230916⑥「東海道の旅の記録①」10月16日~19日

今回から十六夜日記の東海道の旅に入る。阿仏尼の亡き夫が残してくれた細川庄を確保すべく、鎌倉まで下って訴訟を起こす決心をした。弘安2年1294年10月16日。阿仏尼の年齢は55歳。阿仏尼は雨の日も風の日も旅を続ける。そして10月29日に鎌倉に到着する。2回目の旅である。

この東海道を下る旅を4回に分けて読む。今回は都を出てから尾張一宮までである。都を後にして一日目、10月16日の部分を読む

朗読①東海道の旅 都~近江国守山 10月16日

さのみ心弱くてもいかがとて、つれなくふり捨てつ。粟田口といふ所よりぞ、車は返しつる。程なく逢坂の関越ゆる程も、

定めなき 命は知らぬ 旅なれど 又逢坂と 頼めてぞ行く

野路といふ所、来し方行く先、人も見えず、日は暮れかかりていと物悲しと思ふに、時雨さへ打ちそそく。

うち時雨れ 故郷思ふ 袖ぬれて  行く先遠き 野路の篠原

今宵は鏡といふ所に着くべしと定めつれど、暮れはてて、え行き着かず。守山といふ所にとどまりぬ。ここにも時雨なほ慕ひ来にけり。

 いとどなほ 袖ぬらせとや 宿りけむ 間もなく時雨の もる山にしも

今日は十六日の夜なりけり。いと苦しくて、打ち臥しぬ。

 解説

この旅の出発日付はこの文章の最後に書かれている。今日は十六日の夜なりけり。十六夜日記とされる理由は、この日付にある。なりけり は、発見、驚きを表す語法で「源氏物語」でも多用されている。

粟田口といふ所よりぞ、車は返しつる

ここから東に向かうので、牛車を都へ返したのである。ここから先は馬ないしは徒歩の旅となる。厳しい山道は男に担いでもらう道具に乗ることもあったであろう。旅の最初に逢坂の関に触れるのは、紀行文学の鉄則である。

 阿仏尼の歌 定めなき 命は知らぬ 旅なれど 又逢坂と 頼めてぞ行く の様に人と逢うことを掛詞にして歌を詠む。ここを越えれば近江の国に入る。

うち時雨れ 故郷思ふ 袖ぬれて  行く先遠き 野路の篠原

野路 は、普通名詞としては野原を通っている道という意味であるが、ここでは土地の固有名詞。滋賀県草津市で、さびしい情景が印象的である。阿仏尼がここで詠んだ歌は玉葉和歌集 (勅撰集 京極為兼)に入っている。この日は 鏡 という宿に宿泊予定であったが、その手前の守山に泊まった。鏡 は蒲生郡竜王町、守山 は 守山市。守山は和歌では守山(もるやま)とも呼ばれ、雨が漏るとの掛詞が多用される。阿仏尼も息子たちに旅の歌では、掛詞を用いて地名を詠みこむのだと教えている。

 現代語訳

息子や娘と別れるのは悲しいことである。彼らの情愛にほだされて旅立の決心も鈍りがちである。だが彼らの未来の為にこそ、私は鎌倉へ向かわねばならない。いつまで別れを悲しんでいいものか。早く旅に出で裁判を始めなければならないと思い定め、心を強く持って子供たちへの情愛を振り切り旅立ったのである。都から東国に向かうには、東山の粟田口を通る。ここで牛車から降りて家に戻した。ここからは原則として馬に乗っての旅となる。人目を気にしなくてよい尼姿だから、歩ける所はどこでも歩こう。難所では背負子(しょいこ)で担いでもらうこともあろう。粟田口か間もなくして、
逢坂の関に差し掛かる。ここを過ぎればいよいよ東路。自分は旅に出たのだという感慨が湧く。

