220917 ㉔「藤原京と平城京 巻1

前回は柿本人麻呂の独壇場に見える万葉集第二期で歌の数は少なかったが、人麻呂とは異なる感傷的な旅の歌の世界を開いた歌人・高市黒人の歌を読んだ。これで大体、第二期の歌人について話したことになるので、今回は第二期から第三期に移っていく橋渡しになる話をする。第二期と第三期の切れ目というのは、万葉集の歴史の前半と後半の境でもあるので、大きな変化がある。

万葉集第二期と第三期の境の特徴 藤原京と平城京の違い

その象徴となるのが、第二期の都・藤原京と第三期以降の都・平城京の違いである。藤原京は日本で最初の京域を持った都、京域というのは道路によって整然と碁盤目に区切り、条坊制という計画を施された領域で、天皇が住み、政治が行われる宮だけではなく、官人たちの住宅やその生活を支える市場、商人・職人たちの住居もある、都市と言ってよい空間である。7世紀後半になると、官僚組織が非常に発達してくる。推古朝の官位はわずかに12階であったが、大化5年には19階、天智天皇3年には26階、天武天皇14年には一挙48階にまで増え、最終的には大宝令の30階に落ち着くのだが、そうした位階に相当する官職があった訳で官人の数は激増した。そうなったらもう天皇の代毎に宮を移すというようなことは出来ないし、官人たちの住む場所も用意しなければならない。都という言葉は、本来 宮の在る場所という意味で、額田王の皇極期とされる歌に

 巻1-7 額田王 秋の野に み草刈り葺き 宿れりし 宇治の宮処(みやこ)の 仮廬(かりいほ)思ほぬ

「秋の野の草を刈って屋根にして泊まった、宇治の仮宮が思い出される。」とある様に必ずしも都市ではなかったのだが、7世紀末になると宮の或る場所は、都市にしなければ政治が行われなくなっていった。

 

19に都作りの事を歌った短歌が二首ある。

19-4260 大伴御行 壬申の乱平定後の歌二首 右の一首 大将軍右大臣大伴卿作

原文 皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都

訓読 大君は 神にしませば 赤駒の 腹這う田居を 都となしつ

 

1-4261 作者不詳 壬申の乱平定後の歌二首 左注 二首天平勝宝422日に聞き、すぐここに残す

原文 大王者 神尓之座者 水鳥之 須太久水奴麻乎 皇都常成通

訓読 大君は 神にしませば 水鳥の すだく水辺を 都と成しつ

 

4200 大君は 神にしませば 赤駒の 腹這う田居を 都となしつ

19は大伴家持が主体となっている巻で、家持の歌を中心に、家持が聞き取った歌も日付順に並べられている。この二首は、壬申の乱平定以降と題されており、4260の作者大伴御行大伴卿とは、家持の祖父・大伴安麻呂の兄・大伴御行である。壬申の乱で活躍した。勿論、家持の生まれるずっと前に歌われた歌であるが、家持が天平勝宝75022日に聞き取ったために、その日付の位置に配列されている。歌の内容は

「大君は神でいらっしゃるので、赤い馬が腹ばう田んぼを都になさってしまった。」

4201  大君は 神にしませば 水鳥の すだく水辺を 都と成しつ

「大君は神でいらっしゃるので、水鳥の集まる池を都となさってしまった。」

 

二首とも同工異曲である。大君は 神にしませばは、一種の定型句で、以前柿本人麻呂の

3-235 大君は 神にしませば 天雲の 雷(いかづち)の上に 廬(いお)りせるかも を紹介した。「大君は神でいらっしゃるので、天の雲の上に庵なさっている。」という歌で、称えるのである。人麻呂には他に

3-241 大君は 神にしませば 真木野立つ 荒山(あれやま)中に 海を成すかも という歌もある。「大君は神でいらっしゃるので、巨木の立つ荒々しい山の中に海を作ってしまわれた。」

