230128 ㊷「大伴家持の若き日の歌」
前回は巻16の風変わりの歌々を読んだ。反和歌的と言っても良い、雅ならざる歌が多いのだが、
卑俗な日常が無情な深遠と隣り合わせであることが示され、なかなか隅におけない巻である。ある面、万葉人の知性の高度な発揮で万葉集が素朴だという観念を吹っ飛ばしてしまう。
第4期の歌人 大伴家持
今回から大伴家持が本格的に登場する。家持は万葉集を4期に区分した場合、最後の第4期に属する歌人である。
というより第4期は殆ど家持を中心にして、他の人の歌は家持の手許に集まってきた歌々というのが実情である。既に読んだ巻15の二つの歌群 天平8年 730年の遣新羅使の歌が、天平12年の中臣宅守・狭野弟上娘子の贈答歌も、時期的には第4期に属するが、家持が入手したもので整理した跡を留めていると見る説もある。より広く見れば万葉集自体が、最終的には家持の手に入って纏められたとなる。序文など無いものの万葉集の凡そが家持によって作られたことは確実だと私は思う。つまり私達は万葉集の歌の歴史を、家持の目を通して見ていると考えられる。
家持の歌は470首余りあって、万葉集全体の一割にも達する。作者を記す巻の大半に家持の歌は現われる。家持は自分の半生を、また和歌の遍歴を、万葉集全体を通して語っていると言える。
家持のデビュ-
家持は最後は従三位中納言という地位に至るので、その人生も他の歌人に比べれば良く分かっている。大伴氏の系図の記載や公卿補任によれば、養老2年 718年の生まれ、父は旅人。万葉集では 天平2年夏大宰帥だった父 旅人が、足に腫物が出来て命が危なくなり、都から旅人の異母弟 稲公(いなぎみ)と甥の古麻呂が遺言を聞きに、急遽都から下った時、幸いにも回復して、稲公たちが都に帰る時の送別の宴に名が見えるのが最初である。その時は13才で歌はまだ作ってはいない。その年の冬に旅人は大納言となって帰京するので、家持も一緒に戻ったはずであるが、翌天平3年に旅人は亡くなる。家持は長男ながら、旅人が54歳の時の子なので、旅人が特別早死だったわけではないが、父の庇護を十分に受けられなかったことは、家持の利益に暗い影を落としたであろう。母が誰なのかははっきりしないが、私は旅人が大宰府に下ったばかりの神亀5年 728年に失くした正妻大伴郎女が生母なのではないかと思う。後の歌に母を歌い込んだ作があること、又はるか後の64歳の時に母の喪に服していることから、家持の母は別にいるのだが、それは大伴郎女が亡くなった後大宰府まで下った旅人の異母妹・家持にとっては叔母に当たる大伴坂上郎女のことと考える余地があると考える。まことに大伴坂上郎女が母代わりだったようである。それをよく表す歌が巻6に並んでいるので読む。
巻4-979 坂上郎女 甥 家持が佐保より西の家に帰宅の与える歌一首
原文 吾背子我 著衣薄 佐保風者 疾莫吹く 及家左右
訓読 我が背子が 着る衣薄し 佐保風は いたくな吹きそ 家に至るまで
巻4-993 坂上郎女 三日月の歌一首
原文 月立而 直三日月之 眉根掻 気長戀之 君尓相有鴨
訓読 月立ちて ただ三日月の 眉根掻き 日長く恋ひし 君に逢へるかも
巻4-994 大友家持 大伴宿祢家持 三日月の歌一首
原文 振仰而 若月見者 人目見之 人乃眉引 所念可聞
訓読 振り放(さ)けて 三日月見れば 人目見し 人の眉引き 思ほゆるかも
979 我が背子が 着る衣薄し 佐保風は いたくな吹きそ 家に至るまで