定めなき 命は知らぬ 旅なれど 又逢坂と 頼めてぞ行く

私は都で親しい家族たちと別れてきたばかりだ。次にいつ彼らと対面できるかは分からない。世の中は無常だから、私の命がいつまでもつのだろう。生きて都に戻れるかは分からない。けれどもここは逢坂の関、人と人とが巡り逢って再会するという縁起の良い地名である。逢坂という言葉を口にするだけで、私の心には期待が膨らんでくる。だから都で待つ愛しい人たちと逢える日がきっと来ると信じて、これから始まる長く苦しい旅を耐えていこう。

逢坂の関を越えると都のある山城国と別れを告げ近江国となる。早くも野路 という所に差し掛かった。野路 は、地名だが普通名詞は広い野原を通る道という意味である。ここはまさに荒涼とした所であった。見渡す限り一面の篠原である。ここは都から東国に向かう人や、東国から都に戻る人が必ず通る道筋である。私たち以外にも旅人がいるだろうと思っているのに、生い茂る篠原に視界が遮られているせいか、人影はない。冬のことなので日暮れは早い。周りは急速に暗くなっていく。ひどく悲しい気分だと思って涙ぐんでいると、冷たい雨が降ってきた。

 うち時雨れ 故郷思ふ 袖ぬれて  行く先遠き 野路の篠原

空からは冷たい時雨が降りかかる。今日振り捨てて出てきたばかりの故郷を思う涙の雨が、私の袖を濡らす。まだ旅の初日だが、こんなに悲しいのに、鎌倉までの道のりの何と遠いことか。野路の篠原 を、誰ともすれ違わず進んでいくと、孤独な旅人である私はいよいよ切ない。旅の初日である

今宵は鏡 で宿を取ろうと予定していたが、
早くも日暮れたので行きつくことが出来なかった。それで 、鏡  の手前の 守山 で夜を明かした。

守山 を和歌では 守山(もるやま) と呼ばれ、野路の篠原で降っていた雨がここまで私を追いかけてきたが、時雨模様だった。

  いとどなほ 袖ぬらせとや 宿りけむ 間もなく時雨の もる山にしも

宿泊を予定していた  ではなく、守山 に予定を変更したが、私には袖の涙を更に増やそう、もっと泣きたいという気持ちはなかったのに、この宿は雨漏りしているので、私の袖が濡れてしまいそうだ。時雨が休むことなく降り続いている。守山 は時雨が屋根から漏る山でもある。そうだ、大切な旅立ちの日は十六日、弘安2年1279年10月16日である。

私は記念すべき旅の一日目の日付を記憶にしっかり刻んだ。体調がすぐれないのですぐ休んだ。

 

朗読②東海道の旅 守山~小野まで

いまだ月の光微かに残りたる曙に、守山を出でて行く。野洲川を渡る程、先立ちて行く旅人の駒の足の音ばかりさやかにて、霧いと深し。

  旅人は 道もろともに 朝立ちて 駒打ちわたす 野洲川の霧

十七日夜は小野の宿という所にとどまる。月出でて、山の峰に立ち続きたる松の木の間、けぢめ見えて、いと面白し。

 解説

まず野洲川を渡る。この辺りでは壬申の乱や戦国時代大きな戦があった。近江の国を旅する歌では、蜂の羽音や鶴の鳴き声を聞きながら、朝暗いうちに宿を立つという情景をテーマにすることがある。ここでは旅人が野洲川を渡る音、特に馬の音を聞きながら朝早く旅をしている。阿仏尼もが詠んだ

  旅人は 道もろともに 朝立ちて 駒打ちわたす 野洲川の霧

という歌も、玉葉和歌集に選ばれている。海の近くには亡き夫の為家の所有地である荘園があった。今は為氏の所有になっているが、争いの種にはなっていない。小野宿では夜の自然描写に特徴がある。

