240309⑯「死を思う日々」
恋人である資盛が壇ノ浦の戦いで命を絶った後、鎮魂と慰霊の日々を過ごしている。比叡山延暦寺の東の麓、琵琶湖の西岸にある比叡坂本に籠って、資盛の菩提を弔った。この時に夜の星座の美しさに気付くという新しい経験をした。今回は都に戻ってきてからの出来事である。資盛の死別の悲しみは簡単には癒されない。右京太夫は極端に涙もろくなった。
一寸したことで涙が溢れて、その涙が止まらないのである。
朗読① 泣き虫になってしまった私
ことなることなき物語を人のするに、思い出でらるることありて、すずろに涙のこぼれそめて、とどめがたく流めれば、
憂きことの いつも添ふ身は 何としも 思ひあへでも 涙落ちけり
解説
ことなることなき物語を人のするに、
この物語は世間話という意味である。他愛ない世間話に興じている人々を、作者はその会話に加わることなく、近くで黙って聞いていた。
思い出でらるることありて、
聞くともなしに聞いていると、ふと耳にした言葉がきっかけとなって、作者の心には資盛のことが突然に思い出された。
すずろに涙のこぼれそめて、
こぼれそむ は、こぼれ始める という意味である。涙の最初の一滴が落ちた。すずろに は、何となくではなくて最も強い衝動である。突然に心の底からこみ上げ、突き上げてきた感情の渦があったのである。何故そのような強烈な悲しみに突き動かされたか、自分でも理解できない。理由の分かっている悲しみよりも、理由の分からない悲しみの方が何倍も悲しいのである。
とどめがたく流ぬれば、
一度こぼれ始めた涙は一向に止まらず、いつまでも流れ続けたのである。
憂きことの いつも添ふ身は 何としも 思ひあへでも 涙落ちけり
思ひあへでも の 思いあう は、すっきり思い切る、充分に考えてある というのが直訳である。ここは 思ひあへでも と打ち消しになっているので、十分に考えた結果ではなくて、何も考えてないのにという意味になる。思いあう という言葉を、和歌に用いた用例を二つ紹介する。
最初が平安時代の清少納言の歌、次が鎌倉時代初期の慈円の歌である。
朗読② 思いあう を使った 清少納言と慈円の歌
解説
心変わりたる男に言ひつかはしける 清少納言
忘らるる 身のことわりと 知りながら 思ひあへぬは 涙なりけり
慈円
思ひあへず 袖ぞぬれぬる かり衣 かたののみの 暮がたの空
清少納言の歌は、勅撰和歌集の「詞花和歌集」に。慈円の歌は慈円の家集である「拾玉集」に載っている。どちらも涙を詠っている。思いがけぬ涙が故知らず流れてしまうという状況が共通している。
現代語訳
いつの日にか、私は泣く女になっていた。しかも一度泣き始めたら、泣き止まらない女に。ある時は何という事もない世間話を、人が口にしているのを横で聞いていた。その時どういう言葉が、私の心を刺激したのか分からないが、昔の事、はっきり言えば資盛様のことが無性に思い出されたのであった。そうなると涙がこぼれてしまう。そして何時までも涙が止まらなかった。
憂きことの いつも添ふ身は 何としも 思ひあへでも 涙落ちけり
資盛様の亡きあと、私は生きることの辛さを常に感じ続けてきた。私は憂いや悲しみという感情に取りつかれてしまったかのようである。だから他の人ならば何の反応もしないであろう時にも、私の心の奥に住み着いた憂いや悲しみは、一寸した言葉を切っ掛けとして外部に噴出してしまう。私は泣くことを我慢できず、大量の涙となってしまうのである。
次にもう一つ理由の無い涙がこぼれる場面を読む。
朗読③ もう一つの理由のない涙
二月十五日、涅槃会とて人の参りしに、さそわれて参りぬ。行ひうちして、思ひ続くれば、釈迦仏の入滅せさせたまひけむ折のこと、僧などの語るを聞くにも、何もただもののあはれのことに覚えて、涙とどめがたく覚ゆるも、さほどのことはいつも聞きしんど、このごろ聞くはいたくしみじみと覚えてもの悲しく、涙の止まらぬも、ながらふまじきわが世のほどにやと、それは懐かしからず覚ゆ。
世の中の 常なきことの ためしとて 空隠れにし 月にぞありける
解説
二月十五日、涅槃会とて人の参りしに、さそわれて参りぬ。
旧暦二月十五日は釈迦が入滅して、涅槃に入った日である。西行にも以下の歌がある。
ねがはくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃 山家集 続古今和歌集
右京太夫は人にも誘われて、釈迦入滅の日の法要である涅槃会に出掛けた。
行ひうちして
うち行いて と同じ意味である。心を込めてお務めをした。
思ひ続くれば、釈迦仏の入滅せさせたまひけむ折のこと、僧などの語るを聞くにも
お務めの後で、僧侶の法話を聞いた。お釈迦様でも死を免れることが出来ないように、この世は無常であると僧侶は語って聞かせた。それを聞きながら作者は考えた。
何もただもののあはれのことに覚えて、涙とどめがたく覚ゆるも、
もののあはれ という名詞は、もののあはれなり という形容動詞から誕生した言葉である。もの は、無性にとか、訳もなく などのニュアンスを持つ接頭語である。全ての人間はいつかかならず命が尽きるという話を聞いて、作者は心の底から感動したのである。そしてとめどなく涙が溢れてきた。
さほどのことはいつも聞きしんど、このごろ聞くはいたくしみじみと覚えてもの悲しく、涙の止まらぬも
諸行無常、有為転変、会者定離の理は、之まで何度も耳にしてきた。但しこの頃、即ち資盛の没後間もなく、この無常の理を聞くと、いたくしみじみと覚えて物悲しくなった。先程の 何もただもののあはれのことに覚えて、と同じ意味である。
ながらふまじきわが世のほどにやと
無常の運命は他ならぬこの自分にも及んでいる。自分の命もそれほど長くはないだろうと右京太夫は思った。
それは懐かしからず覚ゆ。
資盛の死は悲しくてたまらない。でも自分の命は惜しくはないということである。
世の中の 常なきことの ためしとて 空隠れにし 月にぞありける
「源氏物語」では光源氏の死去が雲隠れに例えられている。月が雲に隠れるのである。今夜は二月十五日なので、空には望月、満月が光っているのだから、月が空の雲に隠れるという比喩がぴったりなのである。
現代語訳
止まらぬ涙と言えば、こういう事もあった。ある年の二月十五日、私は人から誘われて涅槃会に参列した。この日はお釈迦様が入滅された日である。仏前で形の如くお務めをして、その後に法話を聞いた。世の中が無常であること、この世に生を受けたひとは必ず死ぬこと、その運命はお釈迦様でも免れなかったことなどを、僧侶が説き聞かせた。それを聞いていた私は、資盛様の死の事実を思い出し、切羽詰まった感情で心が一杯になった。すると涙がとめどなく溢れてきた。
生ある者は必ず滅す という話は、幼い頃から繰り返し耳にしてきたけれども、聞いていて泣くことはなかった。資盛様が亡くなってしまった後で、私は涙もろくなったのである。一人の人間が死ぬと、その衝撃は他人にも波及する。
死んだ人を思い続ける人の心の中にも、死の種がまかれる。いつの間にか、死ぬことへの恐怖が失われ、その人は死の世界に親近感を抱くようになる。私の残りの命も長くないのだろうかと自分の心に対して尋ねると、死はそんなに悲しいことではありませんという答えが返ってくる。
世の中の 常なきことの ためしとて 空隠れせし 月にぞありける
この世は無常である。この厳粛な真実をお示しになる為に、お釈迦様は満月の光が空の雲に隠れるように入滅された。そして資盛様も又無常の理を明らかにするために入水された。私は死を恐れはしない。
鎌倉時代初期を代表する僧侶である明恵上人も、釈迦の入滅を 雲隠れ と表現した和歌を詠んでいる。
曇る夜に 空隠れする 月なれば ぬらす袖にぞ 影は落つらん
この歌には二月十五日が近付いた頃に、詠んだ歌であるという意味の詞書がある。
朗読④ 同じ境遇の人とのしんみりとした話 歌の交換
殷福門院、皇后宮と申ししころ、その御方に候ふ上臈の、しるよしありて、聞こえ交ししが、行き逢ひて、日暮し物語して帰りたまひぬるなごり、雨うち降りて、ものあはれなり。この人も、ことにわが同じ筋なる事を思ふひとなり。なつかしくもあり、さまざまそれも恋しく思ひ出でられて、申しやる。
いかにせむ ながめかねぬる なごりかな さらぬだにこそ 雨の夕暮れ
返し
ながめわぶる 雨の夕べに あはれまた ふりにしことを いひあはせばや
解説
この場面に解説をつけるとすれば、もう一人の私とでもなる。ある女房が宮仕えをしていて、平家の公達の一人と恋仲になったが、その恋人は都落ちした後、恐らく壇ノ浦で命を失った。
