231104⑬「鎌倉と都の往復書簡集④息子たちとの贈答」

今回は鎌倉に滞在している阿仏尼が、都の人々と交わした往復書簡集で、阿仏尼が冷泉家の未来を託した二人の子供たち 為相・為守とのやり取りを読む。先ずは為相との往復書簡の前半を読む。

朗読①為相との往復書簡 その1

夏の程は、あやしきまでおとづれ絶えて、おぼつかなきも一方ならず、都の方は志賀の浦波立ち、山・三井寺の騒ぎなど聞ゆるにも、いとどおぼつかなし。辛うじて、八月二日ぞ、使い待ち得て、日頃取りおきたる人々の御文ども、取りあつめて見つる。

 侍従宰相の君のもとより、五十首の歌、当座に読みたりけるとて、清書(きよがき)もしあへず、下されたる。歌もいとおかしうなりにけり。五十首に廿八首(てん)()ひつるあやしく、心の闇にひが目にこそはあるなれ。その中に

  心のみ (へだ)てずとても 旅衣 山路かさなる (おち)の白雲

とある歌を見るに、この旅の空を思ひおこせて詠まれたるにこそはと、心をやりてあはれなれば、その歌の(かたわ)らに、文字小さくて、返しをぞ書きそへてやる。

  恋ひしのぶ 心やたぐふ 朝夕に 行きては帰る (をち)の白雲

  解説

夏の程は、あやしきまでおとづれ絶えて、おぼつかなきも一方ならず、

弘安3年 1280年の夏は信じられない程、都と鎌倉の音信が途絶えていた。その状態が長く続いたので、阿仏尼の心の中では不安が高まった。

都の方は志賀の浦波立ち、山・三井寺の騒ぎなど聞ゆるにも、いとどおぼつかなし。

山 は比叡山延暦寺である。又おぼつかなし。 という言葉が使われている。都から遠く離れた鎌倉にいるので、状況が全く分からず心配なのである。阿仏尼の聞いた噂では、都近くの 志賀の浦 琵琶湖の西岸でも大波が立ち騒ぐように、比叡山延暦寺の僧兵たちが、三井寺 園城寺に攻め入ったという事であった。史実ではこの年の524日と62日に大きな乱闘があった。都に残っている人たちは無事だろうかと阿仏尼は不安に駆られたのである。

八月二日ぞ、使い待ち得て、日頃取りおきたる人々の御文ども、取りあつめて見つる。

やっとのことで秋の中秋、八月二日になって、待望の都からの手紙を携えた人が鎌倉に現れた。この夏の間に、都の人々が阿仏尼に宛てて書き綴った何通もの手紙は、この使いのもとに預け置かれていたのである。阿仏尼は早速受け取った手紙の束を纏めて読み始めた。

侍従宰相の君のもとより、五十首の歌、当座に読みたりけるとて、清書(きよがき)もしあへず、下されたる。歌もいとおかしうなりにけり

侍従宰相の君 は阿仏尼が生んだ子供で、亡き夫の為家が和歌の才能を期待していた為相の事である。この為相のために、阿仏尼は鎌倉まで下って裁判を戦っているのである。侍従宰相の君 とあるが、為相が宰相 になったのはこれから30年近く後の事である。そこで本文を 侍従為相の君 とする写本もある。

我が子 為相からの手紙には、50首の和歌を詠んだので母上の御目に入れますと書いてあった。清書するのももどかしかったのかその為、久し振りに鎌倉への使者が立つ直前に50首が詠まれたので、推敲の暇がなく慌てていたのか、走り書きの様に書き記されていた。俊成・定家・為家と三代に亘った御子左家の和歌の才能が、果たして為相に伝わっているか、最初は不安に駆られていた阿仏尼であるが、為相の50首を読み始める内に安堵感で満たされた。

歌もいとおかしうなりにけり は、為相の歌から受ける印象がとても良いという誉め言葉である。大人びた和歌を詠める様になった為相の成長が、母の目には嬉しく思われたのである。この時為相は18才。

