240210⑫「一門の人々の最期」

前回は平家一門の都落ちを読んだ。今回は「一門の人々の最期」と題して、都落ちした平家の人々が次々と命を落とす痛ましい場面を読む。

朗読① 平家の人々の悲報の噂

その頃、あさましく恐ろしく聞こえしことども、近く見し人々空しくなりたる、数多くて、あらぬ姿にて渡さるる、何かと心憂く言はむ方なきことども聞こえて、「誰々」など、人の言ひしも(ためし)なくて、

  あはれさは これはまことか なほもただ 夢にやあらむ とこそ覚ゆる

 解説

寿永3年1184年の初春のことである。2月7日 播磨国一の谷の合戦で大きな戦があり、源氏が大勝し平家は大敗した。

あさましく恐ろしく聞こえしことども

都は信じられない程に、空恐ろしい噂でもちきりであった。

近く見し人々空しくなりたる、数多くて、あらぬ姿にて渡さるる

空しく は命を失う事。渡す は戦死した武士の首を衆人環視の中、都大路に渡されて獄門台に掛けること。

一の谷の戦いの五日後、彼らの首が都に届き都大路に晒され、獄門台に掛けられた。「建礼門院右京太夫集」に登場する方々が多い。その数の多さに右京太夫は驚かされた。

何かと心憂く言はむ方なきことども聞こえて、「誰々」など、人の言ひしも(ためし)なくて、

都人たちは誰々の首が渡されたなどという噂で騒然としており、作者は無性に心苦しくて、言いようのない絶望に陥った。平家一門を襲った悲劇は、これまで前例のない程の悲惨さ、苛烈さであった。

  あはれさは これはまことか なほもただ 夢にやあらむ とこそ覚ゆる

ああなんていうことか。これはとても現実とは思えない。やはり夢、しかも(たち)の悪い悪夢であろうとしか私には思えない。右京太夫の心の乱れが和歌の音律にも反映している。五句 とこそ覚ゆる と が入り込んでいる。

 

この一の谷戦いで、平重衡が生け捕りになり、都に連れてこられた。この部分を読む。

朗読② 平重衡 捕虜になる

重衡の三位中将の、憂き身になりて、都にしばしと聞こえしころ、「ことにことに、昔近かりし人々の中にも、朝夕なれて、をかしきことを言ひ、またはかなきことども、人のためは、便宜に心しらひありなどして、ありがたかりしを、いかなりける報いぞ」と心憂し。見たるひとの、「御顔は変らで、目もあてられぬ」など言ふが心憂く、悲しさ言ふ方なし。

  朝夕に 見なれ過ぐしし その昔 かかるべしとは 思ひてもみず

 かへすがへす心の内おしはかられて

  まだ死なぬ この世のうちに 身を変へて 何心地して 明け暮らすらむ

 解説

宮廷女房達の人気者だった平重衡の、変わり果てた姿が印象的である。

重衡の三位中将の、憂き身になりて

生け捕りされて捕虜になったこと。重衡は一の谷の戦いで捕虜になり、討ち死にする以上の恥辱を受けたのである。

戦死した人たちの首が都大路に渡された翌日の2月14日、重衡が乗った牛車が簾を上げられて、都大路を渡された。

都にしばしと聞こえしころ、

世間の噂では、いづれ鎌倉に護送されるだろうが、ひと月位は都に留置されるようだという事であった。作者は心の中で思った。

「ことにことに、昔近かりし人々の中にも、朝夕なれて、をかしきことを言ひ、またはかなきことども、人のためは、便宜に心しらひありなどして、ありがたかりしを、いかなりける報いぞ」と心憂し

重衡は中宮職の仕事を務めていたので、朝に夕に中宮の御座所に足を運び、女房たちとも楽しい冗談や恐ろしい怪談に興じ、また些細な事でも便宜を図ってくれたり、滅多にないような立派な人であった。この様に悲しい目に合われたのは、どういう前世からの因縁でこういう報いを受けることになったのだろうか。作者は重衡に降りかかった悲劇を、わがことのように辛く思うのであった。

見たるひとの、「御顔は変らで、目もあてられぬ」など言ふが心憂く、悲しさ言ふ方なし。

重衡が罪人として都大路を渡される姿は、作者にはとても見ることは出来なかった。けれども実際に見た人の何人から話を聞いた。それによれば、お顔は都落ちする以前と全く変わっていなかった。

