230304 ㊼「家持の帰京と巻19巻末歌群」
前回は家持の越中守時代の歌を、巻19の巻頭歌群を中心に読んだ。越中守時代、家持は常に早く都に帰りたいと願っていたが、一方では大伴池主と漢詩文を交えた贈答をしたり、越中の雄大な風土に触れてそれを描いたりもする。池主が越前に去ってからは、孤独感を深め、越中の花や鳥を見たり聞いたりすることを契機に、都への憧れや鄙の地に居ること、また池主との交流の思い出を含み持った、漢詩風の歌を作った。
そうした巻19の巻頭歌群は、詠物歌の方法を用いた家持の代表作とされる。
さて家持は天平勝宝3年751年の7月に、少納言に任じられて都に戻ってくる。家持歌日誌は巻19の半ば 4250が送別の宴で、家持が歌った歌である。巻19の巻頭は天平勝宝2年3月1日の4139 で、この別れの歌まで約1年4か月に111首。
巻末歌群 4290~4292絶唱三首
一方、巻19巻末は天平勝宝5年2月25日の歌で 4292だから帰京した後の歌は、約1年半で42首ということになる。
帰京後は越中守時代よりぐっと数が減ってしまうのである。しかしその巻末の歌4290~4292の歌が、絶唱三首などと呼ばれ、家持の歌では、最も良く知られた歌である。
原文 春野尓 霞多奈美伎 宇良悲 許能暮影尓 鶯奈久母
訓読 春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に 鶯鳴くも
原文 和我屋度能 伊佐佐村竹 布久風能 於等能可蘇気伎 許能由布敝可母
訓読 我が宿の い笹群竹(むれたけ) 吹く風の 音のかそけき この夕(ゆうへ)かも
巻19-4292 大伴家持 25日に作る歌 一首
左注
春日(しゅんじつ)はのどかに照らし、→春日遅々 今鶯が鳴いている。辛く悲しい心の痛みは、歌でなければ晴らせない。そこでこの歌を作り、結ばれた心の紐を解く。ただ、この巻の中で作者の名を示さず、年月、場所、作家の由来だけを書き留めているのは、どれも大伴家持が作った歌である。 この歌とは4290~4292の三首の事。
原文 宇良宇良尓 照流春日尓 比婆理安我里 情悲毛 比登里於母倍婆
訓読 うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しいも 独(ひとり)し思へば
4290 春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に 鶯鳴くも
「春の野に霞がたなびいていてもの悲しい。この夕方の光の中で鶯が鳴いているよ」
4291 我が宿の い笹群竹(むれたけ) 吹く風の 音のかそけき この夕(ゆうへ)かも
「我が家の庭の僅かばかりの竹の群れに、吹く風の音の微かな音がする。この夕べに」
4292 うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しいも 独(ひとり)し思へば
「うららかに日の照っている春の日に、ひばりが上がり、心が悲しいことよ、一人で物を思っていると」
注は、「春の日はのんびりとうらうらと照り、鶯はまさに鳴いている。悲しみの心は歌でなければ払い捨てることは出来ない。そこでこの歌を作り、絡み合った気持ちを解きほぐすのである。なおこの巻の中で作者の名前を言わず、ただ作った年月、場所、経緯だけを述べている歌は、全て大伴家持が作った歌である。
歌の注と巻19の巻末歌が一体化していることが分かる。この三首はどの古文の教科書にも載せられている位に有名である。それにしてもこのように評価の高い歌が、巻19の巻頭と巻末に集中しているのはなぜだろう。偶然とするには出来過ぎている。家持に自作に対する意識があって、傑作と思った歌で最初と最後を飾り、最も自信のある巻としたのだという意見もある。しかしそれならば家持の歌は、巻頭歌群や巻末歌群のような作品ばかりが並んでいる筈だがそうはなってない。
家持の歌の評価 西郷信綱 折口信夫即ち釈超空