これは猟路(かのじ)の池という貯水池の事らしく、土木工事を遂行する天皇の力強さを、まるで神の様だと讃嘆する点で、巻19の二首に近い。

 天武天皇の都 飛鳥浄御原

さて先程の二首42604261は、壬申の乱平定以後だというので、以後は壬申の乱で勝利した天武天皇の時代の作であり、都は天武天皇が置いた飛鳥浄御原の宮を指すとされていた。しかし飛鳥の発掘が進んでいる内に、浄御原の宮は新たな地区を開拓して作ったのではないと分かってきた。現在、飛鳥 板葺宮跡と言われる飛鳥寺南方の場所が、飛鳥浄御原の宮であったという事が、何度も柱が建て直された跡が残っていることや、出土する木簡からはっきりしている。宮跡の飛鳥川の川べりから、広大な池を持った庭園が発掘されたのを記憶されているであろう。宮の北は飛鳥寺、南は川原寺と大きな寺院があり、天武天皇が即位する頃には、飛鳥に新たに開拓するような土地はなかった。従って赤い馬が腹ばうとか、水鳥の集まる沼とかを都にしたというのは、飛鳥浄御原の建設の事ではない。飛鳥川の下流である藤原の地に、新たな都を開いたことを言うと考えられる。

 藤原京建設

藤原京建設は天武朝の間に既に具体化されていたのであろう。奈良時代中期から見れば、これは壬申の乱平定後とも見えるであろう。持統朝 469011月に、太政大臣高市皇子が都の建設地を視察しており、ここでは藤原宮所と明記されている。そして持統朝 510月に新益京(あらましのみやこ)の地鎮祭を行っている。新益京とは、新たに増やした都という事であろう。藤原京は飛鳥の都を拡張した場所と見なされていた訳である。以後、持統天皇自身が何度か視察し、持統869412月に藤原京に居を移した。平安遷都の100年前である。藤原京建設の歌が巻1にある。

1-50 作者不詳 藤原京の役民が作る歌

原文 

八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我字倍尓 食国尓 賣之賜牟登 都宮者 高所知 武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海の国之 衣手能 田上山之 真木佐苦 桧乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其尓取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓

不知国 依巨勢道従 我国者 常世尓成牟 圖負留 神亀毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足

五十日太尓作 泝須良牟 伊蘇波久見者 神随尓有之

訓読

やすみしし わが大君 高照らす 日の御子 荒栲(あらたえ)の 藤原が上に 食す国を 見まひはむと みあらかは

高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ 石走る 近江の国の 衣手の 田上山の 真木さく

桧のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其()を取ると 騒ぐ御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て 我が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より 我が国は 常世にならむ

圖負へる くすしき亀も 新代(あらたよ)と 泉の川に 持ち越せる 真木のつまでを 百(もも)足らず 筏に作り

(のぼ)すらむ いそはく見れば 神ながらにあらし

 

この歌は藤原京の役民が作った歌とされている。役民とは徴発されて公務に従事する労働者である。この題詞が本当ならば、万葉集始まって以来の庶民の歌という事になる。しかし歌い振りを見るとそうではなく、人麻呂と同じ下級官人の作のようである。人麻呂に代表される下級官人で、朝廷に対する讃歌や、皇子に対する挽歌を作る歌人を宮廷歌人という。この歌を本当に作った宮廷歌人が誰なのかは分からない。人麻呂の歌に似た所もあるので、人麻呂作とする説もあったが、言葉の使い方が違うので現在は人麻呂作とは考えられない。

歌は先ずやすみしし わが大君 高照らす 日の御子と、天皇の事を言う。この言い回しは、持統天皇が夢の中で習い覚えたという天武天皇挽歌や、人麻呂の安騎野の歌に出てきた。荒栲(あらたえ)の は、藤原に掛かる枕詞。みあらかは は、宮殿の事。と続く