囚われの身であることが、囚人に晒されてとても正視できなかったという。作者もどう言えば良いか分からない程、辛くて悲しくなった。この後、右京太夫の歌が二首ある。

一首目  朝夕に 見なれ過ぐしし その昔 かかるべしとは 思ひてもみず

中宮の御座所で、朝に夕に何度もお会いしていた平家一門の全盛期には、まさかこのお方がこのような憂き目にあわれようとは、思いもよらなかった。

 かへすがへす心の内おしはかられて

けれども本当に辛いのは、作者ではなく重衡の方である。その心の内を思いやると、本当に痛ましくなる。

二首目 まだ死なぬ この世のうちに 身を変へて 何心地して 明け暮らすらむ

人間はこの世での寿命が尽きたならば、来世では輪廻転生する定めである。所が重衡様はまだ生きている内に、極楽から地獄へと二つの世を体験された。誠に痛ましい。

身を変へて は、重衡が輝かしい光の世界に生きる人間から、暗い闇の世界で生きる人間に、転落したことを指す。彼の華やかだった過去を知る人間にとっては、光と影の余りの落差が痛ましく感じられる。更に平家一門を襲う悲劇は続く。作者の恋人である資盛の兄、維盛が自ら命を絶った。戦場ではなくて、熊野の沖で入水したのである。

 

又維盛の三位中将の話を読む。

朗読③ 維盛の三位中将、熊野にて身を投げる

また、「維盛の三位中将、熊野にて身を投げて」とて、人の言ひあはれがりし。いづれも、今の世を見聞くにも、げに

すぐれたりしなど思ひ出でらるるあたりになれど、際ことにありがたかりし容貌(かたち)用意、まこと昔今見る中に、(ためし)もなかりしぞかし。されば、折々には、めでたひとやはありし。法住寺殿の御賀に、青海波舞ひての折などは、「光源氏の例も思ひ出でらるる」などこそ、人々言ひしか。「花のにほひもげにけおされぬべく」など、聞こえしぞかし。その面影はさることにて、見なれしあはれ、いづれもと言ひながら、なほこと覚ゆ。「同じことと思へ」と、折々は言はれしを、「さこそ」といらへしかば

「されど、さやはある」と言はれしことなど、数々悲しとも言ふばかりなし。

  春の花 色によそへし 面影の 空しき波の 下に朽ちぬる

  かなしくも かかる憂き目を み熊野の 浦わの波に 身を沈めける

 解説

「源氏物語」の光源氏に例えられた平維盛の華やかな姿を、人々は思い出して涙を流した。この場面は解説を含んだ現代語訳する。

 現代語訳

悲劇は伝播し連鎖する。世間の噂では、維盛様が讃岐国屋島にある平家の陣地を抜け出して、高野山で出家し熊野の沖で入水して命を終えたとの事である。27歳であった。この方は私の思い人である資盛様の兄君である。人々は維盛様の死に対して同情している。平家一門には優れた人材が多かった。平家以外の公卿や殿上人たちを眺め渡しても、掛値なく傑出していたと思う人が多かった。維盛様はその中でも一際抜きん出でいた。滅多にないような美貌に加えて、心配りも行き届いていた。嘘、偽りなく、私がこれまでで知り合った殿方の中で、比類のない貴公子であった。

だからこそ何か催しがある限り、維盛様の素晴らしさを皆が一人残らず賞賛してきた。法住寺殿で、後白河院の五拾の賀が催されたのは、安元2年1176年の3月。維盛様は19歳で青海波の舞を披露した。「源氏物語」も紅葉賀の巻で、光源氏が頭の中将と共に青海波を舞ったことが賞賛され、人々は口々に、今日の維盛様の舞はさしずめその再現と見えるでしょう、などと褒めそやした。又人々はその「源氏物語」の花の宴の巻には、光源氏の花の様な美貌の前には、藤の花でも負けてしまうと書いてあるが、維盛様の素晴らしさを目の当たりにすると、成程と納得できるとなどと噂したものである。この様な特別な晴れの儀式で、私が何度も見てきた維盛様の面影が浮かんでくる。

その訃報に接して、悲しいのは当然のことである。親しくお付き合いしてきた平家一門の方々の多くが亡くなって、どの方の訃報が最も悲しいという区別はないが、やはり維盛様が亡くなったという知らせはとても悲しく心に応える。維盛様が私に向かって、あなたが付き合っている資盛は私の弟だから、私の事を資盛と同じ様に思いなさいと何回も言われたことがある。私はそのように思っていますと答えると、心の中ではそう思っていないな などと言われたことなど、色々な記憶が蘇ってくる。悲しいという言葉ではとても形容できない。

