240217⑬「平資盛の悲報を聞く」
今回は壇ノ浦の戦いに敗れた資盛が入水して果てたことを作者が聞いた場面を読む。
朗読① 資盛 入水の知らせ 悲しみ1
またの年の春ぞ、まことにこの世の他に聞きはてにし。その程のことは、まして何とかは言はむ。みなかねて、思ひしことなれど、ただほれほれとのみ覚ゆ。余りに堰きやらぬなみだも、かつは見るひとびとにつつましければ、何とかひとも思ふらめと、「心地のわびしき」とて、引き被き寝くらしてのみぞ、心のままに、泣き過ぐす。「いかで物をも忘れむ」と思へど、
あやにくに面影は身に添ひ、言の葉ごとに聞く心地して、身をせめて、悲しきこと言ひ尽くすべき方なし。ただ限りある命にて、はかなくなど聞きしことをだにこそ、悲しきことに言ひ思へ、これに何をか例にせむと、かへすがへす覚えて、
なべて世の はかなきことを かなしとは かかる夢見ぬ 人やいひけむ
ほど経て人のもとより、「さてもこのあはれ、いかばかりか」と言ひたれば、なべてのことのように覚えて、
かなしとも またあはれとも 世の常に いふべきことに あらばこそあらめ
解説
作者の悲しみに寄り添いながら読み進めよう。
またの年の春ぞ、まことにこの世の他に聞きはてにし。
前回読んだ資盛からの最期の手紙が届いた次の年、即ち建暦2年 1185年 (鎌倉幕府設立の年)の春である。資盛が人間の世界からあの世へと旅立ったことを、作者は聞いてしまった。3月29日平家軍は壇ノ浦で源氏に大敗した。資盛は一門の人と共に入水したのである。25歳。2年前の都落ちの頃から、作者の心は乱れていたが、この悲しい知らせを聞いた直後は更に心乱れた。
みなかねて、思ひしことなれど、ただほれほれとのみ覚ゆ。
資盛も作者も一般人も皆、平家一門がこういう最後となるであろうことは予想していた筈である。けれどもそれが現実になると、作者は呆然自失するばかりである。
余りに堰きやらぬなみだも、かつは見るひとびとにつつましければ、何とかひとも思ふらめ
涙が大量に溢れ出てきた。わずかばかりの理性は残っていたようで、泣いてばかりの自分が人様の目には、どう映るだろうと顧みる気持ちもあった。
「心地のわびしき」とて、引き被き寝くらしてのみぞ、心のままに、泣き過ぐす。
こうなったら人目など気にせず、泣けるだけ泣くしかない。人には気分がすぐれませんとだけ言って、作者は夜具を被って泣きながら夜を過ごした。
「いかで物をも忘れむ」と思へど、あやにくに面影は身に添ひ、言の葉ごとに聞く心地して、身をせめて、悲しきこと言ひ尽くすべき方なし。
資盛を忘れられないだろうか。忘れられるものなら、何とかして忘れてしまいたいと思ったが、不可能だった。作者が目をつぶると、資盛の顔が面影に浮かんでくる。目を開けて、誰かを見るとその人が資盛に見える。誰かの言葉を聞くと、それが資盛の声に聞こえてしまう。このような状況が続き、心臓が締め付けられるようで苦しくてならない。
ただ限りある命にて、はかなくなど聞きしことをだにこそ、悲しきことに言ひ思へ、これに何をか例にせむと、かへすがへす覚えて、
作者は普段から人間の死には敏感であった。寿命を全うした人に対しても、あの人が死去したと聞くだけで悲しくなる。
けれども資盛の場合には、寿命が尽きたのではなく、人生半ばにての非業の死である。全くもって前代未聞の死別の悲しさである。
なべて世の はかなきことを かなしとは かかる夢見ぬ 人やいひけむ
生まれてきた人間はいつか必ず死ぬ死は、人間の世界に普通に存在している。まして他人の死に接した場合に、悲しいという感想を口にする。今、私は資盛様の死に向き合って、悲しいと思っている。私の悲しいは他の人の悲しいとは全く次元が異なる。こんな悪夢を見たことの無い人には、私の感じている悲しいという感情は理解できないであろう。
