230318 ㊾「聖武上皇崩御と橘奈良麻呂の変」
前回は巻20に載る天平勝宝七歳春に交代して筑紫に向かう防人たちの歌を読んだ。防人は諸国に設置された軍団に所属して、日頃から訓練されている兵士である。いつかは防人に派遣されるということもあると予想しているはずである。
赤紙で突然召集される、第二次世界大戦中の兵士のように考えると誤解に繋がる。また防人歌には父母を慕う歌が多いので、少年兵の様に思われるかもしれないが、実は正丁と呼ばれる20歳以上60歳以下の男子で、当時は立派な大人であった。彼らの歌の内容は偽りではないが、予めこの様に歌うものだと方向づけがされている可能性は考えて置かねばならない。防人歌が朝廷或いは天皇に奉られる物なのである。家持は兵部少輔として部領使が提出する防人たちの歌を取り次ぐ役目であったと思われる。この提出された歌から、拙劣で水準に達しないとする歌を抜いて万葉集に貼り継ぎ、その中に家持自身の歌も入れた。如何なる犠牲を払っても天皇に忠誠を尽くすという誓いを立てるものという点で、大伴氏の一員である家持と防人とは共通しているのである。家持が防人の気持ちになって作ったという歌と、家持が家族を置いて越中に赴任している時の歌とは良く似ているのであった。
その難波に滞在中に、家持が作った歌に、一見防人と関係のない作品がある。
巻20-4360 大伴家持 私の拙懐を述べる歌一首 並びに短歌
原文 省略
訓読
皇祖(すめろき)の 遠き御代にも 押し照る 難波の国に 天(あめ)の下 知らしめしきと 今の緒を 絶えず言ひつつ かけまくも あやに畏し 神(かむ)ながら 我ご大君の うち靡く 春の初めは 八千草(やちぐさ)に 花咲きにほひ 山見れば 見の羨(とも)しく 川見れば 見のさやけく ものごとに 栄ゆる時と 見したまひ 明らめたまひ 敷きませる 難波の宮は 聞こし食(を)す 四方(よも)の国より 奉る 御調(みつき)の船は 堀江より みお(みを)引きしつつ 朝なぎに 楫(かじ)引き上り 夕潮に 棹さし下り あぢ群れの 騒き競ひて 浜に出でて 海原見れば 白波の をるが上に 海人小舟 はららに浮きて 大御食(おおみけ)に 仕へまつると をちこちに 漁(いさ)り釣りけり そきだくも
おぎろなきかも こきばくも ゆたけきかも ここ見れば うべし神代(かみよ)ゆ 始めけらしも 1/3
巻20-4361 大伴家持 私の拙懐を述べる歌一首 並びに短歌
原文 櫻花 伊麻佐可里奈里 難波乃海 於之弖流宮尓 伎許之賣須奈倍
訓読 櫻花 今盛りなり 難波の海 押し照る宮に 聞こしめすなへ 2/3 第一反歌
巻20-4362 大伴家持 私の拙懐を述べる歌一首 並びに短歌
原文 海原乃 由多気伎見都都 安之我知流 奈尓波尓等之波 倍奴倍久於毛保由
訓読 海原の ゆたけき見つつ 葦が散る 難波に年は 経ぬべく思ほゆ 3/3 第二反歌
4360 長歌 1/3
「皇室の遠い先祖の時代にも、押し照る難波の国で天下をお治めになったと、いま現在まで 絶えず繋いできた、言葉に掛けるのも無性に畏れ多い神そのままの我が大君。草木が靡く春の初めは八千草の花が咲き匂い、山を見れば目を引かれ、川を見れば見て爽やかに、物事全てが栄える時だとご覧になり、御心をお晴らしになる、君臨される難波の宮は。」
以上が難波宮の提示部である。この歌は国見歌の形式によって歌われている。
皇祖(すめろき)の 遠き御代にも 押し照る 難波の国に 天(あめの下 知らしめしき とあるのは、5世紀の仁徳天皇が難波の高津宮で天下を治めたというのが中心にあるのだろう。仁徳天皇は古事記・日本書紀に聖帝(ひじりのみかど)と称される理想的な帝王であった。また後にはいわゆる大化改新の時に、孝徳天皇が難波に巨大な宮を建設している。
そうした過去の例がずっと伝えられる中で今、我が大君は、春の花の美しい山や川の見事さに全てが栄える土地で、心を晴らされて政治を取られるのである という。その難波の宮の様子を描くのが次の部分である。