    春の花 色によそへし 面影の 空しき波の 下に朽ちぬる

維盛様が青海波を見事に舞った時、人々は賞賛して、深山(みやま)()の中の桜や梅に例えたと伝えられる。そのような美貌が

青海波ならぬ那智の青い波の下に沈んだのかと思うと、何とも言えない悲しさを感じる。

   かなしくも かかる憂き目を み熊野の 浦わの波に 身を沈めける

維盛様は痛ましいことだ。この様な悲惨な目を見られて、わかめが浮いているという熊野の浦の波の下に我が身を投じられたことよ。

 

「源氏物語」紅葉賀の巻で、一の院の五十の賀に際して、青海波を舞った光源氏と、後白河院の五十の賀で、青海波を舞った平維盛とが並び賞されている。その維盛が戦場を抜け出し、熊野の海に身を投じたのである。作者の歌の二首は、

憂き目 には、辛い目を見ると み熊野 の掛詞。又憂き目 の 目 には、 わかめ という意味も掛けられている。

 

さて平家一門の公達が次々と命を失う中で、作者の恋人である資盛は何とか命永らえた。その資盛と作者は必死の思いで連絡を取り手紙を交わす。

朗読③ 作者と資盛との交信 前半

ことに同じゆかりは、思ひとる方の強かりける。憂きことはさなれど、この三位中将、清経の中将と、心とかくなりぬるなど、様々人の言ひ扱ふにも、「残りて、いかに心弱くやいとど覚ゆらむ」など、さまざま思へど、かねて言ひしことにてや、また何とか思ふらむ、便りに付けて、言の葉ひとつも聞かず。ただ都出でての冬、僅かなる頼りに付けて、「申ししように、今は身を変へたると思ふを、誰もさ思ひて、後の世をとへ」とばかりありしかば、確かなる便りも知らず、わざとはまた叶はで、これよりも、言ふ方なく思ひやらるる心の内をも、え言ひやらぬに、このゆかりの草は、かくのみみな聞きしころしも、あだならぬ便りにて、確かに伝ふべきことありしかば、「かへすがへす、かくまでも聞こえじと思へど」など言ひて、

  さまざまに 心乱れて 藻塩草 掻きあつむべき 心地だにせず

  おなじ世と なほ思ふこそ かなしけれ あるがあるにも あらぬこの世に

このはらからたちのことなど言ひて

  思ふことを 思ひやるにぞ 思ひ砕く 思ひに添へて いとどかなしき

など申したりし

 解説

作者から資盛に宛てた手紙が中心である。歌が三首書かれている。作者の資盛への思いの深さが感じられる。

ことに同じゆかりは、思ひとる方の強かりける。

同じゆかり は一族。ここでは兄弟という意味である。平家一門の人々が相次いで亡くなっていくので、作者は悲しみに暮れている。けれどもやはり心の中では資盛の無事を願い続けている作者にとっては、資盛の兄である維盛の入水の知らせは大きな衝撃であった。

憂きことはさなれど、

私は耳にするのも耐え難い話題であるが、という意味で解釈したい。通説では 憂きことはさなれども 悲しいことはそうではあるが という意味で解釈されている。但し指示語の さ が何を指しているのか今一つ明瞭ではない。そりよりも辛い事柄、辛い出来事という意味で解釈できないかと私は思う。

この三位中将、清経の中将と、心とかくなりぬるなど、様々人の言ひ扱ふ

維盛の入水に先立って、前の年に資盛の弟である清経も豊前国柳浦で入水。世間の人達は、作者が耳にするのも耐え難い話題を盛んに口にしている。戦場で戦って討ち死にしたのではなく、戦わずして自分から進んで投身したそうだなどと噂している。

残りて、いかに心弱くやいとど覚ゆらむ」など、さまざま思へど、

兄の維盛や弟 清経がこういう死に方で先立ったので、兄弟の中で一人この世に残された資盛が、今頃どんなにか心細く感じているだろうかと、作者は様々に思いやるのである。いとど より一層 とあるのは、資盛が都落ち以前から不安を訴えていたからである。作者は資盛が心配でならないが、一方の資盛はどうであろうか。

かねて言ひしことにてや、また何とか思ふらむ、便りに付けて、言の葉ひとつも聞かず。

資盛は都落ちの際、作者に向かって今後一切手紙は出さないのでその積りでと、強く云い残していた。その方針を貫いているのか、他に何か別の理由があるのか、ともかく平家一門から都の人に寄せられる便りに便乗して、作者に連絡を取ることはなかった。いや一度だけ一寸したつてがあった様で、作者に手紙を寄せた。それには、かねて言い置いたように、今では都落ちする以前とは別人になっている。私だけでなくあなたも私の事をそう思って、私の後世を弔って欲しいとだけ書いてあった。あっさりした内容である。こういう手紙を貰うと、作者の心配は却って高まるのである。