恋人の死という悲しい知らせ聞いた作者の衝撃がこの場面で語られていた。資盛が亡くなったことを知った作者は深い絶望の淵に沈む。
朗読② 悲しみ2
さても今日まで、ながらふる世のならひ心憂く、明けぬ暮れぬとしつつ、流石にうつし心も交り、物をとかく思ひ続くるままに、悲しさもなほまさる心地す。はかなくあはれなりける契りのほどわが身ひとつことにあらず。同じ所縁の夢見る人は、知るも知らぬもさすが多くこそなれど、さしあたりて、例なくのみ覚ゆ。昔も今もただのどかなる限りある別れこそあれ。かく憂きことはいつかはありけるとのみ思ふもさることにて、ただとかく、さすが思ひなれにしことのみ忘れがたき、「いかでいかで今は忘れむ」とのみ思へど叶はぬ、悲しくて
ためしなき かかる別れに なほとまる 面影ばかり 身に添ふぞ憂き
いかで今は かひなきことを 嘆かずて 物忘れする 心にもがな
忘れむと 思ひてもまた 立ち返り なごりなからむ ことぞかなしき
解説
恋人を失った右京太夫の悲しみに寄り添う。
さても今日まで、ながらふる世のならひ心憂く、
それにしても人間の命とは、不思議なものである。平資盛の様に25歳で非業の死を遂げた人もいる。作者は生きるのが辛いので、いっそ死んでしまいたいのだが、今日まで生きながらえている
明けぬ暮れぬとしつつ、流石にうつし心も交り、物をとかく思ひ続くるままに、悲しさもなほまさる心地す。
資盛が亡くなったことを耳にした直後は、ああ今日も長く眠れない夜が明けて朝になった。ああ今日も長く退屈な昼が終わって、夜になったというと言うだけの毎日であった。けれども何時までもこんな事ではよくない、早く立ち直ろうと理性が戻ってきた。但しこの理性は厄介な代物で、冷静に考える時間が作者に戻ってくると、資盛のいない世界を生きる悲しさが強く意識されるのである。
はかなくあはれなりける契りのほどわが身ひとつことにあらず。同じ所縁の夢見る人は、知るも知らぬもさすが多くこそ、
理性で考えてみれば、色々分かってくる。作者が自分一人の特別な悲劇だと思っていた資盛との関係にしても、平家一門の公達と関係し、悪夢を見た女性はほかにもいる。作者の知人にも何人もいる。まして作者の知らない人で、苦しんでいる女性は沢山いるだろう。
なれど、さしあたりて、例なくのみ覚ゆ。
けれども悲劇の当事者である作者は、自分の体験した悲劇の余りの大きさに打ちひしがれているばかりである。
昔も今もただのどかなる限りある別れこそあれ。かく憂きことはいつかはありけるとのみ思ふもさることにて、
寿命が尽きて亡くなる人と、看取るとか寄り添う時間をかけて別れを惜しみあって後の死別である。かく憂きこと は、資盛の入水の様に突然に命を失うことを指している。だからこの文章の意味は、次のようになる。
昔から今まで死別の悲しみは無情の世の避けられない宿命である。けれども病気などの場合には、死に行く側も
看取る側も、準備をしたり覚悟したりする時間があっての死別である。資盛様の場合は、突然の都落ち、戦い、そして入水と言う慌ただしい死別だったので、死に行く側も看取る側も突然の出来事にどうすれば良いのか、見当もつかない死別だった、こんなつらい別れは、今まで長い人間の歴史でもなかったのではないかとしか思えなかった。それも当然のことだろう。
都落ちから壇ノ浦入水まで、2年の年月があったが、それでも当事者には突然の出来事だったのである。
ただとかく、さすが思ひなれにしことのみ忘れがたき、
作者の心の中では資盛が生きている。何かにつけて彼のことを思い出し考えるのが当たり前になっている。どうしても
資盛のことが忘れられない。
「いかでいかで今は忘れむ」とのみ思へど叶はぬ、
資盛がこの世にいない今となっては、どうにかして資盛のことを忘れたいと思うが忘れられない。それが悲しいのである。
一首目 ためしなき かかる別れに なほとまる 面影ばかり 身に添ふぞ憂き