やすみしし わが大君 高照らす 日の御子 荒栲(あらたえ)の 藤原が上に 食す国を 見まひはむと みあらかは

高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ

「天皇が藤原の上で領土をご覧になろうと思われて、宮殿を高々と御作りになろうと、神のご意思のままにお考えになると天地の神々もそれに寄り添われて」と続く。

藤原は本来、人の住むのに適さない荒野なのだが、神の子孫である天皇の意志に、天地の神々の賛同もあって、そこに都を建設される。

続いて石走る 近江の国の 衣手の 田上山の 真木さく 桧のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其()を取ると 騒ぐ御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て 

石走るは近江に、衣手田上山に、真木さく桧のつまでにかかる枕詞。もののふの 八十宇治川は、人麻呂の歌にもあった修辞で宇治川を引き出している。いささか修辞が多すぎるが、要するに近江の国の田上山の桧の材木を、宇治川に玉藻のように浮かべて流していると、それを拾おうと騒ぐ民たちが家の事を忘れ自分の身も顧みず、鴨のように水に浮いて待っているというのである。田上山は宇治川の上流にあり、有名な桧の産地である。桧の林・桧原は放置して自然に出来るものではない。以前詠んだ柿本人麻呂歌集の歌に、巻向の桧原とか三輪の桧原が出てきたが、それらはやはり宮が置かれていた時代から、大事に育てられてきたのである。今は飛鳥に近接する藤原京に建設される宮だから、距離から言えば巻向、三輪の桧原の方がずっと近い。しかそれだけでは足りないのであろう。はるばる近江の田上山からも運んでこなければならないのである。歌はその運搬の過程を描いている。

田上山で切り出した桧を、宇治川で流すと、それは下流にあった巨椋池(おぐらいけ)に流れ着く。現在ではすっかり干拓されているが、そこは東から流れてくる宇治川と、南からの木津川、北からの桂川が合流する所で、近江と山城に降った雨が集まる所である。古代には広大な池であった。その巨椋池で、男達は鴨のように水の上に浮いて、流れてきた材木を集めるのであるが、この歌の様子は家や自分の身のことはすっかり忘れているようだと歌われている。

 

ここで歌の叙述は大きく迂回する。

我が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より 我が国は 常世にならむ 圖負へる くすしき亀も 新代(あらたよ)と 泉の川に

自分達が建設する大君の御門に知らぬ国 寄し巨勢→異国を服従させてくれという名の巨勢路から、我が国は常世の国になるという瑞兆の模様を甲羅に付けた不思議な亀も、新たな世の中だと言って出てくるという名の泉の川という、飛躍に飛躍を重ねた文脈となる。巨勢は今の御所市という奈良盆地西南部の都市で、そこから瑞兆の亀が出てきたという。

これは天人相関思想といって、中国の漢代に発達したもので、良い政治が行われると、天が瑞兆を著わし、政治が悪いと異変が警告して、改めないと災いを与えるという思想である。万葉集の時代はそれが強く受容されて、奈良時代は白い亀から金、銀の算出などを瑞兆として、頻繁に改元を行った。

和歌を読むのに戻る。今度は巨椋池から泉川(木津川)を溯っていく場である。

 持ち越せる 真木のつまでを (もも)足らず 筏に作り 泝(のぼ)すらむ いそはく見れば 神ながらにあらし

(もも)足らずは、筏に掛かる枕詞。「泉川に持ってきた材木を筏に組んで遡らせていくのだろう。民たちが競うようにしているのを見ると、これは神の御心のままなのに違いない」と歌い収める。

全体にあまりにも修辞的な空疎な印象だけど、飛躍の多い文脈に熱気を感じることも出来る。

知らぬ国 寄し巨勢→見知らぬ異国も我が御門に起伏させようというのも、この藤原京建設がこの国の新たな発展のシンボルであるという、高揚した気分の下に述べられていることを示している。

 

この役民の歌と同じ様に長歌で藤原京を歌った歌がある。巻1-52,53で藤原京の御井の歌という。

1-52 作者未詳 藤原京の御井の歌

八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 角妙乃 葛井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之