戦後の古代文学研究をリ-ドした西郷信綱は「万葉私記」で、巻末の三首について次の様に言っている。「万葉末期を代表する家持という人間に歴史的興味をそそられる程には、彼の作品に興味を感じることは出来ない。つまりそれほど彼の作品は瓦礫の山なのだが、右三首は一代の秀逸でこの三首を得るのに彼は瓦礫を積んできたと考える程である。」
しかし実はこれらの歌が家持の傑作とされるようになったのは、ごく最近の事である。江戸時代以前に、絶唱三首が特別に扱われた形跡は見えない。越中就任の歌々も同様である。近代になって発見された訳である。
発見者の一人、国文学者の折口信夫即ち釈超空は、巻末の歌について次のように言っている。「私共が初めてこの歌を見つけたのは、今から30年もっと前の事である。こういう心の微動を写すことが唱道せられだした頃である。その頃この歌を見つけたのである。私の驚きを察して貰いたい。今考えてみても不思議なその時の感じは印象している。それからこれだけ年が経っても、新鮮さをこの歌はちっとも失っていない。のんびりと生活していたであろうと我々が想像していた昔にも、こんなに深い心で考え、一人悲しんでいる人があったことは、余程反省してみてよいことである。」これは「評価の反省」という昭和26年の文章だからこの歌を見つけたのは、30年以上前だとすれば大正年間だろうか。
日本では近代が成熟し文学も洗練され、短歌も微妙な心情を繊細に描きとることが良しとされるようになって、この歌も初めて評価されたのである。おなじ文章の中では、23日の第一首について、「家持は近代人の抱くような心をもっていた。
文学の中のある特殊な近代的な情緒、寂寥感や孤独感を取り上げて文学にすることが出来ることを知っている」と述べている。
越中就任12首の中からも、多くの歌が評価し直すべき作品として取り上げられた。
私も巻19の巻頭の越中就任や、巻末の絶唱は感動をもって読む。しかしそのように感じるのは、私たちが近代的な心の在り方を引き継いでもっているためであろう。家持は古代の貴族だから近代人であるはずがない。それなのに何で私たちと家持は同じ心になってしまうのだろうか。評論家の柄谷行人に「日本近代文学の起源」という本がある。
第一章が風景の発見、第二章が内面の発見という題である。この風景と内面はセットである。柄谷によれば、それらが発見されたのは明治30年前後で、国木田独歩「武蔵野」や、「忘れえぬ人々」といった作品で、内向的な人間、内的人間によって風土が見いだされるという。それは知覚の様態の変化である。つまり内界と外界とが分離され内界が外界を知覚するというあり方が出現する時に、初めて内面と風景が成立するのだというのである。言い換えれば、自己とは対立的な外界が風景として描かれ、外界から切り離された存在として意識されるのが内面である。
日本近代文学はそうした内面に籠る自我を、風景と共に掘り下げていったのである。それは当然短歌文学にも及んだのであろう。
絶唱三首の発見という出来事は、そうした知覚の在り方、風景と内面の縁という面から考えていく必要があるだろう。
改めて絶唱三首を読んでみよう。
4290 春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に 鶯鳴くも
ここに出てくる霞も鶯も春の中では、よく歌われる景物である。天平勝宝5年2月23日 太陽暦で7月14日に当たるので、家持のいる平城京では共通にみられる景といってもよい。しかしその景は、上2句と下2句に分かれており、第三句にうら悲し という心情語が挟まれるように置かれている。前回越中就任の 巻19-4141春まけて もの悲しさに さ夜更けて 羽振(はぶ)き鳴く鴨 誰が田にか住む で 心情表現が景物に先立って置かれているのが特殊だと言ったが、今の歌のように第三句だけの心情表現で、上下に景物が分裂しているという歌はおよそ万葉集には見られない。
しかも 霞たなびき と うら悲し とは、いわゆる連用終止法で繋がれている。それは前の事柄と後の事柄とが、ただ共存していることを表すだけで、両者をいかようにも関係づけないのである。実は 霞がたなびく状況は悲哀の真情と結びつき易く、妻の坂上大嬢は 巻4-735 春日山 霞たなびき 情(こころ)ぐく 照れる月夜(つくよ)に 独りかも寝む と歌って家持に贈っている。「春日山に霞が棚引いて、心がふさぐように照っている月夜に一人で寝ます」