別れは余りにも突然で、前例がないような悲しさだった。死んだ資盛様も残った私も、その死を受け止められなかった。
資盛様はまだこの世に留まり、その面影はまだ私の身に寄り添っている。資盛様の死はまだ確定していない。そのことがむごく感じられる。
二首目 いかで今は かひなきことを 嘆かずて 物忘れする 心にもがな
もがな は、願望を表す。資盛様の死を受け止め認めることが、私には出来ない。もうこうなったら資盛様という人間が生きていた事、そして私と愛し合ったことを丸ごと忘れてしまう事しかない。それが出来るのなら、こんなにも苦しまなくとも済む。
三首目 忘れむと 思ひてもまた 立ち返り なごりなからむ ことぞかなしき
資盛様のことを忘れたいと一度は思った私ではあったが、資盛様が生きていた事実を忘却することは、資盛様を心から愛したかつての自分自身を否定してしまうことである。そんな悲しいことは出来ない。
右京太夫は平資盛への思いを胸に秘めて生きて行く。資盛の生命は失われたが、資盛との思い出を大切にしている。
右京太夫が生きている限り、資盛もまた生き続けていると言えるであろう。
作者は生前資盛から受け取った沢山の手紙を漉き返して、新しい紙にして、そこに貴いお経の言葉を書き記し、亡き資盛の菩提を弔う。
朗読③資盛の手紙を漉き返して、そこにお経を書いて阿証上人に供養して貰う 前半の部分
ただ胸に堰き、涙に余る思ひのもなるも、何のかひそと悲しくて、「『後の世をばかならず思ひやれ』と言ひしものを、さこそその際も心あわたたしかりけめ。またおのづから残りて、あととふ人もさすがあるらめど、よろづあたりの人も世に隠ろへて、何事も道広からじ」など、身ひとつのことに思ひなされて悲しければ、思ひを起こして、反故選り出だして、料紙にすかせて、経書き、またさながら打たせて、文字の見ゆるもかはゆければ、裏に物押し隠して、手ずから地蔵六体墨書きに書きまゐにせなど、さまざま心ざしばかりとぶらふも、また人目つつましければ、疎き人には知らせず、心ひとつに営む悲しさも、なほ堪へがたし。
救ふなる 誓ひ頼みて 写しおくを かならず六の 道しるべせよ
など泣く泣く思ひ念じて、阿証上人の御もとへ申しつけて、供養せさせたてまつる。
解説
右京太夫は亡き資盛が都落ちに際して、残した遺言に 後の世をばかならず思ひやれ とあったことを実践する。作者は資盛が壇ノ浦で入水した瞬間を思いやったのが、さこそその際 という箇所である。慌ただしくて念仏を唱える余裕もなかっただろう。だから生き残った自分が、彼の代わりにお経の文句を唱えて、資盛の菩提を弔ってやりたいと思ったので
あった。
現代語訳
暫くは悲しみが胸からこみ上げ、いくらたっても悲しみが無くならない日を送っていた。やがて悲しい
ながらも、こんな事ではよくない。泣いてばかりでは資盛様の魂も浮かばれないだろうと思うようになった。資盛様は自分はもうすぐ確実に命を失うだろう。そうしたら私が極楽往生できるように菩提を弔って欲しい。それが私のこの世からいなくなった後で、あなたにお願いしたいことだと私に遺言された。壇ノ浦で身を投げて命を失ったと聞いたが、その前後は何かと混乱して、精神を統一して念仏を唱えることが出来なかったことだろう。最後の瞬間に心が乱れていれば、極楽へは行けない。誰かが資盛様の菩提を、心を込めて祈なければならない。それが私の役割だ。無論私の他にも資盛様と関わりのある女性でまだ生きている人も何人もいるであろう。けれども平家一門の滅亡によって、源氏全盛の時代となったので、彼女たちはあらゆる面で世を憚ってひっそりと暮らしているはずである。彼女たちに表立って資盛様の菩提を弔う事もしにくいだろうと私は考えた。資盛様の正室は正二位藤原基家の娘である。私はこれまでは生きている資盛様の愛する女性であった。これからは亡き資盛様を祈る女性として余生を生きて行こう。