231028⑫「鎌倉と都の往復書簡集③京極為子との贈答・下」
前回に続いて優れた歌人である 為子 とのやり取りを読み進める。二条為子と区別する為に京極為子と呼ばれる。彼女とは手紙を全部で5回やり取りしている。前回は三回目まで読んだ。今日は
まず4回目から読む。ここでは初夏の時鳥が話題になっている。最初阿仏尼の手紙が、その後で為子からの返事が書かれている。
朗読① 二人のやり取りを味わう
卯月のはじめつ方、たよりあれば、又同じ人の御もとへ、「去年の春夏の恋しさ」など書き続けて、
見しよこそ 変わらざるらめ 暮れはてし 春より夏に 移る梢も
草も木も 去年見しままに 変らねど ありしにも似ぬ 心地のみして
人よりも 心つくして 時鳥 ただ一声を 今日ぞ聞きつる
「都には 聞きふりすらむ 時鳥 関のこなたの 身こそつらけれ」
とかや申されたる事の候ふな。その例も思ひ出でられ、この御文こそことにやさしく。
など書きおこせ給へり。
解説
卯月のはじめつ方
4月の初旬である。古典文学では4月から夏なのである。阿仏尼が鎌倉に到着したのは、前の年の10月下旬なので、鎌倉で経験する初めての夏である。
たよりあれば、又同じ人の御もとへ、「去年の春夏の恋しさ」など書き続けて、
鎌倉から都へ向かう人がいたので、その人に託して歌仲間である藤原為子に手紙を書いた。季節の挨拶としては
「去年の春夏の恋しさ」 など書き続けて、
去年の春と夏が恋しいと書いた。去年の春と夏、阿仏尼は都にいたのである。そして都で春と夏を満喫していた。今年は鎌倉で初めての春と夏を体験し、都の季節感との違いを痛感したのである。その後で和歌を二首記した。一首目。
見しよこそ 変わらざるらめ 暮れはてし 春より夏に 移る梢も
見しよこそ 変わらざるらめ
は去年自分が見て経験した時の事を指す。都の様子は去年私が見ていた事と変わっていないでしょうね。
暮れはてし 春より夏に 移る梢も
春が終わり、夏になろうとしている季節の変わり目は、木々の梢が最も美しく、心がわくわくする。言外に鎌倉の木々の梢はそうでもないと言っている。この季節感は、徒然草の139段とも通じている。
家にありたき木は、松・桜。・・・・卯月ばかりの若楓、すべて万の花、紅葉にもまさりてめでたきものなり とある。徒然草を書いた吉田兼好は二条派の歌人である。阿仏尼と対立した為氏が起こした二条家の教えを受け継いでいる。為氏の息子が為世。その為世には優れた弟子が四人いて、四天王と呼ばれた。その一人が兼好であった。兼好は阿仏尼よりも少し後の時代を生きたが、阿仏尼と同じ様に
和歌をベースに据えて散文の世界でも活躍した。
阿仏尼が為子に送った歌の二首目。
夏衣 はや裁ちかへて 都人
卯月 4月から夏になるので衣替えをする。都では夏の衣に衣替えして、気分を一新している事でしょう。そして
都人 今や待つらむ 山時鳥
夏の訪れを告げる時鳥が鳴くのを今か今かと待ちわびている事でしょう。
人々の着ている服の色の変化で夏になったことを実感するのは、小倉百人一首の持統天皇の歌にもある。
春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干してふ 天の香久山
昭和43年 1968年 川端康成がノーベル文学賞を受賞した時の記念講演「美しい日本の私」でも道元禅師の和歌が披露された。
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪冴えて 冷しかりけり 正法眼蔵にあり
夏の季節感は時鳥で代表されるのである。
その返し、又あり。
