220924 ㉕「志貴皇子とその周辺」

今日で25回目となった。全50回とすると今回が半分という事になる。

藤原京から平城京へ 前回のまとめ

前回は万葉集の前半と後半を分ける所、藤原京平城京について話した。藤原京は天武天皇が計画して、持統天皇が完成させた最初の京域を持った都で、膨張した官僚組織で政治を行うために、永久使用する予定であった。しかしそこに移り、更に律令を整えて日本という国号で唐と直接外交をするとなると、京域の中央に宮を置くという中国では既に旧式になった都城プランが邪魔になってきた。これでは具合が悪いという事で、僅か16年で放棄され平城京に移ることになった。取り残されて寂れていく飛鳥藤原京を奈良時代の人々は、古里と呼んである種の侮りと、懐かしさを持って振り返っていた。奈良時代は唐の洗練された文明が、直接流入してきて宮廷の人々を魅了する。例えば仏像で飛鳥時代の白鳳仏、奈良時代の天平仏を比べて見ると、違いが良く分かる。白鳳仏は人間離れしていて、仏様の超人的な面が強調されている。しかし天平仏は人間らしく写実的で繊細なのが特徴である。それは唐の仏像やその製作技法が伝わってきたからである。文学においても中国から仏典や漢籍が大量に輸入されて、その直接的な影響のもとに作られたり、或いは漢文とコラボㇾ-ションしたりするようになる。

外来の文化、文明の変化は大きいと言わなければならない。但し、仏像は勿論のこと、和歌はそもそも外来の文化、文明の刺激によって成り立ったものだから、奈良時代より前も漢籍や仏典の影響を受けて展開してきたものだし、その展開には自律的な面もあった。額田王、柿本人麻呂、高市黒人等今まで見てきた歌人達は才能を持って新たな歌風を開いていた。天武の皇子、皇女たちも同じである。

志貴皇子の経歴

今回はやはり先進の歌で、飛鳥時代から奈良時代を繋いだ歌人として志貴皇子をあげ、関連する歌を読む。志貴皇子は天智天皇の皇子である。母は、越道君伊羅都売(こしのみちのきみいらつめ)という人で、越の国加賀郡の豪族出身の采女であったろう。天智天皇には皇女は多いが皇子は少なく、建皇子は幼くして亡くなり、大友皇子は壬申の乱で敗死、大津皇子の友人で会った川島皇子が持統天皇5年 641年に没した後は、生き残った唯一の天智の皇子となった。

天武天皇8年 619年、吉野で天皇皇后と6人の皇子が盟約した時に、川島皇子と共に参加している。

 皇子の中での処遇は常に低かった

しかし当然、皇位に近い存在ではなく、持統天皇3年 撰善言司(せんぜんげんし 良い説話などを選び集める司)という官職についたのが、目立つくらいである。撰善言司は現存しないが、古今内外の漢詩文から、良い言葉を抜き出して載せた書物を作る司ではないかと言われる。志貴皇子の教養が伺われる官職である。続日本紀によれば、和銅元年708年 、親王としては最下位の四品から三品に上がり、後に二品に進んだがその翌年に亡くなっている。常に下の扱いをされていた。しかしかし万葉集の中では志貴皇子はかなり目立つ存在である。まずその歌を読んでみよう。

 

1-51 志貴皇子 飛鳥宮より藤原宮に移りし後に志貴皇子の作らす歌

原文 采女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久

訓読 采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く

 

1-64 慶運三年平午(へいご)難波宮に出でます時に志貴皇子の作る歌

原文 蘆辺行 鴨之羽我比尓 霜零而 寒暮夕 倭之所念

訓読 蘆辺行く 鴨の羽交ひに 霜降りて 寒き夕は 大和し思ほゆ

 

3-267 牟佐々婢波 木末求跡 足日木之 山能佐都雄尓 相尓

志貴皇子 志貴皇子の御歌一首

原文 

訓読 むささびは 木末(湖濡れ)求むと あしひきの 山のさつ男に あひにけるかも

4-513 志貴皇子 志貴皇子の御歌一首

原文 大原之 此市柴之 何時鹿跡  吾念妹尓 今夜相有香裳

訓読 大原の このいち柴の いつしかと 我が思ふ妹に 今夜(こよい)逢へるかも

 

