺りで行われた。それにしてもいかにも葬儀という荘重な式次第で葬儀が執り行われる場所に、到着された瞬間の母君の御心は、いかばかり張り裂けそうであったことか。草子地の部分は語り手のナレーションなので、私は話し言葉で訳す。
一方物語の内部の出来事はだ、です 調 で訳す。
「虚しき御骸を見る見る、なほおはするものと思ふがいとかひなければ、灰になりたまむを見たてまつりて、今は亡き人とひたぶるに思ひなりなん」とさかしうのたまひつれど
「湖月抄」は さかしう に関して 賢げ と説明している。母君への皮肉である。また母君の言葉には和歌が踏まえられているという説もある。「湖月抄」の解釈即ち「湖月抄」訳は次の様になる。
母君は牛車に乗り込む前には、娘の命は既に失われているのに、お顔は生前そのままです。ともすれば生きていらっしゃると思うのが虚しい、いっそ火葬されて灰になってしまわれるのを目の前で見て、お亡くなりになった事実を目に焼き付けて、私の娘の死を受け入れようと思います。などと虚勢を張って理性的な発言をしておられた。これは以下を踏まえている。 燃え果てて 灰となりなむ 時にこそ 人を思ひの やまむ期にせめ 拾遺和歌集
車よりも落ちぬべうまろびたまへば、さは思ひつかしと、人々もてわづらひきこゆ。
人々は女房達である。理性的な発言はどこえやら、火葬場に着いた途端に、牛車から降りることも出来ず、激しく身もだえする始末である。付き添いの女房達は、こうなるとは予想できた。やはりお連れするのではなかったと母君をどう扱えばいいのか困った。母の姿はいささか滑稽な印象を与える。悲しみの極致にいる人間は、他人の目には滑稽に見えるのかもしれない。
これに続く場面を読む。
朗読② 亡き桐壺の更衣の三位が追贈された。更衣を憎んでいる人はいたが、人柄の
良かった更衣を恋しく思うようになった。
内裏より御使あり。三位の位贈りたまふよし、勅使来て、その宣命読むなん、悲しきことなりける。女御とだに言はせずなりぬるがあかず口惜しう思さるれば、いま一階の位をだにと贈らせたまふなりれり。これにつけても、憎みたまふ人々多かり。
もの思ひ知りたまふは、さま容貌などのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすく憎みがたかりしことなど、今ぞ思し出づる。さまあしき御もてなしゆゑこそ、すげなうそねみたまひしか、人柄のあはれに情けありし御心を、上の女房なども恋ひしのびあへり、「なくてぞ」とは、かかるをりにやと見えたり。
解説
今ぞ思し出づる
今ぞ のニュアンスに注目せよと「湖月抄」は述べている。更衣が生きている時には憎んだ人たちが、彼女がいなくなって自分に被害が及ばないか無くなった今になって、手の平を返し同情の涙を注ぐのである。この場面は「湖月抄」訳を読む。
です、ます調の部分は草子地即ち語り手のコメントである。
葬儀が始まった。内裏から少納言が勅使として遣わされた。亡き更衣に従三位を追贈する由を記した宣命を厳かに読み上げたのは何とも悲しいことである。帝は更衣を愛しており、いつかは中宮にと願っておられたが、様々な障害があって女御とすら呼ばせることが出来なかった。その帝が返す返すも残念なので、更衣の四位から女御と同じ三位の位を追贈したいと思われたのである。所がこの様に帝の愛情をすら憎らしいと思われる方も多かった。より人間の心の機微を良く理解している女性たちは、亡き更衣が姿や顔が美しかったこと、気立てがおっとりとして嫌いになる事が難しかったことなど、今になって思い出されるのであった。更衣の生前には帝の寵愛ぶりがあまりにも常軌を逸していたので、更衣のことが好きになれず憎んでしまわれたのである。また帝のお側にお仕えしている女房達も、亡き更衣が優しい人柄で、おもいやり溢れる心の持ち主であったことを懐かしく思い出すのであった。
ある時は ありのすさびに 憎かりき なくてぞ人の 恋しかりける
という古い歌がある。あの人が生きている時には、一寸としたことで憎らしく思う事もあったが、亡くなってみると恋しく偲ばれてならない。更衣に対する人々の評価の変化は、まさにこの歌の通りだと思われる。
