221119 ㉝「大伴旅人の望京の歌と長屋王の変」

前回

前回は憶良の嘉摩(かま)三部作について話した。漢文の序に、反歌一首を伴う長歌という組み合わせの三つの歌群。

惑える情を変えさしむる歌 では、家族を捨てて仙人になる修行をしている男に、仕事に戻る様に説得しながら、自己矛盾に陥って、口籠ってしまう自己を描き、子等を思う歌では子に対する執着、煩悩をそれと知りながら離れられない自己最後の、世の中の 留まり難きを悲しむる歌 では、老いは速やかに到来することを嘆き、老醜を晒しているのを自覚しながら、なお生への執着から離れられない自己を表している。妻を失った旅人に代わって、その心情を述べ歌う日本挽歌の製作を通じて、

憶良は老境の身を連作によって振り返る事に成る。そうした共鳴が起こったのは、旅人自身が和歌を歌う人だからであろう。

 

和歌の特徴 個人的な物ではなかった。

これまで見て来た様に、和歌は基本的に宮廷の物で、特に最初の方は、天皇や天皇に近い皇族の歌が殆どであった。その次の時代になると、柿本人麻呂のような下級官人達が、貴人たちの近くに侍って歌を捧げる。いずれも和歌が歌われるのは、集団の場・儀礼の場であって、歌うのは天皇、皇族でも下級官人達の宮廷歌人達である。歌われる心情は、歌い手個人に限定されるのではない。天皇や貴族は、その立場で歌うのであって、下級官人達には自らの私を歌う資格はない。せいぜい、恋歌のような相手が限定される場合のみ、個人の歌はあり得たのである。歌という特別な言葉は、日常生活の言語から切り離されたフィクションだから、むしろ歌の語る心と歌い手の心とは同じではないというのが、本来の在り方だと言ってよいであろう。しかしそういう建前があるからこそ、歌の中に本心を込めることも出来るのである。恋の思いなどと言うのは、日常の言葉ではとても恥ずかしくて言えないようなことであるが、歌にすればそれに託することが出来る。恋歌の仕組みとはそういう事である。

 

大伴旅人の登場 個人的感情の歌

さて恋歌でなければ集団に共有されない個人的な思いを、そのまま歌うことは普通なかったと、ここまでの万葉集の歴史は語っているが、そこに現れたのが大伴旅人だったのである。前々回、妻を失った旅人が、

5-793 世間(よのなか)は 空しきものと 知る時し いよいよますます 悲しかりけり と歌ったのを読んだ。それはいわば泣き言で、正三位中納言大宰帥といった高級官僚が、普通の言葉で言うことは出来ないことなのである。それが歌ならば歌うことが出来る。

8-1473 橘の 花散る里の 霍公鳥 片恋しつつ 鳴く日しぞ多き も同じであろう。

歌ではホトトギスになり代わるというフィクションを作り出して、初めて勅使の前で「毎日泣いてばかりです」という事が歌えた訳である。

  漢詩の場合 私情を述べることは許されていた

このフィクションを通じて、私情を歌うという事は、漢詩の世界では古くからあった。詩は志を述べるものであるという事は、詩経の序に書いてある。一方、詩には風刺という機能が詩経の時代・春秋戦国時代から認められている。風刺とはそれとなく述べる事で、様々な批判を行う事で、為政者はそれを咎めず、聞きとらねばならない。そのまま述べるのではなく、レトリックを用いて、物事を回りくどく言って現実から距離を置くことで、表現が可能になる。漢王朝が滅びた後の三国時代、又それに続く中国の南北朝時代は、文学史の上では六朝時代というが、今の南京に都を置いた南朝を中心に、志を得ない男達が詩に志を託すことが盛んになった。六朝時代の梁王朝(502557)の昭明太子という人が、詩を始めとする名文を選んで「文選」を編み、それが大和にも輸入されて、教科書に準ずる扱いを受けた。しかし日本では男子が志を述べるというのは、やはり漢詩によって行わるべきものという観念が強かったようである。和歌に個人的な情を盛るという事は、中々行われなかった。