「お治めになる四方の国々から貢物を奉る船は、難波の堀江の航路をたどって、朝の凪には楫を引いて上り、夕方の凪には棹をさして下り、まるでアジ鴨の群れの様に騒がしく競うようにしている。浜に出て海原を見ると、白波が何重にも折り重なる上に、海人の小舟が点々と浮いていて、天皇の食事を差し上げようとあちこちで魚を釣っている。あんなにも広々としていることか、こんなにも豊かであることか、これを見ると成程神代からここを都とした訳だ。」
難波の堀江は水運の為に掘られた運河で、今の大阪の大川、天満川がその跡だと言われている。
そこを諸国の貢物を積んだ船が、ひっきりなしに往復する。海辺には海人たちがあちこちで天皇の為に釣りをする。
おぎろなき は、万葉集でもここにしか見えない言葉で、雄大で限りの無いことをいう。提示部で自然の美しさを歌えば、この叙述部では、人々の奉仕の様が広大無辺であることを称えている。
4361 櫻花 今盛りなり 難波の海 押し照る宮に 聞こしめすなへ 2/3 第一反歌
「桜の花は今が盛りだ。難波の海が照り輝く宮で、世をお治めになるその時に」
この歌が作られたのは、天平勝宝七歳2月13日、太陽暦で3月30日。桜の花の盛りというのは実景であろう。
4362 海原の ゆたけき見つつ 葦が散る 難波に年は 経ぬべく思ほゆ 3/3 第二反歌
「海原の豊かなのを見ながら、葦の花が散る難波で年月を送るのはよさそうに思われることだ」
葦は難波に群生する代表的な景物であるが、葦の花が散るのは晩秋で、歌を作った時の実景ではない。海原が豊かなことは、長歌後半の叙述部を受けたものである。この歌は難波の宮の繁栄を、折からの春の盛りによせて寿いだものである。こうした宮廷讃歌は、いわゆる宮廷歌人たちによって歌われてきた。
長歌末尾のうべし神代(かみよ)ゆ 始めけらしも は、聖武天皇即位の前年に笠金村が吉野で歌った、巻6-907 長歌末尾 ~うべし神代ゆ 定めけらしも と歌ったのに繋がっている。
題詞が、私の拙懐を述ぶる歌 とされている理由
それはまことに公的なものの筈である、それなのに家持は何故、私の拙懐を述ぶる歌 と題しているのだろうか。私という字は、ひそかに という訓もあり、公にはできないことを意味する。以前山上憶良が、太宰府から都に帰る大伴旅人を送別する時に、敢えて私の思いを述ぶる歌と題して、「春になったら私を都にお召しください」と猟官運動の様な本音を歌ったことがあった。家持はこれに類した題詞をこの難波宮讃歌で付けたことになる。
家持の夢想が入っている
この作品は現実であることと、そうでないことが混じっている。春の初めは 八千草(やちぐさ)に 花咲きにほひ の辺りの春の情景は、今、目の前にあるのだろう。御調の船が堀江を往復している様子や、海のあちこちに海人の釣り舟が浮かんでいるのも実景としてあり得る。しかし ものごとに 栄ゆる時と 見したまひ 明らめたまひ 敷きませる 難波の宮は と 歌うのは今、天皇が難波に来て、その風景を見ながらそこで政治を摂っている様に表現している点で虚構である。
第一反歌4361 櫻花 今盛りなり 難波の海 押し照る宮に 聞こしめすなへ も 同じである。当時は平城京が都であり、前の年 天平勝宝6年7月に聖武上皇の母・孝謙女帝の祖母、藤原宮子が亡くなった。その為に元旦の賀も中止した位なので、行幸が行われる可能性はない。家持は春のこの良い季節に、もし天皇がここにいたらということを夢想したのであろう。現実の風景の中に実際にない、願わしい事柄を置いて歌うのは、巻17 末尾の越中の諸郡巡行の歌や、巻19
巻頭歌群で越中の風景の中に、都風の美女や宮廷に仕える丈夫達を描いて見せたのと同じ方法である。さらに言えば、その天皇は現在の孝謙女帝ではないのかもしれない。難波の宮は聖武天皇の天平16年744年 2月からほんの一年足らず都とされた時期があった。まる三年の恭仁京時代が終わった後のことである。