「源氏物語」の本文には「なくてぞ」 とだけしか書いてないが、「湖月抄」の指摘によって
ある時は ありのすさびに 憎かりき なくてぞ人の 恋しかりける
という和歌は広く知られる様になった。出典も分かっていない歌である。「湖月抄」の影響力の強さを感じる。
さて帝が亡き更衣を偲ぶ部分になる。帝は秋の夕暮れのある日、靫負命婦という女官を更衣の里に遣わし、母北の方を慰める。母君は更衣の形見として、髪を結い上げる道具を帝に献上した。それを見た帝は「長恨歌」の悲恋を自分のことに重ねて悲しむ。
朗読③ 帝は形見の品を見ても、何を見ても恨めしく思われる。
かの贈り物御覧ぜさす。亡き人の住み処尋ね出でたりけんしるしの釵ならましかばと思ほすもいとかひなし。
たずねゆく まぼろしもがな つてにても 魂のありかを そことしるべく
絵に描ける楊貴妃の容貌は、いみじき絵師といへども、筆限りありければいとにほひすくなく、太液芙蓉、
未央柳も、げにかよひたりし容貌を、唐めいたるよひひはうるはしうこそありけめ、なつかしうらうたげなりしを思し出づるに、花鳥の色にも音にもよそふべき方ぞなき、朝夕の言ぐさに、翼をならべ、枝をかはさむと契らせたまひしに、かなはざりける命のほどぞうらめしき。」
解説
歌の中の まぼろし は、魔法使いのことである。「長恨歌」は仙人が今は亡き楊貴妃の魂を探し求めて、遂に対面し形見の釵と玄宗皇帝への言葉を持ち帰った。靫負命婦は亡き更衣の簪を持ち帰ったが、彼女の言葉は持ち帰らなかった。
この場面を「湖月抄」に従って訳しておく。
宮中に帰参した靫負命婦は、帝に更衣の母君から渡された形見をお見せした。亡き更衣が髪を結う時に用いていた道具を帝は御覧になる。「長恨歌」には亡き楊貴妃を恋慕う玄宗皇帝の依頼に応えて、道士が死者の世界まで空を駈けて楊貴妃と対面する。楊貴妃の言葉と形見の品物・簪を持ち帰った。亡き更衣の里に遣わした靫負命婦は、
更衣の髪結の道具は持ち帰った。二つのことは似ているが全く違う。亡き更衣が何処に転生しているのか知る由もなく、どこかに転生しているであろう更衣とは、言葉を交わす術がないのだと、帝は悲しく思われる。
生きている人間と死んだ人間が言葉を交わすことは不可能なのであるからどうしようもないのであった。帝は歌を口ずさまれる。
たずねゆく まぼろしもがな つてにても 魂のありかを そことしるべく
更衣の魂が今何処にあるのか、尋ねだす霊力を持った魔法使いがこの世にいたらよいのになあ。私が直接亡き更衣と話をするのは不可能だとしても、魔法使いを介して更衣の言葉を聞きたいものだ。帝の思いは自然の成り行きで、「長恨歌」へと向かう。自分にとっての更衣は、玄宗皇帝にとっての楊貴妃の様なかけがえのない愛の対象だった。その楊貴妃を描いた絵を見たことがある。どんな名人芸を誇る絵師であっても、実際の顔とそっくりな肖像画を描くことは出来ないので、描かれた楊貴妃には生き生きとした華やかさは感じられなかった。「長恨歌」には楊貴妃の顔は、芙蓉、蓮の花の
様に華麗で、眉は柳の様に細く妖艶だと例えられているが、画からは伝わってこない。そもそも楊貴妃は中国の人で、衣装も顔だちも唐風で豪華で華麗だったと思われるけれども、亡き更衣はそれと違っていた。更衣は芙蓉や柳などには例えることは出来ない、唯一無二の存在だった。更衣の人格は奥ゆかしく、可愛らしかった。帝はどんな美しい花の色にも、どんなに奇麗な鳥の声にも例えることの出来なかった、更衣の在りし日の姿や声を思い浮かべ続けるのだった。
「長恨歌」の玄宗皇帝と楊貴妃は天にあらば比翼の鳥、地にあらば連理の枝となって、いつまでも二人一緒に暮らしたいと誓ったのである。自分と更衣も同じ様に、永遠の愛を誓い合ったのに、それにも関わらず幽明境を別った現実を、限りなく恨めしく思うのだった。まさに仏教の言う愛別離苦の教えそのものである。