 

大津皇子が辞世の歌として、ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ 巻3-416 と歌ったのは珍しい例である。それは辞世の漢詩も懐風藻に残る様に、大津皇子が詩に堪能だったのである。それは和歌でも行う事に成ったのである。旅人はやはり懐風藻に、一種の詩を残す詩人でもあった。漢籍の素養も豊かにあった。そういう人が和歌に依る事で、又新たな和歌の世界が開かれたのである。

 旅人の不幸

しかしそれは旅人が大宰府で不幸にあったことを切っ掛けにしたものでもあった。妻を亡くしたのが、勿論大きな不幸の一つであったが、それだけではない。旅人は大伴氏の氏の上、リ-ダ-としての挫折を大宰府赴任中に味わう事になる。

次の歌を読んでみよう。

3-328 小野老(おゆ 大宰の少弐 小野老の歌一首

原文 青丹吉 寧楽乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有

訓読 おをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

 

3-329 大伴四綱 防人の司祐(つかさのすけ) 大伴四綱の編む歌二首

原文 安見知之 吾王乃 敷座在 国中者 京師所念

訓読 やすみしし 我が大君の 敷きませる 国の中には 都し思うほゆ

 

 

3-330 大伴四綱 防人の司祐(つかさのすけ) 大伴四綱の編む歌二首

原文 藤浪之 花者盛尓 成来 平城京乎 御念八君

訓読 藤波の 花は盛りに なりにけり 奈良の都を 思ほすや君

 

3-331  大伴旅人 帥大伴卿の御歌五首

原文 吾盛 復将恋八方 殆 寧楽京乎 不見歟将成

訓読 我が盛り またをちめやも ほとほとに 奈良の都を 見ずかなりなむ

 

最後の歌は帥大伴卿旅人の歌で題詞に五首とある様に、まだ続きがあるが後に読む。

328 おをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

大宰少弐は大宰府の次席次官という地位の、小野老の歌である。おをによし は、奈良の枕詞。

「奈良の都は、咲く花が照り輝くように今盛りです。」 にほふ 対象から気のようなものが発散していることを意味する言葉で、古代では 紅におう の様に視覚的に使うことが多いが、橘のにほえる方 のように、香り・嗅覚的に使う例もたまにある。今は単に咲く花の にほふ とあるので、視覚的に訳したが にほう の原文は 薫 という字なので、嗅覚的な意味も含んでいるのかも知れない。

さてこの歌は平城京における天平文化の華やかさを称える歌として有名だが、実は平城京で歌われたのではない。むしろ地方に下った者の、花のような都に憧れ、そこに戻りたいという気持ちの歌なのである。今盛りなり 今は盛りですという表現は、伝聞や推量ではない。奈良の都を実際に見て来た者の言葉である。小野老は都から下って来たばかりのようである。その機会として一番考え易いのは、神亀5年 729年 この年は8月に改元されて天平元年になるが、その前の3月に小野老が従五位下から上に昇格した時である。六位以下の下級官人は勤務評定を経て自動的に昇位するが、五位以上の中・高級官人たちの位階は、勅により進められる。この時には聖武天皇が、大極殿に出御して位を授けているので、小野老もその場にいたと思われる。大宰府に戻ってこの歌を歌ったとみると、歌の内容がぴたりと合う。小野老が従五位上を授かったのは、他30人という多くの官人たちの授位と一緒であった。何故これ程多くの授位が行われたのかというと、直前に大きな政変があって、人心を安定させる為であったと思われる。それが 長屋王の変 である。

