221008 ㉗「富士山の歌と筑波山の歌」 巻3、巻9」
前回の概要 聖武天皇の即位 前後しての吉野行幸
前回は奈良時代を代表する聖武天皇が即位する前後に吉野に行幸が行われた、その時の歌を読んだ。天武天皇皇統の聖地であった吉野宮へは聖武朝は極めてひんぱんに吉野行幸を行った。元明元正と二代の女帝の時期には、ぴたりと行われなくなり、それが平城京に移って遠くなったという事ばかりでなく、ようやく実現する男性天皇の為に取っておくという考え方もあった。そして必ず嫡子が皇位を相続するという原則を立てたのは、持統天皇の父・天智天皇だという伝説があった。天智、天武という二人の偉大な帝王の意思が貫かれた聖武天皇の即位を、正三位中納言という地位にあった大伴旅人までが、吉野讃歌を作って寿いだという事も話した。尤も吉野讃歌製作の主役は人麻呂の後を継ぐ、笠金村や山部赤人等の所謂宮廷歌人たちである。彼らは宮廷歌人であるが故に、自分の立場というものが無く、宮廷全体を代表することが出来た。そして彼らは行幸のようなハレの場合以外でも作ることがある。下級官人だから全国に地方官として派遣されるのである。
本日は彼らの地方の歌を中心に話をする。人麻呂は石見、今の島根県西部に、赴任した体験を基に石見相聞歌を作った。高市黒人も三河や近江など畿内の各地を旅する歌があった。奈良時代に入ると更に東の地域が加わって来る。東がどの地域を指すかは諸説あるが詳しくは東歌の回に話す。ともあれ、奈良時代の下級官人の歌が対象とする地域が東国に広がると考えて置いて欲しい。
まず挙げるべきなのは、富士山を歌った赤人の歌であろう。
巻3-317 山部赤人 不尽山を望む歌一首 並びに短歌
原文
天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河有 布土能高嶺乎 ・天原 振放見者 度日之 陰毛穏比 照月之光毛不見 白雲母 伊去波伐加利 時自久曽 雪者落家留 語告 言継将往 不盡能高嶺者
訓読
天地(あめつち)の 別れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は
巻3-318 山部赤人 不尽山を望む歌一首 並びに短歌 反歌
原文
田兒之浦従 打出而見者 貴白衣 不盡能高嶺尓 雪波雫家留
訓読 田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける
318 長歌 略
「天と地が分かれた時から、神々しく高く貴い駿河の国の富士の高嶺を、天空遥かに眺めやると、空を渡る太陽も隠れ、照る月の光も見えない。白雲も行く手を阻まれ、雪は降り続いている。この富士の高嶺を後世に語り継ぎ、言い継いでいこうではないか。」振り放(さ)け見れば とあるから、国見歌の みれば型。しかしこの歌の場合見る対象は、最初から決まっていて、神(かむ)さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺 と見る以前に富士山の全体的な印象が語られてしまっている。従って以下に続く対句部分は周囲のものから富士山を詳しく描いていく事に成る。まず、渡る日の 影も隠らひ→
余りにも巨大な山なので、太陽もその背後に隠されてしまう。そして照る月の 光も見えず →山が高いので月が照るのが遅い という 表現は万葉集の中にいくつかみられるが、流石に富士山位になると月が見えないというのである。
次は白雲も い行きはばかり→白雲は黒い雲と違って天を覆うのではなくて、空を流れていく。しかし富士山よりは低い所なので、行く手を阻まれてしまう。最後に時じくぞ 雪は降りける → 時じく とは その時ではないのに と言った意味で、時を定めずにいつだって雪が降っているというのである。いつも頂上にゆきがある山は、畿内にはない。以上が雲と雪という気象による対句である。対句を二つ続けて、全体8句。最初の6句は富士山の巨大さによって退けられるもの。最後の2句は富士山の高さを示して、それを表号するものを歌っているのである。万葉人にとって高さ、巨大さがとにかく桁違いなのが富士山なのであった。最後は語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は と締められる。
国見歌では うまし国ぞ 秋津洲 大和の国は などと対象を誉める部分であるが、赤人は語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむと言い、それは富士山が東の国にあるからであろう。まだ見ぬ人達にこの国の姿を伝えたい、そしていつまでも語り継いでいってもらいたいというのである。いつでも見られる山ならば