確かなる便りも知らず、わざとはまた叶はで、これよりも、言ふ方なく思ひやらるる心の内をも、え言ひやらぬに、

けれども、作者の方から資盛に返事を書こうにも確実なつてがある訳ではないので、自分から資盛あてに手紙を届けるすべはない。作者は溢れる思いを何とかして伝え、資盛を励ましたくとも、手紙を届けるすべがない。この様な状況が続いたのである。

このゆかりの草は、かくのみみな聞きしころしも、あだならぬ便りにて、確かに伝ふべきことありしかば、

ゆかりの草 は一族、兄弟。寿永三年になって、資盛の兄である維盛が入水したことが都人に噂として広まった。その頃確実に資盛に連絡を取れるつてが見つかったので、作者は思い切って手紙を書いた。以下手紙の文面になる。

かへすがへす、かくまでも聞こえじと思へど」など言ひて、

何度もあなたに手紙を書きたいと思うものの、あなたの御心を乱すまいと我慢していたが、到頭書いた。作者はそう書いた後、二首の歌に思いの全てを託した。

一首目 さまざまに 心乱れて 藻塩草 掻きあつむべき 心地だにせず

海草を掻き集めることと、作者が手紙の言葉を書きしたためることの掛詞。更に言えば 藻塩草  もし の部分に、文字という意味も掛けられている。沢山の事をあなたに伝えたい一心で、手紙を書くまいという自制心を失い、到頭手紙を書き始めました。するとその途端に、私の筆は止まった。様々な思いをどのような言葉で書き記せば良いのだろうか。

ありきたりの言葉では、表現できない深い思いを、あなたが都に居なくなってから私とは心の中に貯め込んできた。海人が藻塩草を一生懸命に搔き集めるように、私も文字を心の奥底から見つけだして、搔き集めることにする。深くて複雑な心は、散文ではなく和歌で訴えるしかなかったのである。

二首目  おなじ世と なほ思ふこそ かなしけれ あるがあるにも あらぬこの世に

あなたと私は遠く離れて生きている。二人とも生きている間は、私たちは同じ一つの世界で生きている。けれどもその世界たるや、資盛様たち一門の方々が幸福に暮らして居た世界ではなくなっている。あなたは既に生ける死者と仰っているし、あなたと離れて生きる私も又、生きているという実感がなくて死んだも同然です。

この二首を作者は資盛に伝えたかったのである。

このはらからたちのことなど言ひて

作者は手紙の結びとして、維盛や清経の悲劇について書き、資盛の兄弟は入水したけれども、資盛だけは生きていて欲しいと書いた、するとその思いが三首目の歌を生み出した。

三首目 思ふことを 思ひやるにぞ 思ひ砕く 思ひに添へて いとどかなしき

ご兄弟の相次ぐ最期で、あなたの心を痛めているのではないかと遠くから思っています。二人が一緒にいるのであれば、語り合うことで、あなたの心の痛みが小さくなることもあるでしょう。けれどもそれは不可能なので、あなたの苦しみはまさる一方でしょうし、私も又自分自身の苦しみに加えて、あなたの抱えている苦しみが加わって、どうしようもなく苦しんでいます。

 

作者は切羽詰まって資盛に手紙を書いた。それでは資盛と手紙を交わす場面の後半を読む。資盛からの返事である。

朗読④ 作者と資盛との交信 後半 資盛の歌

返事、さすがにうれしきよし言ひて、「今はただ身の上も今日明日のことなれば、かへすがへす思ひとぢめぬ心地にてなむ、まめやかにこのたびばかりぞ申しもすべき」とて

  思ひとぢめ 思ひきりても たちかへり さすがに思ふ ことぞ多かる

  今はすべて 何のなさけも あはれをも 見もせじ聞きも せじとこそ思へ

先立ちぬる人々のこと言ひて

  あるほどが あるにもあらぬ うちになほ かく憂きことを 見るぞなしき

とありしを見し心地、まして言ふ方なし。

 解説

返事、さすがにうれしきよし言ひて、

資盛からの返事が届いた。資盛は都落ちに際して、今後は一切手紙は書かないと遺言していた。都での華やかな自分の記憶を捨て去る為に、都に残している人々に手紙は書かないし、都の人々から来た手紙を読まないと固く誓っていた。それでも流石に兄弟が二人も入水するという出来事で、心がくじけそうになっていた資盛は、作者の手紙を嬉しく思ったのである。但し資盛の文面は再び素っ気ない文面に戻る。