長屋王は持統朝で太政大臣という准皇太子的地位にあった天武天皇の皇子・高市皇子の子で、母は天智天皇の娘・御名部皇女(みなへのひめみこ)であった。抜群に良い血筋の上に、莫大な財産を持っていて、最初から正四位上という位を与えられ、養老4年 720年 藤原不比等が亡くなった後は、右大臣更に左大臣と進んで最高権力者の座にあった。

平城京では宮のすぐ脇に広大な邸宅を構え、その跡から大量の木簡が出土した事で知られる。

 長屋王の変の概要  聖武天皇の皇太子への藤原氏のプラン 光明子の皇后

その長屋王が神亀6210日、密かに左道を学びて国家を傾けむとす と密告され、その夜 式部卿・藤原宇合等の率いる衛士の軍隊に包囲された。左道とはまじないとか呪いの類である。何故最高権力者なのに、国家を傾けようとしたといわれたかというと、長屋王自身が特別な血統である上に、その后は元正天皇の妹・即ち草壁皇子と元明天皇の娘である吉備内親王だから、吉備内親王の産んだ子は更に高い血統を持つことになる。一方、聖武天皇自身は文武天皇の唯一の息子であったが、母は藤原不比等の娘・宮子で皇族ではない。従って実は長屋王やその子に対しての正統性は、相対的な物でしかなかった。聖武天皇の子は、やはり藤原不比等の娘である光明子との間に、阿倍内親王があり更に神亀4年の9月に男子が誕生した。基王(もといおう)と呼ばれるこの男子は、わずか生後二ヶ月で皇太子に立てられる。それは全く異例の事である。その時皇太子に立った基王に対して、故不比等邸で百官が拝礼した時に率いたのは大納言・多治比池守で、左大臣長屋王出席していなかった。立太子に反対していたと思われる。所が翌年になると基王は亡くなる。直接にはこの基王の死が長屋王の左道の結果と見なされたと考えられる。これは偽りの密告であったことが

後に明らかになる。真相ははっきりしないが、結果的には不比等の息子・四兄弟が権力を握るので、彼らの主導で行われたのであろう。基王の死去した神亀5年に、県犬養広刀自という女性に安積(あさか)親王が生まれており、そのままだと麻積親王が唯一の男子となるこれに対して藤原氏は光明子を皇后に立てこれから男子が生まれれば、その子を立太子する。生まれなければ、既にいる阿倍内親王を立太子するというプランを立てたと考えられる。

しかし臣下出身の皇后は、長い皇室の歴史でも仁徳天皇の磐姫皇后しか例はない。

立太子に反対であった長屋王は、光明子立后にも反対であった。藤原氏には邪魔になる長屋王を抹殺の必要があったのである。自らの正統性に不安のある聖武天皇もそれを黙認したのであろう。

密告の翌日、舎人親王、新田部親王、多治比池守、藤原武智麻呂等が長屋王を訊問し、その翌日、長屋王、妻の吉備内親王、その子四人が自殺して事は終結した。長屋王と懇意だったものが何人か流罪になったが、その他に類が及んだ者はいない。

 長屋王の変の後

そして静観した官人たちの中では、小野老の様に位階を上げられた者もいた。

小野老の平城京の盛りを歌う歌の背景には、以上のような経緯かあったのである。小野老は位階を上げられたのだから、任地に戻っても気分が良かったであろう。ク-デタ-の後でも、花の様な平城京を歌っている。しかし全員がその様な気分であった訳ではない。

 

329 やすみしし 我が大君の 敷きませる 国の中には 都し思うほゆ

防人の司祐(つかさのすけ) 大伴四綱の歌は「我が大君の治めなさる国の中には、やはり都が思われることよ。」と歌う。

小野老から都の様子を聞いて、やはり都が一番だという早く帰りたいという気持ちを込めて、この様に歌ったのであろう。

 

330 藤波の 花は盛りに なりにけり 奈良の都を 思ほすや君

「藤の花が盛りになりました。奈良の都をお思いになりますか、貴方様は」 小野老が大宰府に戻った頃、春を過ぎて夏が到来し、藤の花が人々の目を楽しませている様に、平城京の東や北の山には藤が綺麗に咲いていたことであろう。