都の為子から鎌倉の阿仏尼に返事が届いた。和歌の贈答は貰った歌に対しては、原則として必ず返事をしなくてはならないル-ルなので、為子も二首歌を書き記している。
見しよこそ 変わらざるらめ 暮れはてし 春より夏に 移る梢も 阿仏尼一首目
それへの返事
草も木も 去年見しままに 変らねど ありしにも似ぬ 心地のみして
阿仏尼が 見しよこそ 変わらざるらめ と詠んでいた部分を 草も木も 去年見しままに 変らねど と言い換えている。
あなたの予想通り、都では何一つ変わっていません。為子は阿仏尼の歌をなぞった上で、阿仏尼の歌になかった部分を新たに詠み加えた。それが ありしにも似ぬ 心地のみして
今年の都の春は、私の目には去年と違うように感じられる というのである。言外にあなたが都にいないので、都の春が例年とは違って淋しいと言っている。巧みな挨拶である。為子からの手紙の冒頭に
打ち捨てられ奉りにし後は、
と入っている写本がある。為子が阿仏尼のいない都の日々を、自分がまるで阿仏尼から見捨てられたかのように淋しく思っている事が強調されている。
夏衣 はや裁ちかへて 都人 今や待つらむ 山時鳥 阿仏尼第二首
それへの返事
さて時鳥の御尋ねこそ
阿仏尼が 都人 今や待つらむ 山時鳥 と詠んだことへの返事である。
人よりも 心つくして 時鳥 ただ一声を 今日ぞ聞きつる
為子は自分自身の時鳥体験を報告している。
人よりも 心つくして
都人は誰かれも時鳥の声を早く聞きたいと待ち望んでいるのだが、この私は他の人よりも何倍も時鳥の声を聞きたいと望んでいるというのである。そのためには時鳥が鳴いている山奥まで出かけるか、夜も寝ないで、鳴くのを待ち続けるしかない。そういう努力をして
阿仏尼の手紙が届いた今日になって初めて、時鳥の声を聞いたのですよ、たった一声だけですが。
言外のニュアンスとして、待ち望んでいた阿仏尼からの手紙が、時鳥の初音を聞いたように嬉しかったと言っている。
この歌もただ一声を ただ二声 とする写本がある。私はただ一声 の方が、ほととぎすの初音を待ち望むきもちが切実に伝わってくると感じられるが、ただ二声 が趣深いとする説もある。私が思うに、阿仏尼の手紙には和歌が二首記されていた。その二首の歌を、時鳥の 二声 に譬えたのかも知れない。
為子は阿仏尼の二首に対して、自分も二首詠んで、贈答歌の礼儀は果たした。
その後自分の感想を書き記した。それは平安時代の風流な貴公子としてしられる藤原実方と、阿仏尼を重ねたものであった。
実方の中将の、五月まで時鳥聞かで、陸奥国より、
「都には 聞きふりすらむ 時鳥 関のこなたの 身こそつらけれ」
とかや申されたる事の候ふな。
実方の中将 は清少納言の「枕草子」にも登場する。その彼がある時、書道の三蹟として知られる藤原行成と口論となり、乱暴な行いをした。それをご覧になった一条天皇は実方の中将を陸奥守として陸奥に左遷した。
天皇は 実方の中将 に向かって 陸奥見てまいれ と命じたと伝えられる。歌人は全国各地の名所には行ったことがなくとも、言葉の連想と想像力で和歌を詠む、だから歌人は居ながらにして、名所を知ると言われる。一条天皇はそれを逆転させて 実方の中将 にお前は歌人だから歌枕を自分の目で見ておくのが良いだろうと仰ったのである。一方一条天皇は、実方の中将 から暴力を振るわれて、泰然としていた藤原行成には蔵人頭に抜擢する。実方の中将 は都に帰ることなく陸奥で没した。これは伝説であるが、陸奥で亡くなった 実方の中将 は雀に生まれ変わって都に飛んで帰ってきたと伝えられる。西行は 実方の中将 の墓に詣でている。
江戸時代の松尾芭蕉も「奥の細道」の旅の途中に、実方の中将 の墓に詣でようとするが、天気が悪くて断念した。