その夢想は安積皇子がもし生きていたらということ
その移動中に聖武天皇の残る唯一の皇子・安積皇子が亡くなったのである。家持は安積皇子の葬儀に立ち会い、そののち4月に廃都となっていた平城京の旧居で霍公鳥と橘の歌を歌っているが、都になった難波には行っていないだろう。もし安積皇子が亡くならずに天皇となって、難波で天皇になって政治を摂ったらと、家持は想像していたのかもしれない。
ともあれ、そのような夢想は現実には自分が天皇から離れた状況にあることを意味する。
第二反歌 4362 海原の ゆたけき見つつ 葦が散る 難波に年は 経ぬべく思ほゆ 3/3 第二反歌
は、天皇がそこにいるという設定の下で、ここ難波で年を過ごしてもいいということであって、現実には一刻も早く奈良に帰りたいのであった。家持は同じ難波滞在中に、巻20-4434 ひばり上がる 春へとさやに なりぬれば 都も見えず 霞たなびく 「ひばりの上がる春たけなわとなってきた。霞が棚引いて都の方が見えない」と都への思いを口にし、一人で堀江に行きゴミばかりで美しい貝や石が無いのを、巻20-4396 堀江より 朝潮満ちに 寄るき木屑(こつみ) 貝にありせば つとにせましを 「朝の潮が満ちてくると、堀江から寄ってくるゴミがもし貝だったら、土産にでもしようものを」 などと文句を言っている。葦が散る という晩秋の光景を歌いこんでいるのは、夢想とそうした現実との裂け目を垣間見せている様に思われる。家持の難波讃歌が却って裏腹な現実を示唆するという現象は、この題にもみられる。
天皇の 内の戦 であるはずの大伴旅人が、天皇という中心から遠ざけられている状況は変わらなかった。
聖武上皇の難波行幸 家持は随行していないらしい
聖武上皇は譲位以来、健康不安が伝えられてきたが、天平勝宝八歳756年2月 難波宮に孝謙天皇、光明皇太后と共に行幸した。廬舎那仏建立の切っ掛けとなった、河内の智識寺にお参りするのが主な目的で、その後難波宮に入った。
3月には難波の堀江に上皇の行幸もあった。いわば前の年の家持の夢想が実現した形で、家持の歌もあるがどうも天皇の側近くで歌ったのではないらしい。馴染みの大伴池主が、官人たちとの宴での行幸の歌を伝え聞いたり、行幸が終わった後の堀江に一人で行って、平城京を懐かしむ歌を歌ったりしている。
家持の帰京
そして行幸の終わる前の3月20日に平城京に帰って、ホトトギスを待つ歌を歌っている。この時も家持は兵部少輔だから、やはり防人の監査の為に難波に下っていたのであり、それが終わって平城京に戻ったのであって、行幸に付き従っていたのではない。
聖武上皇の崩御
難波滞在中も病勝ちであった上皇は4月17日に平城京に戻ったが、その後慌ただしく伊勢神宮、宇佐八幡宮に奉幣しているので、すでに危篤だったようである。やがて5月2日に崩御。万葉集はこれについて、直接何も触れていない。
但し6月15日付で家持作の三つの歌群が置かれている。最初の歌群を読む。巻20-4465~4467
巻20-4465 大伴家持 族(うから)を諭す歌一首 並びに短歌
原文 省略
訓読
久方の 天の門(と)開き 高千穂の 岳に天降(あも)りし 皇祖(すめろき)の 神の御代より はじ弓を 手(た)握り持たし 真鹿児弓(まかごや)を 手挟(たばさ)み添えて 大久米の ますらたけをを 先に立て 靫(ゆき)取り負わせ 山川を 岩根さくみて 踏み通り 国求(ま)ぎしつつ ちはやぶる 神を言向け まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕へまつりて 蜻蛉(あきつ)島 大和の国の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱 太知り立てて 天(あめ)の下 知らしめしける 天皇(すめろき)の 天の日嗣(ひつぎ)と 継ぎてくる 君の御代御代 隠さはぬ 明(あか)き心に すめらへに 極め尽くして 仕へくる 祖(おや)の官(つかさ)と 言立てて 授けたまへる 子孫(うみのこ)の いや継ぎ継ぎに