中国風と日本風の理想の女性像のコントラストが鮮やかである。大和心を重視し、唐心を批判する本居宣長は、面白い感想を述べている。楊貴妃は余りにもキリッとして固く、たおやかでない。それに対して更衣は愛らしかったというのである。更に「湖月抄」には書いてないが、著者である北村季吟が信じている秘密の学説がある。桐壺の更衣の名前は たま であるという説である。その根拠は帝の歌にある。
たずねゆく まぼろしもがな つてにても 魂のありかを そことしるべく
魂のありか が更衣の魂のありかという意味の外に、亡き たまさん の今の居場所という意味もあるというのである。面白い話である。
それから時が流れた。光君が母である更衣と死別したのは、3才の時であったが、6才で祖母・更衣の母君とも別れた。7歳で漢籍を学ぶ文始を行ったが、その才能は超越していた。音楽の才能も卓越しており、何といっても美貌は無比のものであった。その頃大陸から優れた相人・人相を占う人が来日した。帝はその相人に若宮の未来を占わせた。このエピソードを読む。
朗読④ 若宮の観相
そのころ、高麗人の参れる中に、かしこき相人ありけるを聞こしめして、宮の内に召さむことは宇多帝の御戒あれば、いみじ忍びてこの皇子を鴻臚館に遣わしたり。御後見だちて仕うまつる右大弁の子のように思はせて率てたてまつるに、相人おどろきて、あまたたび傾きあやしぶ。「国の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。朝廷のかためとなりて、天の下を輔くる方にてみれば、またその相違ふべし」と言ふ。
解説
物語では夢や予言が重要な役割を果たす。ここでは予言である。この高麗人は「湖月抄」の段階では朝鮮半島の国を指していると考えられていた。それを否定したのが本居宣長である。本居宣長は醍醐天皇の頃に我が国を訪れる高麗人は、中国の東北地方から朝鮮半島の北部を支配した渤海人であると指摘した。それでは行間を読む。
そのころ、高麗人の参れる中に、かしこき相人ありけるを聞こしめして
若宮の卓越した美貌と秀才が人々を驚かせていた頃、高麗の国の人達が我が国に来た。「湖月抄」の解釈では朝鮮半島にある高麗、本居宣長は渤海を高麗といったとする解釈である。その高麗人一行の中に、人の顔を見てその人の未来を占う優れた相人が混じっていた。その事をお聞きになった帝はその相人に若宮の顔を見せて、その運命を占わせようと考えられた。
宮の内に召さむことは宇多帝の御戒あれば
宮は宮中内裏のことである。外国の人を宮中に入れることは避ける風習があった。宇多天皇が醍醐天皇に譲位する際に示された 寛平御遺誡(かんぴょうのごゆうかい)には、やむを得ない事情がある場合を除いて宮中に外国人を召してはならない、また会う場合には直接に顔を見せるのではなく、すだれ越しに会うべきと書かれている。
帝は密かに第二皇子を遣わして相人に合わせた。
御後見だちて仕うまつる
若宮の身分を隠し、その後見人である右大弁を同行させた。相手には右大弁の子供であると思わせて占わせた。
相人おどろきて、あまたたび傾きあやしぶ。
高麗の相人は若宮の顔を見てひどく驚いた。とても右大弁の子とは見えず、甚だ高貴なお方だと見て取ったからである。そして何度も首をかしげて、不思議がる。
「国の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。朝廷のかためとなりて、天の下を輔くる方にてみれば、またその相違ふべし」
このお方には国の親となって、天皇という最高の位にて昇るであろう優れた人相がある。ただし天皇になる相だと思ってではなく見ると、国が乱れ国民だけでなくこのお方も苦しまれる人相がある。それならば天皇ではなく臣下として、天皇を補佐する政治家となって摂政関白の地位に昇る人相かと見れば、それも違っている。
とても曖昧な言い方である。この予言は二通りの解釈ができると「湖月抄」は説明している。
光源氏が天皇になれば国が乱れる。ここまでは問題はない。その後 朝廷のかためとなりて、天の下を輔くる方にてみれば、またその相違ふべし の、その相違ふべし の解釈が
二通りある。