私は悲しいながらも気力を奮い立たせて、供養の道を進み始めた。その第一歩はお経を書いて供養することだった。お経の有難い文字を書き記す紙は、これまで何年間にもわたって資盛様から届けられた手紙の中から、これはと思うものを選んで経文をしたためる台紙に漉き返させた。その漉いた紙の裏側には資盛様の記された直筆がある程度読める状態で残っている。それを見ると、いたたまれない気持ちになるので、裏側には新たに別の紙を当てて、生前の直筆を隠した。その上に私が自らお地蔵様を六体、墨で描いた。六地蔵は六道で、衆生の苦しみを救うとされている菩薩である。この様に色々とささやかではあるが、自分の出来る限りの追善を、心を込めて行った。但し平家一門の供養なので、親しくない人には一切知らせず自分一人だけで行うのも
悲しく、またしても涙を堪えきれなかった。
救ふなる 誓ひ頼みて 写しおく かならず六の 道しるべせよ
悩める衆生を救ってくださるという地蔵菩薩の請願におすがりして、お経の言葉を書き記し、六地蔵の御姿を描いた。
亡き資盛様が六道を輪廻する苦しみから免れ、極楽に往生できるようにしてください。私は泣きながら心の中でお祈りして、長楽寺 東山 の阿証上人にお願いして供養して頂いた。長楽寺は作者の家から見える東山にある。阿証上人は、阿証房印誓上人のことで法然の弟子である。作者一族と深い関係があるようで、壇ノ浦で救出された建礼門院 平徳子もこの上人に導かれて出家している。
それでは次に資盛の手紙を漉き返した紙、仁王経を記す場面後半を読む。
朗読④ 後半部分
さすがつもりける反故なれば、多くて、尊勝陀羅尼、何くれさらぬことも多く、書かせなどするに、なかなか見じと思へど、さすがに見ゆる筆の跡、言の葉ども、かからでだに、昔の跡は涙のかかるならひなるを、目もくれミーコ衣消えつつ、言はむ方なし。その折、とありし、かかりし、わが言ひしことのあひしらひ、何かと見ゆるが、かき返すやうに覚ゆれば、ひとつも残さず、みなさように認むるに、「見るもかひなし」とかや、源氏の物語にあること、思ひ出でらるるも、「何の心ありて」と、つれなく覚ゆ。
かなしさの いとどせもよほす 水茎の 跡はなかなか 消えむとぞ思ふ
かばかりの 思ひに絶へて つれなくも なほながらふる 玉の緒も憂し
解説
「見るもかひなし」とかや、源氏の物語にあること
とあるが、重要である。
これは光源氏が、亡き紫の上をしのぶ幻の巻を踏まえている。この場面の説明を含んだ現代語訳をする。
現代語訳
この様に資盛様からの手紙を漉いてお経を書いたが、長いお付き合いだったので手紙は大量にあった。罪障を消滅させる功徳があるとされる尊勝陀羅尼や、その他の経文をあれやこれや沢山書き認めた。漉き直す前の紙にあった資盛様の手紙が目に入ってしまうので、なまじ見ないでおこうとおもうのだが、流石に見てしまう。亡き人の懐かしい筆跡を見ると、涙が滲んできてしまう。「源氏の物語」の幻の巻にも、紫の上の生前の手紙を焼いて処分しようとした光の君が涙をこぼしている。その場面には以下にようにある。
いと、かからぬほどのことにてだに、過ぎにし人の跡とみるはあはれなるを、ましていとどかきくらし、それとも見分かれぬまで、降りおつる御涙の水茎に流れ添ふを
紫の上は長い闘病の後に逝去。資盛様は余りにも突然の死去だった。私の涙は光る君の涙よりも、熱く大量だった。
その悲しみは表現のしようもない。それらの手紙の文字を見ていると、この手紙はあの時に貰ったもの、その時にはこんなことがあった。こちらの手紙はこんな時に貰ったもの。その時にはこんなやり取りがあった。私はそういう風に言ったら、資盛様はこんな風にやり返されたなどという記憶が蘇ってきた。胸を引っ掻き回すような痛みを感じる。私は琴をたしなむけれども、琴の演奏技法には爪や撥の裏側で弦を弾く技法がある。私の心の琴線をそれらの手紙の記憶は、かき乱し来るのである。私はそれに耐えられないので、資盛様から届いた手紙は全く漉き返して、お経を書く為に用いることにした。