その時の句が 笠鳥はいずこ 五月の ぬかり道。
さて 実方の中将 はこのように様々な伝説や逸話を残しているが、時鳥に関しても有名な逸話がある。
実方の中将 の歌は、阿仏尼の夫である為家が選者を務めた続後撰和歌集に入っている。そこで
続後撰和歌集を読む。
朗読② 続後撰和歌集より
陸奥国に侍りける頃、五月まで時鳥聞かざりければ、都なる人に便りに付けて申しつかはしける。実方の中将
都には 聞きふりぬらむ 時鳥 関のこなたの 身こそ辛けれ
返し
時鳥 勿来の関の なかりせば 君が寝覚めに ますぞ聞かまし 詠み人しれず
解説
都が遠い寒冷地の東北地方では、真夏の五月になってもまだ時鳥が鳴かなかった。そこで 実方の中将 は都の人に手紙を書き、その中に歌を書きつけた。自分は 関のこなた 関所のこっち側にいるので、都では聞き飽きているであろう時鳥の声を聞けない。今の境遇が恨めしい。それに対して 実方の中将 から歌を送られた人は、あなたは勿来の関の向こう側にいらっしゃるから、時鳥の声が聞けないのでしょう。もし勿来の関がなかったら、朝、目を覚ましたら真っ先に時鳥の声を耳にすることでしょうにと答えた。実方の中将の歌の 関のこなた は、逢坂の関とする説がある。
私は続後撰和歌集によって勿来の関と思う。
「十六夜日記」に戻る。為子は 実方の中将の歌を引用した後で、
その例も思ひ出でられ、この御文こそことにやさしく。などと書いていた。
都から東国へと旅立った風流歌人が、夏になっても時鳥の声を聞けずに悲しむという状況が、実方の中将 と阿仏尼とで共通していると指摘している。実方の中将 は赴任先の陸奥で亡くなった。でも阿仏尼には元気で都に戻ってきて欲しいと為子は祈っているのである。
この部分を現代語訳する。
弘安3年1280年の夏に入った。4月の上旬に鎌倉から都に向かう便があったので、又為子に宛てて手紙を書いた。
和歌を通して得た友は年齢を越えて生涯の友となるらしい。去年の今頃は私も都にいた。春や夏には季節の花や鳥などにつけて、彼女とは何かと和歌のやり取りをしていた。再びそのような日々が戻ってきて欲しいという気持ちを文面に書いた。私が彼女に送った歌は二首。一首目。
見しよこそ 変わらざるらめ 暮れはてし 春より夏に 移る梢も
鎌倉の庭の梢が青く繁っている様子を見て、内に湧いてきた思いを詠んだ。
私が不在している都では、去年まで私が当然のように見ていた景色が、今も変わらず眺められるのでしょうね。少しずつ夏へと季節が移り変わっていく繊細な変化は、木々の梢に端的に表れるが、若葉が青葉になっていく景色を私も見たいものである。二首目。
夏衣 はや裁ちかへて 都人 今や待つらむ 山時鳥
夏の景色である時鳥をテーマとしている。
今頃都では人々が爽やかな気持ちで、夏の装いに改めて、山時鳥がいつ鳴くか、早く鳴いて欲しいと待ちわびている事だろう。でもこの東国では山時鳥が鳴き始める気配は全くない。為子からの返事が届いた。私の一首目の返歌。
草も木も 去年見しままに 変らねど ありしにも似ぬ 心地のみして
草花も木々の梢も去年の姿そのものだが、今年は去年まで一緒に美しいと思って、眺めていたあなたが都に居られないのでどこか空虚な都の初夏である。都では時鳥が鳴きましたかというお尋ねですが、それには和歌でご返事しましょうと書いて、私の二首目の歌への返歌が記されていた。
人よりも 心つくして 時鳥 ただ一声を 今日ぞ聞きつる
私は他の人より少しでも早く時鳥の初音を聞きたくて、あれこれ努力したが、まだたった一声を聞いただけである。それもついさっき、今日の出来事である。歌の後に為子は時鳥を詠んだ私の二首目の歌への感想を書いていた。
