231021⑪「鎌倉と都の往復書簡集②京極為子との贈答」
阿仏尼が都の人々と交わした往復書簡集である。阿仏尼が最も多く手紙を書いたのは、藤原為子という女性である。
歌人として有名である。阿仏尼と為子は互いに力量を高く評価しているので、一流の歌人同志として、打てば響くやり取りをしている。二人は五回、手紙と和歌を交わしている。今回と次回の二回に分けて、阿仏尼と為子の往復書簡集を味わう。先ずは最初の往復書簡である。阿仏が鎌倉に着いてすぐの時期である。この時は為子の弟の京極為兼とも手紙を交わしている。為子の人物紹介もなされている。
朗読①
前の右兵衛督 為教君の女、歌詠む人にて度々勅撰にも入り給へりし、大宮の院の中納言と聞ゆる人、歌の事ゆゑ朝夕申しなれしかばにや、「道の程のおぼつかなさ」など、おとづれ給へる文に、
はるばると 思ひこそやれ 旅衣 涙時雨るる 袖やいかにと
返し、
思へやれ 露も時雨も 一つにて 山路分けこし 袖の雫を
この御兄、中将為兼の君も、同じさまに「おぼつかなさ」など書きて、
故郷は 時雨にたちし 旅衣 雪にやいとど 冴えまさるらむ
返し、
旅衣 浦風冴えて 神無月 時雨るる雲に 雪ぞ降りそふ
解説
藤原為子の父親は 前の右兵衛督 為教 である。御子左家は為家の死後分裂して、嫡流長男の
為氏は保守的な歌風の二条家を起こし、次男の 為教 は、革新的な歌風の京極家、庶流の為相は冷泉家を起こした。為氏は阿仏尼にとって、播磨の国細川庄の所有権を争う宿敵である。
為教 から始まる京極家の人々は阿仏尼達と友好関係にある。その 為教 の娘が 為子 である。為子 は、為家から見たら孫にあたる。為子 は、阿仏尼より見たら世代が下の歌人ではあるが、すでに何度も勅撰和歌集に選ばれたほどの逸材であった。為子 は、大宮院に女房として仕えていた。大宮院は後嵯峨天皇の中宮であり、後深草天皇、亀山天皇の生母である。この大宮院に仕えて、権中納言という女房名を名乗っていた。為子 は、阿仏尼より25歳位若いが、二人は和歌の道の研鑽を通じて通じ合う所があり、遠慮なく頻繁に手紙や和歌を交わしていた。亡き為家も 為子 の才能を高く評価していた。為教 の息子で、為家から見たら孫にあたる京極為兼は、古今和歌集・後撰和歌集・拾遺和歌集の秘説・重要な説を祖父であり、俊成・定家の教えを受けついでいる為家から伝授された。その大切な席に為兼の姉である 為子 も同席していた。なお為兼は後に玉葉和歌集の選者となり、我が国の長い和歌の歴史の中でも、特筆される大きなピークをもたらした。
阿仏尼が鎌倉に到着した直後に、為子 から東路の道中は無事でしたか、私はそのことがずっと気がかりでしたという手紙が届いた。その中に 為子 の和歌が記されていた。
あなたが鎌倉を目指して東海道を下っておられる道中では、幾度となく冷たい時雨に降られた事でしょう。
時雨だけではなく、涙も又あなたが新しく整えられた旅衣の袖をひどく濡らしたことでしょう。
はるばると には、衣を張る 板に張ってピンと仕立てるという意味が掛詞になっている。阿仏尼は
早速返事を書いた。
思へやれ 露も時雨も 一つにて 山路分けこし 袖の雫を
お察しの通りです。木々から滴る露は、目からこぼれる涙そして時雨、この三つが一つになって、険しい山道を進む私の衣の袖をどれ程濡らしたでしょう。あなたの想像する以上でした。為子から届いた手紙には、彼女の 御兄 弟の事。京極為兼の手紙も同封されていた。彼も姉と同じ様な心配を書いた後で、歌を書き添えていた。
故郷は 時雨にたちし 旅衣 雪にやいとど 冴えまさるらむ
たちし が、出発したという意味と、衣を裁つ という掛詞になっている。又雪 が空から降る雪と、衣の ゆき 背中から袖までの長さの掛詞になっている。あなたは懐かしい故郷である都を、新しい旅衣を裁断して、時雨の季節に旅だった。鎌倉に着いた今は、もう冬が深まっている。鎌倉はさぞ雪が降って、あなたの衣の背中は冷たく凍っているだろう。
阿仏尼は為兼に返事をした。
旅衣 浦風冴えて 神無月 時雨るる雲に 雪ぞ降りそふ
