220827㉑「柿本人麻呂歌集の表記と巻向・三輪歌群 巻7」
前回は柿本人麻呂歌集について話した。柿本人麻呂歌集は現存しない、万葉集に吸収される形でのみ、存在の知られる歌集である。かっては当時の人が編集して、人麻呂の名を騙った歌集とみられたことがあったが、唯一製作年の分かる歌から、人麻呂自身が編集した歌集であるということが明らかになった。巻1巻2を中心に載せられている柿本人麻呂の作る歌、人麻呂作歌とは異なって、俗っぽい旋頭歌や譬喩歌、又 想像力豊かな七夕の歌等多様な作品を含んでいる。又、巻11、巻12には多数の相聞歌が収められていて、男女の恋の諸相が描かれている。
正述心緒(せいじゅつしんちょ)と寄物陳思(きぶつちんし)
その相聞歌の分類 正述心緒(せいじゅつしんちょ)→唯に思いを述べる歌→心に思う事を直接表現する歌と、寄物陳思(きぶつちんし)→物によせて思いを述べる歌、これなどは巻11巻12の出典不明の歌にも見られるが、元々は人麻呂歌集の分類名であったようである。
人麻呂は歌の製作だけでなく、自分の歌集にも独自の理論を立てて、編纂を行ったのである。
万葉集の書き方
さて、柿本人麻呂歌集といえば、その歌の書き方に相応しくなければならない。この講義の最初に話したように、万葉集は元々漢字だけで書かれていた歌集で、歌は日本語だがやはり漢字で書かれていた。その表記法は、訓字を主体として、それで書けない部分を音や訓の万葉仮名で書く方法と、音を用いて万葉仮名を主体として、所々訓字をはさみ込む方法とに分けられる。どちらを使うかは巻によって大体決まっている。人麻呂歌集歌を収めるのは、殆ど訓字を主体として書く巻で、人麻呂歌集歌も殆ど訓示を主体にして書いている。
その中で非常に特殊な書き方になっている歌がある。それは徹底して訓字だけを用いて書くという事である。そういう書き方になっている歌を見てみよう。
巻11-2452 作者不詳 題詞 寄物陳思 左注 柿本人麻呂歌集より出
訓読 雲だにも しるくし立たば 慰めて 見つつも居らむ 直(ただ)に逢ふまでに
巻11-2453 作者不詳 題詞 寄物陳思 左注 柿本人麻呂歌集より出
訓読 春柳 葛城山に 立つ雲の 立ちても居ても 妹をしぞ思ふ
巻11-2454 作者不詳 題詞 寄物陳思 左注 柿本人麻呂歌集より出
原文 春日山 雲座隠 雖遠 家不念 妹念
訓読 春日山 雲居隠りて 遠けども 家は思はず 妹をしぞ思ふ
三者何れも恋歌である。
2452 雲谷 灼発 意追 見乍居 及直相 雲だにも しるくし立たば 慰めて 見つつも居らむ 直(ただ)に逢ふまでに
せめて雲だけでもはっきり立ったならば、心を慰めながら過ごそう、直接会えるまで。この歌の中で、助動詞、助詞の類はだにも、も、ば、つつ、む、までに であるが、その中で文字で書かれているのは、谷(だにも),、乍(つつ)、及(まで)の三つだけで、他は書いてない音を読み添える様になっている。
2453 春楊 葛山 発雲 立座 妹念 春柳 葛城山に 立つ雲の 立ちても居ても 妹をしぞ思ふ
春の柳を葛にするという葛城山に立つ雲ではないが、立っても座っても、愛しいあの子を思ってしまう といった二段構えの序詞の歌である。この歌は助詞、助動詞の類が一切書かれていない。一句につき、二字ずつ、計10字で書かれている。下の句の立つ雲の 立ちても居ても 妹をしぞ思ふは、立、座、妹、念の4字である。でも、を、し、ぞ、は読み添えるのである。
2454 春日山 雲座隠 雖遠 家不念 妹念 春日山 雲居隠りて 遠けども 家は思はず 妹をしぞ思ふ
春日山が雲に隠れて遠いようにはなれているが、家の事は思わず、あなたの事を考えています。
この歌も助詞、助動詞で書かれているのは、雖(ども)、不(ず)だけで、家はのはとか、妹をしぞのしぞなどは読み添えである。中国語は助詞、助動詞の類が少なく、日本語の助詞・助動詞とは意味が一致しない場合が多いので、日本語の助詞・助動詞は訓字では表しにくいのである。そこで、訓字主体の表記でも、一般には助詞や助動詞は、音や訓を使った万葉仮名で表すことが多い。