霞が月をぼんやりと覆う様子が、夫と離れて一人もの思う鬱情を象徴的に表している。それは大伴氏の歌人たちに共有される洗練された表現である。しかしこの坂上大嬢も霞たなびき は、情(こころ)ぐく 照れる に連結して 「霞が棚引くので月にうっとおしく笠がかかる」 と筋道を歌うことが出来る。しかし 家持の 霞たなびき うら悲し の間には飛躍があって脈絡は見えない。そもそも坂上大嬢の憂鬱は、家持と一緒に居られないことで起こっているが、家持の場合何で うら悲し なのかは歌の中では窺い知れない。尤もはっきりしないから うら悲し なんとなく物悲しいのだけど となる。
4191我が宿の い笹群竹(むれたけ) 吹く風の 音のかそけき この夕(ゆうへ)かも
竹は今までは歌に歌われなかった素材である。掛詞の一部になったり、輪切りにした竹を器に用いたりするのは歌われているが、直接に歌うのは 梅花の宴 での一首と、後に見る家持の作の歌一首位である。それはむしろ中国的な素材で、書で有名な東晋の王羲之の子、五男王徽之(おうきし)が竹を愛して、竹がないと一日も生きていられないといったと伝えられている。真っすぐに伸びる姿が、説を曲げない君子の象徴とされたのである。その竹を吹く風の音も漢詩文では、詠物の詩に繰り返し歌われている。ただしこの歌の独特なのは、素材だけではない。心情語を一切用いずに心情を表現していることが家持らしい所である。家持は越中就任に 巻19-4139 春の苑 紅にほふ 桃の下 下照る道に 出で立つ娘子(おとめ) 巻19-4140 わが園の 李(スモモ)の花か 庭に散る はだれのいまだ 残りたるかも と歌った。このどちらにも心情表現は直接に現れていない。しかしそこには桃の花と、映発する華やかな女性たちのいる都への憧れが、晩春になって李の花が散る頃になっても、それを残雪かと疑わねばならない、雪国暮らしの悲哀が浮き出してくるのである。
この竹の歌はどうであろうか。「家の庭にある少しばかりの竹林に風が吹くと、葉の触れ合う音が微かにするこの夕べだ」しかしそんな音は余程静かにして、耳を傾けないと聞こえないであろう。身の回りに人がいれば気付かない。夕(ゆうへ) であるから辺りは薄暗い。その中から聞こえるかすかな音に聞き入る者は、孤独に打ち沈んでいるのだろう。
殆ど視覚が塞がれた中で働く聴覚という点で、巻19-4146 夜ぐたちに 寝覚めておれば 川瀬尋(と)め 情(こころ)もしのに 鳴く千鳥かも 巻19-4150 朝床に 聞けば遥けし 射水河 朝漕ぎしつつ 唄ふ舟人 などと通じるが、それよりも沈潜の度合いは深いように感じられる。
以上2首の題は、23日に興によりて作る歌二首である。
前回述べた様に、興による は 家持歌日誌に特有の表現で、時節や今の環境に触発された感情を歌うことを表している。ただし越中守時代の場合は、急に描かれることが多いし、前回の二上山の譜とか 高橋虫麻呂が歌った 巻9-1809 兎内(うない)処女(おとめ)の墓を見る歌 一首に追贈するという歌など、その触発された感情は何か別の事柄に向かうことが多かった。
しかしこの二首の場合は自分の感情を触発する景物そのものを描いている。二首にみられる半覚醒 は、その題に合致していると言っていいであろう。
そして この夕影に とか この夕(ゆうへ)に と この と 天平勝宝5年2月23日の夕刻が特に強調されるのは、今 この時の夕影に鳴く鶯の声 とか 庭の風が僅かな竹林を吹く音とか、自分の心に染み入ってやまない事を表しているのだろう。これらの歌の感覚性や興という観念は、中国詩とその理論から持ち込まれてきたものである。例えば「文心雕龍(ぶんしんちょうりょう)」という六朝時代の文学理論署は、物色(ぶっしょく)篇という時々の景物を描くことに関して論じた部分を、「春の日差しはうらうらとし、秋の風の音はサッサッと聞こえ、思いをやるのは贈り物であり、興がやってくるのはその恩返しのような物だ」 というのである。中国では外界の光や音を感覚で捕らえそれを描写する事で、それによって触発された感情を表現するという詩の理論が既にあった。「文心雕龍(ぶんしんちょうりょう)」より少し前の時代に 陸機 という詩人がいた。その人の 悲哉行(ひかいこう) という作品の一部を読む。大意は以下。