鎌倉では浦風が吹き付ける海辺近くに住んでいる。今は10月下旬だが、着ている着物を吹き返す冬風は冷たい。時雨に交じって雪まで降ってくる。
阿仏尼の旅は土地の所有権を守る為だけではなく、歌を守る為でもあったことがここからも理解出来る。鎌倉に滞在中の旅先で詠むべき理想の歌を追い求めているのである。
為子 はこの時、30歳くらいであった。因みに二条家を起こし、阿仏尼と対立した為氏の子供に為世がいる。徒然草を書いた吉田兼好の師匠としても有名である。その為世の娘に 為子 がいるので、藤原為子は二人いる。その為京極為子、二条為子と区別する。
さて京極為子であるが、京極派の代表歌人であり、勅撰和歌集には合計で126首選ばれている。京極派のリ-ダ-である弟の為兼が154首なので、為子 は遜色ない実力者である。次に阿仏尼と 為子 が交わした二度目の往復書簡に入る。和歌が多く書かれていて、壮観である。最初に阿仏尼から 為子 に5首の和歌が送られる。これが力作というか、魅力的な作ばかりである。それに対して 為子 から阿仏尼に返歌が送られて来た。けれども5首貰った歌への返事なのに、4首しか書かれていない。この歌の勝負はどうであったか。
権中納言の君は、まぎるる方なく歌をのみ詠み給ふ人なれば、この程手習にしおきたる歌どもを書きあつめて奉る。
「海いと近き所なれば、貝など拾ふ折々も、名草の浜ならねばかひなき心地して」など書きて
晴れ曇り 眺めぞわびる 浦風に 霞ただよふ 春の夜の月
都人 思ひも出でば 東路の 花やいかにと おとづれてまし
など、ただ筆にまかせて、思ふままに、急ぎたる使とて、書きさすやうなりしを、又程も経ず返事し給へり。「日頃のおぼつかなさも、この御文に、霞晴れぬる心地して」などあり。
たのむぞよ 潮干に拾う うつせ貝 かひある波の 立ちかへる世を
東路の 桜をみても 思ひ出でば 都の花を 人やとはまし
解説
権中納言の君は、
京極為子 の事である。京極家の後継者である為兼の姉である。
まぎるる方なく歌をのみ詠み給ふ人なれば、
為子 は ひたすら歌の道に専念して生きている人と、阿仏尼は賞賛している。阿仏尼は 為子 に親近感を抱いている。自分より25歳も年下だが、俊成・定家・為家の出自だから和歌の才能を開花させ、和歌の道を究めた女性歌人として大成してほしいと期待している。
この程手習にしおきたる歌どもを書きあつめて奉る。
阿仏尼が鎌倉滞在中に所在なさの余りに、心に浮かんできた歌を手習いとして書きしたためたものが、いつの間にかかなりの分量になった。その中から、特に自信作を撰んで 為子 に見せようとおもって送った。「十六夜日記」には5首書かれているが、実際にはもっと沢山送ったかもしれない。
「海いと近き所なれば、貝など拾ふ折々も、名草の浜ならねばかひなき心地して」など書きて
阿仏尼は5首の歌を送るに際して、どういう状況や心境で、これらの歌を詠んだのかを説明した部分である。
私の住まいは海に近い所なので、貝を拾うこともある。けれどもここは鎌倉です。紀州の名草の浜 ではありません。
海が多く拾える歌枕の 名草の浜 であれば、沢山の貝を拾って、心を慰めることが出来るでしょう。でも鎌倉の海では、余り貝を多く拾えない。まさに 拾う甲斐がない 努力した甲斐がない のである。などと書いて自分の歌を、為子 に送った。
いかにして しばし都を 忘貝 波のひまなく 我ぞくだくる
どうにかして恋しい都の事を、少しでも忘れたいと思って忘れ貝を拾おうとしたが、鎌倉の浜辺には忘れ貝は落ちていなかった。ひっきりなしに波が打ち寄せては砕け散っていたが、私の心まで悲しみで砕け散る様に感じられた。阿仏尼は手紙に書き添えて、鎌倉の海で拾った貝を送ったのであろう。
二句目に 浦山風 という珍しい言葉が使われている。和歌は言葉を連ねて出来上がる。どのような言葉に自分の思いを託すのか、その言葉感覚が厳しく問われる。浦山風 という言葉を選んだのは、阿仏尼が野心的な冒険をした結果だと思う。この新鮮な言葉を、若くて才能のある 為子 がどう評価して、どう切り返してくるか、阿仏尼は楽しみにしていた事であろう。こちらに来るまでこんなに激しい山風が、鎌倉の海で吹くことは知らなかった。