略体歌→助詞助動詞をほとんど記さない表記の歌 古体歌ともいう
所がこの三首は、万葉仮名でそれらを表そうとしないで、読み手が読み添えるのに任せていることになる。このように万葉仮名を使わず、助詞・助動詞の類を書かない歌の表記を略体歌と詠んでいる。こうした書き方が纏まって見られるのは、人麻呂歌集だけである。
今の三首は149首もの人麻呂歌集歌が連続して載せられている部分にあるが、その殆ど略体歌表記をされているのではない。一般の訓字主体表現と同じ様に、助詞・助動詞の類を万葉仮名で書きこむ形で書かれている歌が多い。そうした歌を、非略体歌と呼んでいる。略体歌、非略体歌は、だいたい歌の性格によって分かれていて、相聞歌や譬喩歌のような男女関係に関わる歌は略体歌、七夕歌を含む雑歌や挽歌は非略体歌が多くなっている。
人麻呂の歌の残し方
分かり易いのは、巻10で春夏秋冬それぞれの雑歌部、相聞歌の先頭に人麻呂歌集歌が載せられているが、雑歌部は非略体、相聞部は略体歌で統一されている。そうした二種類の書式を使い分け書き残したのは、恐らく人麻呂自身だろうと考えられる。万葉集編集者もそれを尊重して、元の表記のまま万葉集に載せたのであろう。そして歌集としてこの様に和歌を編纂して、書き残すことは万葉集を見る限りでは人麻呂に始まると考えられる。
初期万葉の歌はそれぞれ見た様に、集団の中ではパフォ-マンスとしての意味合いが強いので、記録として書き残したとしても、文字遣いがどうこうと言う局面はなかったであろう。柿本人麻呂は自分の歌を、文字に書きながら作り残した。
だからその歌の文字使いというのは、人麻呂の表現なのであろう。その時、人麻呂は訓字によって和歌を書くことを選んだ。選んだというのは、歌を万葉仮名で書く場合もあったからである。
古今集の序 難波津に 咲くやこの花冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花→練習用の木簡によく書かれている歌
百人一首の試合でまず読まれるのがこの歌。この歌は百首にはない。空札である。手習いの歌とされていて、出土する木簡に多く書かれている。一字一音式の万葉仮名で書かれている。それも音と訓とが無秩序に使われていて、キチンと文字使いを考えて書かれている様には見えない。木簡は書いた後は、削ったり捨てたりするのできちんと考えて書かないのも当然であろう。歌集に歌を記すというのは、全く異なる局面である。和歌は歌集にとって最も相応しい書き方で書かねばならない。
漢字とは 日本の対応 よく理解できない部分
漢字には三要素 形・音・義(けいとうぎ) 形は漢字の形、音は日本語の音声として表された発音である。そして義は意味である。形と音と意味である。漢文は漢字を並べて一字一字の意味を繋ぎ合わせて理解されている。大和の国では、その漢文を訓読という形で理解した。平安時代になると、漢文の訓読の時、今の様にカタカナで漢字の訓を記したり、乎古止点(おことてん)という符号で、助詞や助動詞の類を示したりした。→読み方を示すために漢字の字面の四隅・上下・中央などに記入した符号。奈良時代以前の上代は、カタカナも乎古止点(おことてん)もまだないが、漢字を訓で読み助詞、助動詞の類を読みかえるという形で訓読することは行われていたと考えられる。そうした形でしか、漢文は読解できなかったであろう。
漢文と日本文との関係
日本語を訓字主体で書くという事は、その漢文訓読の逆用である。漢文訓読とは中国語から日本語への翻訳の一種なので、逆に日本語から中国語への翻訳も可能である。
勿論出来上がった漢字の並ぶ文も、日本語で読み下すことを前提に書かれている訳であるから、漢文と全く同じではない。それでも訓で書かれた漢字文は、漢字を意味の備わったものとして、漢字の意味の分かる人であれば、日本語が分からない人でも、ある程度理解できる文になるはずである。訓字で書かれた文章は、そうした国際性を持つのである。