月出でて、山の峰に立ち続きたる松の木の間、けぢめ見えて、いと面白し。

けぢめ は、境界という意味である。月の光で山の峰に立ち並んでいる松の木の一本一本がはっきり見分けられたのである。それに伴って木々の間の隙間まではっきりと見えた。けぢめ という言葉は、「源氏物語」の朝顔の巻でも印象的に用いられている。 第二段 夜の庭の雪まぼろし

雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつつ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮れに、人の御容貌も光優りて見ゆ

光源氏の美貌が、雪の白さに映えて見えるという文脈である。松に積もる雪と、竹に積もる雪では、降り積もり方が違っているので、おなじ雪でもはっきりと区別できるというのである。十六夜日記の 峰に立ち並んでいる松の木と松の木のそれぞれがはっきりと区別されて見えているという状況なので、朝顔の巻 とは根本的に通じている。

 現代語訳

朝、目を覚ますと雨は止んでいた。十六夜の月の光が西の空に微かに残っていた。この月の姿も心に刻み込んでおこう。今日は旅の二日目、10月17日である。空はまだほの暗い暁に守山を後にした。守山を出てすぐ野洲川を渡った。川幅は広いが水深は浅いので、舟は必要ではない。人も馬も歩いて渡っている。昨日の野路では一面の篠原に遮られて旅人の姿が見えなかったが、今朝は朝霧というか川霧が視界を遮っている。私の前方を進んでいると思われる旅人が乗っている馬の足音がはっきりと聞こえる。けれどもその姿は霧の為に見えない。

旅人は 道もろともに 朝立ちて 駒打ちわたす 野洲川の霧

今朝は私が宿泊していた守山から、多くの旅人たちが東へ出発した。この野洲川は川霧が深い。だれが何処にいるのか見えないが、人々が東へと川を渡る勢いのある音が聞こえる。いや私の耳にはっきり聞こえてくるのは、馬の足音だけである。昨夜の宿泊予定地であった  の宿を過ぎて、今夜は小野宿に泊まった。この近くに亡き夫の所有する荘園があったが、今は為氏のものである。東には17日の立待月が出て明るかった。山の峰に並んで立っている松の木々がはっきりと見分けられた。それだけでなく一本一本の末の隙間まではっきりと見えて感動した。

夜、月の光に照らし出される松の木々が印象的であった。旅に出ると旅人は新鮮な目で、自分の周りを見渡すのだろう。

 

朗読③東海道の旅 近江の小野から美濃の笠縫まで(岐阜県大垣市)

ここに夜深き霧のまよひにたどり出でつ。

醒が井という水、夏ならば打ち過ぎ増しやと見るに、かち人はなほ立寄りて汲むめり。

  結ぶ手に 濁る心を すすぎなば うき世の夢や 醒が井の水

とぞ覚ゆる

十八日 美濃国、関の藤川渡る程に、まづ思ひ続けらる。

  我が子ども 君に仕へんためならで 渡らましやは 関の藤川

不破の関屋の板庇は、今も変らざりけり。

  ひま多き 不破の関屋は この程の 時雨も月も いかにもるらん

関よりかきくらしつる雨、時雨にすぎて降りくらせば、道もいと悪()しくて、心よりほかに笠縫の駅(うまや)にとどまる。

  旅人は 蓑打ち払ひ 夕暮れの 雨に宿かる 笠縫の里

  解説

醒が井という清水で歌を詠んでいる。米原市である。

   結ぶ手に 濁る心を すすぎなば うき世の夢や 醒が井の水

醒が井という地名に、悪い夢から覚めることを掛け言葉にしている。

かち人はなほ立寄りて汲むめり。
かち人 は、徒歩で歩く人である。阿仏尼は徒歩ではなく、馬に乗っていたのであろう。美濃の国に入って、関の藤川を渡った。この関は不破の関の事である。

  我が子ども 君に仕へんためならば 渡らましやは 関の藤川

自分が鎌倉に向かおうとしてこの関の藤川を渡るのは、息子たちが天皇や上皇に仕える立派な宮廷人になる為の経済的な基盤を確保する為だというのである。不破の関でも次の歌を詠んでいる。