見る人の 語り継ぎてて 聞く人の 鏡にせむを 惜(あたら)しき 清きその名ぞ おぼろかに 心思ひて 空言(むなこと)も 祖(おや)の名絶つな 大伴の 氏と名に負へる 大夫(ますらを)の伴(とも) 1/3
巻20-4466 大伴家持 族(うから)を諭す歌一首 並びに短歌
原文 之奇志麻之 夜末等能久尓尓 安伎良気伎 名尓於布等毛能乎 己許呂都刀米与
訓読 磯城島の 大和の国に 明られき 何に負う伴(とも)の男(お) 心つとめよ 2/3
巻20-4467 大伴家持 族(うから)を諭す歌一首 並びに短歌
左注 淡海(おうみ)真人三船の讒言によりて出雲守大伴古慈悲 任を解かれここをもって家持この歌を作る
原文 都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜気久於比弖 伎尓之曽乃名曽
訓読 剣太刀 いよよ磨ぐべし 古ゆ さやけく負ひて 来にしその名ぞ 3/3
題の 族(うから)を諭す歌 とは一族の者たちに教え諭す歌ということである。
4465 長歌略 1/3
長歌は天孫降臨や神武東征の昔から語り始める。
『天の岩戸を開いて、日向の高千穂の峰に天下った神の御代から、ハジ木の弓を握りしめ、矢を手に手挟んだ大久米のつわものを先頭に、矢を入れた靫(ゆき)を背負い、山や川の岩根を描き分けて踏み通り、国土を平定しながら、荒々しい国津神たちを従わせ、反抗する人々をおとなしくさせて、掃き清めて仕えまつる様にした。蜻蛉島(あきつしま)なる橿原の宮に宮殿の柱を太々とお建てになり、即位して天下をお治めになり、初代の天皇以来、天津神の子孫の位として継がれてきた大君たちの御代御代に』
天孫降臨や神武東征の事は、7年前の天平勝宝元年に「陸奥国に黄金を出だす詔書」・「出金詔書を賀ぐ歌」にも歌われていたが、この歌には大伴氏の先祖が神武天皇の先兵として戦った様子がより具体的に表されている。
次いで
『その後の天皇の歴史の中で、隠れもない忠誠心を天皇のお側で極めつくしてお仕えしてきた、先祖代々に受け継がれてきた役目だと特に言葉にして授けて下さった。子々孫々見る人が語り継ぎ、聞く人が手本にするはずの、もったいない清らかな名誉だ」 という。ここは少し文脈が複雑だが、隠さはぬ 明(あか)き心に すめらへに 極め尽くして 仕へくる 祖(おや)の官(つかさ) は、最後の 清きその名 にかかる。具体的には、出金詔書で聖武天皇が「お前たち大伴氏は代々海行かば 水漬く屍~ と誓いを立て、忠誠を尽くしてきた一族だから、今後も内の戦(戦)=一番の親衛隊だと思っているぞ、宜しく頼む」と言ったことを指しているのであろう。そして「この名誉は、これから後の大伴氏の代々に受け継がれ、周りで見る者は語り継ぎ、伝え聞く人は手本にするだろう。それくらい立派で傷つけてはならない名誉なのである」 と言っている。
出金詔書は聖武天皇が譲位の準備として出した宣命だから、いわば遺言で上皇崩御の後、その言葉を思い起こして強調する。しかしその名誉は今後の行い次第では失墜するかもしれない。
長歌の最後は戒めの言葉で終わる。
「いい加減に思って先祖の名声を絶ってはいけない。大伴氏の名前を背負った男たちは」
戒めは反歌に繰り返される。
4466磯城島の 大和の国に 明られき 何に負う伴(とも)の男(お) 心つとめよ 2/3
「この大和の国に光り輝く名誉を背負った男たち、怠るなかれ」
4467 剣太刀 いよよ磨ぐべし 古ゆ さやけく負ひて 来にしその名ぞ 3/3
「剣太刀を磨ぐように心を一層磨くがよい。大昔からはっきりと背負ってきた君たちの名誉であるぞ」
名という言葉が長反歌三首に繰り返されている。大伴氏の名が何より大事なのは、出金詔書を賀ぐ歌 と同じである。