人麻呂にはなるべく訓字を用いて書くという傾向があったと思う。その思考に沿って書かれたのが、略体歌なのではないか。勿論日本語として読み下す事が、出来る様にする為には、助詞、助動詞の類を全然書かないわけにはいかない。
助詞のだには谷という字で書くとする。~するかも という時のかもは、鴨の字で書くとする。そういう万葉仮名も混じるので、全部が漢字の字通りではない。ともかく漢字の音を使わずに訓だけで書くという事は、略体歌では徹底している様に思える。
柿本人麻呂の歌には、漢籍の作品に連なった歌が随所に見える。漢字を習い覚えるには、そうした漢籍に学ぶ必要がある訳で、人麻呂のみならず文章を扱う人全てにとって、漢籍は身近な存在であった。そうした中で自分の歌集を編むという場合に、木簡の様に音訓バラバラな一字一字形式で歌を載せるという事はあり得なかったであろう。先程訓字主体の表記を選択したと言ったが、その選択は必然だったともいえる。人麻呂は歌を大和の国の歌、日本語の歌と意識していたことは次の歌からもうかがえる。
巻13-3253 柿本人麻呂 柿本人麻呂歌集より
原文
葦原 水穂國者 神在随 事擧不為國 雖然 辞擧叙吾為 言幸 真福座跡 恙無 福座者 荒礒浪 有毛見登 百重波 千重浪尓敷 言上為吾
訓読
葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 しかれども 言挙げぞ我がする 言幸(さき)く ま幸くませと 障(つつ)みなく 幸くいまさば 荒磯(ありそ)波 ありても見むと 百重(ももえ)波 千重(ちえ)波しきに 言挙げす我は
巻13-3254 作者不詳 反歌
巻13-3254 作者不詳
原文 志貴嶋 倭国者 事霊之 所佐国叙 真福在与具
訓読 磯城島(しきしま)の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ
二首の解説
3253 長歌
巻13は作者を記さない長歌の巻で、人麻呂の長歌は他の歌の異伝として2首載せられているのみだが、その中の一首である。長歌冒頭の葦原の 瑞穂の国は、この大和の国の神話的な呼び方である。葦原の 瑞穂の国は、神の思し召しのままに言挙げをしない国だとまず言う。言挙げというのは、何か思う事、願う事がある時に、声に出して言い立てる事である。神が言挙げするのはいいのだが、人の分際で言挙げをするのは忌むべき事として神罰を受ける。神々が支配して万事相応しくはかってくれるのだから、人はそれに従っていればよいという考え方である。
この歌も一旦この国は神々に任せて、事々しく言い立てないのが国柄と述べている。しかし今は、自分は言挙げをします、言葉が祝うように無事でいらっしゃってくださいと、そうして障りが無く無事でいらっしゃったら、私達もこのまま必ずまたお会いしましょう。百重(ももえ)波 千重(ちえ)の重なる波の様に、繰り返し言挙げをします私達は と結ぶ。
波が重なる様に繰り返し言挙げをすると言って、実際に言挙げという言葉を4回も繰り返している。
荒磯(ありそ)波は、荒磯に打ち寄せる波の事で、無事で変わらないという意味のありを引き出す。この様に波が何度も出てくるのは、この歌が海岸で歌われているからなのであろう。
そしてこの国の国柄を述べる事からすれば、この長歌は外国への使節を送る歌なのではないか。この国は言挙げをしない国なのに、今は敢えて言挙げをするというのは、この国を出て別の国へと向かうからなのであろう。
3254 反歌 言霊について