「旅人は春の林を美しいと眺めるが美しい眺めは、旅人の心を悲しみに傷ませる。和やかな風は清らかな音を響かせて吹き、軽い雲は薄い影をたらす。草の良い香りが満ち、春の時を得た鳥は美しい声で盛んにさえずる。中略
しかし痛ましいことに一人切りの旅人の憂いは深い。季節に従う草を目に見ては感じ、季節に鳴く鳥の声を耳にしては悲しむ。寝ても覚めても思うのは遠い故郷の事で、空とのように隔たってしまった。故郷への風の響きに託して、敬愛する人に言葉を届けたい」
春は大抵の人にとって美しい良い季節である。しかし孤独な旅人にとっては、異郷の春は美しいだけ、ここが自分のいるべき土地ではないということを意識させる。すると見るもの聞くものにつけて、むしろ悲しみが沸き起こってくるというのである。繰り返し見えるもの、聞こえるものが対句を構成している。春の美しい風景と孤独な人の内面とが分離しながら、視覚や聴覚という個別な感覚によってのみ繋がっている。これは柄谷行人が言うように、日本近代文学の風景と内面の関係に極めて近いと思われる。近代的自我は近代に固有なのではなくて、類似したものは他の国、他の時代でもありうる。
ここで第三首を読み返してみよう
4292 うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しいも 独(ひとり)し思へば
この歌は上の句が景物の描写で下の句が心情表現である。この配置自体は万葉集に普遍的である。しかし両者の関係はどうだろうか。
上の句はうららかに照り映える春の日に、ひばりが高く上がっているという。ひばりもここでは初めての景物である。
小さな鳥だが高々と舞い上がりずっと鳴き続けている。姿が見えなくなって青い天空から声だけが聞こえて来る状況にある。一方下の句では心悲しく独り物思いにふけっている自分がある。外界はあくまで明るく楽し気だけれども、内面はそれにつれて波立つことなく外界が明るいだけ却って暗くなる。そして上の句と下の句と手を繋ぐひばり上がり は 第一首の霞たなびき と同種の連用休止法である。ひばりはひばり、自分は自分と、外界と内面とが断ち切られていることが表される。広い世界で独りぼっちという極限の孤独がここに立ち現れている。この歌の 25日に作る歌一首 という日付だけの題は、万葉集中、他に例はない。それは長い注が付いているのと引き換えなのであろう。春日遅々 という語句は、先ほどの「文心雕龍(ぶんしんちょうりょう)」の、物色(ぶっしょく)篇にも出てきた。それは中国最古の詩集 詩経の詩の有名な言葉である。いくつかの詩に見えるが、春日遅々 と言えば 正啼(そうこう)つまり高麗うぐいすもシンボルとなる鳥である。それでも、注に書いてあるようにあくまで楽し気で明るいのである。しかし家持は 悽惆(せいちゅう)の意 歌にあらずは撥(はら)い難き→歌に悲しみの気持ちは、歌でなくては振り払えない という。いくら周囲が明るくてもそれは自分の悲しみを際立たせるだけで、慰めてくれない。仍りてこの歌を作り、そして諦緒(ていしょ)を展(よ)む→この歌を作って、凝り固まった気持ちを解きほぐす」
なぜ家持はここまで悲しむのか
外界に馴染めない内面をそのまま抽出する以外には解決の方法が無いと言う。カタルシスを齎(もたら)すという家持の和歌に対する見方が窺われる。それにしてもなぜ家持はここまで悲しむのだろうか。
越中就任の物悲しさはまだ分かり易い。都を遠く離れた異郷に暮らし、友も越前にあった。3月3日の宴の歌に和する人もいない。しかし待望の帰京を果たした今、どうしてそんなに孤独なのか。