けれども春になって、風が伝えてくる匂いは、都で春のあけぼのに慣れ親しんだ風と、よく似ていることに気付いた。
どちらも馥郁とした梅の香りがする。鎌倉の浦にも梅が咲いているのだろう。
晴れ曇り 眺めぞわびる 浦風に 霞ただよふ 春の夜の月
三首目。三句目に 浦風 という言葉が使われている。これは 浦山風 に比べると、一般的に平凡な言葉である。
恐らく阿仏尼は平凡な言葉でも、発想次第で、歌は如何様にも新鮮に詠めるのだという事を、若い 為子 に教えているのであろう。歌の意味は以下。
今宵の空は晴れ渡ったかと思えば、直ぐ曇るようである。その状況を眺めていたら、浦風が吹き渡っているのに気付いた。その風で一体に立ち込めている霞が動き始め、その為に春の月が見え隠れしている。
この歌の場合、浦風は言葉ではあるものの、 霞ただよふ の箇所に工夫がみられる。立ち込めている霞全体が、風に漂っているという見方を提示している。これは阿仏尼の個性的な感覚である。
阿仏尼はこの歌に大きな自信と自負を持っていた事であろう。
東路の 磯山松の たへまより 波さへ花の 面影ぞたつ
ここでは二句目に 磯山松 という新しい言葉が用いられている。阿仏尼は鎌倉に滞在していても、あるべき理想の歌に相応しい言葉を見付けようと努力している。歌の意味。
この東国では磯辺の山風がいつも強く吹いているけれども、一寸した風の絶え間には、波が白いしぶきを上げているのが見える。その白い波頭がまるで、都で見慣れた白い花の様に思える。都の優雅な花の記憶が、目の前の荒々しい鎌倉の海しぶきと重ねられている。
旅に出て知りえた東国の自然が、古今和歌集以来確立されている、優雅な歌の秩序を打ち破り、活性化させるのである。
都人 思ひも出でば 東路の 花やいかにと おとづれてまし
都にいらっしゃる 為子 さま、鎌倉にいる私の事を思い出して下さるのでしたら、きっと東国の春は如何ですか、都にない良い所が何かありますかと尋ねて下さるであろう。素晴らしい歌の返事を待っています。この歌は自分が送る5首の歌に対して、どのような返歌が返ってくるか楽しみにしていますという挨拶である。
など、ただ筆にまかせて、思ふままに、
この様に阿仏尼はひたすら興に乗って不思議な位、新しい言葉が次から次へと心に浮かび、歌になる喜びを次の時代を担う 為子 にしめしたのである。
急ぎたる使とて、書きさすやうなりしを、
鎌倉から都へ向かう使いは急いでいる様子なので、阿仏尼は手紙の中に、自分が鎌倉で試行錯誤している新しい和歌の試みを全部書き切れない不満が残った。
又程も経ず返事し給へり。
為子 は前もそうであったが返事をくれた。それも折り返し直ぐに。
「日頃のおぼつかなさも、この御文に、霞晴れぬる心地して」などあり。
為子 からの手紙には、どうしているかと心配していましたが、お手紙と和歌5首を読んで、すっかり安心しました。新しい言葉を歌に詠むなどお元気そのものですね。立ち込めていた霞が、風の力ですっかり晴れるように、私の心配は雲散霧消したと記されていた。阿仏尼は 為子 からの返歌を読んだ。
いかにして しばし都を 忘貝 波のひまになく われぞくだるる この歌への為子の返歌
たのむぞよ 潮干に拾う うつせ貝 かひある波の 立ちかへる世を
あなたは鎌倉の歌で、忘れ貝が見つからず、中身のないうつせ貝を拾っておられるそうですが、わざわざ鎌倉まで下向して、幕府の問注所で訴訟を起こされた甲斐、効果という貝が見つかって宿願を果たして、都に帰ってこられる日が来ることを私は待っています。これは忘れ貝をうつせ貝に変えて、挨拶する歌である。所が阿仏尼の2首目の歌の二句
浦山風 に対する返歌は何故か書かれていない。浦山風 という言葉が、 為子 には馴染めず、返事が出来なかったのかもしれない。鎌倉でこそ、浦山風 という言葉はリアリティを持つが、都の歌人にはうまく使えなかったのであろう。
阿仏尼の三首目
晴れ曇り 眺めぞわびる 浦風に 霞ただよふ 春の夜の月への返歌