あなたの時鳥の歌は、平安時代の実方の中将 の故事を踏まえておられるのでしょう。実方の中将 は、一条天皇の不興をかってしまい、歌枕見て参れ と命じられて陸奥国に左遷された。所が東北地方の陸奥国では、夏の盛りの5月になってもまだ時鳥が鳴かなかったので、実方の中将 はそのことを歌に詠んで都の人に送ったとされる。
「都には 聞きふりすらむ 時鳥 関のこなたの 身こそつらけれ」
都ではとっくに時鳥の声を聞き飽きた頃ではないか。それなのに勿来の関のこちら側にある陸奥国ではまだ一声も聞けない。風雅や風流から遠い陸奥での暮らしは、何とも耐え難いことである。この実方の中将 の故事をあなたは踏まえて、鎌倉で霍公鳥が聞けないという歌を私に示されたのですね。何と風雅なお手紙だった事でしょう。こんな風流な為子からの手紙が、鎌倉に届いたのである。
為子との時鳥問答が印象的であった。日本文学は、季節と恋を二つの大きな柱としている。季節の美学は四季の部立てを持つ古今和歌集を源流とする。古今和歌集は全20巻の内、春の上、春の下、夏、秋の上、秋の下、冬というように、季節だけでも6巻を割いている。又恋 にも5巻を割いている。都即ち平安京とその郊外の四季折々の自然が、人々の心に引き起こす複雑で繊細な感情をすくい上げ、言葉に写し取ったのが古今和歌集の季節の歌である。
自然とは霞、天、風などの天体現象、鶯、時鳥、雁、キリギリスなどの動物や虫、桜・紅葉・秋草などの植物が次から次へと現われる。この様な和歌の季節感が、連歌や俳諧の季題へと発達していく。江戸時代の後期には、更に俳諧の歳時記となる。鎌倉時代は武士たちが熱心に都の文化を学んだし、阿仏尼のように都から鎌倉を訪れ滞在した文化人も大勢いた。全国の文化水準が飛躍的に向上し、彼らが詠む和歌は、古今和歌集の季節の美学と恋愛の心理が中心であった。「十六夜日記」で阿仏尼は
見し世こそ かはらざるらめ 暮れはてて 春より夏に うつる梢も
と歌っていた。鎌倉では見ることのできない都の美しい自然を懐かしんでいるのである。
晩春から初夏に移り変わる時期の、木々の梢は都ならではの瑞々しさに満ちている。阿仏尼は都から鎌倉まで旅をしたからこそ、古今和歌集の美学の本質を心の底から理解できたのであろう。
さて時鳥を巡る阿仏尼と為子の往復書簡には後日談がある。そこに為子は登場しないが読んでみよう。
朗読③
さる程に卯月も末になりにければ、時鳥の初音、ほのかにも思ひ絶えたり。人づてに聞けば、「比企の谷」といふ所にはあまた声鳴きけるを人聞きたり」など言ふ。
忍び音は ひきの谷なり 時鳥 雲居に高く いつか名のらむ
などひとりごちつれど、そのかひもなし。もとより東路は、道の奥まで、昔より時鳥稀なるならひにやありけむ、一筋に又鳴かずはよし、稀にも聞くありけるこそ、人わきしけるよと、いと心づくしに恨めしけれ。
解説
阿仏尼は鎌倉で時鳥の声を聞きたいと願っていたが、最後には怒っている。阿仏尼の心の動きをたどる。
さる程に卯月も末になりにければ
阿仏尼が為子に私はまだ時鳥が鳴くのを聞いていないと手紙を書いたのは、前の朗読の 卯月のはじめつ方 であった。
それから時間が経過して4月の下旬になった。約一ヶ月経過。間もなく5月である。むろん5月になっても時鳥は鳴く。
「源氏物語」花散る里の巻でも光源氏は5月の頃に時鳥の声を聞いている。新古今和歌集にも藤原良経の
うちしめり 菖蒲ぞかおる 時鳥 鳴くや五月の 天の夕暮れ