A説は天皇ではなく摂政関白として天皇を助ける役割かと見れば、それも違うという解釈。もう一つのB説は、天皇になれば国が乱れるが、天皇を補佐する摂政関白になれば人相が変わってきて、国が正しく治まるという解釈である。本居宣長は二つの内、A説が正しいと述べている。高麗の相人の予言は、臣下の道を選べば悪しき人相が消えるというB説ではない。天皇になれば国が乱れるが、かといって最初から臣下になる人相でもないという意味だという。「湖月抄」は解釈が分かれている時には、敢えて一つの解釈に限定せずに対立する説を、
そのまま並列して読者に示している。読者は本居宣長の様に、自分はこう読むと考えれば良いのである。
帝は自分の判断と高麗の相人の予言を勘案して光源氏を臣籍降下させ、源という姓を授けた。ここから源氏の物語が始まった。
さて時が流れた。逝去した桐壺の更衣を忘れられなかったが、亡き更衣と生き写しの女性がいると聞いて入内させた。これが藤壺の更衣である。「源氏物語」のヒロインである藤壺の更衣は、桐壺の更衣と顔や雰囲気がよく似ているという理由で物語に登場する。これが所縁という手法である。藤壺の更衣が初めて登場する場面である。
朗読⑤藤壺の更衣の登場
年月にそへて、御息所の御事を思し忘るるをりなし。慰むやと、さるべき人々参らせたまへど、なずらひに思さるるだにいとかたき世かなと、疎ましうのみよろづに思しなりぬるに、先帝の四宮の、御容貌すぐれたまへる聞こえ高くおはします、母后世になくかしづききこえたまふを、上にさぶらふ典侍は、先帝の御時の人にて、かの宮にも親しう参り馴れたりければ、いはけなくおはしましし時より見たてまつり、今もほの見たてまつりて、「亡せたまひにし御息所の御容貌に似たまへる人を、三代の宮仕に伝はりぬるに、え見立てたつりつけるぬを、后の宮の姫宮こそようおぼえて生ひ出でさせたまへりけれ。ありがたき御容貌人になん」と奏しけるに、まことにやと御心とまりて、ねむごろに聞こえさせたまひけり。
解説
帝は更衣が亡くなってから何年経っても彼女のことを忘れなかった。御息所は「湖月抄」以後、本居宣長によって子供を産んだ妃のことだとする解説が確立した。桐壺の更衣は光源氏を生んだので御息所である。
慰むやと、さるべき人々参らせたまへど、なずらひに思さるるだにいとかたき世かなと、疎ましうのみよろづに思しなりぬるに
帝の悩みである。桐壺の更衣を忘れられない苦しさは、少しは慰められるかもしれないと思って、しかるべき家柄の生まれで、女御や更衣に相応しい女性何人かお召しになったが、顔も雰囲気も人柄も、亡き更衣と似ている人はこの世にはいないのだなと今更ながら思われた。
先帝の四宮の、御容貌すぐれたまへる聞こえ高くおはします
先帝 は前の天皇である。父親か兄であるが今でも突き止められていない。その先帝の四の宮はその美貌が大きな評判となっていた。
母后世になくかしづききこえたまふを
藤壺の母は娘を大切に育てています。
上にさぶらふ典侍は、先帝の御時の人にて、かの宮にも親しう参り馴れたりければ、いはけなくおはしましし時より見たてまつり、今もほの見たてまつりて、
桐壺帝にお仕えしている典侍 は、先帝の御代も宮中に出仕していた。それで先帝の后とも今もお付き合いが続いている。四の宮が幼い頃からそのお顔を拝見しており、大きくなられた今でもほんの一寸ではあるがお目にかかります。その典侍 が桐壺帝にこの様に申し上げた。
「亡せたまひにし御息所の御容貌に似たまへる人を、三代の宮仕に伝はりぬるに、え見立てたつりつけるぬを、后の宮の姫宮こそようおぼえて生ひ出でさせたまへりけれ。ありがたき御容貌人になん」
私はこれまでに今上、先代、先々代と三代に亘って長く宮仕えをしてきました。亡くなられた桐壺の更衣様とお顔が似ておられるお方を、宮中でお見かけしたことは一度もありません。それほど更衣様は卓越して素晴らしいお方でした。所が先帝のお后様が大事に育てておられる姫宮さまは、亡き更衣様とよく似ておられます。