安積皇子挽歌の最後に巻3-480 大伴の 名に負ふ靫(ゆき)帯びて 万代に 頼みし心 いづくか寄せむ と歌って以来、家持にとって名は個人名に留まらず、氏族の伝説に包まれて伝えられていくべき物として、歌われ続けてきたのである。
しかし「出金詔書」が内の戦と名指しで、大君の 御門の守りに 我をおきて 人はあらじと いや立て 思ひしまさる と
奮い立っていう家持は、聖武上皇が崩御した今、名が失われるのを恐れている。
大伴古慈悲の事件
注は出雲守だったが大伴古慈悲が淡海(おうみ)真人三船の讒言で解任されたために、家持はこの歌を作ったと言っている。この事件は続日本紀にも記されており、そこには大伴古慈悲と淡海(おうみ)真人三船の両名が朝廷を誹謗し、臣下としての礼を失っていたことで、衛士府に禁固されたとある。淡海(おうみ)真人三船は元皇族で、後に漢詩文の名手として有名な人である。家持は、大伴古慈悲は無実で、淡海(おうみ)真人三船の道連れにされたのだと主張するのであろう。大伴古慈悲は家持とは遠縁で、すでに従四位上に上がっていて、大伴氏の中では長老格であった。事件は5月10日で聖武上皇崩御から1週間ほどなので、朝廷誹謗云々が聖武上皇譲位やその後の皇位継承問題にかかわる発言であったことは間違いないであろう。家持は微妙な時期だからこそ、空言(むなこと)も 祖(おや)の名絶つな 冗談にも先祖伝来の名誉を絶ってはならないと言わねばならなかった。
族(うから)を諭す歌 と並ぶ 二つの歌群はどうであろうか。巻19-4468~4470
巻19-4468 大伴家持 病に伏して無常を悲しび、道を修めんと願いて作る歌二首
原文 宇都世美波 加受奈吉身奈利 夜麻加波乃 佐夜気吉見都都 美知乎多豆祢奈
訓読 うつせみは 数なき身なり 山川の さやけき見つつ 道を尋ねな 1/2
巻19-4469 大伴家持 病に伏して無常を悲しび、道を修めんと願いて作る歌二首
原文 和多流日能 加気尓伎保比弖 多豆祢弖奈 伎欲吉曽能美知 末多母安波無多米
訓読 渡る日の 影に競ひて 尋ねてな 清きその道 またもあはむため 2/2
巻19-4470 大伴家持 壽(いおき)を願ひと作る歌一首
原文 美都煩奈須 可礼流身曽等波 之礼礼杼母 奈保之祢我比都 知等世能伊乃知乎
訓読 水泡(みつぼ)なす 仮れる身とぞとは 知れれども なほし願ひつ 千年(ちとせ)の命を
最初の二首は病に伏して無常を悲しび、道を修めんと願いて作る歌。
4468 うつせみは 数なき身なり 山川の さやけき見つつ 道を尋ねな 1/2
うつせみ はこの世の人間で、神の様に永遠性を持たない。数なき身なり 決まった数の命を持たない存在だという。
自分の身の危うさは9年前の春、赴任したばかりの越中で病に伏した時にも述べている。しかしその時は山や川の清らかなのを見ながら、王城の道を求めたいと、出家遁世を願うようなことはなかった。
4469 渡る日の 影に競ひて 尋ねてな 清きその道 またもあはむため 2/2
「空を渡る日の影と競い合って、尋ね当てたいものだ、清らかな道を。また会うために」
渡る日の 影に競ひて は 自分の寿命が尽きる前に という意味と一応考えられる。清きその道 は、第一首に 山川の さやけき と言われる場所であろう。それにしても またもあはむため とは誰に会うというのだろうか。しかし またも が気になる。私は再び会うために道を尋ねる人とは、聖武上皇ではないかと思う。聖武上皇こそは皇位を退く前から仏道に入り、政治から遠ざかった人であった。そして家持にとっては、かって内舎人として親しく仕え、大伴氏を内の戦と信頼してくれた当人である。だとすれば渡る日の 影に競ひて という意味が感じられてくる。大友氏の名を汚すなという 族(うから)を諭す歌 との振幅の大きさに驚かされるが、聖武上皇崩御の悲しみに打ちのめされ、讒言や