「今はただ身の上も今日明日のことなれば、かへすがへす思ひとぢめぬる心地にてなむ、まめやかにこのたびばかりぞ申しもすべき」とて

自分の命の終わりが今日か明日かに迫っていると資盛は書いている。「伊勢物語」125段に見られる在原業平の辞世の歌 つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを という歌が連想される。

一の谷で敗れた平家一門は、讃岐国屋島に陣地を構える。一の谷の戦いの翌年、源義経が屋島を攻撃する。義経と梶原景時の論争、義経の弓流し、那須与一の扇の的はこの戦いのエピソ-ドである。そしてすぐに壇ノ浦の戦いになる。

屋島の戦いでも敗れた平家一門は、壇ノ浦で滅亡する。資盛の手紙は、屋島の戦いの前の年に書かれた。右京太夫が三首の歌送ってきたので、資盛も律儀に三首を返した。これが文字通りの資盛の辞世の歌となった。

一首目   思ひとぢめ 思ひきりても たちかへり さすがに思ふ ことぞ多かる

どんなに自分の命をあきらめよう、未練を断ち切ろうとしても、流石に様々な執着が湧いてきてしまうと率直に詠っている。ここでも さすがに という言葉が印象的である。

二首目   今はすべて 何のなさけも あはれをも 見もせじ聞きも せじとこそ思へ

先立ちぬる人々のこと言ひて

資盛は自分より先に死んでいった兄と弟のことにも触れている。

三首目 あるほどが あるにもあらぬ うちになほ かく憂きことを 見るぞなしき

この ある は、生きている ということである。自分はまだ生きているのだが、生きている実感が無いと吐露している。

とありしを見し心地、まして言ふ方なし。

これは資盛からの手紙を受けとった作者の気持ちである。それでは資盛から+の手紙の場面を現代語訳する。

 現代語訳

資盛様からの返事はあった。手紙は書かないし、読まない積りと言っていたが、流石に嬉しかったとあったので、私も胸を撫でおろした。資盛様はそれに続けて、但し私は命が尽きるのが今日か明日かに迫っている。業平の辞世

つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを という歌が、身に滲みる。あなたには何度も言って来た事だけど、私は生きるという事を諦めている。本当にこの手紙があなたへの最期の手紙になると記してあった。

私が三首の歌を送ったので、資盛様も三首歌を返してくれた。

一首目 思ひとぢめ 思ひきりても たちかへり さすがに思ふ ことぞ多かる

この世界で人間として生きることは既に諦めたし、希望も断念した。それでもふと気付いてみると、また都にもどれたらとか、なつかしい人との再会出来たらなどと都合の良いことを考えたりする。人間の願望というものは尽きることがない。

二首目 今はすべて 何のなさけも あはれをも 見もせじ聞きも せじとこそ思へ

こうなってみれば、いつ自分の最期が訪れても、心を乱さない準備をしておかねばならない。心をかき乱す願望がむくむくと頭をもたげてこないように、こんなに情愛の籠った言葉も、心に滲みる言葉も耳には入れない積りである。自分より先にこの人間社会と決別した兄弟二人のことにも触れ、その思いを歌に詠んでいた。

三首目 あるほどが あるにもあらぬ うちになほ かく憂きことを 見るがなしき

私は既に生ける死者である。何故ならば私の体は生きているが、心は既に死者の世界に入っているからである。私の弟の清経も兄の維盛もやはり生ける死者であったが、私より一足先に死せる者となった。その知らせを聞いた私は悲しい気持ちになった。悲しいと感じるのは、まだ私が本当に死ぬ覚悟が出来ていないからだろう。この歌を読んだ私の心は、言いようのない悲しみとなった。

 

資盛は確実に迫りくる死を前にして、心の中に大いなる悩みを抱えている。右京太夫が普段から読み馴れている筆跡で書き送ってきたのだろうか。心の状態は文字に現れるという。資盛の最期の手紙はどういう筆跡で記されていたのだろうか。例えば「源氏物語」で柏木が生前に書いた最後の手紙は、「筆の跡、浜辺についた鳥の足跡の様に乱れていた」とされている。

 

「コメント」

 

この期に及んでまだ通信の機会があったとは。結構リスクだね。平家一門は都落ちから、もう戦意が感じられない。