これらは巻6の天平5年の所に並んでいる。最初の歌の題詞は「坂上郎女が甥の家持が佐保の家から西の家に戻る時に与えた歌」と言っている。坂上郎女は坂の上の里に住んでいたので、その名前で呼ばれている、佐保大納言安麻呂の娘で、旅人亡き後の佐保大納言家を切り盛りするために佐保にいたのであろう。家持もその時は西の家に住んでいた。尤も坂上も佐保も西の家も平城京の東北部で、遠くはなかったと思われる。それでも坂上郎女は心配顔で見送っている。「わが愛しい子が着ている上着は薄い。佐保の風よ、ひどく吹かないでおくれ。あの子が家に着くまで」
993 月立ちて ただ三日月の 眉根掻き 日長く恋ひし 君に逢へるかも
二首目は三日月の歌という題であるが、この題詞では三日月を初月と書いている。これは中国詩に見られる言い方で、歌自体も詠物詩に倣った詠物歌である。「月が立ってまだ三日目の月のような眉を掻いて、長いこと恋しく思っていた貴方に逢った事だな」眉を掻いて恋人に逢うというのは、当時の俗信で眉が痒くなるのは、恋しい人に逢える前兆だというのに基づいている。この俗信を逆用して、自分の眉をわざと掻いて、恋人を招き寄せるという呪術の歌もある。
坂上郎女のこの歌の場合はどちらとも掻いているのだが、眉を掻いて長らく恋しく思っていた人にようやく逢ったというので、ひとまず呪術の方にしておく。無論これは詠物歌なので実際の恋とは関連のない趣向である。しかし題は三日月の歌なので趣向の中心は、三日月の眉にある。女性は自分の眉毛を抜いて三日月形に眉墨で書く化粧法は中国から渡ってきて、日本でも行われるようになる。高松塚古墳の壁画などにも、当時の化粧をした女性が描かれている。そしてその眉を三日月に見立てるのも漢詩にある発想なのであった。
六朝の宋の詩人・鮑照(ほうしょう) の 月を城の西門の廨中に翫(もてあそ)ぶ
六朝の宋の詩人・鮑照(ほうしょう)に、 月を城の西門の廨中に翫(もてあそ)ぶ と言う詩がある。廨(かい) は、宿舎のことである。「城の西門の官舎で月を見る」という意味で、その最初の4句は「はじめ西南の楼に見る 繊繊(せんせん)として 玉鉤(ぎょくこう)の如し 末には東北の墀(す) 娟娟(けんけん)として 蛾眉に似たり」始見西南樓、纎纎如玉鉤 未映東北墀、娟娟似蛾眉 →初めは西南の楼閣に見え、細々として玉で出来た鍵の様だ。後には東北の階段の所に移り、美しい蛾の眉に似ている」蛾眉は、蛾の触角のように描いた女性の眉のことで、後には美人の象徴にもなった。この詩は月の詠物詩として有名で、文選 にも載せられ日本にも伝えられた。坂上郎女はこの見立ての発想を中心に据えたのである。
994 振り放(さ)けて 三日月見れば 人目見し 人の眉引き 思ほゆるかも
第三首は家持の歌でこれ又、初月・三日月の歌であった。「振り仰いで三日月を見ると、一目見たあの人の眉が思われるなあ」 ~見れば~思ほゆ と言うのは、国見歌の~見れば~見ゆ と言う形を変形させたもので、~を見る事を機縁として、今は目にすることの出来ない何かが心の中に現れて来るという事を歌う歌である。問えば柿本人麻呂の巻3-304 大君の 遠の朝廷(みかど)と あり通ふ 島戸(しまと)を見れば 神代し思ほゆ→ 大君の遠い御門なので、舟の通い続ける(明石)海峡を見ると神代のことが偲ばれる。
何度もこの型で、ずっと変わらない目の前の盛んな交通が、神代と言う今はない世界を偲ばせているのである。家持の場合は、三日月が今はいない女性の眉を思わせる。それは坂上郎女と同じく漢詩の発想を引き込んだものである。詠物の歌は、宴席などを場として、製作されたと考えられる。坂上郎女や家持の歌は、同じ場の作であった蓋然性が高い。