8-1418 志貴皇子 志貴皇子のよろこびの御歌一首

原文 石激 垂見之上之 左和良妣之 毛要出春尓 成来鴨

訓読 石(いわ)走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも

 

8-1466 志貴皇子 志貴皇子の御歌一首

原文 神名火之 磐瀬之 社之 霍公鳥 毛無乃岳尓 何時来将鴨

訓読 神奈備の 石瀬(いわせ)の社(もり)の 霍公鳥(ほととぎす) 毛無の岡に いつか来()鳴かむ

 

51 采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く

題詞は飛鳥浄御原宮から藤原宮に移った後で、志貴皇子が作った歌といっている。この歌は前回読んだ藤原宮の役民の歌と、藤原宮の御井の歌との間に置かれている。役民の歌が藤原宮建設を歌い、御井の歌が出来上がった藤原宮を、地方の人々が守り、御井から清らかな水が湧いたことを歌っているから、志貴皇子は時系列的にその間に位置する訳である。歌は采女の袖を吹き返していた飛鳥の風が、今は都が遠くなったので空しく吹いているという事である。

采女は地方豪族から献上された美しい女性で、宮中の女官を勤めており常に宮中で過ごしている。華やかな宮廷の象徴的存在で、采女の袖を吹き返していた風が今は采女も藤原宮に移って、人がいなくなった飛鳥を吹き渡っているという。

風は目に見えない。他の物体を動かし又肌で感じて知られるものである。

風が歌われることは、寒さが身に沁みること歌われることが多い。そうでないものとして額田王の 巻4-488

君待つと 我が恋ひ居れば 我が宿の 簾動かし 秋の風吹く などもあった。

志貴皇子の歌は藤原宮に移った後、飛鳥の地に立って今感じている風が、采女の袖を吹き返していただと思い起こして、灌漑に耽っている面持ちで、ロマンチックなものを感じさせる。飛鳥風、伊香保風という地名に直接風を付けるのも、魅力的な表現だと思う。前回述べた様に、藤原宮は飛鳥の宮を拡張した所と捉えられていたので、飛鳥は消滅したのではない。一寸中心から離れた侘しさというものが、繊細に表現されている。

 

64 蘆辺行く 鴨の羽交ひに 霜降りて 寒き夕は 大和し思ほゆ

文武天皇の慶雲3年 706年の9月~10月に難波行幸があった時の歌である。行幸の際には官人たちが旅を楽しむ歌もあるが、この様に家を恋しく思う心を歌う歌もある。この歌では寒さで家を思うのだが、その寒さを鴨の羽交ひ(羽と羽とが合わさる所)に霜が降りていると表現する所が巧みである。勿論、その様な事は実際あり得ないのであるが、冷たい水の上に浮かぶ鴨の寒さを想像することで、自らの冷え冷えとした心情をも表現している。行幸地 難波の淀んだ水に蘆ばかり生えている生々とした風景を思わせる。

 

267 むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山のさつ男に あひにけるかも

作歌事情が題詞によっては分からない。あしひきの は、山に掛かる枕詞。さつ男は、幸即ち獲物をとる男、猟師の事である。「むささびは梢の先に行こうとして、山の猟師に捕まってしまった」という意味。ムササビは歌に歌われることは少ない。万葉集の中ではもう一首 

6-1028 大伴坂上郎女 大夫(ますらお)の 高円山に迫()めたれば 里に下()りたる むささびそこれ

「男達が高円山で追ったので里に下りてきたムササビはこれです」 但しこの時はムササビが死んでしまったので、献上することは出来なかったと注記に乗る。今も奈良の東の原生林にはムササビが多く棲息している。志貴皇子の歌もそうした一場面を歌ったのかも知れない。しかし木の先端を目指そうとして、猟師に捕まってしまったというのは、実際のムササビの観察によって歌われたとは考えにくい所がある。この歌には古くから、寓意が想定されているという説があるが、私も何か含む所があると思う。大津皇子のように天皇になろうとして破滅した人物を、木に駆け上るムササビに例えたというのは、有りうることではないだろうか。そしてそれは天武皇統の中で生きる、天智天皇の皇子である志貴皇子自身の不遇感とも通じている様に思われる。

 