の様に、5月の時鳥を詠んだ歌は多い。ただし和歌では4月には初音を待たれる程少ししか鳴かなかったのに5月になると時を得たかのように、鳴きしきるという内容で詠まれている。阿仏尼は4月の終わり近くになっても、初音が聞けないことに落胆している。
時鳥の初音、ほのかにも思ひ絶えたり。
鎌倉では時鳥の鳴き声は聞けないと絶望したのである。
人づてに聞けば、「比企の谷」といふ所にはあまた声鳴きけるを人聞きたり」など言ふ。
所が阿仏尼は人から時鳥にかんする情報を入手した。それによれば何と比企の谷という所では、時鳥が沢山鳴きかわす声が聞こえるというのである。比企の谷 は現在比企ケ谷 と言われる。鎌倉幕府で重きをなす、後に北条氏から滅ぼされた比企氏が館を構えていた所である。JR鎌倉駅から東へ500Mの所に、妙本寺という寺がある。その周りが比企一族の館である。そのことを教えて貰った阿仏尼は歌を詠んだ。
忍び音は ひきの谷なり 時鳥 雲居に高く いつか名のらむ
空高く飛び上がって大きな声で鳴いて欲しい。月影の谷にいる私の耳にも届くように。地図によると、阿仏尼が住んでいる近くにある極楽寺と比企の谷 妙本寺は直線距離で5KM。
などひとりごちつれど、そのかひもなし。
阿仏尼は期待を込めて歌を詠み、時鳥にさあ鳴きなさいを催促した。「古今集」の仮名序によれば、優れた歌人が素晴らしい歌を詠むと、それが神の心を感動させてよい結果が齎されるとする。それなのに詠んだ甲斐がないという。
無論それはユーモアであろう。
もとより東路は、道の奥まで、昔より時鳥稀なるならひにやありけむ、
ここで阿仏尼は為子との往復書簡で触れていた実方の中将 の歌を思い出す。平安時代の昔から都から遠く離れた東国では、時鳥は少なかったであろうか。ならば仕方ないと結論を付けたのである。生息数が少ないから、鳴き声を聞く機会が滅多にないのだと考えて、阿仏尼は心の平安を得ようとする。けれどもどうしても納得できないのである。
比企の谷 で盛んに鳴いているという情報が、
一筋に又鳴かずはよし、稀にも聞くありけるこそ、人わきしけるよと、いと心づくしに恨めしけれ。
鎌倉では全く時鳥が鳴かないというのならそれでも良い。諦めもつく。けれども鳴き声を聞いた人もいるという。なら時鳥を聞く人を選別して、依怙贔屓していることになる。しかも自分は鳴き声を聞かせて上げなくともよい人に分類されている。
許せない。腹立たしい。むろんこれは本当ではなくて、ユーモアである。時鳥に立腹している演技をしているのである。
現代語訳
そうこうする内に、4月の下旬になった。鎌倉では時鳥がまだ鳴かない。だから私は鎌倉で今年の夏の時鳥の声を聞いていない。一声だけでも聞きたいという願いも諦めた。ただし人から聞いた話では、比企の谷 では時鳥が沢山鳴き交わしているという。私の借り住まいのある 月影の谷 からは3KMの距離である。私は思わず次の歌を独りごちた。
忍び音は ひきの谷なり 時鳥 雲居に高く いつか名のらむ
時鳥は沢山鳴いているといっても、場所が比企の谷であるからには、その鳴き声も低くて注意して聞かないと耳に入らないであろう。鎌倉の時鳥よ、もっと空高く飛び上がって、月影の谷にいる私にも聞こえるように大きな声で鳴いて、今が夏だということを知らせて欲しい。こんな歌を詠んでも、比企の谷の時鳥に分かって貰えるわけでもなく、何の甲斐もなかった。
為子が言う通り、実方の中将の昔から東国には時鳥はほとんど生息していなかったのだろう。けれども鳴かないのなら
徹底して鳴かないのなら、私も我慢できる。たまに比企の谷 で鳴いているのを聞いた人がいると聞くのが癪に障るのである。
時鳥は聞く人に応じて鳴いたり鳴き惜しみしたりしている。無論私は無視されると思うとイライラする。この部分は都との往復書簡集ではないが、直前の為子との往復書簡集からの連想でここに挿入されたのであろう。