殷福門院、皇后宮と申ししころ、
殷福門院 は、後白河天皇の第一皇女 亮子内親王のこと。歌人として有名な式子内親王や平家討伐の令旨を出した以仁王と同じ母親から生まれている。小倉百人一首に次の歌が選ばれた。
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかわらず
その御方に候ふ上臈の、しるよしありて、聞こえ交ししが、
殷福門院に仕えている上臈、身分の高い女房で作者の右京太夫と交流のある女房がいた。但し彼女の名前は書かれていない。
行き逢ひて、日暮し物語して帰りたまひぬるなごり、雨うち降りて、ものあはれなり。
作者は偶々出合った。そして一日中たっぷり話をして別れた。彼女が帰った後も、右京太夫はしみじみとした情緒に浸っていた。二人が話し合った内容が、しんみりとしたものだったのだろう。
この人も、ことにわが同じ筋なる事を思ふひとなり。
資盛と交際していたように、彼女も平家の公達と交際していたのである。
なつかしくもあり、さまざまそれも恋しく思ひ出でられて、申しやる。
右京太夫は彼女が自分の分身であるように思われてならない。親近感を感じた作者は彼女に歌を送った。
いかにせむ ながめかねぬる なごりかな さらぬだにこそ 雨の夕暮れ
ながめかねぬる の、ながめ にはぼんやり物思いにふけるという意味と、長く降り続く雨という意味が掛詞になっている。
下の句に さらぬだにこそ 雨の夕暮れ とあるのは、ただでさえ雨の夕暮れは物寂しいのに、ましてあなたと会って話をした後では、一層というニュアンスである。彼女から返事があった。
ながめわぶる 雨の夕べに あはれまた ふりにしことを いひあはせばや
ふりにし の部分に、雨が降る と、古くなるという意味の 経る が掛詞になっている。
ふりにしこと は、今では過去になってしまった出来事、つまり平家全盛時代のことである。
現代語訳
現在殷福門院と申し上げている亮子内親王様、後白河天皇の皇女が皇后宮と申し上げていた頃、即ち寿永元年1182年の頃であるが、皇后宮にお仕えしていた身分の高い女房がいた。その人は私とはしかるべき関係があって、入魂の中であった。私はその人とある所で偶然に出会った。そうなると一日中語り合うことになった。暗くなったのでその人が帰って行かれた。無性になごり惜しく感じられた。しかも雨が降っていたのでしみじみとした気持ちになり、私は感傷的になった。その人は私とよく似た境遇なのだった。平家の公達の一人と深く愛し合う仲となり、平家一門の都落ちで生き別れとなり、壇ノ浦で愛する男性と死別したのだ。私と同じ様な恋の喜びと、恋の苦しみを経験した方なので、親近感が感じられる。私は資盛様と二人で過ごした時間が、あれやこれやと思いだされて仕方ないが、それはその人も同じであろう。
その人は私の分身、いやもう一人の私であろう。私はその人に歌を送った
いかにせむ ながめかねぬる なごりかな さらぬだにこそ 雨の夕暮れ
あなたとはもっと私達が幸せであった日々の思い出を、語り尽くしたかった。あなたがお戻りになった後、もうどうやって時間をやり過ごせばよいのか分からなくなった。ただでさえ、雨の日の夕暮れは淋しいが、あなたとお別れして後の私は、降る雨をぼんやり眺めながら、悲しく空を眺めています。その人から返事があった。
ながめわぶる 雨の夕べに あはれまた ふりにしことを いひあはせばや
私の方からも、懐かしいあの頃の思い出をあなたともっともっと語っていたかった。今は雨を降らせている空をぼんやり眺めながら、あなたと同じ様な淋しさを感じています。また機会があれば、昔の思い出を語り尽くしたいものです。
平家の一門が女性たちに齎した悲しみは、女人哀史などと呼ばれる。平家全盛の頃から、女たちは悲しい運命と戦ってきた。右京太夫は資盛を襲った歴史悲劇を胸に秘めて生きている。「建礼門院右京太夫集」は、これからしばらく死を見つめた和歌を何首も書き記す。死を生きる、或いは死と共にいきるのが、彼女の人生となったのである。
朗読⑤ ほととぎすの初音を聞く
四月二十三日、明けはなるるほど、雨少し降りたるに、東の方、空にほととぎすの初音鳴きわたる、めづらしくもあはれに聞くにも、
明け方に 初音聞きつる ほととぎす 死出の山路の ことを問はばや