家持は佐保大納言家の主婦である坂上郎女に庇護されるだけでなく、歌の手ほどきも受けたのであろう。すると歌の形は古いもので、発想は叔母さんの真似、それでは家持の手柄はないのかと言えばそうでもない。振り放(さ)けて は、本来遠くを見る事だが、この歌の原文では、振り仰ぐ と言う字が書かれている。つまりまだ高い所にある三日月を歌っているのだろう。季節によるが、高い所にある月は、薄暮の中で白っぽく見える。鮑照 は、はじめ西南の楼に見る 繊繊(せんせん)として 玉鉤(ぎょくこう)の如し と述べたように、ほんのりとした光なのである。そのうっすらとした光が、一目だけ見た女性の眉を思わせる。一瞬しか見ていないので顔全体は朧だけども、その眉だけが印象に残って三日月によって呼び起こされるのである。16歳の少年の作という事が、淡い初恋の歌によく似あっている。そしてこうした淡い光を捕らえる鋭敏な感覚が家持の詠物の歌の特徴となっていく。天平5年は、山上憶良が亡くなった年である。一方16歳の少年家持が年代のほぼ確実な歌を作った年でもある。それでこの年を第三期と第四期の境としている。
大体この頃の作と思われる詠物の歌が、巻8に何首か残っている。
原文 打霧之 雪者雫乍 然為我二 吾宅乃苑尓 鶯鳴裳
訓読 うち霧らひ 雪は降りつつ しかすがに 我家(わぎへ)の苑に 鶯鳴くも
原文 春野尓 安佐留雉乃 妻戀尓 己我當乎 人尓令知管
訓読 春の野に あさる雉(きぎす)の 妻恋ひに おのがあたりを 人に知れつつ
原文 夏山之 気末乃繁尓 霍公鳥 鳴響奈流 聲之遥佐
訓読 夏山の 木末(こぬれ)の茂に 霍公鳥 鳴き響(とよ)むなる 声の遥けさ 1/2
巻8-1495 大伴家持 霍公鳥(ほととぎす)の歌二首
原文 足引乃 許乃間立八十一 霍公鳥 如此聞始而 後将戀可聞
訓読 あしひきの 木(こ)の間立ち潜(く)く 霍公鳥 かく聞きそめて 後恋ひむかも 2/2
巻8-1649 大伴家持 雪梅の歌一首
原文 今日零之 雪尓競而 我屋前之 冬木梅者 花開二家里
訓読 今日降りし 雪に競(きほ)ひて 我が宿の 冬木の梅は 花咲きにけり
巻8は季節分類したうえで、それを雑歌と相聞に分ける構成である。
1441 うち霧らひ 雪は降りつつ しかすがに 我家(わぎへ)の苑に 鶯鳴くも
春 雑歌。「空を霧がかられて雪は降り続けて居る。そうはいっても我が家の庭には鶯が鳴いているよ」
しかすがに は、逆説の接続を表す言葉で、第三句において冬から春への変わり目に相反する現象を述べる歌である。巻10の作者未詳の歌に5首もある。例として 1848 山の際(ま)に 雪は降りつつ しかすがに この川楊(かはやなぎ)は 萌えにけるかも もその一つである。「山の谷間に雪は降り続けていて、そうはいってもその川楊はもう芽を吹いて
いるのだなあ」家持の歌と同じく上二句に冬の雪、下二句に春の景物を置いている。しかしそれがいずれも上下とも見えるもの、そこにあるものを歌っているのに対して、家持の作は上二句は見えるもの、下二句は聞こえるものを歌うという違いがある。
うち霧らひ は、視界全体が細かく降る雪に閉ざされている印象を与える。一方 我家(わぎへ)の苑に 鶯鳴くも は、すぐ近くから鶯の声がすることを表している。冬の中に春が間近いことを感じられた喜びが良く表現されている。
1446 春の野に あさる雉(きぎす)の 妻恋ひに おのがあたりを 人に知れつつ
春 雑歌部の歌。「春の野でエサをとる雉が妻を恋しがって、自分の居場所を人に知らせながら鳴いている」
雉は当時 キジシ と呼ばれていた。臆病な鳥で繁みに潜んでいるが、鋭い声で居場所が分かってしまう。食べておいしい鳥なので、狩猟の代表的な鳥である。「雉も鳴かずば撃たれまいに」という言い回し通りである。でも危険を冒しても、妻恋しさに声をあげてしまう雉の哀れさも、擬人法的に感情移入しながら歌っている。キジシは身近な鳥だが、和歌の主題として取り上げる事は、家持以前にはなかった。中国には 雉朝飛ぶ と言う歌謡があって、雄雌のことも触れるので、そこから新たな材料として和歌に導入されたとみられる。