磯城島(しきしま)の 大和の国は、言霊が助けてくれる国である という意味で、ご無事でと願っている。長歌で言幸(さき)くとあったように、その言葉に言霊が籠っていて、人々を助けてくれる。外国に向かう人々も、我々の贈った言葉の魂に守られて、無事でいて下さいと願うのである。その言霊は自分達の母語 日本語にこそ籠るであろうし、中でも特別な言葉である和歌にこそ籠るのである。今まで言葉が現実を引き寄せるという信仰の下に、歌われているという説明をいくつかの歌にしてきた。しかしその信仰を言霊という言葉で表したのは、人麻呂歌集が最初である。そしてそれは
外国に対する大和の国、外国語に対する日本語を意識する中で、言葉にされたのである。
略体歌 非略体歌
さて訓字で書くことを志向する人麻呂であるが、略体歌ばかりでなく、非略体歌も残している。漢字の音と訓を使って助詞・助動詞を文字化する歌々である。それは雑歌や挽歌に多かった。略体歌が相聞歌や譬喩歌など男女を歌う歌に多いのと対照的である。略体歌が助詞や助動詞を読み添えにしておくことが可能であったのは、相聞歌や譬喩歌が類型的であるという事と関係があると思う。先程の三首の 2452 見つつも居らむとか2453 妹をしぞ思ふなどという表現は万葉集の相聞歌のあちこちに見られる。正述心緒(せいじゅつしんちょ)→唯に思いを述べる歌 でも、寄物陳思(きぶつちんし)→物によせて思いを述べる歌 でも、人麻呂歌集の歌は、だいたいパタ-ンが決まっていて余り複雑な内容にはならない。一方、雑歌や挽歌の表現は、もっと複雑で類型に収まらない場合が多い。人麻呂歌集の正述心緒(せいじゅつしんちょ)→には、哲学的思索が込められていると思われる作さえある。その一例を巻7 雑歌の部に散在する非略体歌に見てみよう。ここには巻向、穴師、三輪といった土地が歌われている。これらは三輪山の北にある土地で、奈良盆地の中であるが、殆ど人麻呂歌集には登場しない。
雑歌部の哲学的な歌の例 非略体歌 二首共斎藤茂吉が激賞
巻10-1087 柿本人麻呂 題詞 霧を読む 柿本人麻呂歌集より出
原文 痛足河 々浪立奴 巻目之 由槻我高仁 雲居立有良志
訓読 穴師川 川波立ちぬ 巻向の 弓月が岳に 雲居立てるらし
巻10-1088 柿本人麻呂 題詞 雲を読む 柿本人麻呂歌集より出
原文 足引之 山河之瀬之 響苗尓 弓月高 雲立渡
訓読 あしひきの 山川の瀬の 鳴るなへに 弓月が岳に 雲立ちわたる
1087 穴師川 川波立ちぬ 巻向の 弓月が岳に 雲居立てるらし
穴師川に川波が立った。巻向の弓月岳に雲が立ったに違いない
穴師川に立った川波から、上流の巻向の弓月岳に雲が立ったことを推測している。
1088 あしひきの 山川の瀬の 鳴るなへに 弓月が岳に 雲立ちわたる
あしひきのは、山に掛かる枕詞。山川は前の歌の穴師川であろう。山川の瀬がかなり響く時、弓月岳には雲が立ち上っているだろう。この二首は斎藤茂吉が激賞した事でも知られている。万葉集でも稀なほど、自然を雄大に描き切っている。
山川の背の轟轟とした音を聞くと共に、山に一面に雲が立っているという事を見て取っている。天候が急変して自然がその威力を発揮しつつある。
次に山を読む三首である。
巻7-1092 柿本人麻呂 題詞 山を読む 柿本人麻呂歌集より出
原文 動神之 音耳聞 巻向之 桧原山乎 今日見鶴鴨
訓読 鳴る神の 音のみ聞きし 巻向の 桧原の山を 今日見つるかも
巻7-1093 柿本人麻呂 題詞 山を読む 柿本人麻呂歌集より出
原文 三毛侶之 其山奈美尓兒 等手乎 巻向山者 繋之宣霜
訓読 三諸の その山なみに 子らが手を 巻向山は繋ぎしよろしも
巻7-1094 柿本人麻呂 題詞 山を読む 柿本人麻呂歌集より出
原文 我衣 色取染 味酒 三室山 黄葉為在
訓読 わが衣 色取り染めむ 味酒 三室の山は 黄葉(もみじ)しにけり
1092 鳴る神の 音のみ聞きし 巻向の 桧原の山を 今日見つるかも
雷の様に高い評判ばかりを聞いていた巻向の桧原の山を今日、ようやく見たことだ
桧原は桧を植えた林の事で、今も三輪山と幕向山の周りの山辺道には、檜原神社という社がある。巻向の辺りの桧原は当時、有名であったのだろう。それを今日漸くみることが出来たという歌である。