密告の横行する政界に嫌気がさして、上皇の求めた清らかな世界に自分も行きたいというのも、家持の心情だったのである。しかし現実に背負う物のある家持は、上皇の後を追って死ぬわけにもいかない。
次の 壽(いおき)を願ひと作る歌 では、病の中で何とか生き永らえたいという心情が歌われている。
4470 水泡(みつぼ)なす 仮れる見とぞとは 知れれども なほし願ひつ 千年(ちとせ)の命を
「水の泡のように仮の身だと知っているが、やはり願ってしまう、千年の命を」前の二首に続いて仏教色が表れている。
憶良の同じテ-マの歌との違い
この歌は山上憶良が死の床にあって歌った
巻5-902 水沫(みなわ)なすもろき命も 栲縄(たくつな)の 千尋(ちひろ)にもがと 願ひ暮らしつ も明らかに踏まえているものである。但し憶良が「死の身を意識しながら、弱弱しい命であっても丈夫なままで長く長くと願いながら暮らしてきた」というのに対して、家持の歌は、仮れる身、千年(ちとせ) などと観念的な無常は知識に留まっている。憶良の歌の 水沫(みなわ) は、細い沫 フォーム であるのに対して、家持の歌う 水泡(みつぼ) は、大きい水泡 バブル を指す。この二つは仏教語で人の身の儚さの比喩に用いられるが区別があって、フォームの方は指でつまめない程弱弱しいことで、バブルの方はパチンと瞬間的に消えてしまうことと捉えている。
憶良は弱弱しい命が丈夫な縄の様であったらと願い、家持が仮の身が永久であったらと願うのは、その二つを歌い分けているのである。家持は病に伏して無常を悲しんでいるはずだが、わざわざ無常を自分の体に実感しているのではない。やはり聖武上皇を失ったことと、政治情勢の悪化が家持の気力を奪っているのであろう。族(うから)を諭す歌 にしても、大伴一族に慎重に振る舞う事を求めているだけで、自分の行動に言及することはない。長老の様な言葉はむしろ無常を悲しんだり、長生きを願ったりするのに通じているのであろう。
当時の政界 藤原仲麻呂の専横
実際前後の政界は孝謙天皇、光明皇太后と癒着した藤原仲麻呂による恐怖政治と言って良いであろう。左大臣 橘諸兄は前年11月聖武上皇の病状が悪くなった時の発言を密告されてこの年の2月に辞職を余儀なくされていた。聖武上皇崩御後の大伴古慈悲が拘禁された事件も、藤原仲麻呂の指金だったことが後に判明した。大伴古慈悲が出雲守になったのも左遷だったが狙われて更に土佐守に左遷されたのであった。聖武上皇の遺言であった新田部親王の子の道祖王(ふなどおう)・天武天皇の孫が皇太子に指名されるが、翌天平勝宝9歳3月上皇の諒闇(りょうあん)→天皇の服喪 の最中に淫らな振る舞いをしたという理由で廃され、会議の結果藤原仲麻呂の亡くなった子の妻を娶っていた舎人親王の子・大炊王が新たな皇太子となった。後の淳仁天皇であるが、仲麻呂の邸宅に住んでおり、全くの傀儡である。
橘奈良麻呂の変
こうした仲麻呂の専横を打倒しようとしたのが、橘諸兄の子・橘奈良麻呂である。失脚した橘諸兄は天平勝宝9歳の1月、失意のうちに死亡する。橘奈良麻呂は6月に大伴古麻呂や佐伯全成と合議を重ね、仲麻呂の家を包囲し殺害し、当時仲麻呂の家にいた孝謙天皇や光明皇太后を廃位し、先の皇太子・道祖王(ふなどおう)や長屋王の子で命を助けられた黄文王らの中から選んで皇位に着けようとした。しかし計画は事前に漏れて、7月4日に小野東人の自白があって関係者が逮捕された。連座した者は正四位下の大伴古麻呂の他、家持と親交のあった池主といった大伴氏が多く含まれていた。大伴氏は大打撃を被ったのである。奈良麻呂からクーデタ-の誘いを何度も受けていた佐伯全成の自白によれば、橘奈良麻呂は天平17年に聖武天皇が病気になった時から、後継者が決まっていないとして、黄文王を皇太子にする計画を立てていたという。