それを思い出されますか と言うのである。思ほすや君 と敬語で訊ねられたのは旅人である。旅人とのこうしたやり取りには先例がある。巻6-955956.やはり大宰府少弐になった石川足人(たりひと)という人が、旅人に

さす竹の 大宮人の 家と住む 佐保の山をば 思ふやも君 と 問い掛けている。「大宮人達が家として住む佐保の山を思い出しますか。貴方。」さす竹の は大宮人に掛かる枕詞。佐保は平城京の東北部で山の近くであるが、高台の高級住宅地であった。旅人の家は平城京から移った時からここにあり、長屋王の別荘もここにあった。旅人が大宰府に下ったばかりの頃、前からいたある人が少々ぶしつけに「どうです、筑紫まで来て佐保が恋しくありませんか」と尋ねたのである。それに対して旅人は巻6-956 やすみしし、我が大君(おほきみ)の、食()す国は、大和もここも、同じとぞ思ふ

「我が大君が治められる国では、大和も筑紫も同じだと思うよ」と答えた。強がりと言えば強がりであろうが、大宰帥としては望ましい答えである。防人の司祐(つかさのすけ) 大伴四綱のこの歌は、今の石川足人の歌を二つに割ったようになっている。大伴四綱は石川足人と旅人の歌のやり取りを知っていて、もう一度強がりを聞けると思って、旅人に聞いたのではなかろうか。

 

所が旅人の応えは、予想を裏切るものであった。

331 我が盛り またをちめやも ほとほとに 奈良の都を 見ずかなりなむ

「私の人生の盛りは、又戻ってくることがあろうか。殆ど奈良の都を見ないで終わるのではないだろうか。

この年で筑紫に下った自分は、ここで朽ち果て二度と平城京を見られないのではないか。」

これ程旅人を弱気にさせたのは、長屋王の変だったことは間違いない。武人として名の有った旅人を、筑紫に下らせたのが、長屋王追い落としを図る、藤原氏の策謀であったかどうかは分からない。しかしクーデタ-の時は、局外に置かれたのは、旅人の政治的な敗北であった。藤原四氏は末弟の麻呂までが、従三位となり、長兄の武智麻呂は、それまで旅人と同格の中納言だったが、大納言に昇格していた。前の歌の 藤波の 花は盛りに なりにけり は、大伴四綱が意図したかどうかはともあれ、藤原氏の天下になってしまったことを、旅人に匂わせたのであろう。

藤原四氏が治める都の政界に自分が戻して貰えるのか、戻っても居場所があるのか。名族 大伴氏率いる身としては、暗澹とせざるを得ないのである。

 

旅人の歌の続きを見よう。332335

3-332 大伴旅人 題詞 帥大伴卿の歌五首 ①

原文 吾命毛 常有奴可 昔見之 象小河乎 行見為

訓読 我が命も 常にあらぬか 昔見し 象(きさ)の小川を 行きて見むため

 

3-333 大伴旅人 題詞 帥大伴卿の歌五首 ②

原文 浅茅原 曲極二 物念者 故郷之 所念可聞

訓読 あさぢはら つばらつばらに もの思へば 古にし里し 思ほゆるかも

 

3-334 大伴旅人 題詞 帥大伴卿の歌五首 ③

原文 萱草 吾紐二付 香具山之 故去之里乎 忘之為

訓読 忘れ草 我が紐に付く 香具山の 古にし里を 忘れむがため

 

3-335 大伴旅人 題詞 帥大伴卿の歌五首 ④

原文 吾行者 久者不有 夢乃和太 湍者不成而 淵有乞

訓読 我が行きは 久にはあらじ 夢(いめ)のわだ 瀬にはならずて 淵にありこそ

 