「源氏物語」の幻の巻には、以下の歌がある。
かきつめて 見るもかひなし 藻塩草 同じ雲居の 煙とをなれ
搔き集めた所で、あの人がいないのだから、見る甲斐もない手紙である。亡き人とおなじ空に上って煙となるがいい。
私にとっても資盛様の手紙はみる甲斐無しであった。何故ならば見ていると苦しみや悲しみが増す
一方だから。光る君は紫の上の手紙を処分して、出家する覚悟を決めた。所が私ときたら悲しいなどと口にしながら、資盛様の手紙を読み返しても生きながらえている。私の心とはこの程度のものだったのかと、資盛様の死去する以前と、何の変わりのなく暮らして居る自分の命が恨めしい。
かなしさの いとどせもよほす 水茎の 跡はなかなか 消えむとぞ思ふ
資盛様の手紙を読むと、私の悲しみは一層かきたてられる。大切な思いの籠った手紙ではあるが、いっそのこと、この文字が消えてしまったら良いとさえ思う時が私にはある。
かばかりの 思ひに絶へて つれなくも なほながらふる 玉の緒も憂し
私はこれほど苦しく絶望の淵に佇んでいるのに、私の命はまだしぶとく生き永らえている。こんな命が辛く感じられる。
作者が生まれた世尊寺家は藤原行成から始まる書道の名門である。作者自身も、作者から依頼されてお経の言葉を書いた人も、心を込めて筆写した事であろう。作者は「源氏物語」幻の巻を引用していたが、幻の巻は亡き紫の上を偲ぶ気持ちが、一年間の春夏秋冬を背景として抒情的に描かれている。「建礼門院右京太夫集」も、季節の推移と共に亡き資盛を思い出し、追悼する作者の姿を描き続ける。
次の場面を読む。
朗読⑤ 資盛のものであった庭園を訪れて
北山の辺によしある所のありしを、はかなくなりし人の領する所にて、花の盛り、秋の野辺など見には、常に通ひしかば、誰も見し折もありしを、ある聖の物になりてと聞きしを、ゆかりあることありしかば、せめてのことに、忍びて渡りて見れば、面影は先立ちて、またかき暗さるるさまぞ、言う方なき。磨きつくろはれし庭も、浅茅の原、蓬の杣になりて、葎も苔も茂りつつ、ありしけしきにもあらぬに、植えし小萩は茂りあひて、北南の庭に乱れ伏したり。藤袴うちかをり、ひとむらすすきも、まことに虫の音繁き野辺と見えしに、車寄せて下りし妻戸のもとにて、ただひとりながむるに、さまざま思ひ出づることなど、言ふもなかなかなり。例のものも覚えぬやうにかき乱る心の内ながら、
露消えし あとは野原と なりはてて ありしにも似ず 荒れはてにけり
跡をだに 形見に見むと 思ひしを さてしもいとど かなしさぞ添ふ
東の庭に柳桜の同じ丈なるを交ぜて、あまた植え並べたりしを、ひととせの春、もろともに見しことも、ただ今の心地するに、梢ばかりは、さながらあるを、心憂く悲しくて、
植えて見し 人はかれぬる あとになほ 残る梢を 見るも露けし
わが身もし 春まであらば 尋ね見む 花はその世の ことな忘れそ
解説
北山の辺によしある所のありしを、はかなくなりし人の領する所にて、花の盛り、秋の野辺など見には、常に通ひしかば
今は亡き資盛様は本邸とは別に別荘を北山に持っていた。現在の鹿苑寺金閣の辺り。見どころのある庭造りが施されていて、春の花の盛り、秋の野原の風情など四季折々の趣を拝見するために、作者は毎年この別荘に足を運んでいたのである。その別荘は、現在はある聖・上人の所有になっていたが、作者は最後の見納めにと思って訪れた。手入れが行き届いていた庭が荒れ果てて、浅茅が原、蓬が沢となっていた。
鳴けや鳴け よもぎが杣の きりぎりす 過ぎゆく秋は げにぞかなしき 後拾遺集 曽根好忠
という歌を踏まえている。草の蓬が山の木々の様に高くそびえているという誇張表現である。
ひとむらすすきも、まことに虫の音繁き野辺と見えしに、