五十首に十八首(てん)()ひつるあやしく、心の闇にひが目にこそはあるなれ。

(てん)()ひつる とは、和歌の上級者が初心者の歌を批評して、良いと思った歌に長い点を打って、印をつけることである。

阿仏尼は息子の為相が詠んだ50首の内、何と18首に合格点を付けたのである。1/3以上の歌が優れているというのである。他の本には50首に28首、全体の56%が良い歌だったとある。阿仏尼は自分でもこれは甘すぎると思った様である。僻目、即ち母の欲目で息子に対して甘くなっているのかもしれないと反省した。藤原兼輔に次の歌がある。

  人の親の 心は闇にあらねども 子を思ふ道に 惑ひぬるかな  後撰和歌集

子ゆえの闇である。阿仏尼の辛辣な批評眼が曇っているのかもしれない。阿仏尼が合格点をつけた歌の中で、特に心を打たれたのが次の一首であった。

  心のみ (へだ)てずとても 旅衣 山路かさなる (おち)の白雲

私の心は東下りをしている母上に付き従って共に旅をしている積りであるが、私の体は心ならずも旅姿の母上とは離れ離れになっている。二人の間をいくつもの山が隔てているが、あの遠い所に見える白雲の下を、今頃母上は旅をしておられるのだろうか。この歌を見た阿仏尼は

この旅の空を思ひおこせて詠まれたるにこそはと、

この歌は旅をしている時の私を都から思いやって詠んだのだろうと感じた。しかも為相が母である私を思う状況を離れて、一般的な旅の歌として鑑賞しても優れている。遠くへ旅に出た人を思う、都人の心が感動的に詠われているからである。

心をやりてあはれなれば、その歌の(かたわ)らに、文字小さくて、返しをぞ書きそへてやる。

為相の優しい心根が胸にしみた阿仏尼は、その歌の横に小さな文字で返歌を書き添えて送り返すことにした。

  恋ひしのぶ 心やたぐふ 朝夕に 行きては帰る (をち)の白雲

旅をしている母親の立場から詠まれている。

高い空を漂う雲には、私の心が乗り移っている。私の体は東へと向かい、刻一刻とあなたのいる都から遠く離れていく。

けれども私の心が乗り移った雲は、朝 東から西へつまり都の方へと向かい、夕方になると再び都から東へと戻ってきて、再び私の体に収まるのである。雲が空を東西に移動しているように、阿仏尼の心も都へと移動しているというのである。母と子の心が通い合っている。

それでは為相の往復書簡の後半を読む。

矢張り為相から送られて来た歌の後で、阿仏尼はそれに対する返事の歌を書き添えている。

朗読②為相との往復書簡 その2

又同じ旅の題にて、侍従の歌に、

  かりそめの 草の枕の 夜な夜なを 思ひやるにぞ 袖も露けき

とある所にも、又返事を書きそへたり。

  秋深き 草の枕に 我ぞなく ふり捨てて来し 鈴虫の()

又この五十首の奥に、言葉を書きそふ。大方(おほかた)の歌ざまなどを記しつけて、奥に、昔人(むかしびと)の事を、

  これを見ば いかばかりとか 思ひつる 人にかはりて ()こそ泣かるれ

と書きつく。

 解説

又同じ旅の題にて

又これも旅の題で詠まれた為相の歌が、阿仏尼の心を打った。

  かりそめの 草の枕の 夜な夜なを 思ひやるにぞ 袖も露けき

夜露を凌ぐだけの、いや夜露さえも凌げない様な粗末な旅の小屋で、旅の途中の母上は横になっておられることでしょう。

母上の旅衣は夜露で濡れるだけでなく、都に残っている私達を思う悲しみでも、濡れそぼっている事でしょう。それを想像するだけでも、都の暖かい部屋で寝ている私の袖までも、大量の涙で濡らしてしまうのです。この歌の横にも阿仏尼は返歌を書き添えた。

  秋深き 草の枕に 我ぞなく ふり捨てて来し 鈴虫の()