1494 夏山の 木末(こぬれ)の茂に 霍公鳥 鳴き響(とよ)むなる 声の遥けさ 1/2
夏の雑歌の歌で、「夏の山の木末の茂みで霍公鳥が鳴いている声が何と遥かなことよ」声の遥けさ で、歌を止めるのは、志貴皇子の子、湯原王の 巻8-1550 秋萩の 散りのまがひに 呼び立てて 鳴くなる鹿の 声の遥けさ を記憶している方もいるだろう。巻10-1952作者不詳 今夜(こよい)の おぼつかなきに 霍公鳥 鳴くなる声の 音の遥けさ もあって、家持以前にあったと思われる。湯原王の作は、秋萩が散っていく目の前の光景と、遠くから聞こえてくる高い鹿の声と組み合わせて秀歌であることは以前に述べた。巻10の作は「はっきりしない今晩、霍公鳥が鳴く声の遥かなことよ」という事で、梅雨時のうっとおしさが述べられているが、視覚的要素はない。
家持の作は 夏山の 木末(こぬれ)の茂に と、繁った夏の山を提示し、広がる緑の中から聞こえてくる霍公鳥の声を捉えている点で、湯原王の遠近法や感覚を登用する趣をよく学んでいると思う。
1495 あしひきの 木(こ)の間立ち潜(く)く 霍公鳥 かく聞きそめて 後恋ひむかも 2/2
第三首と同じ題詞の下にあり、組になる歌である。最初の あしひきの は、本来山に掛かる枕詞であるが、この場合は山と言う言葉の代わりに使われている。「山の木の間を移っていく霍公鳥はこうして聞き始めて、後には恋しくなるのだろうなあ」霍公鳥は山からおりてきて鳴くのを待つことを歌うのが習いである。先の歌もこの歌もまだ山に居て、里から遠い初声を聴いた喜びの表現であるが、この歌ではやがて霍公鳥がいなくなってしまった後の恋しさまでを歌うのが変わっている。山部赤人の表現に学んでいるのかも知れない。この歌のもう一つの特徴は、立ち潜(く)く という表現である。
潜(く)く は、小さい隙間を潜って移っていく動作を表す言葉である。この 立ち潜(く)く という表現は、霍公鳥の視覚的表現として、この後くり返し使うようになり、鶯に対しては 飛びくく と言う言葉を使う。小鳥である鶯には 飛びくく、鳩位ある霍公鳥の動作には、立ち潜(く)く を使うという事辺りが、家持の芸の細かい所である。こうした特殊な語彙にも注目すべきであろう。
1649 今日降りし 雪に競(きほ)ひて 我が宿の 冬木の梅は 花咲きにけり
冬の雑歌に配列されている。「今日降った雪と競うように、家の庭の冬枯れた木に梅の花が咲いたことだ」
これは 競(きほ)ひて と言う言葉に趣向がある。擬人化してなおかつ、あまり雅でない言葉をわざと使う。大宰府での梅花宴に後に追加する梅の歌の中に、雪の色を奪ひて避ける梅の花 と言う表現があって、奪う と同じ趣向である。それはやはり漢詩の表現に倣ったものであった。家持は雪と梅の色とが似ていることで、白さを競っていると共に、梅の色が雪の寒さを冒して咲いているのをこの様に表現したのであろう。
以上5首はいずれも詠物歌で、恐らく宴席を場として作られたのであろう。どれも趣向を凝らしてあり、知的で繊細である。
ただそれだけなら趣味の範疇で紹介するまでも無いかもしれない。しかし家持の場合はその詠物の技術が、後に彼の人生に深く関わる和歌を読んだと思われる点が重要である。
おなじ巻8の秋 雑歌に載る秋の歌4首と言う題の歌を読む。
巻8-1566 大伴家持 秋の歌四首 左注 右四首天平八年丙子九月に作る
原文 久堅之 雨間毛不置 雲隠 鳴曽去奈流 早田雁之哭