旅人の思いは、もう帰れない都へは戻らない。

332 我が命も 常にあらぬか 昔見し 象の小川を 行きて見むため

「吾が命はずっと有ってくれないものか。昔見た象の小川を行ってみる為に」

~ぬか は、「今も~しないかな」に当たる言葉で、大体叶いそうにない願望を表す。命がずっと続くことはあり得ない。

しかし、そう願うのは昔見た象の小川を見たいから。象の小川は、吉野の北山との間を流れて、吉野離宮の目の前で吉野川に注ぐ川である。ここは5年前の、聖武天皇即位直後の行幸に際して、 巻3-316

昔見し 象の小川を今見れば いよよ清(さや)けく なりにけるかも と歌った場所である。昔 とは5年前と同じ様に盛んに吉野行幸が行われていた持統朝を指しているのであろう。

 

吉野は天武天皇の創業の地であり、よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見つ 巻1-27 と、繰り返し見る事が命じられた土地であった。その歌は永久に争わないという誓いと共に歌われたのである。持統天皇は、天武天皇に由来する権威を想起させて朝廷の一体性を保ち、皇太子草壁皇子を失った後も、直系の皇位維持を実現するために繰り返し行幸を行ったのである。その後漸く即位した文武天皇は25歳で崩御、その母・元明天皇 その姉・元正天皇の二代女帝を経て、やっと直系相続の理想が実現したのが、5年前だったのである。

 旅人の聖武天皇の吉野行幸に寄せる思い 5年前

旅人は下級官人の宮廷歌人が歌うものという埒を越えて、吉野讃歌を作ったのは、聖武天皇の即位が自らの理想の実現でもあったからであろう。大伴氏は6世紀には大伴金村、大連(おおむらじ)として権力の中枢にあったが、その失脚と共に勢力を落とす。しかし壬申の乱で吉野側に付き、飛鳥防衛に奮戦した事は皇統との関係を再び強くしたのである。旅人は大伯父や伯父、そして父・安麻呂等は名誉ある位階高職を追贈された。天武皇統は我々が支えているのだという意識は大伴氏一族には強くあったと思われる。しかし聖武天皇即位後の展開は、旅人には失望が強かったではないか。

 藤原氏の優位

今の内閣に当たる議政官の地位には、有力氏族から一人ずつ参加するのが習いであった。しかし藤原不比等が、文武天皇即位に尽力し、元明・元正天皇の信頼を得て右大臣に上ると、霊亀3717年には宇合・房前が参議となって内閣に藤原氏が二人出る事に成る。不比等が亡くなった翌年、養老5721年には、不比等の代わりに長兄の武智麻呂も中納言となって旅人に並ぶ。聖武天皇即位前から、藤原氏は優位な地位を築きつつあったのである。そして不比等の娘・宮子が生んだ聖武天皇の即位は、それを助長するものであった。光明氏が生んだばかりの基王を皇太子にするなどと言う動機は、そのさいたるものであろう。そして長屋王の変に至って朝廷の一体性などと言うことは、吹き飛んでしまった。

皇室と新興貴族・藤原氏の癒着は、伝統的な大伴氏にとっては最悪であった。

旅人が昔見し 象の小川 を、再び見る事を望んだのは、そのさやかな流れに象徴される持統朝の、少なくとも表面上は皇室を中心に朝廷が一体化していた時代を望ましく、振り返る心情からであろう。そして、それはあまりにもかけ離れてしまった現代への嘆きと表裏していたであろう。

 

333 あさぢはら つばらつばらに もの思へば 古にし里し 思ほゆるかも

「浅茅原ではないが、つばらつばらにつくづくと物思いすると、古びてしまった里の事が思われるなあ」

あさぢはら は、丈の低い茅が生えている茅原の事で、あさぢはら  つばら が、類音で繋がり序詞の働きをしている。一方、浅茅ヶ宿は、荒れ果てた家を表すように、茅は雑草なので、古にし里し→古くて荒れてしまった里 の象徴にもなっているのだろう。その 古にし里し  がどこなのか次の歌で判る。