当時の皇太子 安部内親王、のちの孝謙天皇を正当と認めない空気が一部にあり、天平16年に安積皇子が亡くなった時、巻3-480 大伴の 名に負う靱(ゆき)負ひて 万代(よろづよ)に 頼みし心 何処(いづく)か寄せむ と歌った家持もこれを共有していた。
今回の謀議に家持が誘われていなかったとは考えにくい。しかし上皇崩御の時に一族を戒め、自分は病気としていた家持は、これには参加していなかった。その代わりに歌う歌を残している。
巻20-4483~4485
巻20-4483 大伴家持 天平勝宝9歳大監物三形王の家にて宴する歌一首
原文 宇都里由久 時見其登尓 許己呂伊多久 牟可之能比等之 於毛保由流加母
訓読 移り行く 時見るごとに 心痛く 昔の人し 思ほゆるかも
巻20-4484 大伴家持 左注 右の一首 大伴家持 物色の移ろうことを悲しみ作る歌
原文 佐久波奈波 宇都呂布等伎安里 安之比奇乃 夜麻須我乃祢之 奈我久波安利家里
訓読 咲く花は 移ろふ時あり あしひきの 山菅の根し 長くはありけり
巻20-4485 大伴家持
原文 時花 伊夜米豆良之母 加久之許曽 賣之安伎良米晩 阿伎多都其等尓
訓読 時の花 いやめづらしも かくしこそ 見し明らめめ 秋立つごとに
4483 移り行く 時見るごとに 心痛く 昔の人し 思ほゆるかも
6月23日三形王という貴族の家での歌。橘奈良麻呂の謀議が進んでいる頃である。移り行く は、
季節の風物を表す。
「夏から秋に変わる頃、花々が咲いては移ろっていくのを見る度に、痛切に昔の人が思われるなあ」昔の人の中には、崩御した聖武上皇やこの年1月に亡くなった橘諸兄が含まれる。回顧にふけっているのは家持が謀議には、背を向けていることを表わす。注にあるように、家持はその直前6月16日の人事で兵部少輔から兵部大夫に昇格していた。そうした懐柔策の方に従ったのである。
4484 咲く花は 移ろふ時あり あしひきの 山菅の根し 長くはありけり
日付がない。第一種の題詞に 宴する歌とあるので、この歌は宴の歌ではない。しかし物色の移ろうことを悲しみ、作った歌という注で、第一首との関連は明らかである。
「咲く花は移ろう時がある。山菅の根は長く延びている」という歌の内容が、第一首に風物の移ろいから、人のうつろいを思うことを歌っている以上、寓意を持つことは明らかである。咲く花は 移ろふ時あり は、花の名を持つ新興貴族橘氏が、見事なまでに失墜したことを寓意するのであろう。そして同様に花の名を以て新興貴族藤原氏も今は盛りでも、この先はどうなるかは分からない。一方の山菅の根 は、地味だけどもしぶとく大地に食い込んで長い。それは天孫降臨以来の伝統を誇る大伴氏の寓意に他ならない。多くの物を失いながら、自分こそは慎重に行動して、氏族の命脈を保ったという自負が家持にはあったのだろう。これは橘奈良麻呂の変発覚後の歌と想像され、日付を記さないのも韜晦の一つである。
4485 時の花 いやめづらしも かくしこそ 見し明らめめ 秋立つごとに
注には家持の作者名があるだけで、場所も時も明らかにされていない。しかし「季節の花々はいよいよ慕わしい。このように見て心を晴らしてください。秋を迎える度に」という歌詞からして、7月14日の立秋前後の歌と考えられる。
見し明らめめ は、敬語で主語としては天皇が想定される。そして時の花が、第二首の様に人や氏族のへの連想を持つのであれば、その花を身と心を晴らすとは、天皇が移り変わる氏族達を超然としてご覧くださいという寓意が読み取れる。
それは藤原仲麻呂と癒着した孝謙天皇とは別の天皇像である。かように家持は、仲麻呂の体制側にも、取って代わろうとする橘奈良麻呂にも与せず、難局を静観してどうにか乗り切ろうとしたのである。歌や題詞もそれを反映して極めて暗示的になっている。
「コメント」
難しい局面を乗り切っていく家持。チャラチャラした貴公子とは全く違うイメージ。狭い平城京の中で繰り広げられる政界の暗闘。これだけでも歴史ドラマになる。実に面白い回であった。講師の解説は最高、歌と歴史が一体となっている。