秋の深まる中、東下りの旅をしながら、仮の草枕を結んで一夜を明かしています。周りの草原では、まるで鈴が打ち振られているかのように、鈴虫が盛大に鳴いている。私も又都にふり捨てて、残してきた可愛い貴方たちの事を思い、心の限りに泣いています。

為相の歌に比べると、阿仏尼の歌は少し複雑で、物語的になっている。為相の歌には、心がこもっているが、いささか単純である。

そこで阿仏尼はの縁語で 鈴虫 と詠み加えたらどうかと、さりげなく助言しているのである。

ふり捨てて

 ふり には、 をふるが、掛詞になっていて、歌に深みが出ている。為相は才能のある子供だから、母の教えを理解したことであろう。

又この五十首の奥に、言葉を書きそふ。大方(おほかた)の歌ざまなどを記しつけて、奥に、昔人(むかしびと)の歌、

いささか、意味が取りにくい文章である。

昔人(むかしびと)の歌、

俊成・定家・為家の三代を指すのであろう。

さて、為相の50首を読み終えた阿仏尼は、最後の余白に講評を書き記した。為相の歌の姿が、全体的に優れていることを誉めると同時に、今後気を付けるべき留意点を書き添えた。その最後には、為相の先祖たちが求めてきた歌の道を理解し、更に発展させるようにという希望を書いた。先祖の俊成・定家・為家の中でも、父親である為家は為相の歌人としての成長を、どんなに喜んでおられることであろう。そういう気持ちを歌にして、為相への手紙を締めくくった。

  これを見ば いかばかりとか 思ひつる 人にかはりて ()こそ泣かるれ

為相よ。この50首は素晴らしい出来栄えでしたよ。私が都にいなくとも、あなたは歌の道に精進しているようで、母も安心です。私は思わず嬉し泣きしてしまったが、よく考えてみたら、私に乗り移っている父・為家の魂が私の体を借りて、うれし泣きをしているのだと気付いた。

十六夜日記は、母と子との往復書簡のスタイルで、互いに相手を思いやる母と子の姿を書き留めたものである。

 為相と鎌倉

その冷泉為相だが、母である阿仏尼が亡くなった後、鎌倉に何度も下り、細川庄の所有権を勝ち取った。時に1313年。

阿仏尼が鎌倉に下ったのが、1279年だったので、34年目の勝訴であった。鎌倉幕府滅亡は、1333年だったので、20年後に迫っていた。

為相は鎌倉では、藤ヶ谷(ふじがやつ)に住んだ。音読みすると、トウコクである。それで為相の歌集は、藤谷(とうこく)和歌集」という。時には地名のままで、「(ふじ)()(やつ)和歌集」と呼ばれることもある。

藤谷(とうこく)和歌集」から、為相が詠んだ旅の歌を3首紹介する。

 朗読③ 冷泉為相の歌 三首 「藤谷和歌集」より

三河国 八橋にて、

  降りにける なほよみかけて 八つ橋の 後は水行く 川谷もなし

遠江国 小夜の中山を越え侍るとて

  波高き 小夜の中山 あかなくに 坂越えらで 返り見るかな

同じ国の見付という所にて

  我ぞ泣く 稻さはそえの 浜千鳥 あと踏みつけし 昔思へば

 解説

三首とも旅の歌である。為相は母の起こした裁判を受け継ぎ、鎌倉へ向かう途中、かつて母が鎌倉に下った時に、「十六夜日記」に書き記した土地を通ったのである。八橋 も小夜の中山 も 見付 も、「十六夜日記」に出てきた。

阿仏尼は「十六夜日記」の旅の記録を、為相に読ませている。それによって、旅の歌の詠み方を学習した為相は、母への感謝を込めて歌を詠んだのだと思う。

 

所で「藤谷(とうこく)和歌集」には、もみじを詠んだ歌があり、様々な現象を生み出した。

(ぎょう)() という人物が、室町時代の歌人として知られているが、「北国紀行」という紀行文を残している。そこに鎌倉の(むつ)()にある称名寺が登場し、為相の和歌が引用されている。それでは最初に為相の和歌を詠み、その後で