見之賜者 日本乃 青香具山者 日経乃 大御門 春山跡之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門 弥豆山跡 山佐備伊座 耳為之 青香具山 背友乃大御門尓 宜名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 陰友乃 大御門従

雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影之 水許曽婆 常尓有米 御井之清水

やすみしし 我ご大君 高照らす 日の皇子 荒栲(たえ)の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に 

あり立たたし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の この瑞(みず)山は 日の緯(よこ)の 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面(ひのたて)の 大御門 よろしなへ

神さび立てり  名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭の 水こそは とこしへにあらめ 御井のま清水

1-52 作者未詳 藤原京の御井の歌

原文 藤原之 大宮都加倍 安礼衝哉 処女之友者 乏吉呂賀聞

訓読 藤原の 大宮仕へ 生れつくや 娘子(をとめ)がともは ともしきかも

 

52 長歌

役民の歌と同じくやすみしし 我ご大君 高照らす 日の皇子と、天皇を呼んで始まる。天皇が藤井の原に大御門を初めて立てて、埴安の堤の上にお立ちになって御覧になると という。埴安の堤は、人麻呂の高市皇子の挽歌に、埴安という言葉が出てくる。香具山の麓にあった貯水池である。藤原宮からはすぐ近くだが、堤だけに少し高くなっている。天皇が御覧になるというのは、人麻呂の吉野讃歌の第二首に やすみしし 我が大君 神ながら 神さびせすと 吉野川

 激(たぎ)つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば というのと同じで、国見歌の型式を備えている。そして天皇が国見すると、山と川の神が奉仕するといと歌ったように、この歌でも天皇が御覧になる自然がそこらに立ち現れている。それは藤原宮を取り囲む四方の山々であった。

まず大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり 大和を代表する青々とした香具山は、東の大きい御門の所に春の山らしさを見せている。

 五行説の影響

この歌にも役民の歌同様に、中国思想の影響が見られる。中国には五行説というのがあって、東南西北に中央を足して五つ、それは基本形 元素では木・火・土・金・水  季節では 春・夏・秋・冬 間の土用 

色では、青・黄・赤・白・黒  動物では 青龍・朱雀・白虎・玄武 そして中央に皇帝となる。高松塚古墳やキトラ古墳といった78世紀の終末期の古墳にそれらの動物が五行説に従って描かれている。藤原宮の東の香具山が、青香具山と呼ばれ、木が茂ることが述べられ、春山とされるのは、五行説によると思われる。

次に西畝傍の この瑞(みず)山は 日の緯(よこ)の 大御門に 瑞山と 山さびいます

「畝傍の瑞々しい山は西側の大きい御門に山らしくいらっしゃる」

日の緯(よこ)が、西。日の経(たて)が東で、日の緯(よこ)が西なのは何か変であるが仕方ない。

次に北、耳成の 青菅山は 背面(ひのたて)の 大御門 よろしなへ 神さび立てり

「耳成の青い菅の生えた山は、北側の大きい御門に神々しく立っている。」

そして南側、名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 

かげともは、日の当たる方向で南である。

「名前の良い吉野の山は、南の御門から雲にかかる辺りに遠くにある

 都の理想的な場所

藤原宮は大和三山が作る三角形の中に位置し、南側は空いている。これは又、風水思想に基づく都の理想的な形である。四神相応などと言って、東西北を神々が守り、南側は眺望が開けるようになっている。後の平城京や平安京も、そうした土地が選ばれている。

最後に長歌のまとめ 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭の 水こそは とこしへにあらめ 御井のま清水

天の御蔭 天知るや 日の御蔭とは、雨や直射日光を遮る屋根の事で、宮殿を象徴している。

「高々とお造りになる宮、天まで届くほどの宮も、水こそはいつまでも変わらずにあるだろう。宮の井戸の清らかな水よ」

御井の歌らしく最後は中央にある宮の中の井戸の水を称えて終わっている。清らかな水は宮での活動に必須な物であり、儀礼に必要な酒を作るのにも大事である。浄御原からも平城宮からも、井戸の跡が発掘されている。