訓読 久方の 雨間も置かず 雲隠り 鳴きぞ行くなる 早稲田雁(かり)がね 1/4
巻8-1567 大伴家持 秋の歌四首 左注 右四首天平八年丙子九月に作る
原文 雲隠 鳴奈流雁乃 去而将居 秋田之穂立 繁之所念
訓読 雲隠り 鳴くなる雁の 行きて居む 秋田の穂立 繁くし思ほゆ 2/4
巻8-1568 大伴家持 秋の歌四首 左注 右四首天平八年丙子九月に作る
原文 雨隠 情鬱悒 出見者 春日山者 色付二家利
訓読 雨隠(あまごも)り 心いぶせみ 出で見れば 春日の山は 色づきにけり 3/4
巻8-1569 大伴家持 秋の歌四首 左注 右四首天平八年丙子九月に作る
原文 雨晴而 清照有 此月夜 又更而 雲勿田菜引
訓読 雨晴れて 清く照りたる この月夜(つくよ) 又さらにして 雲なたなびき 4/4
1566 久方の 雨間も置かず 雲隠り 鳴きぞ行くなる 早稲田雁(かり)がね 1/4
「雨の止むのも待たずに、雲に隠れて鳴きながら飛んでいく早稲田を刈るというあの雁がねが」
秋になると雁が北から飛来する。秋の長雨を冒して雲に隠れながら飛ぶ、その声が聞こえてくる。折しも早稲の田が実る頃なので、雁のことを早稲田を刈る雁→早稲田雁がねと表わしている。
1567 雲隠り 鳴くなる雁の 行きて居む 秋田の穂立 繁くし思ほゆ 2/4
「雲に隠れて鳴いている雁が行って舞い降りる。秋の田の穂のことが頻りに思われる。」第一首の続きであるのが明らかである。秋田の穂立 も、第一首の早稲田そのものであろう。今年の実りがどうなのか気に掛かるのである。
この歌でも 繁く と言う語が、穂立が繁っている ことと 繁く思う→しきりに思われる との両方に働いている。
1568 雨隠(あまごも)り 心いぶせみ 出で見れば 春日の山は 色づきにけり 3/4
「雨の降りこめられて心が塞いでいるので、外に出てみると春日の山は色づいていたのだった。」
この歌は~見れば~見ゆ という国見歌の形のままである、国見歌は理想的な景を見える と歌う事で、その現実を招き寄せようとする呪術である。その系譜を引く歌で、見える景は、良きもの 美しいものである。
春日の山は、恐らく家持のいる佐保の家からは間近に見える平城京東の山、それが雨続きで外に出ない内に美しく紅葉していたのであった。いぶせみ はとは、心が塞ぎうっとおしいことで、思う人に逢えない時のこじれた気分という歌に使う言葉であったが、家持は梅雨の頃の憂鬱な気分に使っている。家持には巻8夏雑歌の1479に隠り(こも)のみ 居れば
いぶせみ 慰むと 出で立ち聞けば 来(き)鳴くひぐらし と言う歌があり、「梅雨時には籠ってばかりいると心が塞ぐので、慰めになるかと霍公鳥が来て鳴いておくれ」 と歌っている。これも同じで、憂鬱な気分が晴れていく歌である。
1569 雨晴れて 清く照りたる この月夜(つくよ) 又さらにして 雲なたなびき 4/4
「天が晴れて清らかに照ったこの月夜は、今更また雲が棚引いたりしないでおくれ」雨はすっかり上がり、夜になって綺麗な月が出ている。しかし長雨の頃、又雲が出て月を隠さないかと心配している。この四首は三つの点で特徴的である。
第一にこれまでの和歌で、雨や晴れで変わる気分を歌うという事はまず例がない。これは中国に雨を苦しむ、晴れを喜ぶという題の詩があるのを流用したものと考えられる。天候は民の暮らしに直結するので、男子の志を述べる詩には古くからある主題である。
連作の始まり 家持歌日誌 巻17~20 の始まり