513 大原の このいち柴の いつしかと 我が思ふ妹に 今夜(こよい)逢へるかも

相聞歌である。第二句までは序詞で、いち柴の は、似た音のいつしかを起こしている。大原は、飛鳥の東北にある丘の上の大地。いち柴は、茂っている雑木の事。歌全体では「大原のいち柴原ではないが、いつしか私が思っていた人に、今夜漸く逢えることだ」

 

1418 (いわ)走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも

(いわ)走るは、垂水にかかる枕詞とされるが、水が岩にぶつかって激しく飛沫を上げるという意味だから、垂水即ち滝を描写しているとも取れる。「激しく流れ落ちる滝のほとりの、わらびが芽を出す春になったなあ」

春になると上流の雪も溶け、水量を増した滝が激しく落ちる。それと共に冬の間、縮こまっていた植物が成長を始める。早春の万物が動き出そうとする季節感を捕らえた名歌である。巻8の巻頭を飾るのも文句なしである。只気になるのは、

の御歌という題詞である。単に春を迎えた喜びだと説明できなくもないが、他に例がない。これは何らか志貴皇子自身慶事があった時に、春の到来になぞらえたとする説があり、そりもあながち否定できない。

 

1466 神奈備の 石瀬(いわせ)の社(もり)の 霍公鳥(霍公鳥) 毛無の岡に いつか来()鳴かむ

神奈備の 石瀬(いわせ)の社(もり)は、神の降臨する社であるが、所在ははっきりしない。奈良県生駒郡斑鳩町或いは隣の三郷町とも言われる。毛無の岡も所在地不詳だが、石瀬(いわせ)の社に近い所なのであろう。毛無の岡とは、はげ山という事が多い。「神奈備の岩瀬の森にすむホトトギスは、毛無の岡に来て鳴くのだろう」 ホトトギスを待つ歌である。ホトトギスは柿本人麻呂の歌わない素材で、奈良時代より前にはあまり歌われていない。この歌は山に来るホトトギスが、初夏に人里に下って鳴くのを待望する歌の早い例である。しかし自分のいる場所が毛無の岡であり、それがはげ山なのだとすれば、ホトトギスを待つ志貴皇子にはやはり不安感が漂っているのではないか。恣意的な深読みと言われればそれまでだが、ムササビの歌や喜びの御歌の寓意性が、そうした読み方を誘うのである。

 

志貴皇子自身の歌は以上の短歌6首である。むささびの歌で印象的な景物の捉え方に、寓意性を思わせる微妙な陰影を伴うのが特徴である。但し志貴皇子が重要なのは、自身だけではなくその子供達が歌を残していることにもある。

まず春日王

4-669 春日王 志貴皇子の子 母を多紀皇女という

原文 足引之 山橘乃 色丹出与 語言継而 相事毛将有

訓読 あしひきの 山橘の 色に 出でよ 語らひ継ぎて 逢ふこともあらむ

多紀皇女は天武天皇の皇女。続日本紀によれば、春日王は養老7年 723年に従五位下に、正四位下まで上って、天平17年 745年に亡くなっている。歌は恋歌で、「山橘の実のように思いが色に出たら、もしかしてあの人に伝わって逢えるかもしれない」普通、表情や素振りに出して自分の恋を知られるのは避けるべきことなのであるが、この歌では逆に人に知られることで、相手に伝わって逢えるかもしれない」と逆を言っているのが面白いことである。直接伝えられない恋心を歌う歌であるが、実際に交わされた相聞歌ではないのかも知れない。春日王の歌はこの一首のみである。

 

もう一人志貴皇子の子で万葉集に記されているのは湯原王である。記されているのは18首で、宴席の歌 、七夕の歌等多様であるが、特に注目されるのは叙景の歌である。

3-375 湯原王 芳野にて作る歌一首

原文 吉野尓有 夏實之河之 川余杼尓 鴨曽鳴成 山影尓之弓

訓読 吉野なる 菜摘の川の 川淀に 鴨ぞ鳴くなる 山影にして

 

8-1550 湯原王 鳴く鹿の歌一首

原文 秋芽之 落乃乱尓 呼立而 鳴奈流鹿之 音遥者

訓読 秋萩の 散りの乱(まがい)に 呼びたてて 鳴くなる鹿の 声の遥けさ

 

8-1552 湯原王 蟋蟀(こほろぎ)の歌一首

原文 暮月夜 心毛思努尓 白露乃 置此庭尓 蟋蟀鳴毛

訓読 夕月夜 心もしのに 白露の 置くこの庭に こほろぎ鳴くも

 