その訳は帰京時の歌を辿ることによって見えてくる。天平勝宝3年7月帰京の途中で、詠んだという歌を見てみよう。
巻19-4254 大伴家持 都に向かう路上にて興によりて予め作る歌一首 並びに短歌
原文 省略
訓読
蜻蛉島 大和の国を 天雲に 磐船浮かべ 艫(とも)に舳(へ)に 真楫しじ貫き い漕はつつ 国見しせして天降(あも)りまし 払ひ平げ 千代重ね いや継ぎ継ぎに 知らし来る 天の日継と 神ながら 我が大君の 天の下 治めたまへは もののふの 八十伴の男を 撫でたまひ 整へたまひ 食(を)す国も 四方の人をも あぶさわず 恵みたまへば いにしへゆ なかりし瑞(しるし) 度(たび)まねく 申したまひぬ 手招きて 言なき御代と 天地(あめつち) 日月(ひつき)
とともに 万代よろづよ)に 記し継がむぞ やすみしし 我が大君 秋の花 しが色々に 見したまひ 明(あき)らめたまひ 酒(さか)みづき 栄ゆる今日の あやに貴さ
巻19-4255 大友家持 都に向かう路上にて興によりて予め作る歌一首 並びに短歌
原文 秋時花 種尓有等 色別尓 見之明良牟流 今日之貴左
訓読 秋の花 種(くさぐさ)にあれど 色ごとに 見し明らむる 今日の貴さ
巻19-4256 大友家持 左大臣橘卿 寿ぐ為に予め作る歌 一首
原文 古昔尓 君之三代経 仕家理 吾大主 七世申祢
訓読 いにしへに 君が三代(みよ)経て 仕へけり 我が大主(おおぬし)は 七代(ななよ)申(まを)さね
4254
蜻蛉島む 大和の国を 天雲に 磐船浮かべ 艫(とも)に舳(へ)に 真楫しじ貫き い漕はつつ 国見しせして天降(あも)りまし 払ひ平げ 千代重ね いや継ぎ継ぎに 知らし来る 天の日継と 神ながら 我が大君の 天の下 治めたまばへ もののふの 八十伴の男を 撫でたまひ 整へたまひ 食(を)す国も 四方の人をも あぶさわず 恵みたまへば いにしへゆ なかりし瑞(しるし) 度(たび)まねく 申したまひぬ 手招きて 言なき御代と 天地(あめつち) 日月(ひつき)
とともに 万代よろづよ)に 記し継がむぞ やすみしし 我が大君 秋の花 しが色々に 見したまひ 明(あき)らめたまひ 酒(さか)みづき 栄ゆる今日の あやに貴さ
天皇臨席の宴に侍った時、詔に応じて歌うための歌を帰京の途中で、興によって作ったという題詞を持っている。長歌はまず「秋津洲大和国を天の磐舟を浮かべて、舟の艫にも舳にも多くの櫂を取り付け、漕ぎ巡りながら国見をなさって、天降(あも)りこの世を平定した。」 と 「出金詔書を賀ぐ歌」同様に、天孫降臨の神話から語り起こす。天孫が磐船に乗って国見をしたという記事は記紀には無いが、ニギハヤヒ、アメノサルメ、アメワカヒト といった別の神が磐船に乗って降臨したという伝承がある。その天孫以来、続々と世を治めてきた皇統の末として、神々の思し召しのままに、我が大君が
天下をお治めなると、宮廷に仕える多くの氏族の者たちを慈しみ統率なさり、お治めになる国のあらゆる民をもお恵みになるので、古からなかったような瑞祥が何度も奏上される。それは腕組みをしてみているだけでも、事もない平穏な御代である。天地や日月と共に万代(よろづよ)にも記し継がれるだろう。わが大君が秋の花のその色々な花をご覧になり、お心を晴らされ酒宴を盛んになさる今日のなんと貴いことか」
4255 秋の花 種(くさぐさ)にあれど 色ごとに 見し明らむる 今日の貴さ
反歌は長歌末尾の繰り返しで「秋の花も色々あるけれども、色ごとに見てお心を晴らされる今日の貴いことよ」
帰京が秋だったので秋の花を歌っている。興による という注も、その秋の花々に触発されて作っていることを表している。一方 左大臣橘卿を寿ぐ為に予め作る歌 は、橘諸兄の長寿を祝うために前もってつくって置く歌ということで、諸兄出席の宴で歌うことを想定した作である。内容は「古には天皇三代に仕えていた人がいたそうである。我が諸兄様は七代にわたってお仕えください」