こうした言い方にはならない。
318 田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける
叙景歌として大変有名な歌である。「田子の浦から出てみると、真っ白に富士の高嶺に雪は降っていた」
静岡市の蒲原、由井の事ではないかと言われている。由井にある薩埵峠という場所を越えるとそれまで見えなかった富士山が姿を現すので、その時の感動を表したとされる。この歌がある時点での発見を詠んでいるのは間違いない。それを表しているが、最後のける で、これは詠嘆の けり と言って、それまで知らなかったことが今やっと分かったという事を表現するのである。
成程、富士の高嶺には真っ白に雪が降っていたのだと気付く訳である。この歌が 田子の浦に 打出て見れば 白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ との形で百人一首に収められていることはご承知であろう。これは万葉集から直接採られているのではなくて、新古今和歌集を経由しており、伝承を経て変化した形である。これだと、打ち出て見れば は田子の浦から見ているのだし、白妙は枕詞。雪は降りつつ は、降り続けている事になる。発見の感動を詠んだというよりは、季節を問わず雪を頂き続けている不思議さを歌ったという事になる。こうした変化は、長歌と切り離されて単独で享受されたという事とも関わるであろう。
前回、赤人の吉野讃歌について言ったように長歌は様々な時を含んで歌われたのに対して、短歌はある一時点を定めて歌うことが多い。赤人は長、反歌を作る時に、それらを意識していたのであろう。この富士山の歌でも長歌は昼間の太陽と夜の月とを対にして歌っている。反歌で歌う雪は、長歌で時じくぞ 雪は降りける と歌ったものを繰り返している。
しかし長歌の雪が時を定めずに降っているのに対して、反歌の雪は 真白にぞ と鮮明な印象を持った光景として切り取られている という相違がある。
長歌の中から、雪という最も富士山を特徴づける素材を取り上げて、歌い直しているのである。やはり長反歌一体として読まねばならない。
赤人の富士山を望む歌に続く形で、高橋虫麻呂歌集に載っていた歌として、富士山を詠む歌がある。
原文
奈麻余美乃 甲斐乃国 打縁流 駿河能国与 己知其智乃 国之三中従 出立有 不盡能高嶺者 天雲毛 伊去波伐加利 飛鳥母 翔毛木上 燎火乎 雪以滅 落雪乎 火用消通都 言不得 名不知 霊母 座神香聞 石花海跡 名付而有毛 彼山之 堤有海曽 不盡河跡人乃渡毛 其山之 水之當焉 日本之 山跡国乃 鎮十万 座祇可聞 駿河有 不盡能 高嶺者 雖見不飽香聞
訓読
なまよみの 甲斐の国 うち寄せる 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は 天雲もい行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びもあがらず もゆる火を 雪持ち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひも得ず 名づけも知らず くすしくも います神かも せの海と 名付けてあるも その山の つつめる海ぞ 富士川と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は みれど飽かぬかも
巻3-320 高橋虫麻呂 不盡山を詠む歌一首 並びに短歌 反歌
原文 不盡嶺尓 雫置雪者 六月 十五日消者 其夜布里家利
訓読 富士の嶺に 降り置く雪は 六月(みなづき)の 十五日(もち)に消(け)ぬれば その夜降りけり
巻3-321 高橋虫麻呂 不盡山を詠む歌一首 並びに短歌 反歌
原文 布士能嶺乎 高見恐見 天雲毛 伊去羽斤 田菜引物緒
訓読 富士の嶺を 高み畏み 天雲も い行きはばかり たなびくものを
319 長歌 省略
なまよみの は、甲斐国にかかる枕詞。対する駿河国に掛かる枕詞はうち寄せる。二つの国の真ん中から出で立っている富士の高嶺はと始まる。この長歌は国見歌の話型の構造を持っている。その後は富士に対する叙述である。