第二に、この四首は明らかに時を追った連作になっていることである。天候は雨から晴れへ、時刻は昼から夜に移り、心情も憂鬱から解放され、又杞憂へと向かっている。こうした連作は柿本人麻呂以来あるが、景物と心情がシンクロして変化して行く過程を意識的に追っているらしいところが大事である。こうして家持の連作の方法は次第に発展して、遂には歌日誌として万葉集巻17~20までが時間によって一つに繋がれ、いわば巨大な連作を成すに至る。その起点となるのが、この四首なのである。
そして第三にこの四首には 天平8年丙子の秋に作る という註があることである。家持自身が自分歌にいつの製作かを示すのはこれが初めてである。それはいわば家持19歳の秋9月という自分にとって固有の時と、歌の製作を結びつけることである。家持にとって歌はその時その時の自己を刻むものになっている。それも又歌日誌の形成に向かう大きなステップであろう。
聖武天皇 恭仁京へ
さて家持は天平10年21歳には内舎人という官に就いたことから、巻8の歌から知られる。舎人はいわば雑用係であるが、内舎人は帯刀して天皇の警護もする格の高い官で、大伴氏大納言家のような名門の子弟が見習いとして勤めていた。所が天平12年740年に九州で藤原広嗣の乱が発生し、聖武天皇は平城京を出てしまった。そして東国を巡行したまま平城京には戻らず、南山城の恭仁京に落ち着く。詳しい経緯については別に話すが、結局そこを都にすることになった。天皇に親しく仕える家持は、そこに常駐する事に成る。恭仁京での生活が始まった頃、弟の書持と交わした贈答歌がある。巻17 3909~0913 最初の二首が書持、後の三首が家持である。
巻17-3909 大伴書持 霍公鳥を読む歌二首 左注 4月2日 書持 奈良より兄家持に贈る
原文 多知婆奈波 常花尓毛歟 保登等藝須 周無等来鳴者 伎可奴日奈家牟
訓読 橘は 常花(とこはな)にもが 霍公鳥 住むと来鳴かば 聞かぬ日なけむ 1/2
巻17-3910 大伴書持 霍公鳥を読む歌二首 左注 4月2日 書持 奈良より兄家持に贈る
原文 珠尓奴久 安布知乎宅尓 宇恵多良婆 夜麻霍公鳥 可礼受許武可聞
訓読 玉に貫く 楝を家に 植えたらば 山霍公鳥 離(か)れず来むかも 2/2
巻17-3911 大伴家持 題詞
橘の花が咲き始め、霍公鳥が鳴きながら飛んでいる。こんな季節になってどうして思いを表さないでいられようか。そこで三首の歌を作り、塞ぐ気持ちを晴らそうと思う。
左注 4月3日 家持より平城京の弟書持に送る
原文 安之比奇能 山邊尓乎礼婆 保登等藝須 木際多知久吉 奈可奴日波奈之
訓読 あしひきの 山辺に居れば 霍公鳥 木の間立ち潜(く)き 鳴かぬ日はなし 1/3
原文 保登等藝須 奈尓乃情曽 多知花乃 多麻奴久月之 来鳴登餘牟流
訓読 霍公鳥 何の心ぞ 橘の玉貫く月し 来鳴き響(とよ)むる 2/3
巻17-3913大伴家持 題 左注 上に同じ
原文 保登等藝須 安不知能枝尓 由吉底居者 花波知良牟奈 珠登見流麻泥
訓読 霍公鳥 楝の枝に 行きて居ば 花は散らむな 玉と見るまで 3/3
弟の書持は早くなくなったので、履歴が分からない。家持と何歳違いかも分からないが、恐らくまだ官に就いていなかったであろう。前年12月に恭仁京に遷都が決まってからも、平城京にいた。離れ離れになった兄に書持からまず歌が送られた。題は霍公鳥を詠む歌、詠物歌の題である。日付は4月2日で丁度霍公鳥が来る頃であった。
3909 橘は 常花(とこはな)にもが 霍公鳥 住むと来鳴かば 聞かぬ日なけむ 1/2
「橘は一年中咲く花であって欲しい。そうすれば霍公鳥が住処にしていつもその声を聴かない日はないのになあ」