とある部分は、「源氏物語」の柏木の巻を踏まえている。亡き柏木を偲ぶ場面で、
君が植えし ひとむらすすき 虫の音の 繁き野辺とも なりにけるかな
という古今和歌集の歌が引用されている。
右京太夫は亡き資盛を、源氏物語の悲劇の貴公子であった柏木と重ね合わせて追慕しているのである。そして資盛をなつかしむ歌を二首詠んだ。
一首目 露消えし あとは野原と なりはてて ありしにも似ず 荒れはてにけり
資盛様の命が露の様に儚く消えてしまった様に、資盛様が愛された別荘の庭は、まるで野原の様になってしまった。
手入れの行き届いていた庭が、元の姿を忘れさせるくらいに荒れ果てている。
二首目 跡をだに 形見に見むと 思ひしを さてしもいとど かなしさぞ添ふ
今生の思い出に資盛様と一緒に鑑賞した庭を眺めて、資盛様との思い出に浸ろうとここにやってきた。いざ別荘に来てみると、思い出されることがあまりにも多くて、悲しみが倍加してしまう。作者は資盛の別荘の東の庭も訪れた。そこでは柳と桜がおなじ高さに揃えられ、巧みに織り交ぜて植えられているので、春になると見事な
光景が見られる。そこで二首詠んだ。
一首目 植えて見し 人はかれぬる あとになほ 残る梢を 見るも露けし
かれる は、木が枯れると人が遠ざかる・いなくなるとの掛詞である。桜の木と柳の木を美しく植えて鑑賞しておられた、この別荘の主はもうこの世を去ってしまった。でも残された木は、枯れもせず残っている。その梢を眺めていると、私の袖にも露・涙がこぼれてしまう。
二首目 わが身もし 春まであらば 尋ね見む 花はその世の ことな忘れそ
もしも私の命が次の春まであるのだったら、再びここを訪れよう。私が資盛様と二人で眺めたこの東の庭は見事であった。花の方も自分たちを喜んでくれた人がいたことを忘れてはいけないよ。
次は作者が資盛の本邸の跡地を訪れる場面を読む。
朗読⑥ 資盛の本邸の跡地を訪れて
また物へまかりし道に、昔の跡の煙になりしが、礎ばかり残りたるに、草深くて、秋の花ところどころに咲き出でて、露うちこぼれつつ、虫の声々乱れあひて聞こゆるも悲しく、行き過ぐべき心地もせねば、しばし車をとどめて見るも、いつも限りにかと覚えて、
またさらに 憂きふるさとを かへりみて 心とどむる こともはかなし
解説
心に滲みる文章である。
いつも限りにかとという言葉は、
自分の命も、いつまでこの世にあるのだろうかという意味かも知れないが、作者と資盛の心の絆が何時まで続くのだろうかという意味で解釈したい。
現代語訳
今、資盛様の別邸の思い出を書いたが、私は資盛様の本邸の跡でも懐旧に耽ったことがある。ある時に一寸した所用があって、牛車に乗って外出したことがある。その途中たまたま、資盛様の本邸であった跡地を通りかかった。今、跡地と書いたのは平家一門は都落ちに際して、自分たちの住んでいた屋敷を焼き払ってから退去したからである。今は秋なので、草が深く生い茂り所々には秋の花が咲いていた。一面の草と花は、露に濡れそぼち、虫たちが鳴いている。この廃墟を前にして私の心は悲しく乱れ、ここを立ち去る決心がつかなかった。長いこと牛車を止めて眺めていた。
またさらに 憂きふるさとを かへりみて 心とどむる こともはかなし
この荒れ果てた ふるさと は、かつて私を幸せにしてくれた場所。今は悲哀と絶望を痛感させる場所。この
場所に立って昔と今の違いに涙しつつ、時を過ごすのは何と儚い事だろう。
現代訳でも触れたが、平家一門は都落ちに際して自分たちの邸宅を悉く焼き払っている。その焼け跡から早くも草花が顔を見せていた。
「コメント」
都では政権が変わるたびにこの様なことが繰り返されてきた。当時の権力にくっついた人たちは栄華の後にいつか必ず、このような憂き目を見るのである。本家だけは傾かないような工夫をしながら、懸命に生きていたのであろう。