1093 三諸の その山なみに 子らが手を 巻向山は繋ぎしよろしも
三諸山のあの山脈に、子らが手を巻くという巻向山は続き具合がいいなあということ。三諸は前にも出てきたが、神の憑代の事で、ここでは神の山 三輪山の事である。
人麻呂の地名を引き出す方法 枕詞・序詞
子らが手 巻向の枕詞で、愛しいこの手を巻く、枕にするという形で巻向にかかる。人麻呂歌集にはこの子らが手を巻向の様に、掛詞式に下の地名を引き出してくる枕言葉が多い。これは人麻呂作歌の264 もののふの 八十宇治川の 網代木に いさよふ波の ゆくえ知らずも と同じで、
もののふの 八十宇治川→多くの氏族たちがという表現が、宇治川を引き出している。もののふの 八十宇治川は、二句に跨っているから、序詞と呼ばれる。しかし人間の事から掛詞的に地名を導くという点では、子らが手が巻向も、もののふの 八十宇治川も、全く同じなので、人麻呂は掛詞、序詞の境を越えて、新たな地名表現を作り出していると見るべきであろう。注目したいのは、それが単に地名を引き出しているのではないという事である。先に述べた様にもののふの 八十宇治川は、壬申の乱に滅んだ多くの氏族達を連想させる。いさよふ波の ゆくえ知らずもに、人々の流転を思わせていた。子らが手を 巻向山は、仲の良い男女を思わすから、三室山と巻向山との繋がり具合が良いと響き合うのである。そうした効果を示す修辞なのである。
1094 わが衣 色取り染めむ 味酒 三室の山は 黄葉(もみじ)しにけり
味酒は、三輪に掛かる枕詞。私の衣をその色で染めたいものだ。三輪の山は綺麗に黄葉したなあという歌。三首は巻向山、三輪山と巻向山、そして三輪山と二つの山を移行するように歌っているが、どれも見事さ、美しさを誉める、山ほめの歌といって良い。
次に川を読む二首。
巻7-1100 柿本人麻呂 題詞 河を読む 柿本人麻呂歌集より出
原文 巻向之 病足の川由 往水之 絶事無 又反将見
訓読 巻向の 穴師の川ゆ 行く水の 絶ゆることなく 又かへり見む
巻7-1101 柿本人麻呂 題詞 河を読む 柿本人麻呂歌集より出
原文 黑玉之 夜去来者 巻向之 川音高之母 荒足鴨疾
訓読 ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高し あらしかも疾(と)き
1100 巻向の 穴師の川ゆ 行く水の 絶ゆることなく 又かへり見む
巻向の穴師の川を行く水の様に、絶えることが無く、又帰って来てみるだろう
何を見るのかは歌われていないが、この巻向の穴師という土地或いは、穴師の川と考えるのが自然であろう。この歌ですぐに思い起こされるのは、人麻呂の吉野讃歌。
巻1-37 見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の 絶ゆることなく またかへり見む 長歌36にも
この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激(たぎ)る 滝の宮処(みやこ)は 見れど飽かぬかもとあった。
川の流れが永久な事を思って、人の営みが永続する事の譬喩とするのは、和歌では人麻呂が始めたと考えられる。
但しこの表現には、漢籍の知識の裏付けもありそうである。論語の-子罕篇(しかんへん)に孔子の川の畔に在りて曰く、
「逝く者は斯(か)くの如きか 昼夜をおかず」→過ぎ去っていくものは、この水の流れと同じ様なものだ。昼も夜も過ぎ去っていく という言葉がある。この言葉は大自然の時間の連続に対する感動を表すと見る説と、時間の進行は止めようがないなく、人が瞬く間に老いて死んでいく無常を悲嘆すると見る説が対立しているが、恐らく両面あって切り離せないであろう。この歌や吉野讃歌は川の流れの連続面に注目して、人の営みの連続を歌い上げる。恐らく自分一人ではなく、世代交代して受け継がれていく集団が、またかへり見むの主語なのである。この一首は先の山を詠む三首と同じく、巻向の地に対する讃歌とみてよさそうである。