「空を行く雲も、行く手を遮られ飛ぶ鳥も上ることが出きず」 この辺りは赤人の歌と同様に、周囲のものが富士山の巨大さに圧倒されている様を描いている。但し赤人の歌が太陽と月、雲と雪の様に対照的な物を順次述べていくのに対し、雲と鳥はいささかアンバランス。しかし雲が水平方向への移動であるのに対し、鳥は垂直方向に上ることが述べられているので、赤人の対句より動的だと言えるかもしれない。その次のもゆる火を 雪持ち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ は、
富士山が噴煙の火を雪で消し、降る雪を火で消し続けているという山の上で、火と雪とが相克し合っているというのである。幻想的であるが、やはり動的な印象を与える。その様は言ひも得ず 名づけも知らず くすしくも 射ます神かも→「言い表しようもなく、名付け様もなく不思議でいらっしゃる神よ。」と称える。更にこの歌は富士山の周囲にも言及する。
せの海と 名付けてあるも その山の つつめる海ぞ 富士川と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ→「せの海と呼んでいるのも富士山がせき止めて出来た海だ。富士川と言って人が苦労して渡っているのも、富士山の水が谷に流れているからだ というのである。せの海のせというのは、石の花と書く。海岸の岩に付く、フジツボとか亀の手の類を言う。何故そう言う名前なのかは分からないが、せの海は今の富士五湖のうち 西湖と精進湖を指す。
此の二つの湖は奈良時代までは一つの湖であったが、平安時代の貞観6年 864年の噴火による溶岩で二つに分けられた。甲斐の国と駿河の国の間に立つとして、始められたこの長歌は、富士山の周囲の湖や川を描いた上で、再度日の本の大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも と称える。日の本の大和の国 は、大宝律令で定められた国号、日本に基づく表現で、ここ東の国までも含めた大和の国を表し、富士山はその国の鎮めの神であり、宝でもあるというのである。
そして長歌は富士の高嶺は みれど飽かぬかも と、讃歌の定型句 みれど飽かぬかも で歌い納められる。
320 富士の嶺に 降り置く雪は 六月(みなづき)の 十五日(もち)に消(け)ぬれば その夜降りけり 第一反歌
「富士山の高嶺に降った雪は、六月(みなづき)の望月の火、15日に消えて、その晩に又降るのだ。」無論、事実としても毎年毎年この日に消えて、その晩に降るという事はないが、真夏となっても僅かに雪を頂上付近に残しているという事が、この様に表現させるのである。繰り返し言えば、畿内にそこまで高い山はないのであった。
321 富士の嶺を 高み畏み 天雲も い行きはばかり たなびくものを 第二反歌
「富士山が高く畏れ多いので、空の雲もつつみかねて棚引いているのだ」 ものを は、言いさしにする表現で、後には雲さえ畏れ謹んでいるのに、我々人間が神を神として崇めないでいられようか。 と言った気分が残されている。
山辺赤人、高梁虫麻呂の二つの富士山の歌は如何だったろうか。両者は共に国見歌の類型にそって作られた山誉めの歌で、雪や雲など共通する素材もある。巨大さを中心とすえるのも一緒である。
赤人と虫麻呂の比較
しかし赤人の歌は、天地開闢以来、存在し続けた山と言い語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ と、永続する時間を歌っている。
対して虫麻呂歌集の方は、甲斐と駿河の中に立つと歌い出し、せの海や富士川に言及して、日本の鎮めの神、宝だという。空間的と言ってよいかもしれない。又赤人の方が、真っ白な雪を強調して写実的なのに対して、虫麻呂歌集歌の方は、人と雪との相克とか水無月6月15日望月に雪が消えて、その晩に又降るとか、幻想的だという対象もある。そして赤人の歌が、富士山の噴煙に触れないというのは大きな特徴だと言っていいであろう。
竹取物語の最後に昇天したかぐや姫が残した不死の薬を、帝が富士山の頂上で焼かせた煙が今も上り続けていると述べられるように、古代の富士山は噴煙を上げているのが大きな特徴であった。
赤人と虫麻呂とは同時期の人なので、虫麻呂が歌った富士山の火を赤人が見なかったとは思われない。赤人が歌わないのは恐らく意図的な事であろう。時間を超越した雪を頂いて存在し続ける富士山を描くのに、煙はむしろ邪魔だったのかも知れない。なお赤人、虫麻呂共に富士の表記は題詞でも歌も不盡山と書くことが多く、富士と書くのは見えない。