  ひま多き 不破の関屋は この程の 時雨も月も いかにもるらん

不破の関は古くから荒れ果てていたので、そのように読むのが和歌の約束事である。けれども阿仏尼の若いころの作品である「うたたね」では、この不破の関に意地悪そうな関守が見張っていたことが書いてある。でも「十六夜日記」は、旅の途中で詠む歌の手本であるので、不破関では廃屋、荒れた小屋を詠んだと考えておこう。笠縫で泊まった。

  旅人は 蓑打ち払ひ 夕暮れの 雨に宿かる 笠縫の里

笠縫という地名と、笠との掛詞である加えて 蓑打ち払ひ  蓑 は、雨具のと地名の美濃の掛詞である。

 現代語訳

翌朝は例によってまだ暗い時間に立った。霧が立ち込めているので道がよく分からず、辿り辿り進んだ。醒が井という所を通った。ここには清水が湧いている。醒が井と呼ばれている。私も馬の上から見ても清冽で、馬の上から見てもこの水で涼をとろうとも思わないが、夏の旅だったらかならず馬から降りて水を汲む事だろう。但し徒歩で旅をしている人たちは冬とはいえ、この清水に立ち寄って水を汲んでいた。

  結ぶ手に 濁る心を すすぎなば うき世の夢や 醒が井の水

古今和歌集 歌聖 紀貫之  むすぶ手の しづくに濁る 山の井の 飽かでも人に 別れぬるかな

→山の清水は浅いので手ですくって飲んだら、こぼれた水が清水を汚してしまう、だから浴びるほど飲むことは出来ない。この様な状況を踏まえて、もっと長く貴方と逢っていたかった。貴方と別れるのが辛いという歌である。この醒が井の清水は俗人によって濁り切った私の心を、きれいさっぱり洗い流してくれ、純白に戻してくれるだろう。但し気になる事がある。私は亡き夫の遺言を守ろうと頑張っているが、又それも儚い俗世の夢なのかも知れない。この迷いの夢が覚める時がいつか来るのだろうか。日が高く上がると今日は10月18日、旅の三日目である。近江の国を過ぎて美濃の国に入る。不破の関の傍を関川という川が流れている。古今和歌集には

美濃の国 せきの藤川 絶えずして 君につかえむ 萬代までに 詠み人知らず  という歌がある。

その関の藤川である。亡き夫も古今和歌集を踏まえて 我が君に~ と歌っている。それらの事が藤川を渡る際に私の脳裏をよぎり続けた。

  我が子ども 君に仕へんためならば 渡らましやは 関の藤川

→私は鎌倉への旅をしている理由は自分自身の為ではない。俊成、定家、為家と三代続いた歌の家の経済的基盤を確立するために、細川庄を為氏から取り戻すための裁判を起こすからである。為家と私の間に生まれた子供たちが帝に末長くお仕えできるようにと願いながら、私はこの関の藤川を渡っていく。関の藤川という言葉に入っている 関 とは、不破の関である。この関所をかって私は見たことがある。若かりし頃「うたたね」で書き記した傷心旅行の際であった。この時不破の関所は実際に存在していて、関屋の中には意地の悪そうな番人が威張っていたのを見た。所で新古今和歌集では、藤原良経

  人住まぬ 不破の関屋の 板庇 荒れにし後は ただ秋の風 という歌がある。今回私の見た不破の関は良経の歌の通り、荒れ果てていた。「うたたね」の旅から長い時間が経ったことが痛感される。