 

334 忘れ草 我が紐に付く 香具山の 古にし里を 忘れむがため

「忘れ草 を自分の沓の紐に付け、香具山の古びてしまった里を忘れぬために」忘れ草は甘草という植物で、平安時代の辞書「倭名類聚抄」によると、忘憂草というのである。それを身につけると、愁いを忘れるらしい。

前の歌の古にし里 が、この歌では 香具山の 古にし里 と呼ばれている。そこはかっての藤原京の地である。

平城京に移ってほゞ20年、荒れていく飛鳥藤原京の辺りを、奈良時代の人々が古里と呼んだことは以前話した。

古里は現代では生れ故郷の事を指すのが普通である。又故郷という漢語は、古代でも現代でもやはり生まれ故郷を表す。しかし古代の日本では、漢語の故郷を読み下して ふるさと という言葉を作ったらしいが、自分が元いた場所とか、以前都だった所と言った意味で受容したらしい。古にし里 はもう少しはっきり古びてしまった 古びてしまった里という意味で、昔の都を意味している。実は333番の方の古にし里 の原文は、まさに故郷と書いてあって、これは生まれ故郷の事だと解されることもある。確かに大伴氏の地盤は、飛鳥藤原京の辺りにあり、旅人が生まれ育ったのもそこであろう。

しかし今古びてしまった里と読むことは、かっては新しい場所であったという事なので、ずっと大伴氏が地盤にした所というよりは、王権の中心地として、新たに栄えた土地という意味が強いであろう。つまり333334の二首でもつくづくと振り返っているのは、飛鳥藤原京時代なのであろう。そして皇室にとっても、大伴氏にとっても輝かしいその時代は、既に過ぎ去って二度と返らない。荒れ果てているだろう、その場所を思う事は、憂いでしかない。忘れ草のおまじないを使ってでも、忘れたいのはその為であった。

 

335 我が行きは 久にはあらじ (いめ)のわだ 瀬にはならずて 淵にありこそ

「私の赴任もそう長い事ではないであろう。あの吉野川の淵よ、瀬にならないで淵のままでいて欲しい」

行き は、家と異なる所に滞在することである。(いめ)のわだ は、吉野の象の小川が吉利川に合流する辺りの深みで、流れも穏やかな所である。そこは淵なのであるが、「私が行くまで浅くなったりせずに、そのままで待っていて貰いたい」という事である。我が行きは 久にはあらじ は、最初の3-331 ほとほとに 奈良の都を 見ずかなりなむ に比べると、思い直してやや希望を持っている様にも見える。既に長屋王の変も終わって、藤原四氏による体制が固まったのであれば、自分を大宰府に置いておく意味も無くなっただろうと考えたのかも知れない。しかしなお吉野の様子が、すっかり変わってしまうかもしれないという危惧が、瀬にはならずて 淵にありこそ にはある。

聖地 吉野だけは変わらないで欲しいという裏には、都はすっかり変わってしまったという事を含んでいるのであろう。

 

小野老の歌に始まる一連の歌は、同じ場だったことは明示されていないが、旅人の歌の題詞が大宰帥ではなく、帥大伴卿となっているのは、小野老の歌の題詞 大宰少弐の 大宰が、旅人の歌まで生きている為と考えれば、矢張り同じ場と見るべきであろう。

 

振り返れば、小野老の 奈良の都は 今盛りなり 世綱の 藤波の花は盛りになりにけり また、旅人の 我が盛り またをちめやも と盛りの語が主語を変えながらバトンの様に受け継がれていることが分かる。但し旅人の五首が歌われて、一同はすっかり暗い雰囲気になったであろう。それが許されるのは旅人が一座の主だったからであろう。旅人は忖度なく自分の好きなように歌うのである。しかし暗いままでは、歌でも終わりにできないであろう。