あらずなる 憂き世のはてに ほととぎす いかで鳴く音の 変らざるらむ
解説
ほととぎすの鳴く初音の出来事である。四月二十三日 この様にはっきりと日付が書いてあるからには、この日が誰かの命日、即ち祥月命日だと考えるのが自然である。但し月命日なのかも知れない。右京太夫にとって最も大切な命日は、資盛の命日である。壇ノ浦の戦いは三月二十四日であった。
四月二十三日は、資盛の月命日ということになる。月命日である二十四日は、眠れない夜を過ごしているのであろう。
無論、別の人の命日の可能性もある。
明けはなる 空がすっかり明るくなることである。
その夜の作者は夜通し起きていたが、おもわず寝込んでしまった様である。ハッと我に返ると、空は明るくなっていた。
雨が少しだけ降って、しめやかな雰囲気の朝、東の空からほととぎすの鳴き声が聞こえてきた。初音とあるので、今年初めて聞くほととぎすであった。
めづらしくもあはれに聞くにも、
思いがけなくほととぎすの初音を聞いて、珍しく、かつ、しみじみとした気持ちになった。ほととぎすは人間の世界と死者の世界を、自由に行き来できるとされる。人間の世界と死者の世界の境目にあるのが、死出の山である。右京太夫はこの死出の山を歌に詠んだ。
明け方に 初音聞きつる ほととぎす 死出の山路の ことを問はばや
三月二十四日は、資盛様の月命日の前日、私は今年のほととぎすの初音を聞いた。ほととぎすは死んで冥途に行く際に越える死出の山を自由に行き来できると言われる。人間の世界と死者の世界の両方を知っている。ならば、ほととぎすに尋ねたい。資盛様は今、死者の世界でどのようにお過ごしであるのか。右京太夫はもう一度、ほととぎすの歌を詠んだ。
あらずなる 憂き世のはてに ほととぎす いかで鳴く音の 変らざるらむ
この世界は全く変わってしまった。私も変わり、資盛様も変わってしまった。それにも拘らず毎年耳にするほととぎすの声だけは、どうして昔と変わらないのだろうか。
年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず という言葉があるが、花だけでなく鳥も又毎年同じ声で鳴くのである。「建礼門院右京太夫集」は、ここから後、亡き人を偲ぶ歌が連続して配列されている。五月二日 と始まる場面は、作者の母親の命日について語られている。
朗読⑥ 母の命日の法要
五月二日は、昔の母の忌日なり。心地なやましかりしかど、手など洗ひて、念仏申し、経読む。法師呼びて、経読ませて、聴聞するにも、また来む年の営みは、えせぬこともやと思ふにも、さすがあはれにて、袖もまた濡れぬ。
別れにし 年月日には 逢ふことも こればかりやと 思ふかなしさ
解説
五月二日は
作者の亡き母の命日なのである。
心地なやましかりしかど、手など洗ひて、念仏申し、経読む。
この日の体調は良くなかった。資盛との悲劇の悲しみが作者の健康を蝕んでいたのである。けれども作者は心を奮い起こして、手を洗ってお清めをして、心を込めて念仏を唱え、母の菩提を弔った。また自分でもお経を唱えた。
法師呼びて、経読ませて、聴聞する
法師を呼んで正式なお経を読んで貰い、法話を聴聞したのである。作者は法師の唱えるお経を聞きながら、自分はいつまで生きていられるだろうかと不安になった。
先程の 心地なやましかりしかど、 という部分が生きてくる。
また来む年の営みは、えせぬこともやと思ふにも、さすがあはれにて、袖もまた濡れぬ。
仏事を営むにつけても、来年の五月二日に、又めぐってくる母の命日を、私は施主、主催者として滞りなく執り行えるだろうかという不安があった。それというのも作者の命は、後一年持つとはとても思えなかったほど弱っていたからである。
亡き人の魂をこの世で弔ってくれるものが、一人もいなくなってしまえば、亡き人の魂はどうなってしまうのか。それを思うと、今年の命日をきっかけとして、母への思い故に濡れていた袖がまた、新しい涙で濡れてしまうのであった。
別れにし 年月日には 逢ふことも こればかりやと 思ふかなしさ
命日はこれからも巡ってくるが、私が仏事を営めるのは今年が最後かも知れない。そう思うと悲しさがこみあげてくる。