375 吉野なる 菜摘の川の 川淀に 鴨ぞ鳴くなる 山影にして

次回、話すが、奈良時代聖武天皇が即位する前後に、吉野行幸がくり返し行われた。その時の作である。

「吉野にある菜摘の川の淀みに鴨が鳴いている。山の影で。」

菜摘は、吉野宮の姉宮滝から吉野川を少し上流に遡った所で、川が蛇行して流れがゆったりとしている所。その川の淀んだ所で、のんびりと鴨が鳴いているのだ。しかし鴨ぞ鳴くなるなるは、見ていないものを推測する或いは見えていないものの音が聞こえてくることを表す助動詞 なり である。最後の山影にしてで、その位置関係がはっきりする。川の蛇行で鴨のいる場所は歌い手の所からは山陰になっているのだ。姿は見えず、声だけが聞こえてくる。万葉集では特に

見るという事が、物の把握に大事だったという事は前に言った。すると見えない者は見たくない、声が聞こえるだけで姿の見えない物には心惹かれる訳である。山陰にいる鴨の声に誘われるような気分が表現されている。同時に影に居る鴨の声まで聞こえてくるのも周りが極めて静かだからであろう。静寂に包まれた吉野の深山幽谷が歌に現れてくるのである。

 

1550 秋萩の 散りの乱(まがい)に 呼びたてて 鳴くなる鹿の 声の遥けさ

「秋萩が散りまごう中で、呼び立てて鳴く鹿の何と遥かな事よ」この歌にも助動詞 なり が使われていて、鹿の声は聞こえてくるが姿は見えない。最後に声の遥けさとあって、鹿がとても遠くにいることが示される。一方秋萩は近くにあって、花の季節が終わったのか、その小さな花が盛んに散っている。視覚と聴覚が遠近法をなして組み合わされている。

そして萩と秋の景物として組み合わされるのだが、その間には植物を女に動物を男に見立てる発想が介在する。例えば柿本人麻呂歌集の巻10-2094 さを鹿の 心相(あい)思ふ 秋萩の しぐれの降るに 散らくし惜しも という歌がある。

「牡鹿が相思っている秋萩が時雨にあって散るのが惜しい」牡鹿と共に、秋萩が散っていくのを惜しんでいるのである。

湯川王が歌う鹿が呼び立てて鳴いている相手が、番の鹿なのか散っていく秋萩なのかは決められないが、いづれにせよ鹿の妻恋の情が漂っている。ただ美しいだけではないのだ。そしてこの歌も鹿の鳴き声が遥かに聞こえてくる事を詠嘆して、周囲の静けさを表している。それは歌い手のしみじみとした秋の心情をも推測させるのである。

 

1552 夕月夜 心もしのに 白露の 置くこの庭に こほろぎ鳴くも

「月の照夕べ、心もしのになるほどに白露が降りるこの庭に、コオロギが鳴くことよ」

季節は秋、冴え冴えと月が照る晩に、庭の草木に白露が降りる。その庭の中から、コオロギの声が聞こえる。コオロギは近くにいるのだが、小さい虫なので姿は見えない。この歌にも、視覚と聴覚が巧みに組み合わされている。そして

心もしのに 3-266柿本人麻呂の 近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば ここもしのに 古や思ほゆに、

使われた言葉である。柿本人麻呂は大津宮の昔を偲んでの事であったが、湯原王はこの庭に向かい合って心情を表現している。庭の草木は露に濡れていると歌っている。それが心もしのにの心情の象徴なのであろう。そこにコオロギの声が聞こえてくる。コオロギは鹿と同じく妻を求めて鳴く虫である。巻10-2264に作者不詳