 

旅人の歌の後で二首の歌が置かれている。

3-336 沙弥満誓 造観音寺別当 俗姓 笠朝臣麻呂

原文 白縫 筑紫乃綿者 身箸而 未者伎祢杼 暖所見

訓読 しらぬひ 筑紫の綿は 身に付けて いまだは着ねど 暖けく見ゆ

 

3-337上憶良  題詞 山上憶良 宴を罷歌一首

原文 憶良等者 今者将罷 子将哭 其彼母毛 吾乎将待曽

訓読 憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ その母も我を待つらむぞ

 

336 しらぬひ 筑紫の綿は 身に付けて いまだは着ねど 暖けく見ゆ

作者は筑紫観音寺造営に当たっていた満誓という僧である。

歌は筑紫の綿は身につけて着たことはないが、暖かそうに見える」という詠物歌であるが、単に綿を歌ったのではなくて、綿は比喩的に女性の事を匂わせている。筑紫の女性とまだ付き合ったことはないが、心地よさそうだというのである。

 

337 憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ その母も我を待つらむぞ

憶良の宴を罷る歌。宴会から退出する時の歌である。「憶良めはこれで退出します。子供が泣いているでしょう。それにその母も私を待っています。」生真面目な憶良が帰宅の理由を述べてから、中座している様に聞こえるが、そうではなくて場を盛り上げて締める歌と考えられている。憶良らしく子供を歌っているが、泣く子の子守をしないと妻に叱られますので と言うのは、自己戯画化であろう。それは、前回講義で話した 世の中の留まり難きを悲しぶる歌 巻5-804805 で、あちこちに出掛けては、人に厭がられるヨボヨボの老人を歌ったのに続く。

憶良にはこの様にユ-モリストの一面もある。恐らく、満誓と憶良とで、旅人の歌で沈みきった場を持ち直して、宴をお開きにしたのであろう。漢詩の様に身分のある官人が、自己の立場に即して歌う事を始めた旅人であったが、勿論中国と日本とでは社会が違って官人の在り方も違う。

 中国と日本とでは故郷の意味が違う

中国で故郷という言葉が生まれ故郷を指していたのは、そこが一族の本拠地である、そこから都へ出て官人になっても志を得なければ、又帰ってきて生を養う場所であったからである。

生まれ故郷に文化があって、そこで暮らす意味があったのである。

しかしその故郷という言葉が、古里とか古にし里と呼び下される日本の社会では、生まれ故郷に大した意味は無かったのであろう。屯倉と呼ばれる農地、収入を挙げる場所は都の外にあったので、そこへ帰るという事はまずない。そこには文化が無い。地方に下った官人が帰る場所は、都以外には無いのである。

旅人の様に天皇の傍に仕えてきたことを、アイデンティティにしてきた大伴氏に生れた者ならば、尚更であろう。旅人は二度と見られないかも知れないと言いながら、都を再び見る事を切に望んでいた。巻5-806には都のいる人に宛てて、

龍の馬()も 今も得てしか あをによし 奈良の都に行きて来むため「龍のように速く走る馬を今すぐ手に入れたい。奈良の都に行って戻ってくるために」 と歌ったし、巻8-1689 雑歌部には 冬の日大伴卿雪を見て都を思う歌として

淡雪の ほどろほどろに 降り敷けば 平城(なら)の京(みやこ)し 思ほゆるかも「淡雪が斑に降り敷くと、奈良の都が思われる。」という歌もある。今回のタイトルに「大伴旅人の望京の歌」の望京を、京都の京としたのは間違いではない。和歌の世界のベクトルは常に天皇の居る都の方を向いているのである。

 

「コメント」

 

古来からの天皇の親衛隊としての大伴氏の統領は、もう少し毅然としていたかと思っていた。意外と軟かな人柄。