くらべ見よ 霞の中の 春の月 晴れぬ心は 同じ眺めを
鎌倉の霞は晴れる絶え間があったりなかったり、春の月を見せたり隠したり、落ち着かないそうですが、それは都にいる私も同じ事です。きれいさっぱり晴れ晴れしい気持ちになる事はありません。あなたのもやもやと、私のもやもやとを比べて見て欲しいです。為子の 歌の第五句目 同じ眺めを、 という言葉は 慈円の
思い出は 同じ眺めに 映えるなり 心に残れ 春のあけぼの という秀歌を思い出させる。
慈円の 同じ眺め の歌は、京極派の勅撰和歌集である 風雅和歌集に入っている。
阿仏尼の4首目
東路の 磯山松の たへまより 波さへ花の 面影ぞたつへ返歌。
あなたは鎌倉の海で白い波の花が砕け散るのを見ておられる。私は都で白い花が散るのを見ています。同じ様な光景をながめているあなたの御心をよく理解しているつもりです。
あなたの花の様に白いお顔を私はいつも思い浮かべています。又しても阿仏尼の 磯山松 という
言葉の挑戦は肩透かしであった。 為子 の歌の五句 面影にたつ は鴨長明の
おもいやる 心やかねて 眺むらん まだ見ぬ花の 面影にたつ 京極派の風雅和歌集142
という歌を連想させる。そして阿仏尼の5首目
都人 思ひも出でば 東路の 花やいかにと おとづれてまし への返歌
東路の 桜をみても 思ひ出でば 都の花を 人やとはまし
東国で桜の花を見て都と変わらないと仰っているのは、都をお忘れになったのですか。あなたの方こそ、都の花は如何ですか。私は東国の桜では満足できませんから早く都に帰りたいとお尋ねになるべきです。最後の歌の贈答から連想するのは、後拾遺和歌集の歌である。
朗読③ 後撰和歌集より
阿騎野に侍りけるはらからの下に便りに付けて遣わしける。源兼俊母
にほひきや 都の花は 東路の 東風のかえしの 風のつけしは
返し 康資王の母
吹き返す 東風の返しは 身にしみき 都の花の しるべとおもふに
解説
東風のかえし は、西風が都にいる女性と東国にいる女性が、花を巡って歌のやり取りしている。この二人は姉と妹である。この後拾遺和歌集の歌は、「宇治拾遺物語」の巻3にも載っている。高階成順と伊勢大輔との間に生まれた娘たちの人生が波乱万丈だったのである。常陸国から訴訟の為に都に出てきた男がいた。この男が高階成順の娘を盗んで東国に連れ帰った。訴訟という点で「十六夜日記」と共通している。しかも阿仏尼と 為子 は年齢は離れているが、姉妹の様であった。以上の阿仏尼と 為子 の歌のやり取りを「十六夜日記」で読む限り、阿仏尼の方に意欲作が多く阿仏尼の勝だと思う。それでは阿仏尼と 京極為子 との三回目の往復書簡を読もう。
朗読④
三月の末つ方、若々しき瘧病にや、日まぜにおこる事、二度になりぬ。あやしう、しほれ果てたる心地しながら、三度になるべき日の暁より起きて、仏の御前ににて、心を一つにて法華経八巻をよみつ。その験にや、名残もなくおちたり。折しも都のたよりあれば、「かかる事こそ」など故郷へも告げやるついでに、例の権中納言の御もとへ、「旅の空にてたまきはるまでやと、あやふき程の心細さも、さすがになほ保つ御法のしるしにや、今日まではかけとどめてこそ」など書きて、
いたづらに 海人の塩焼く 煙とも 誰かは見まし 風に消えなば
と聞えたりしを、おどろきて、返事とくし給へり。
消えもせじ 和歌の浦路に 年を経て 光をそふる 海人の藻塩火
「御経の験こそ尊く」とて
たのもしな 身にそふ友と なりにけり 妙なる法の はなの契りは
解説
阿仏尼は滞在中の鎌倉で病を得て大変なことになった。
三月の末つ方 到着した翌年の三月下旬
50歳を超えているのに、子供が罹るという 瘧病 マラリヤに罹ったのである。もしも本当に 瘧病 であれば、何日か置きに決まった時間に高熱を発する難病である。「源氏物語」の光源氏が18歳で、この病で苦しみ北山まで加持祈祷に行った。そこで若紫の君、後の紫の上と運命の出会いをしたのは有名である。阿仏尼は既に都から鎌倉まで旅をしてきているので、もうどこへも行けない。旅先の鎌倉で死亡するしかない。やはり瘧病 の様であった。高熱の発作が二度おこったからである。