(ぎょう)()の「北国紀行」を読む。

朗読④ 為相の和歌 (ぎょう)()の 「北国紀行」

まず為相の歌である。

  いかにして この一本(ひともと)に しぐれけん 山に先立つ 庭のもみじ葉

次に(ぎょう)()の「北国紀行」である。

同じ頃(むつ)()金沢(かねざわ)を見るに、乱山重なりて島となり、青松(せいしょう)そばだちて海を隠す。神霊絶妙の勝地なり。

金沢(かねざわ)に至りて称名寺といへる率の寺あり。昔、為相卿

  いかにして この一本(ひともと)に しぐれけん 山に先立つ 庭のもみじ葉

と侍りし後は、この木青葉にて厳冬まで侍る由、聞こゆる。楓樹(ふうじゅ)朽ち残りて仏殿の後に侍る。

 解説

冷泉為相の歌と (ぎょう)() の「北国紀行」の一節であった。(ぎょう)() は為相よりも150年位後の人物である。その頃まで為相の伝承は有名だったのである金沢(かねざわ) は現在 金沢(かなざわ) と呼ばれる。(ぎょう)() の文章は漢文調なので、

(かね) という。(ぎょう)() は称名寺という真言律宗の寺の仏殿の前で、楓樹(ふうじゅ) かえでの木を見た。その木は青葉のままで、厳冬 冬になっても、赤くならないのである。その(いわ)れが為相の歌にあった。

  いかにして この一本(ひともと)に しぐれけん 山に先立つ 庭のもみじ葉

山の楓はまだ赤く色づいていないのに、この木だけは美しく紅葉している。時雨が降ると楓の色が赤く染められるという。ならばどうしてこの一本の木だけ、時雨が降ってこんなに見事な紅葉となったのだろう。

冷泉為相は称名寺の楓の紅葉の美しさを誉めている。褒められたら嬉しくて、ずっと美しい赤を見せ続けてもよさそうなものだが、この木は為相から褒められてから以後は赤くならずに、冬になっても青葉のままにとどまったのである。

その理由を説明したのが、謡曲の「六浦」である。

謡曲の「六浦」では、諸国一見の僧が六浦の称名寺に差し掛かる。周りの山は見事な紅葉なのに、本堂の前の楓の木だけは夏の様な青葉である。不思議に思った僧は、里人に尋ねる。この人物こそ青葉の楓の精であった。

 

里人は次のように語った。謡曲「六浦」は省略、大意は以下。

旅の僧が東国行脚の途中、相模国六浦の称名寺を訪ねる。山々の紅葉が盛りの中に、紅葉していない楓の木を見つけ、不審に思う。

そこに里人が現れ、僧がこのことを尋ねると、昔中納言為相卿がこの寺に来た時、山々の楓に先立ってこの木が見事に紅葉しているのを歌に詠んだ。

  いかにして この一本(ひともと)に しぐれけん 山に先立つ 庭のもみじ葉

以来この木は「功なり名遂げて身退くは天の道なり」という古語を信じて、紅葉を止めて常盤木のようになったという。僧はこれを聞いて、里人の素性を尋ねると、自分はこの楓の精だと言って消えた。

 

「功なり名遂げて身退くは天の道なり」

は、中国の老子にある言葉である。我が国の中世文学でも、好んで取り上げられた。功績を上げて名声を博したならば、思い切って引退するのが良い。そうでなければ良くないことが起きるという教えである。称名寺の楓は、冷泉為相から歌に詠まれ、秋に美しく紅葉するということで頂点を極めた。そしてそれを最後に紅葉することを止めたのである。私も文学散歩で称名寺を訪れた時、この楓を見た。

 

それでは「十六夜日記」に戻る。

阿仏尼が末の息子の為守と交わした往復書簡を読む。

朗読⑤ 為守との往復書簡

侍従の弟、為守君のもとよりも、二十首の歌を送りて、「これに点合(てんあひ)ひて、悪からむ事、細かに記し()べ。」
と言はれたり。今年は十六ぞかし。歌の、口馴れはやさしく覚ゆるも、返す返す心の闇と(かたは)らいたくなん。これも旅の歌には、こなたを思ひて詠みけりと見ゆ。下りし程の日記(にき)を、
この人々のもとへつかはしたりしを見て、詠まれたりけるなめり。