そして朝廷の水の祭が重要だったようである。飛鳥宮の東側、酒船石のある丘の中腹から、斉明天皇の築いた石垣が見つかったことは既に述べた。その更に下からは、亀の形になった石造物が2000年に発掘されている。状況から見て、水を流したに相違なく、恐らく儀礼の場であったのだろう。巨大な岩に溝を彫った酒船石との関連も気になる所である。

そうした水の儀礼と、御井の歌とは関連があるのかも知れない。

 

52短歌 藤原の 大宮仕へ 生れつくや 娘子(をとめ)がともは ともしきかも

「大宮に仕えるように生れついたのだろうか。乙女たちは羨ましいな」

後年の作だが、大伴家持に、巻19-4143もののふの 八十娘子らが 汲み乱(まが)ふ 寺井の上の堅香子の花

という歌があるので、御井の歌の娘子とは、集団で宮廷で使う水を御井から汲む娘子なのであろう。

 藤原京は短期間であった→平城遷都

国見の歌の型通りの構成で、見える者は四方の山を六句ずつの対句で歌っている。六句ずつの四対の対句は、万葉集中でも、他に例がない。そして安定した印象は水こそは とこしへにあらめ 御井のま清水 という歌全体の主旨と結びついているのであろう。御井の清水が何時までも湧き続けることは、勿論この藤原京の永続を象徴するのである。人麻呂吉野讃歌の巻1-36 この川の 絶ゆることなく この山の いや高しらす みず激る 滝の宮処は 見れど飽かぬかも

と、同じ精神である。藤原宮が藤原京と共に永続して使用することが、前提であったことが和歌からわかる。

所が、藤原京が使用されたのはわずか16年間に過ぎなかった。慶雲4年 7072月 に、早くも五位以上のものに遷都を議論させ、その年6月に文武天皇が崩御して、その母である天智天皇の皇女・阿閇(あへ)が即位して、元明天皇の時代になっても、計画は続行された。翌、和銅元年2月に平城京に遷都する詔が出される。その詔は、平城の地は中国の風水思想によっても良しとされている。

 平城遷都の理由

そしてその年の内に工事は本格化して、和銅3710年の平城遷都となる。永続して使うはずの藤原京が、放棄されたのは、何故だったのか。決定的なことは解っていない。以前は藤原京が手狭になったのだろうと言われていた。奈良盆地には、7世紀前半には南北に三本の直線的な大路がしかれ、東から上ツ道、中ツ道、下ツ道といった。又東西には西は河内へ、東は伊勢へと通じる今の近鉄大阪線に沿った横大路という太い道があった。藤原京は東が中ツ道、西が下ツ道、北が横大路、南は上ツ道が横大路となったあたりからカ-ブして、東西道となった山田道の4本の大路が京極だと考えられていた。しかし周辺の発掘が進むと、四本の大路の外側からも、条坊に区切られた跡が出てくる。その範囲を見ると、むしろ平城京の京域よりも広い。だから、狭いのが理由ではない。現在は、その構造が問題なのではないかと考えられている。条坊も後から見ると、藤原京は正方形の京域の中心に、正方形の宮がある構造である。それは中国古代国家の都に倣ったのだとも、南北朝時代の南朝の都・建康(けんぎょう)・今の南京に倣ったのだと言われる。所が、唐の長安は宮を宮域の一番北に置く構造であった。藤原京は移転した後、大宝律令を完成させて、遣唐使を送り、日本と名乗って唐と直接の外交を展開するが、大宝2702年、その時に、中国の旧式な京の形式であるのが、都合が悪かったのではないか。都はいわば、国の顔なので、たかが都の作りと片付ける訳にはいかない。今まで読んで来たような