恋人の資盛はかつて都落ちに際して、言い残したことがあった。自分は死を覚悟しているが、死んだ後の菩提をあなたに弔って欲しい。自分を忘れずに菩提を弔ってくれる人がいるという安心感が、死んでいく人の最期の拠り所なのである。そしてその資盛の命日が巡ってきた。
朗読⑦ あの人が亡くなった日。私が死んだあとは、あの人の命日はどうなるのであろうか。
弥生の二十日余りのころ、はかなかりし人の、水の泡となりける日なれば、例の心ひとつに、とかく思ひ営むにも、わがなからむのち、誰かこれほども思ひやらむ。かく思ひしこととて、思ひ出ずべき人もなきが、堪へがたく悲しくて、しくしくと泣くよりほかのことぞなき。わが身のなくならむよりも、これが覚ゆるに、
いかにせむ わが後の世は さてもなほ 昔の今日を 問ふ人もがな
解説
弥生の二十日余りのころ、はかなかりし人の、水の泡となりける日なれば、
弥生の二十日余りのころ、 は、三月下旬二十日過ぎということである。資盛が海に身を投じて死んだ、壇ノ浦の戦いは3月24日であった。命の儚さは、水の泡に例えられるが、資盛が文字通り海の水に身を投げたのであった。
例の心ひとつに、とかく思ひ営むにも、
平家滅亡の後、作者は源氏の人々の目を意識し、自分一人でささやかに資盛を弔ってきた。
わがなからむのち、誰かこれほども思ひやらむ。
ここの所、目だって健康がすぐれない自分が死んだならば、誰が施主となって資盛を弔うのであろう。自分よりも強く資盛を偲ぶ人間など、この世に存在するとは思えない。
かく思ひしこととて、思ひ出べき人もなきが、堪へがたく悲しくて、しくしくと泣くよりほかのことぞなき。
ここにある しくしくと泣く は現代では広く用いられるオノマトペである。
けれども「建礼門院右京太夫集」以前に しくしくと泣く と書いた文学作品の用例はまだ見付けられていない。「日本国語大辞典」の しくしく の項目には、いきおい泣く、哀れげに泣くさまを表す語とあるが、その用例としては「建礼門院右京太夫集」のこの箇所が挙げられている。
わが身のなくならむよりも、これが覚ゆるに
自分の命が尽きる事よりも、資盛を弔う人が誰もいなくなることの方がずっと悲しい。
いかにせむ わが後の世は さてもなほ 昔の今日を 問ふ人もがな
昔の今日 という表現は印象的である。亡き人の命日は毎年巡ってくる。その都度、その人が亡くなった昔は、今のように感じられるのである。けれどもそれは命日を大切に記憶し弔う人がいて、初めて可能な事なのである。
現代語訳
3月24日は資盛様が壇ノ浦で入水された命日である。25歳を一期として儚い水の泡の様に消えてしまった。資盛様の命日には私は一人で、毎年心を込めて出来る限りの仏事を営んできた。それにつけても、もし私の命が尽きたならば私に変わって、これほどまでに資盛様を弔ってくれるだろうか。私がこれほどまでに資盛様のことを大切に思い、毎年供養していることを誰かが聞いて共感することはあるかも知れない。けれどもその人が、毎年3月24日が資盛様の命日であることを思い出し供養を続けてくれるだろうか。そんなことは望むべくもない。それが耐えきれない程に悲しく、
私はしくしく泣くばかりである。最近私の健康は目に見えて悪化している。来年まで命が持つだろうとは、とても思えない。
でも私は自分が死ぬことなど悲しくはない。私が死んだら資盛様の菩提を弔う人がこの世から誰もいなくなることが悲しいのである。
いかにせむ わが後の世は さてもなほ 昔の今日を 問ふ人もがな
どうしたらよいだろうか。私が死んだ後に、私を弔ってくれる人などいなくても全く構わない。けれども亡き資盛様の菩提を弔う人が居なくなったら困る。誰か私のように資盛様への深い思いを、受けてくれる人がいないものか。
資盛様が壇ノ浦の海に入水した瞬間の無念を、毎年新たにする事が資盛様への最高の供養となるからである。
今回は資盛をはじめとする亡き人を、右京太夫が偲ぶ場面を読んで来た。亡き人を記憶し続ける事の大切さが、ここで強調されている。死者たちは生きている人に記憶されている間はまだ生きている。記憶する人が誰も居なくなった段階で死者となるのである。資盛の死に全身で抗ったのが、建礼門院右京太夫という女性なのであった。
「コメント」
かなり乙女チックな雰囲気になってきた。そもそも、そういう性質の女性であったのだろうが。家庭をなしている訳でもないし、子供がいる訳でもない。単なる愛人だったのに。