  立ちわかれ 富士の煙を 見てもげに 心細さの いかにそひけむ

又これにも返しを書きつく。

  かりそめに 立ちわかれても 子を思ふ おもひは不尽(ふじ)の 煙とぞ見し

 解説

侍従の弟、為守君のもとよりも、二十首の歌を送りて、「これに点合(てんあひ)ひて、悪からむ事、細かに記し()べ。」
と言はれたり

都から久し振りに届いた手紙に、弟の為守からの手紙もあり。そこには和歌の詠草が混じっていた。為守はまだ修養が足りないので、兄の50首の少ない20首であった。為守は、この歌の中に良い歌がありましたら点をつけて下さい。又私の歌の良くない点を具体的に指摘して頂いたら有難く存じますと書いてあった。良いと思った歌に、長く線を引いて送り返してくださいという訳である。これを 点が 合う と書いて 合点(がてん) 或いは合点(がってん) という。阿仏尼はふと息子の年齢が気になった。計算してみると16歳になっていた。これからの数年が和歌の才能が飛躍的に伸びるが伸びないかの境目である。

歌の、口馴れはやさしく覚ゆるも、返す返す心の闇と(かたは)らいたくなん

為守の歌い振りは、和歌的なリズムを先天的に備えていて、才能を感じさせる。

阿仏尼は為守の20首を何度も読み直したが、彼の優美な和歌に対する感動は高まる一方である。これも又、子供を愛する余りの愚かな母の欲目であり僻目(ひがめ)なのだろうか、そう思うと何とも恥じ入るばかりである。無論本心は息子の上達振りが嬉しいのである。

これも旅の歌には、こなたを思ひて詠みけりと見ゆ。

為守の旅の歌も兄爲相と同じ様に私の東下りの旅を、心に思い浮かべながら詠んだのだろうと阿仏尼には思われた。

下りし程の日記(にき)、この人々のもとへつかはしたりしを見て、詠まれたりけるなめり。

阿仏尼が東海道を下った時の旅の記録は、一日ごとの行程として、為守たちにも送って読ませた。為守はそれを熟読して、旅人とは何か、旅の心をどう歌に詠めばいいかを学んだのであろう。そう思うと阿仏尼は自分の関東下向が、早くもその効果を発揮し始めていることに気付き、喜んだのである。「十六夜日記」は和歌の教科書として、息子たちによい影響を及ぼしたのである。その為守の歌である。

  立ちわかれ 富士の煙を 見てもげに 心細さの いかにそひけむ

母上は都を後にして旅立たれ、今は駿河の国を旅しておられるとか。富士の山から細い煙が棚引いて、旅する母上の心を一層心細くさせている事でしょう。気を強く持って旅を続けて下さい。なお母上が送って下さった旅の日録では、富士の山の煙は現在は見られないとのことでしたが、和歌では富士の煙を詠むのが約束事なので、

敢えてそのように詠みました。この歌は母を思う真心が感動的であるだけでなく、技巧的にも優れている。

立ちわかれ  立ち  心細さ の 細さ が、煙 の縁語である。

阿仏尼の返しである。

  かりそめに 立ちわかれても 子を思ふ おもひは不尽(ふじ)の 煙とぞ見し

この歌で阿仏尼は、為守に対して縁語だけではなく、掛詞を用いる様にと助言している。富士の山には煙だけではなく、火が燃えているのだから、火の掛詞を用いて詠んで欲しかったのである。

ほんの短期間で又都に帰るつもりで、私は鎌倉に対して旅立った。思ったよりは長い時間が掛かりそうだが、旅の途中で見た富士の山の煙が忘れられない。あなたが言うように、現実には富士の煙は立っていなかった。

けれども私の心の目には、富士の煙がはっきりと見えました。為相やあなたを守る為に、何でもするのだという強い決意で下向する私の目には、富士山の噴煙がありありと力強く見えた。私の心の中ではあなた達子供を思う熱い気持ちが、火のように燃え上がっているのだから。心の目に見える富士山の煙は、私のあなたたちへの熱い愛情そのものなのです。