諸兄は元々葛城王という皇族であったが、天武、持統、文武の三代にわたって仕えた母 縣犬養三千代が元明天皇即位の時に、賜った橘という名の氏を継いで臣籍降下した。その葛城王の上表文には、昔 武内宿祢という天皇の孫だった人が、臣下として五代の天皇に仕えた事例も引用されている。そうした人たちを上回って、七代の天皇までお仕え下さいと、家持は言うのである。二つの予め作る歌は漸く帰京の願いの叶った家持の期待を表しているように見える。橘諸兄と共に天皇のそば近くに仕えるという「出金詔書を賀ぐ歌」に歌ったような大伴氏に相応しい仕事に向かう抱負でもある。
これらの歌は披露されずに終わる
しかしそれが予め作る歌として載せられていることは、結局その歌は披露されなかったということでもある。
「出金詔書を賀ぐ歌」に続いて作った「吉野離宮に出でまさん時にまけて作る歌」の時と同様、結局吉野行幸が行われなれず披露されなかったことと同じである。
そして特に予め作る歌の方は、そもそも家持に対して詔が出されるとは思われない。そうした長歌は柿本人麻呂、笠金村、山部赤人といった身分の低いいわゆる宮廷歌人の歌うものだったからである。また実際にこれが当時の孝謙天皇に向けて歌われるのに耐えるとも思えない。
孝謙天皇が即位して2年だが、いにしへゆ なかりし瑞(しるし) 度(たび)まねく 申したまひぬ→世にも稀な瑞祥が何度も奏上される などということは記録されていない。それは聖武天皇在位中の黄金の発見を言っているようである。
あるいは聖武上皇臨席の宴を想定していたのかもしれない。しかし聖武上皇はすでに出家して薬師寺にいる。
ともあれ家持は過大な期待を表現し、それは裏切られるためにそこに置かれているかの様に見える。期待は失望の母である。
藤原仲麻呂の台頭
譲位以来孝謙天皇はその母、光明皇太后とが権力の中心にいる訳だが、皇后の宮を改組した 紫微中台(しびちゅうだい)という役所の長官 藤原仲麻呂が、その二人を結び付け太政官として別の権力を持つようになった。天平勝宝4年4月9日大仏開眼会が行われたが、この日孝謙天皇は仲麻呂の屋敷に戻ってそこを行在所としたと続日本紀は記している。太政官のトップは相変わらず橘諸兄で正一位という最高位であるが、この権力は空洞化していく。天平勝宝3年の時点で、橘諸兄は既に68歳、長寿を祝われるのは老いていることの裏返しである。家持の歌にはやはり裏腹な現実があると思わなければならない。
巻19の家持帰京後の部分には仲麻呂の屋敷に天皇と皇太后が行幸した時の歌や聖武上皇が橘諸兄の屋敷で宴をし、家持も同席した時の歌が載せられている。天平勝宝5年1月に大雪が降り、最初の歌は11日の歌である。
巻19-4285 大伴家持 11日雪が降って一尺二寸積もった。そこで思いを述べた歌 三首
原文 大宮能 内尓毛外尓母 米都良之久 布礼留大雪 莫踏祢乎之
訓読 大宮の 内にも外にも めづらしく 降れる大雪 な踏みそね惜し 1/3
巻19-4286 大伴家持 11日雪が降って一尺二寸積もった。そこで思いを述べた歌 三首
原文 御苑布能 竹林尓 鶯波 之波奈吉乎 雪波布利都々
訓読 御園生(みそのふ)の 竹の林に 鶯は しば鳴きにしを 雪は降りつつ 2/3
巻19-4287 大伴家持 11日雪が降って一尺二寸積もった。そこで思いを述べた歌 三首
原文 鶯能 鳴之可伎都尓 尓保敝理之 梅比雪尓 宇都呂布良牟可
訓読 鶯の 鳴きし垣内(かきつ)に にほへりし 梅この雪に うつろふらむか 3/3
巻19-4288大伴家持 1月12日に内裏に侍った時に、千鳥が鳴くのを聞いて作った歌一首
原文 河渚尓母 雪波布礼礼之 宮裏 智杼利鳴良之 為牟等己呂奈美
訓読 川洲にも 雪は降れれし 宮の内に 千鳥鳴くらし 居む所なみ
巻19-4289大伴家持 2月29日橘諸兄邸の宴で攀じ折った柳の枝を見る歌一首
原文 青柳乃 保都枝与治等理 可豆良久波 君之屋戸尓之 千年保久等曽
訓読 青柳の 上枝(ほつえ)攀(よ)じ取り かづらくは 君が宿にし 千年寿(ほ)くとぞ
天平勝宝5年1月に大雪が降り、最初の三首は11日の歌である。
4285 大宮の 内にも外にも めづらしく 降れる大雪 な踏みそね惜し 1/3