大君は 神にしませばとか、やすみしし 我ご大君とか、高照らす 日の皇子といった言葉で始まる歌が、奈良時代になると殆ど見られなくなる事と、藤原京から平城京への移転とは関りがある様に思われる。

役民の歌の天人相関思想とか、御井の歌の風水思想は、中国伝来の新しい思想で奈良時代にも受け継がれるが、それを丸出しに歌うのは大袈裟であり空疎である。大宝律令が出来て、天皇個人のカリスマ性に頼るのではなくて、天皇も含めてそのシステムに従って国家が運用されていく新たな国家、日本として中国と直接交渉して、その文物を輸入する、そうした時期になると、役民の歌に理念を示される藤原京は、まだ建設中でありながら急速に古びて見えたのではないか。新興国日本は、新たな世 として作った都もすぐさま捨て去り、唐の長安を同じ様に北の端に宮を置く平城京を建設した。平城京は北が張り出した形であり、宮も正方形でない。理念より実際が重視された造りに思われる。

 

平城京に移転する時の歌がある。

1-78 元明天皇 平城京に移る時に、輿を長屋原 (天理市南部)に停めて、古京を振り返って歌った歌

原文 飛鳥 明日香能里尓 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武

訓読 飛ぶ鳥の明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ

 

1-79 作者不詳 或る本に

原文 

天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎擇 隠国乃 泊瀬乃川尓 舟浮而 吾行河乃 川隈之 八十阿不落

万段 顧為乍 玉梓乃 道行晩 青丹吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上従 朝月夜 清尓見者 栲乃穂尓 夜之霜落 磐床等 川之水凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作歌尓 千代二手 来座多公与 吾毛通武

訓読

大君の 命畏み 柔(にきび)にし 家を置き こもりくの 泊瀬(はつせ)の川に 舟浮()けて 我が行く川の川隈の

八十阿(くま)落ちず 万(よろず)たび かへり見しつつ 玉梓(たまづさ)の 道行き暮し 青丹によし 奈良の都の

佐保川に い行き至りて 我が寝たる 衣の上ゆ 朝月夜 さやかに見れば 栲の穂に 夜の霜降り 岩床と

川の水凝り 寒き夜を 息(やす)むことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに 来ませ大君 我も通はむ

 

1-80 作者不詳

原文 青丹吉 寧楽乃家尓者 万代尓 吾母将通 忘跡念勿

訓読 あをによし 奈良の家には 万代(よろづよ)に 我も通はむ 忘ると思ふな 

 

78 飛ぶ鳥の明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ

元明天皇が平城京に移る時に、輿を長屋原 (天理市南部)に停めて、古京を振り返って歌ったという題がある。

「飛ぶ鳥の明日香の里を置いて行ったら、あなたのいる辺りは見えなくなるだろうか」

君が誰を指すか不明。元明天皇としては、亡き夫・草壁皇子か、或いは亡き子・文武天皇か。いづれも明日香近くに葬られている。そういう離れ難く切ない心地の惜別を歌っている。

79 長歌 

大君の 命畏み 柔(にきび)にし 家を置き こもりくの 泊瀬(はつせ)の川に 舟浮()けて 我が行く川の川隈の

八十阿(くま)落ちず 万(よろず)たび かへり見しつつ 玉梓(たまづさ)の 道行き暮し 青丹によし 奈良の都の

佐保川に い行き至りて 我が寝たる 衣の上ゆ 朝月夜 さやかに見れば 栲の穂に 夜の霜降り 岩床と

川の水凝り 寒き夜を 息(やす)むことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに 来ませ大君 我も通はむ

作者不詳であるが、藤原京の役民の歌と同じく、平城京を建設した労働者の立場で作られた歌である。

「大君の御命令を謹んで、馴染んだ家を離れ初瀬の川に舟を浮かべて、私が行く川の多くの曲がり角で何度も振り返りながら、途中で日も暮れ、ようやく奈良の都の佐保川に辿りついた。私が仮寝をする衣の上に、明け方の月の光がさやかに見えて、辺り一面夜の霜が降り、岩床のように川が氷り、寒い夜なのに休むことなく、通い乍ら作った奈良のお宅に千年までお住み下さい。大君よ、私も通ってお仕えしましょう。」