橘と霍公鳥は、父旅人が巻8-1473 橘の 花散る里の 霍公鳥 片恋しつつ 鳴く日しそ多き と自分と亡き妻を見立てた様に、睦まじい仲と言われてきた。橘は常緑で実も長いこと付いているが、花の時期は短い。霍公鳥もすぐいなくなってしまう鳥である。花もずっと咲いていれば、ここに住みたいと思って鳴き続けてくれるのではないかと言うのである。
3910 玉に貫く 楝を家に 植えたらば 山霍公鳥 離(か)れず来むかも 2/2
「薬玉(くすだま)にする楝(おうち)を家の庭に植えたら、山の霍公鳥は離れずに居てくれるだろうか」玉に貫く は、5月5日の節句に作る薬玉の飾りつけにするという事。楝は栴檀(せんだん)で、初夏の花であるが、小さい花なので本当に薬玉につけたかどうかは分からない。この花は妻を亡くした旅人に、憶良が奉った 日本挽歌 に歌われていた。書持は橘がダメなら、楝はどうだろう、植えたら山の霍公鳥がずっと来るのではないかと歌っている。霍公鳥は初声を待つことを歌うが、そんなにずっと続けて居てほしいと願うのは珍しい。書持が何故霍公鳥に執着するのか。それは周囲に人がいなくて淋しいからであろう。遷都によって兄をはじめ、主だった人々は恭仁京に去った。自分は打ち捨てられた平城京に残っている。その寂しさを兄に訴えたのがこの二首である。これは詠物歌による抒情である。書持は同じ時期に 大宰府の時の梅花に追和する新しき歌6首 を製作している。旅人が主宰した 梅花の宴 を追慕する歌によって、自分の孤独感を表現したとみられる。旅人と憶良の梅花の歌こそ、都への思いを託した詠物による抒情のはじめとなった作品なのである。
恭仁京にいる家持は翌日4月3日の日付で書持に答えている。恭仁京は奈良山を越えて木津川を少し遡った所だからすぐ届く。家持は少し長い題を付けている。
橘が咲き霍公鳥が鳴きたてる、この時候に向かって何で志を述べないでいられよう。三首の歌でこの心情を解きほぐそうと思うのみである。
3911 あしひきの 山辺に居れば 霍公鳥 木の間立ち潜(く)き 鳴かぬ日はなし 1/3
「山辺にいるので霍公鳥が木の間を潜って鳴かない日はない」
例の 立ち潜(く)く を、ここで用いている。霍公鳥がずっと鳴いてくれないかと願う弟に対して、こちらは山に近いので
霍公鳥は毎日聞いているよと答える。
恭仁京は木津川沿いの狭い盆地にあり、そこに居続けることはそれはそれで気の塞がることなのであろう。
3912 霍公鳥 何の心ぞ 橘の玉貫く月し 来鳴き響(とよ)むる 2/3
「霍公鳥はどういうつもりなのか。橘を薬玉につける月だけ来て声を響かせる。」すぐ居なくなってしまう霍公鳥をなじり、ずっと居続ければいいのにと弟に同調している。なかなか初声を聴かせない霍公鳥を非難する歌を、家持は少年時代に作っている。
3913 霍公鳥 楝の枝に 行きて居ば 花は散らむな 玉と見るまで 3/3
「霍公鳥が楝の枝に行ってとまったら、花が散るだろう。実がなる季節に又やって来るだろうか」書持が楝を家の庭に植えたら霍公鳥がくるかもしれないという想像に乗って、そうしたら霍公鳥がとまった拍子に、貫く糸が切れて玉がばらばらになるように、楝の小さな花が散るだろうと続きを想像する。その美しい光景は平城京の自宅でのことであった。家持は家持でやはり家が懐かしく、帰りたいという思いが込められている。反乱の勃発、急な遷都といった世情不安の中、23歳の家持の生活と歌とは深く結びつくようになる。や家持の若い日を語るには、こうした詠物歌の他に女性を巡る歌々に触れなければならない。
「コメント」
デビュ-当時の家持の気分が伝わってくる。聖武天皇の遷都騒ぎの中での家持。藤原氏専横の中での大伴氏の当主。歌を武器にして世渡りをしようとしたのか。色々な政変にはどうかかわっていたのか。興味が湧く。