御門は多くのもののふを派遣してその山に登らせたので、もののふに富むで不尽というのだというのが、竹取物語の落ちであるが、もののふに富む というのは平安時代からの表記で、上代では不尽山(尽きる事の無い巨大な山)と、捉えられていた様である。
筑波山の伝説
さて富士山に並んで東国の名山と言えば、筑波山である。高さは富士山に比べものにならないほど低いが、二つの峰を持つ特徴的な形で、平野の中に立っているので、ランドマ-クとして目立つ。富士山と筑波山については、常陸国風土記の筑波郡の条に、古老の語る事として、二つの神にまつわる伝説が記されている。昔、神々の親の神の御親尊(みおやみこと)が子供達の所を回っていた。富士山に来た時に日暮れになったので、一晩泊めて欲しいと言った。所が富士山の神は、今日は丁度最初の収穫を祝う新嘗(にいなめ)祭の日なので物忌をしている。申しほけないが泊められないと言った。御親尊は怒って、お前は私の子だぞ、どうして泊めないのだ。お前の住む山はずっと冬も夏も雪や霜が降り、寒くて人が登山できず、捧げものもないだろう といった。次いで筑波山に来て宿を頼むと、筑波の神は今日は新嘗の日だけど、お言葉に従いますと言い、食事を用意してお仕えした。御親尊は喜んで、我が子よ、お前の住む山は天地四節と共に、人々が集い、寿ぎ、捧げものも豊かに栄える日が続くであろう と祝福した。その言葉通り今でも富士山はいつでも雪が降って登ることが困難だし、筑波山は人が集い、歌ったり踊ったり、食事をしたりが尽きないのだという。倭の国の鎮めであり、宝だと歌われた富士山も、冷たく人を寄せ付けない山という評価になってしまうが、これは常陸国の筑波郡の古老の語る伝説なので、仕方ないであろう。ここも古代では修験者でもなければ登ることはなかった。平安時代の初期に都 良香という人が「富士山の記」という本を書いて、山頂や火口の様子を記しているので、当時登った人がいるのは確かである。高橋虫麻呂は一時期常陸国の国司をしていた。何度も筑波山登山をしている。
都から検税使としてやってきた大伴卿が筑波山に登る時の歌。
巻9-1753 高橋虫麻呂 検税使 大伴卿 筑波山に登る時の歌一首 並びに短歌
原文
衣手 常陸国 二並 筑波乃山尓 欲見 君来座登 熱尓 汗可伎奈気 木根取 嘯鳴登 峯上乎 公尓令見者 男神毛 許賜 女神毛 千羽日給而 時登無 雲居天雫 筑波嶺乎 清照 言借石
国之真保良乎 委曲尓 示賜者歓登 紐之緒解而 家如 解而曽遊 打靡 春見麻之従者
夏草之 茂者雖 今日之楽者
訓読
衣手 常陸の国の 二(ふた)並ぶ 筑波の山を 見まく欲り 君来ませりと 暑けくに 汗かき嘆げ 木の根取り うそぶき登り 峰の上を 君に見すれば 男神も 許したまひ 女神も ちはひたまひて 時となく 雲居雨降る 筑波嶺をさやに照らして いふかりし 国のまほらを つばらかに 示したまへば 嬉しみと 紐の緒解きて 家のごと 解けてぞ遊ぶ 打ち靡く 春見ましゆは 夏草の茂くはあれど 今日の楽しさ
巻9-1754 高橋虫麻呂 検税使 大伴卿 筑波山に登る時の歌一首 並びに短歌
原文 今日尓 何如将及 筑波嶺 昔人之 将来其日毛
訓読 今日の日に いかにかしかむ 筑波嶺に 昔の人の 来けむその日も
1753 長歌 省略
最初の衣手は、常陸に掛かる枕詞。常陸国風土記にこの国では筑波嶺に 黒雲掛かる 衣手 常陸の国という言い回しがあったと伝えられている。筑波嶺に黒い雲がかかってあめが降り、衣の袖を浸すという常陸の国と言った意味である。
二(ふた)並ぶ は、男体山と女体山の二つの峰がある筑波山を形容している。
「常陸の国の二つの峰を見たいと、我が君がいらっしゃるので暑い中 汗をふき、木の根を掴んでふうふう言いながら登って、頂上をお目にかけると」 ここまでが一段。大伴卿を案内しているので、君に見すれば となっているが、やはり国見歌の 見れば型 を踏襲している。するとどういう景色が見えるのか。男神も 許したまひ 女神も ちはひたまひて 時となく 雲居雨降る 筑波嶺をさやに照らして いふかりし 国のまほらを つばらかに 示したまへば
男神 女神は、今も麓に筑波嶺神社があり、峯二つにもそれぞれ社がある。男女二柱である。これも常陸国風土記であるが、男体山は険しく神域として頂上には人を登らせなかったと書いてある。いふかりし は、どうなっているのか分からないという意味。まほら は、ヤマトタケルの思国歌(くにしのびうた)の国のまほろばと同じく、一番良い所の意味である。
つばらかに は、つまびらかに。