同じ役民の歌でも、藤原京の歌のパロディではないかと思う程対照的である。藤原京の方は、家をも忘れ、身も棚知らず働いていたが、平城京の方は家を振り返りながら初瀬川を下り、佐保川を溯り、やっと奈良に着くともう夜で、何もない所での仮寝は頗る寒い。そんな風にして休むことなく作った宮なのだから、大君よ、ずっと住んで下さい、私は通いますから。

一応大君と、宮の永続を寿いでいるのだが、むしろ自分が如何に苦労したかとを訴えかける内容になっている。

大君の 命畏みは、奈良時代の歌にはよく出て来て、公の為に苦痛を凌ぐ表現に用いられる。

80 あをによし 奈良の家には 万代(よろづよ)に 我も通はむ 忘ると思ふな 

「奈良の都には私もいつまでも通いましょう。決して新しい住まいを忘れてしまうなどと思わないで下さい」

矢張り永遠の奉仕を誓っているが、この民はあくまで初瀬の人であって、神の意志のままに大君と共に新たな京を建設すると言った熱気はない。新たな世の中、時代精神は飛鳥に隣接した藤原京ではなく、奈良盆地の反対側、一番北に移ることで、ようやく完成するのであった。元明天皇が旧都に対する名残を惜しむ歌の題詞にふるさととあったように、飛鳥藤原京は奈良時代になると、ふるさとと呼ばれるようになる。漢語の故郷は、生まれ育った場所という意味だが、日本語の故郷は、むしろ元居た場所、それも古い都の意味で使われることが多い。その言葉は自分達のルーツであるという親しさと共に、古びてしまったという痛みをもって使われている。

 

藤原京の荒廃を嘆く歌として、鴨足人という人の作った香具山の歌がある。

3-257 鴨足人 香具山の歌

原文 

天降付 天之芳来山 霞立 春尓至婆 松風尓 池浪立而 櫻花 木之晩茂尓 奥辺波 鴨妻喚 辺津方尓

味村左和伎 百磯城之 大宮人乃 退出而 遊船尓波 梶棹毛 無而不楽毛 己具人奈四二

訓読

天降(あもり)つく てんの香具山 霞立つ 春に至れば 松風に 池波立ちて 櫻花 木の暗茂(くれしげ)に 沖辺(おきへ)には 鴨妻呼ばひ 辺つ辺に あぢ群騒ぎ ももしきの 大宮人の 退(まか)り出て 遊ぶ船には 楫棹(かじさお)もなくて

寂しも 漕ぐ人なしに

 

257

「天から降ってきた天の香具山よ、霞の立つ春になると、松を吹く風に池の波が立ち、櫻花に木が茂って、暗がりを作り、

沖には鴨が集まって妻を呼び、岸辺では、アジ鴨が群がって声を立て、大宮人達が退出して遊ぶ船には、楫も棹もなくなって、淋しいことヨ。漕ぐ人もいないで。」

 

人麻呂の近江荒都とかの系列にある、荒れた都を嘆く歌である。近江荒都とかと同じ様に、季節は春で変わらずに栄える自然と変わる人事とが対照されている。しかし香具山の麓の都・藤原京は大津宮のように滅ぶ訳ではない。ゆっくりとした中に、ひっそりと忘れ去られた舟が浮いている。それは奈良時代の藤原京のシンボルと言っても良いであろう。その舟に対する感傷的な気分は、奈良に移った人々の飛鳥藤原京に対する思いを表している。

 

「コメント」

 

今日は万葉集歴史講座であった。万葉集は歌と歴史の作品と言われるのがよく分かる。今まで飛鳥の中、時には難波・河内へと遷都していたのに、そして大津へと。今回だけセンチメンタルになり過ぎではと思うがいかが。