「大宮の内でも外でも素晴らしく降った大雪だ、踏んでくれるな惜しいから」雪の清らかさを誉め、それを汚さないでほしいと願っている。
4286 御園生(みそのふ)の 竹の林に 鶯は しば鳴きにしを 雪は降りつつ 2/3
所が第二首では「お庭の竹の林で鶯はしきりに鳴いていたのに、雪は降り続いている」と、宮の中の庭園で鶯が鳴いていたのに季節がまた、冬に戻ってしまったと歌う。
4287 鶯の 鳴きし垣内(かきつ)に にほへりし 梅この雪に うつろふらむか 3/3
そして第三首でも、鶯が鳴いた宮中で、咲いていた梅はこの雪で散ってしまっているだろうかという。いづれも宮中に降る雪を思いやっていることに注意する。
4288 川洲にも 雪は降れれし 宮の内に 千鳥鳴くらし 居む所なみ
翌日1月12日に内裏に侍った時に、千鳥が鳴くのを聞いて作ったと題する歌である。「川の中州にも雪が降ったので、宮中で千鳥が鳴いているらしい、居場所がなくて」 再び雪の中に凍える鳥を歌っている。居場所が無くて と わざわざ付け加えているのが、誠に暗示的である。
4289 青柳の 上枝(ほつえ)攀(よ)じ取り かづらくは 君が宿にし 千年寿(ほ)くとぞ
そして最後の歌がまた、橘諸兄に対する賀の歌である。「青柳の枝先を引っ張って取り髪飾りにするのは、あなた様の庭で千年の長寿を祝うためです」この歌は橘諸兄邸での宴であるが、攀じ折った柳の枝を見る歌 と 題に記されている。
橘諸兄に奉ったとか、宴会で歌ったとか語られていないのが変わっている。やはり何かあると思わないではいられない。
近代文学から見た家持
かように帰京後の、特に天平勝宝5年に入ってからの、家持の歌はどうにも不穏なのである。いづれも暗示的で直接にはそれとは分からないが、それ故に却って宮廷社会の息苦しさが窺われるようになっている。それが次第に孤独感を増していくような巻末の三首へと繋がっているのである。近代的自我を発見した近代人は、巻末三首の孤独の表現に自分たちの姿を発見したが、それが密やかな政治的メッセ-ジであることは、あまり重要視しなかった。それは歌を歌集から独立させて読むことが習慣化していたことと共に、私たちの文学の観念が西洋から流入してきたもので、それが本質的に非政治的だったからであろう。家持の歌が瓦礫ばかりといわれるのは、先行する歌人の表現を取り入れることが多いのが一番の原因である。近代文学では個性的であることに、一番の価値を置く。しかし歌文学は本来そうしたものでなくて、表現は共有し先行の表現を踏まえて自分の表現を作る方が王道なのである。それは和歌が宮廷に共有される文化だからである。家持も他者と交わり他者に直接伝えるような歌は共有されるにふさわしい表現をする。
それ故に孤独の表現は類型を壊し、特異な素材を用いて歌うのである。西郷信綱が巻末の三首を得るために、瓦礫を積んできたというのはあながち間違いではない。先行する歌や類型を知り抜いていなければ、独自の表現も類型を壊すこともできないからである。なにしろ家持は万葉集全体の編纂者と目されているのだから、それまでにあった他の表現やパタ-ンは熟知していたに違いない。
和歌は漢詩に比べれば自然に対して遥かに親和的である。漢詩風の素材を漢詩の様に感覚的に捉えれば、非常に特異で孤立的な表現になることは分かっていたのであろう。
心悲しも 独りし思へば と結ぶ巻末歌の左注は、この巻19の歌で作者名の無いのは全部家持の歌という巻末記と一体化していた。つまりこの歌は天平勝宝5年2月25日、この巻を閉じるにあたっての心境が、絶対的な孤独感ということを表すものである。
越中での孤独から都での孤立という丸三年間の、家持の軌跡が巻19全体で表現されている。だから巻頭と巻末に、家持の独自性の強い歌、即ち近代で評価の高くなる歌が配置されているのは決して偶然ではない。
「コメント」
万葉歌人と近代歌人を比べるのが、間違っている。その歴史、時代におけるあるべき姿が存在する。その中で現代に合致して高く評価されるものもあるだろう。そうでないものも。それを瓦礫の山とは、狭い視野の学者ではある。講師はそのような人々をやんわりと批判している。