 

冷泉為守は為家が68歳の時に生まれた子供である。為守も阿仏尼没後は、鎌倉に住んだとされる。

江戸時代に隆盛を見た狂歌・滑稽な歌の元祖であるとする例証もある。為守は鎌倉幕府の九代執権 北条貞時 と交流があった。

 

「玉葉和歌集」には、貞時との贈答歌が載っている。北条氏は平氏なので、平 貞時 という正式名称で載っている。

朗読⑥ 「玉葉和歌集」の一節

新後撰和歌集にもれて侍りける時。貞時朝臣、(とぶら)ひて侍りければ、藤原為守

  和歌の浦の 友を離れて 浜千鳥 その数ならぬ ()こそ鳴かるれ

返し 平貞時朝臣

  鳴く()をも よそにやは聞く 友千鳥 住む浦ゆへぞ 遠ざかるらん

 解説

新後撰和歌集 は、13番目の勅選和歌集である。新後撰和歌集は1303年に後宇多院に総覧された。冷泉家と対立した二条家の二条為世が中心となって編纂した。為守が除外されたのは、ある意味で当然であった。それを鎌倉幕府の実力者である北条貞時が慰めてくれたのである。二人が 和歌の浦の友千鳥 を歌に詠んでいるので、和歌を通して友情を培っていたのであろう。阿仏尼も為相も為守も、都では二条派が幅を利かせているので、鎌倉に下って、有力武士たちに和歌を教え、活路を切り開こうとしたのである。冷泉家に細川庄の所有権が認定されたのは、この10年後の事であった。北条貞時の次の執権は高時である。「太平記」では、高時が犬追物などにうつつを抜かし、政治を混乱させたのが、鎌倉幕府の滅亡に繋がったと書かれている。阿仏尼の子供たちは、鎌倉幕府の滅亡の直前、南北朝の激動の直前まで生きていた。

 

「風雅和歌集」に為守の辞世の歌が載っている。

朗読⑦「風雅和歌集」に為守の辞世

病かぎりに侍りける時、書きおきける。

  六十(むそじ)あまり (よん)とせの冬の ながき夜に うき世の夢を 見はてつるかな 

  風雅和歌集1984

 解説

死を目前にして、素直に自分の心を読んでいる。胸に迫る辞世の歌である。為守が死んだのは、2歳年上の為相が亡くなったと同じ、1328年であった。こうして「十六夜日記」の往復書簡集は終わった。最後に次のように書いてある。

朗読⑧

都の歌どもこの後多く積もりたり。又書きつくべし。

 現代語訳

こんな風にして私の鎌倉での最初の一年間は過ぎて行った。その後も長い、いや長すぎる鎌倉滞在中に、都と鎌倉との往復書簡集は、更に多くが積み重なったが、それらは又別の機会に紹介することにしよう。

 

これは「源氏物語」などで用いられた省略の 草子地(そうしぢ) という手法である。語り手がこの場面はここで切り上げますと、宣言する手法である。この後も阿仏尼は、鎌倉に滞在した。そして鎌倉と都との往復書簡集はぼう大に蓄積されていったことであろう。「十六夜日記」における鎌倉と都との往復書簡集は、阿仏尼が鎌倉に滞在した最初の一年を記載したものである。この本文の後に安嘉門院四条(女房名) 法名 阿仏 作 東日記 と明記する写本がある。東日記は、鎌倉での滞在日記という意味である。ここで「十六夜日記」は、再び中仕切りされた。

それを承認するかのように、ここで終わってしまう写本も存在する。

 

 

「コメント」
紀行文もそれなりに面白かったが、往復書簡集は和歌を巡る御子左家から発する、一族の争いにも大いに興味がある。そのある意味スタート段階である。阿仏尼のその後、二条家、京極家、冷泉家の主導権争いはどうなっていくのか。そしてどう現在に続くのか。最初は少しウルサカッタ、今は講師の説明も楽しくなった。