  ひま多き 不破の関屋は この程の 時雨も月も いかにもるらん  

良経は不破の関は荒れ果てていると歌った。私が今見ている関屋は建てられてから、長い年月を経ているので破損した箇所が見える。そういう庇の破れから雨の日は、私がここの所苦しめられている時雨も漏ってきているだろうし、晴れた夜は月の光が漏れ入っていることだろう。そう考えれば人間としての関守はいなくても、時雨や月の光がこの関屋を守っていると言えるだろう。不破の関の辺りから空模様が怪しくなり、急速に暗くなり本格的な雨になった。これは最早優雅な時雨ではない。道がぬかるんで雨水が浮き、進むことも困難になった。

そこでまだ日は暮れていないけれど、予定を変更して笠縫の厩に泊まることにした。笠縫という地名が、雨と縁語であるのは偶然とはいえ面白かった。しかもここは美濃の国であるから雨具の蓑という言葉も雨の縁語である。

  旅人は 蓑打ち払ひ 夕暮れの 雨に宿かる 笠縫の里

美濃の国に入ってから雨に祟られている。雨除けに着ている蓑は雨粒でびっしょりなので、何度も蓑を揺すって雨粒を振り落とさねばならない。今日も又夕暮れの雨がひどくなり、体を濡らさないためには蓑では役に立ちそうもない。そこで宿を借りて屋根の下で雨をやり過ごそうとしたが、その宿のある地名が笠縫である。私の泊まる屋根が笠の役目をしている。

 

関の藤川で為家の和歌を思い出しそれを歌に詠み、都に残った息子たちに実録させることで、阿仏尼は和歌の家の伝統を守ろうとしたのである。それは不破の関の様に決して荒れ果てさせてはならないものであった。

 

朗読④ 十月十九日の記録 笠縫から尾張の国 一の宮まで

十九日、又ここを出でて行く。よもすがら降りつる雨に、平野とかやいふ程の道いとどわろくて人通ふべ雲あらねば、水田の面(つら)をぞさながら渡り行く。明くるままに雨は降らずなりぬ。昼つかた、過ぎ行く道に目に立つ社あり。人に問へば、「結ぶの神とぞ聞ゆる。」と言えば

守れただ 契り結ぶの 神ならば とけぬ恨みに 我まよはさで

とかいふ河には、舟を並べて、正木の綱にやあらむ。かけとどめたる浮橋あり。いとあやふけれど渡る。この河、堤の方はいと深くて、片方は浅ければ

片淵の 深き心は ありながら 一目づつみの さぞせかるらむ

仮の世の 行き来と見るも はかなしや 身のうき舟を 浮橋にして

とも思ひ続けける。又一の宮といふ社を過ぐとて

一の宮 名さへなつかし 二つなく 三つなき法(のり)を 守りなるべし

 解説

平野の辺りは道がぬかるみ、水田のようであった。そのうち結びの神を祀る神社の前を通ったので、神に捧げる歌を詠んだ。

  守れただ 契り結ぶの 神ならば とけぬ恨みに 我まよはさで

和歌は神代の時代から詠み継がれてきたし、阿仏尼は鎌倉での訴訟に勝利したいという願いがある。結びの神は岐阜県安八郡安八町西結にある結(むすび)神社である。結ぶ の縁語で とけぬ つまりほどけないという言葉を使っているのが、この歌の技巧である。洲俣 で川を渡る場面は、若い頃に書いた「うたたね」とかなり違っている。「うたたね」では舟に乗って渡ったが、ここでは浮橋を渡っている。浮橋は舟橋とも言うが、舟を何艘も綱で結んで、川の上に浮かべたものである。阿仏尼がここで詠んだ歌は二首ある。二首目が浮橋の

危うさをテーマとしている。

  仮の世の 行き来と見るも はかなしや 身のうき舟を 浮橋にして

これは「源氏物語」の宇治十帖を連想させる。もう一首は

片淵の 深き心は ありながら 一目づつみの さぞせかるらむ

この歌は堤の近くの水深が片岸は深くて、片岸は浅いのでそれを面白がって歌に詠んだのである。一目づつみ が、人目を包む、慎むこと、川の堤の掛詞である。これは旅の途中で目にした不思議な光景が歌のテ-マになるという教えである。