あやしう、しほれ果てたる心地しながら
何故高齢の自分がこんな病気に罹ったのか理由が分からず、不思議でならない。ぼんやりしょんぼりして、発作を治るのを待つしかなかった。
三度になるべき日の暁より起きて、仏の御前ににて、心を一つにて法華経八巻をよみつ。
ここで阿仏尼は一大決心をする。
三度目の発作が起きると予想される日のまだ暗い暁の時間帯から起きて、仏の前に座って心の底から仏にすがり、法華経を唱えて祈った。なお法華経は全8巻28本から成る。
その験にや、名残もなくおちたり。折しも都のたよりあれば、
その効果があったのだろうか。その日は三度目の発作は起きなかった。全快と言ってもよいだろう。その喜びの最中、鎌倉から都に向かう使いがあると聞いたので、さっそく手紙を書いた。
「かかる事こそ」など故郷へも告げやるついでに、
こんな大病をしましたが、無事に治ったと都に残った家族たちに知らせた。そのついでに歌仲間の 権中納言 を思い出した。
例の権中納言の御もとへ、「旅の空にてたまきはるまでやと、あやふき程の心細さも、さすがになほ保つ御法のしるしにや、今日まではかけとどめてこそ」など書きて
いつも和歌を贈答している 権中納言 つまり 為子 にも手紙を書いた。
私は生活の根拠地である都を離れている旅の途中で、死を迎えるのが自分の運命かと覚悟さえしたとはいえ、今死ぬと後に残る者たちへの遺産は何一つ残せないという、慙愧の念にかられた私は死ぬに死ねない心境であった。
それでも私がすがった法華経の貴い教えの力で、どうにか命を長らえた。この様に書いた後で、阿仏尼は一首詠んだ。
いたづらに 海人の塩焼く 煙とも 誰かは見まし 風に消えなば
この海人は、阿仏尼が出家した 尼 であることと、漁師の海人との掛詞である。私は都を遠く離れて、鎌倉の浜辺で灯が風に消される様に、瘧病 の為に命を失ってしまいそうになった。もし亡骸が火葬されたとしても、その火葬の煙を見た人は、海人達が海水を煮詰めて塩を作っている煙だろうと
すら思ってくれないだろう。出家した尼である私は、ここ鎌倉で無駄死をしてしまったかもしれない。
と聞えたりしを、おどろきて、返事とくし給へり。
この様に 為子 に書き送った所、彼女も驚いたようで予定したより早く返事が届いた。和歌が付いていた。
消えもせじ 和歌の浦路に 年を経て 光をそふる 海人の藻塩火
あなたの命が細川庄の所有権が決定しない今の段階で、この世から消えてしまうなどという事があって良いはずがない。
俊成・定家・為家と続く和歌の道を守り続け、為家の子孫をより一層輝かせるのがあなたの使命である。
あなたはこれまでずっと和歌の道に精進してこられた。海人達の藻塩を焼く煙が消えないように、仏に仕える身であるあなたの命と、御子左家の栄光がこの世から消えるはずがない。
「御経の験こそ尊く」とて
為子 の手紙の追伸である。それにしても法華経の力は誠に貴いものがありますね。その後に歌があった。
たのもしな 身にそふ友と なりにけり 妙なる法の はなの契りは
返歌ではなくて 為子 の感想である。
何と頼もしいことでしょう。法華経では悩める衆生を救ってあげようという仏の教えが説かれている。
この尊い教えがあなたの身と、心と命をお守りする友となっているのは素晴らしいことです。これに
対する阿仏尼の返歌はない。
所で旅の文学には旅の途中、大いなる試練に直面し命の危険に陥るというお定まりのパタ-ンがある。例えば光源氏の須磨流離譚 では、大雷雨に襲われて命の危険に直面している。「十六夜日記」では阿仏尼の病が旅先での危険に
該当する。50歳を超えて 瘧病 を患ったのである。
「源氏物語」若紫の巻 で光源氏が、 瘧病 の加持祈祷のために北山に赴いたのは18歳の春であった。
「コメント」
為家の嫡流の二男である為教とその子の 為子 が、為家の側室である阿仏尼と仲がいいのが何故なのか。ここは興味があるけど説明はない。阿仏尼の歌の力なのか。為家の二男為教 と長男の為氏の仲が悪いというのも説明なし。