「十六夜日記」に戻る。阿仏尼と為子との5回目、そして最後の往復書簡でとなる。最初に為子の手紙と歌があって、
それを受けて阿仏尼が返事をしている。
朗読④
又権中納言の君、こまやかに文書きて、下り給ひし後は歌詠む友なくて、秋になりてはいとど思ひ聞ゆるままに、一人月をのみ眺め明かして。
など書きて
この御返り、これよりも「故郷の恋しき」など書きて
季節の歌である。秋に似つかわしく月が話題になっている。
現代語訳
さて鎌倉と都との往復書簡集も終わりに近づいた。私の鎌倉での滞在が一体何年掛かるのかは予想もできない。光源氏が須磨・明石に滞在されたのは3年だった。私の旅はその何倍もの歳月が掛かるかも知れない。その内の最初の1年の往復書簡集をここに並べてみた。その最後には、年齢を超越した歌の友である為子との交流を書き記す。私が都を発ったのが、十六夜の日であった。鎌倉での借り住まいの月影の谷 にある。為子は月をモチーフとする秀歌を鎌倉まで送ってくれた。彼女は、あなたが鎌倉に下ってからは、私には歌の友がいない、淋しい状態が続いています、今の季節は秋、いよいよ人恋しさが募ります。こういう時に歌をやり取りする好敵手であり、私が密かに先達として仰いでいるあなたの事が、他の季節よりも一層強く思い出される。今も一人で、月ばかりぼんやり眺めながら時を過ごしている。などと書いてその後に歌が記されていた。
東路の空なつかしき かたみだに しのぶ涙に 曇る月影
都の空には、澄み切った秋の夜空に奇麗な月が輝いている。月を見ていると、はるかな東国の空の下で暮らして居るあなたの事が偲ばれてならない。月はあなたを偲ぶよすがであり、形見なのである。その大切なあなたの形見である月が、あなたを懐かしく思う私の涙で曇ってしまい、ややもすれば見えなくしまうのが残念である。
この歌の 空なつかしき という言葉は、何とも新鮮である。「後拾遺和歌集」に相模が詠んだ
五月雨の 空なつかしく 匂ふかな 花橘に 風やふくらむ という名歌がある。
初句を 五月闇 とする説もある。「古今和歌集」「伊勢物語」の
五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする
以来、昔を思い出させるとされる橘の花の香りを詠んでいる。
為子は初夏の花橘ではなくて、秋の月を見て、懐かしい人を思い出したと歌ったのである。
空なつかしき の空が、月と見事に唱和している。さぞや為子の歌の創意工夫であろうと思う。だから私も為子への返事には 空なつかしき と 月 という二つの言葉をそのまま利用した。私も都の人々が恋しく、偲ばれるなどと書いて、その歌を記した。
通ふらし 都のほかの 月見ても 空なつかしき 同じ眺めは
あなたと私は歌の友であるから、年齢は隔たっていても、二人の心は通い合い、同じようなものの見方や感じ方をするようである。私も都を遠く離れた東国で、月を見ながらあなたに早く会いたいとばかり思い続けている。
都と鎌倉で同じ月を見上げながら、あなたと私は全く同じことを考えています。
この五回目の為子とのやり取りが、「十六夜日記」の鎌倉と都との往復書簡集の最後に位置している。阿仏尼が人生の全てを懸けているのが、正しい和歌を守る為の戦いであることを、歌人同志の歌のやり取りで示しているのであろう。
次回は阿仏尼と子供たちとの往復書簡等を読む。
「コメント」
当時の歌人たちの先人の歌、物語への知識の豊富さに驚く。逆に知識のない人は歌を詠んではいけないのだ。果たして現代の歌よみと称する方々は如何かな。