一宮は真神田(ますみだ)神社である。ここで詠んだ歌は数字の面白さが眼目になっている。

一の宮 名さへなつかし 二つなく 三つなき法(のり)を 守りなるべし

一首の歌の中に一、二、三と数字が三つ含まれている。法華経が唯一の正しい教えであることとを、二つも三つもない、ただ一つの教えであると歌っている。一の宮は神社なので神道であり、法華経は仏道であり神仏習合の形となっている。

 現代語訳

1019日旅の四日目である。今日はここ美濃国の笠縫を立ち、尾張国に入る。雨が夜通し降り続いたので、道がぬかるんでいる。特に平野とかいう場所は水が浮いて、人や馬が通れない悪路であった。まるで水田の上を歩いているようであった。そんな大雨も日が上がるにつれてやがて止んだ。昼頃私達が進んでいる道の傍らに人目に付く社が見えた。同行している息子の阿闍梨が地元の人に聞いた所、ここは結ぶの神という返事であった。

結ぶ という言葉に感動した私は、早速歌を一首詠んで結ぶの神に歌の隆盛と、我が子孫の繁栄をお祈りした。

守れただ 契り結ぶの 神ならば とけぬ恨みに 我まよはさで

→この神社で祀っているのが結びの神であるならば、ぜひ悩み多き私と結縁し、契りを結んで私達をお守りください。私たちは為氏と解こうにも解けない縺れに苦しんでいる。その縺れがすっきりと解決して、これ以上私達が迷わないで済むようにして。美濃国と尾張国の境になっているのが、洲俣川 である。ここは若い頃に「うたたね」の旅で渡った記憶が鮮明である。

今回は船を沢山並べて正木の綱というもので繋ぎ、橋の様にした浮橋が掛かっていた。川の上に浮かんだ橋なので、安定していなかったが何とか渡る。この洲俣川 は興味深い地形をしている。川の片方の岸は堤になっていて水深は深い。所がもう一方は浅瀬で川原になっている。これを見て心に浮かんだ歌がある。

片淵の 深き心は ありながら 一目づつみの さぞせかるらむ

この川の片方の岸は深い淵になっている。人間も特に恋する女性は深い思いを心の中に抱えている。けれども川の深い水が堤に堰き止められて、溢れないで済んでいるように、心の中の恋心は人目を気にする事で、他人には分からないようになっている。若い頃に深い恋心を心の中に抱えていた経験はあるので、その思いを詠んだ。又先ほど渡った浮橋についても一首詠んでみた。心に秘めた恋心という前の歌のテーマが、自ずと「源氏物語」浮舟の物語を私に連想させたからである。宇治十帖には、浮舟の巻と夢の浮橋の巻がある。

仮の世の 行き来と見るも はかなしや 身のうき舟を 浮橋にして

→私は人生の辛さに苦しめられながら、都と鎌倉を往復しようとしている。今渡ったばかりの橋は、舟を並べて繋ぎ、川の上に浮かべただけのものである。渡る時には揺れた。この危うい感覚こそお釈迦様が、仮の世にすぎないと説かれた人間社会の実相であろう。そんなことを考えながら旅を続けていると、一の宮という社、真清田(ますみだ)神社があった。その鳥居を通り過ぎる際に馬から降りて拝礼する際に、歌を一首手向けた。

一の宮 名さへなつかし 二つなく 三つなき法(のり)を 守りなるべし

→ここは尾張国の一宮と聞いた。この一という言葉に私は心を惹かれる。この神様は二もなく三もない、唯一の正しい教えである法華経を守っておられるのでしょうから。

 

各地で歌を詠んでいるが、その歌の力で神や仏の心を動かそうとしているのである。

 

「コメント」

 

これは紀行文学ではなくて、紀行に名を借りて自分の真情を吐露する日記である。だから講師の講釈が多くなるのだ。