虫麻呂が登ったこの日は、幸いな事に男神も女神も許し助けて、いつも雲がかかり、雨が降っている筑波山であるが、はっきりと太陽が照らして、それまでボンヤリとしか見えなかった国一番の絶景を、隅々まで詳しく見せて下さったのであった。これが第二段である。そして 嬉しみと 紐の緒解きて 家のごと 解けてぞ遊ぶ 打ち靡く→「絶景を開いたのが嬉しくて、靴の紐を解いて家にいる時の様に、寛いて遊ぶことだ」 と歌っている。
春見ましゆは 夏草の茂くはあれど 今日の楽しさ→「春に来てみるよりは、夏草が生い茂ってはいても、今日の方が楽しいよ」 と言っている。
春は霞が掛かってはっきりと見えない。夏は草が茂って登るには大変だけど、景色の綺麗な今日の方がいい と言う。苦労した甲斐があって、良い思いが出来たと歌う事で、そうした機会を作ってくれた大伴卿に対する感謝を述べているのであろう。
1754 今日の日に いかにかしかむ 筑波嶺に 昔の人の 来けむその日も
「今日の日にどうして及ぼうか。筑波嶺に昔の人が来たその日も」 昔の人が誰かは述べられていないが、恐らくヤマトタケルであろう。ヤマトタケルは父の天皇に命じられて、東の国を平定し、その最後に 新治(にいばり) 筑波を過ぎて幾世か寝つる→新治、筑波を通り過ぎて、ここまで幾晩寝たであろうかと東征の帰途、甲斐の酒折宮(さかおりのみや)と土地の人に問いかけることが、古事記にある。これに応えて土地の老人がかがなべて 夜には九夜 日には十日を→日数を重ねて、夜は九夜、昼は十日です と歌う。これが連歌の起源とされ、連歌の事を筑波の道ともいう。
筑波山の伝説
ヤマトタケルは常陸国風土記にも度々登場する。都から来た大伴卿を、やはり天皇の命によってやって来たヤマトタケルになぞらえた上で、その時よりも絶対今日の方がいいという。それは神に祝福された、素晴らしい天気につけて、大伴卿を讃えているのである。この検税使大伴卿は、誰を指すのかには諸説あるが、私は旅人ではないかと思う。筑波山はこのように人に親しまれた山であるが、特に春秋の行楽シ-ズンには賑わったようである。そしてその季節には歌垣が行われたと風土記は伝えている。富士山の麓の足柄峠から東側つまり関東地方の男女が、春の花の咲く時、紅葉が美しい時に、ここ筑波山に集まり食事をしながら歌垣を楽しむのである。この地区では筑波嶺の集いで、求婚の印の宝物を貰えないようでは、一人前ではないという諺まであったという。
歌垣は筑波山だけではない。時には他に鹿島郡の童子女(うない)の松原という所で、歌垣が行われていたとあり、互いに噂を聞いていた美少年と美少女が歌垣で顔を合わせ、夢中で語っている内に、朝が明けてしまい、人に見られるのを恥じて、二人とも松に変身してしまったという伝説が記されている。
又続日本書紀にも、今の奈良県桜井市にあった、海石榴市(つばいち)といった市場で催された歌垣を舞台にした物語がある。人の集まる市場や名所のあちこちで開かれる民間行事であった。しか筑波嶺の歌垣は、巻頭一円の男女が集まるのであるから、もっとも有名であった。
中国雲南省の少数民族では、歌垣が今も開かれていて、日本人による調査も行われている。それによると、歌垣に集まるのは配偶者を求める人、歌の上での恋を楽しむ人、歌を作りたい人など様々であるとういう。男女はまず自分達を相思相愛のカップルのように表現して、それから名前を聞いた住所を聞いたりする。歌はあくまでフィクションで即製で作っていく芝居のようなものである。
風土記作成の意図
本日引用した常陸国風土記であるが、これは和銅6年 713年 諸国の地名に、良い名を用いるようにすると共にその地の産物や土地が肥えているか、或いは地名の由来、古老が伝えている伝説などを、記録して提出せよと命令が出たのに従ったものである。かつての大和の国は畿内の豪族が大王を中心に、周囲の鄙の豪族を支配するという形であったが、7世紀を通じて朝廷が全国を直接支配しようとする体制へと変化していった。
諸国の風土記は、全国の土地の隅々まで詳細に朝廷が把握するための資料なのである。朝廷全体に、畿内だけでなく地方の国々への関心が高まっていたのである。山部赤人や高橋虫麻呂といった下級官人が、地方の山を歌い、又 歌垣のような民間行事を歌うようになれば、その潮流に従ったものと言える。次回は又、民間に流布していた伝説に取材した赤人や虫麻呂の歌を読む。
「コメント」
7-8世紀に全国の情報を把握しようとしていた朝廷は大したもの。今の通信手段があっても大変なのに、現地に出掛けて命令し、それを実行させるのだから、今の政府より余程しっかりしている。ごり押しでは有ったろうが。