こおろぎの 待ち喜ぶる 秋の夜を 寝()る験(しるし)なし 枕と我れは

「こおろぎは待ちに待って喜んでいる秋の夜だけれども、寝ても甲斐が無い。枕と自分だけでは。」孤独な女の歌であろう。

湯原王の歌も自分ではなくて、孤独な女の立場で作られているのかも知れない。湯原王の歌の二番目、三番目はそれぞれ鳴く鹿の歌、コオロギの歌と題されている。それはこれらが題詠である事を示唆している。中国には物を巧みに詠むことを競う詠物詩というジャンルがあり、景物を繊細に描き取ることが目指される。隠された物の音を聞く耳、小さい物や変化を見る目が鍛えられ、詩の中の対句によって立体的に表現された。しちょうついという。奈良時代になると詩に倣って詠物の歌が作られるようになって、詩の鋭い描写法も取り入れられる。湯原王の作品は視覚、聴覚を組み合わせる詩の描写法が、和歌的な情感を引き出す詠物歌の最高峰といって良いであろう。繊細な歌風で、志貴皇子の跡を継いだとも見える湯原王だが、続日本紀には全く現れず、無位無官のままで終わったと見られる。

 

志貴皇子が亡くなった時の挽歌は巻2の巻末にある。

2-230 笠 金村 霊亀元年歳次乙卵の秋九月 志貴皇子の薨ずる時に作る歌

原文 

梓弓 手取持而 大夫之 得物矢手挟 立向 高円山尓 春野焼 野火登見左右 燎火平 何如問者 玉鉾之 

道来人之 泣涙 小雨尓落者 白之 衣日漬而 立留 吾尓語久 何鴨 本名言 聞者 泣耳師所哭 語者 心曽痛

天皇之 神之御手之 御駕之 手火之光曽 幾許照而有

訓読 梓弓手に取り持ちて ますらおの さつ矢挟(たばさ)み 立ち向ふ 高円山(たかまと)山に 春野焼く  野火と見るまで 燃ゆる火を 何かと問えば 玉鉾の道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白(しろたえ)の 衣そづちて

立ち留まり 我に語らく なにしかも もとなさぶらふ 聞けば 哭のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇の神の御子の

いてましの 手火の光ぞ ここだ照りたる

 

2-231 笠 金村 霊亀元年歳次乙卵の秋九月 志貴皇子の薨ずる時に作る一首 反歌二首 1

原文 高圓之 野邊乃秋芽子 徒 開香将散 早人無尓

訓読 高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きが散るらむ 見る人なしに

 

2-232 笠 金村 霊亀元年歳次乙卵の秋九月 志貴皇子の薨ずる時に作る一首 反歌二首 2

原文 御笠山 野邊往道者 己伎太雲 繁荒有可 久尓有勿國

訓読 御笠山 野辺行く道は こきたくも 繁く荒れたるか 久(ひさ)にあらなくに

 

230 長歌 略

先に続日本紀によれば、志貴皇子は霊亀2年 716811日に亡くなったと言われる。この題詞によれば、1年前に亡くなっていることになっている。普通は正史 続日本紀のほうが正しいとするのだが、万葉集の題詞の事実とどちらともいえない。最後の注にこの歌は、笠金村集に出ているとあり、作者も笠金村であろう。彼は奈良時代の宮廷歌人 柿本人麻呂同様身分の低い官人で、宮廷の人々の感情を歌う役目を負った人であった。しかしこの挽歌は、人麻呂の皇子挽歌と大いに違う。長歌が問答体となっている。最初梓弓手に取り持ちて ますらおの さつ矢挟(たばさ)み 立ち向ふ という表現は、高円山を引き出す序詞である。先にムササビの歌の時に説明したように、平城宮の東の高円山は狩りをする場所である。それと共に高円山(たかまとやま)の円(まと)は矢の縁語である。長歌の最後はその高円山に春の野を焼く野火ではないか思うほど、燃えている火が見える。しかし今は秋なので季節外れである。ではあの火は何なのだろうと思っている。そうすると道を来る人が、小雨が降る様に涙を流し、白い衣を濡らして私に応える。何だったそんなことを無暗に尋ねるのだ。聞けば声を出して泣いている。口に出せば心が痛む。天皇の息子、志貴皇子がご出立されるのを送る松明である。だからあんなに照り輝いているのだ。長歌の最後は葬列に加わっている人の言葉で終わる。挽歌としては他に例を見ない。

 

231 高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きが散るらむ 見る人なしに

高円の野への秋萩は、甲斐もなく咲いては散っているのだろう。見る人なしに 志貴皇子の山荘が高円山の中腹の今
白毫寺という寺の在る場所にあった。志貴皇子は晩年をここで過ごしたらしい。「皇子が覚えていた秋萩が今、空しく咲いては散っているのだろう、見る人もいないで」自然の不変と人間の移ろいを対比する形であるが、却ってその花の美しさが人の儚さを際立たせる。これも奈良時代より前の挽歌には見えない歌い方である。