1101 ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高し あらしかも疾(と)き
ぬばたまのは、夜に掛かる枕詞。夜がやってくると、巻向川の音が高く聞こえる。嵐が激しいのだろうかという歌である。嵐は主に山から下る風を云う。この歌は明らかに先の雲を詠むの二首を引き継ぐものである。時間は夜になって暗い中、激流の音が鳴り響く。それは巻向山から吹き降ろす風の為かと、推測している。雲を詠むで歌われた天候の急変は、夜になって傍らに迫ってきた。巻向山の地で、山の神の活動を身近に感じる趣きである。
次は葉を詠むと題された二首
巻7-1118 柿本人麻呂 題詞 葉を詠む 柿本人麻呂歌集より出
訓読 いにしへに ありけむ人も 我がごとか 三輪の桧原に かざし折りけむ
巻7-1119 柿本人麻呂 題詞 葉を詠む 柿本人麻呂歌集より出
原文 往川之 過去人之 手不折者 裏触立 三羽之桧原者
訓読 ゆくかはの 過ぎにし人の 手折らねば うらぶれ立てり 三輪の桧原は
1118 いにしへに ありけむ人も 我がごとか 三輪の桧原に かざし折りけむ
遠い昔にここにいた人達も、私達の様に三輪の桧原で髪に挿す枝を折ったのだろう
かざしは、1-38人麻呂の吉野讃歌に出てくるが、髪にさす飾り かんざしの事で、本来は植物を身につけて、その生命力を振り付ける呪術的な意味があった。桧は常緑で香りも強いので、かんざしにするにはよい植物である。
我がごとの我はここでは吾等と書いてあるので、我らと訳した。私達は健康長寿を祈って三輪の桧原で、かざしして祈る遠い昔の人も同じ様に祈ったのだろうかと、過去に思いを馳せている。
1119 ゆくかはの 過ぎにし人の 手折らねば うらぶれ立てり 三輪の桧原は
1118の歌を踏まえている。行く川の様に去って行った人が手折らないので、ションボリ立っている三輪の桧原は
親しく自分たちとふれあった人々がいなくなって、変わらずに立っている三輪の桧たちが悲しそうだという。
それは人麻呂作歌の近江荒都(こうと)1-31
楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも 等に通じる人麻呂独特の擬人法である。
一方ゆくかはの 過ぎにし人には、人麻呂作歌の安騎野の歌の1-47
ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し が思い起こされる。
人が亡くなる事を枯れ葉となって散っていく事と、川が流れ去る事に例える。この二つの表現は巻9-挽歌 1796
黄葉(もみじば)の 過ぎにし子らと 携(たずさ)はり 遊びし磯を 見れば悲しも と続く1797
潮気立つ 荒磯(ありそ)にはあれど 行く水の 過ぎにし妹が 形見とぞ来し に並んで見える。
妻を亡くし、かって一緒に遊んだ紀伊国の海岸に来て、妻を偲ぶ歌である。黄葉の様にこの世を去っていったあの子と手を繋いで遊んだ磯を見ると悲しいことよ。潮の香りのするあの磯であるが、流れる水の様にこの世を去った愛しい人の形見として、ここにやってきたことよ。
1-47 ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し と
9-1797 潮気立つ 荒磯(ありそ)にはあれど 行く水の 過ぎにし妹が 形見とぞ来し が、人気(ひとけ)のない所だが、亡き人の形見として来たという点で一致するのも、人麻呂作歌と柿本人麻呂歌集歌が深い関係で結ばれていることを示している。そして7-1119 ゆくかはの 過ぎにし人は、先程見た論語の逝く者は斯(か)くの如きか→過ぎ去ったものは二度と返らない という事を表している。ゆくかはの 過ぎにし人は、 いにしへに ありけむ人である。