これほど美貌の女性がいるのだろうかとおもわれるまでに、成長しておられます。因みに 三代の宮仕 は、三人の天皇という説と、長く宮仕えしてきたことを誇張しているという説が対立している。三人の天皇の説に立つと、桐壺帝は醍醐天皇を準拠・モデルとしている。光孝天皇が先々代、宇多天皇が先代に当たる。
本居宣長も光孝、宇多、醍醐という三代の天皇だと言っている。
まことにやと御心とまりて、ねむごろに聞こえさせたまひけり。
桐壺帝は典侍の言葉を聞いて、本当にそういう事があるのだろうか、もし亡き桐壺の更衣と似ているのであれば、似ているかどうか確認したいと思い、入内するように申し入れた。
所が藤壺の母后は、桐壺の更衣が弘徽殿の女御にいじめ殺されたことに鑑み、娘の入内には気が進まなかった。その母が死去した後で、藤壺は入内したのである。光源氏は光る君、
藤壺は輝く妃の宮と呼ばれ、美しい男女の好一対として並び称された。
年齢的には藤壺は光源氏よりも5才年長である。藤壺は帝から見たら、亡き妻にそっくりな人であり、光源氏から見れば亡き母にそっくりな人である。死んだ人の命は蘇らないが、
亡き人とそっくりな人は現れる。但し桐壺の更衣と藤壺では、血の繋がりはなく他人の空似である。光源氏は、入内した藤壺が亡き母と似ている人がいうので、自然に藤壺に親しみを感じた。12才で元服し、左大臣の娘・葵上と結婚する。葵上の母は、桐壺帝の妹である。また左大臣の長男である頭の中将は、光源氏の生涯の親友にして、ライバルとなった人物である。光源氏が葵上と結婚した場面を読む。
朗読⑤ 光源氏 葵上と結婚
その夜、大臣の御里に源氏の君まかでさせたまふ。作法世にめづらしきまでもてかしづききこえたまへり。いときびはにておはしたるを、ゆゆしううつくしと思ひきこえたまへり。女君は、すこし過ぐしたまへるほどに、いと若うおはすれば、似げなく恥づかしと思いたり。
解説
行間に込められた人間心理を読み取る。
その夜、大臣の御里に源氏の君まかでさせたまふ。作法世にめづらしきまでもてかしづききこえたまへり。
光る君の元服が宮中で盛大に行われ夜、光る君は宮中から左大臣の家に向かった。左大臣は自分の娘である葵上と光る君との婚儀を盛大に執り行い、婿となった光る君を大切にもてなした。因みに元服の当日に婚礼が行われた前例として、醍醐天皇の第二皇子である保明親王や、村上天皇の第四皇子である為平親王などがいると、「湖月抄」は教えてくれる。
いときびはにておはしたるを、ゆゆしううつくしと思ひきこえたまへり。
思ひきこえたまへり。の主語は左大臣である。ゆゆし という形容詞の意味を、「湖月抄」は ゆえゆえし つまり気品があるという意味で解釈している。それに対して本居宣長は、ゆゆしき大事 という時の ゆゆし であって、格段に優れて可愛らしいという意味であると批判した。こういう語釈に関しては、本居宣長説が正しく現代まで踏襲されている。
きびは は、光る君が痛々しい程に若い様子である。素晴らしい光る君を婿に得た左大臣は、光る君がとても若々しく少年らしく細い体付をしているのに、気品があって可愛らしいと嬉しくなった。
女君は、すこし過ぐしたまへるほどに、いと若うおはすれば、似げなく恥づかしと思いたり。
思いたり は、お思いになっている の イ音便である。父親の左大臣は光る君を婿に迎えたことに大満足なのだが、娘の葵上はそうではない。葵上は自分の年齢が少しばかり、正確には4才上なのである。光る君は12才の少年らしく見るからに若々しいので自分と釣り合っていないのが恥ずかしいと思っている。この様な気兼ねをこれからも葵上は、光る君に対して感じ続ける。
光源氏は5才年上の藤壺を慕っているが、4才年上の葵上とはしっくりいかない。なお後に登場する六条御息所は、「湖月抄」の理解では光源氏より8才年上。
桐壺の巻は、母方から相続した二条院という屋敷を光る君が相続し、藤壺の様な理想の女性と暮らしたいと願う15才までを記して終わる。
「コメント」
この二回で桐壺の巻を終える。一年で「源氏物語」終えるにはこんなベ-スとなろう。読んでいるのは抜粋であるが、その抜けた所は講師の説明と、自分で読むことで理解できる。こうやって「源氏物語」を一年で原文に近い形で読むことが出来るのだ。