 

232 御笠山 野辺行く道は こきたくも 繁く荒れたるか 久(ひさ)にあらなくに

「御笠山の野辺を行く道は、こんなににも繁って荒れてしまった事か。まだいくらも経っていないのに」

三笠山は高円山の手前で、志貴皇子の山荘に行く途中にある。志貴皇子が亡くなって人が通わなくなり、まだいくらも経っていないのに、草が生い茂って道が消えかかっていることを歌う。

故人の家が荒れていくのを傷む歌は、それまでにもあるが、道の荒廃を傷む歌は新しい。この反歌の二首は或る本の内とて、異伝がその後233234として載せられており、元々独立の短歌による挽歌であったものが改作されて反歌にされたのだとも考えられている。

 

反歌の題が短歌二首となっている、人麻呂の例に倣って独立性の高い反歌をその様に称したのかも知れない。

長、反歌いづれも高円山とか御笠山といった山を歌っている。志貴皇子の墓は、田原の西の陵と言って白毫寺から東に高円山の奥に入った所にある。葬儀も山荘で行われたのであれば、葬列には山を奥に進む形になったであろう。松明の火が野火のように見えたと壮麗に描かれているが、およそ草壁皇子や高市皇子の葬列とは異なるものであろう。

長歌も問答体になっているのも、それと関わるのであろう。最初に問う人は、志貴皇子亡くなったことを知らなかったのである。皇太子や准皇太子皇子たちならあり得ない話である。

勿論宮廷歌人である笠金村が挽歌を作っているので、公に営まれた葬儀には違いないか、余り政治的に活躍する機会もなく、晩年には高円山に籠って詩文に耽った志貴皇子像が挽歌にも見られる。

 志貴皇子の子 白壁王→光仁天皇となる

しかし志貴皇子の墓は、今は春日宮天皇陵と呼ばれている。それは今まで名前が挙がらなかった、万葉集には一度も登場しない志貴皇子の子 白壁王が幸喜元年 770年即位して光仁天皇になったからである。この頃には天武天皇の子で皇位継承に相応しい人物は残っていなかった。白壁王は和銅2年 709年の生まれ、志貴皇子の晩年の子で、聖武天皇の娘井上(いのへ)内親王を妻としたことが白羽の矢が立った。

万葉集の中で、志貴皇子は目立つ存在だと最初に述べた。それは志貴皇子やその子の歌ばかりではない。

2の巻末歌は先に呼んだ志貴皇子挽歌であった。宮廷歌人に歌われた皇子挽歌としては、奈良時代では唯一の作品である。そしてまき1の巻末歌は 長皇子と志貴皇子と前の宮にて共に宴する歌と題されている。現在見る万葉集では、天武天皇の皇子である長皇子の歌84番しか残っていない。その中に右の一首 長皇子とあって、続きがありそうな書き方になっている。そして平安時代に作られたのと考えられる万葉集巻1の目録は、古い系統の写本だけだけど、最後に志貴皇子の御歌と書いてある。巻末は失われ易い部分なので、巻1は破損して志貴皇子の歌だけが無くなってしまった可能性がある。そうすると巻1、巻2が志貴皇子関連の歌で終わっていたかもしれない。巻8の巻頭歌が志貴皇子であることは先に述べた。殆ど政治的な活躍の無い皇子にしては、重要視されている様に見える。万葉集の編者と見なされる大伴家持は称徳天皇時代までは、ずっと官位を抑えられていたが、光仁天皇の御代になって急速に栄進する。この事と志貴皇子を特別に扱っている様に見える事は、何か関連があるのかも知れない。これまた、恣意的な想像と言われるのかも知れない。

 

「コメント」

そもそも万葉集は誰の指示で誰が作ったのかがまだ判然としていない。大伴家持が大きな役目を果たしたことは間違いなかろうが、かの大伴氏も政争に巻き込まれて次第に没落していく。全力で挽回を図っていくのであろうが、和歌が大きな力になったのは間違いなかろうが、宮廷の中で儀礼としての和歌の地位が段々低下して、大伴氏の手から離れていく。

 

今日で講義の前半が終了、後半はどこまで行くのか。梨壺の四人かな。