三輪の桧原をかざしに折ると、もう帰らない昔の人が痛ましく思われて、桧までが悄然としている様に見える。何故かといえば、この巻向の地は、古く宮のあった所だからである。
古事記・日本書紀では、10代崇神天皇や次の垂仁天皇の宮は三輪山の麓にあった。更にその次の景行天皇の宮は、巻向にあったとされる。崇神天皇の代、三輪山の神の妻となった倭迹迹日百襲姫(やまとととそももそひめ)の墓・箸墓は三輪と巻向の間にある。大和平野で最古の古墳である。
巻向からは3世紀の大きな建物群も確認されており、実際に古く栄えた土地であった。
人麻呂の頃にもその様に考えられていたのであろう。
巻向・三輪歌群、最後には「所につきて思いを発す」→その土地から生まれた事を詠むという題の二首
巻7-1268 柿本人麻呂 題 所につきて思いを発す 柿本人麻呂歌集より出
原文 児等手乎 巻向山者 常在常 過住人尓 往巻目八方
訓読 子らが手を 巻向山は 常にあれど 過ぎにし人に 行きまかめやも
巻7-1269 柿本人麻呂 題 所につきて思いを発す 柿本人麻呂歌集より出
原文 巻向之 山邉響而 往水之 三名沫(三繩)如 世人吾等者
訓読 巻向の 山辺響(とよみ)て 行く水の 水沫(みなわ)のごとし 世の人我れは
1268 子らが手を 巻向山は 常にあれど 過ぎにし人に 行きまかめやも
子等の手を巻くという巻向山はずっと変わらずにあるけれども、去って行った人の所に行ってその手を巻くことは出来ようか といった歌である。子らが手をという地名 巻向を表す修辞が、ここにも使われている。これも只、巻向を導くだけではない。巻くという言葉が、巻向山と過ぎにし人との両方に使われることで、自然と人間の対比が強調されている。その
過ぎにし人とは、先の「葉を詠む」に歌われた7-1118のいにしへに ありけむ人、7-1119のゆくかはの 過ぎにし人 であろう。巻向、三輪に会った遠い昔の宮の人々を、哀惜する心がこの歌にもある。
1269 巻向の 山辺響(とよみ)て 行く水の 水沫(みなわ)のごとし 世の人我れは
巻向の山辺を轟かせていく水で出来る沫のようなものだ、この世の人である我々は という歌である。
昔の人を哀惜すると、自分たちも又遠い未来から見れば哀惜される存在だと思い知る。結局今の我々も皆、この巻向川の激流で出来る水の泡のように、生まれては消えていくものに過ぎない。それは仏教の教えに基ずく表現である。仏典には人間の身の儚さが、様々な譬喩で言われているがその一つが、水の上に出来た沫が瞬時に消えてしまう事である。しかしこの沫は決して観念的になることなく、巻向川に出来ては消える水の泡の中に自分達すべてを見ている。
その巻向川は天候の急変によって水流を増し音高く流れ下る川で、その流れが絶える事の無いようにいつまでも、帰って来てみようと讃えられる川でもある。
人麻呂歌集の巻向・三輪歌群は巻7の編集によってバラバラに置かれているが、互いに結びついている山や川の歌が圧倒的に多く、自然に対する畏敬、そして人間の無常、漢籍や仏典の知識を背景にしながら、自然の摂理に包まれる人間の存在が、この歴史ある土地を巡って思いを巡らされている。そしてその人間に対する深い洞察は、先に呼んだ人麻呂作歌の世界とも他とにも繋がる様に思われる。
表記の話に戻ればこの様に複雑な内容は、略体表記では十分に表せない。時に過去、現在、未来という時制を、日本語は助動詞を使って表現し分けるので、時の流れを主題とする、巻向・三輪歌群の歌は、助動詞が肝心なのである。
そうした日本語の特性を理解しつつ、人麻呂はこれらの殆どを非略体表記にして、音訳を用いた万葉仮名で助詞、助動詞を文字に表しているのである。
「コメント」
今日も理解度 60%程度。歌の解釈は解るけど、歌論が中々難解。言われたままに書くので精一杯。されど今後再勉強する意欲もないので、結局解らず仕舞いになる可能性は大きいが、ここまで触れたことで良しとしよう。