220820⑳「柿本人麻呂歌集の世界」主な巻と歌番

今回は節目の20回である。12回から19回までは、何れも柿本人麻呂の歌を中心に扱った。いずれも政治史上、又文学史上重要な歌で、触れないで済ますことの出来ない歌々であった。これ等の歌は、巻1-2に収められている。万葉集の時代の前半部 奈良時代より前の歌は、多くこの2巻に集中している。

 

柿本人麻呂作歌 と人麻呂歌集歌の違い 

しかし柿本人麻呂に関わる歌は、これだけではない。これまで見てきた歌々は、柿本人麻呂の作る歌と題詞にあるので、人麻呂作る歌と呼ばれている。柿本人麻呂作歌は、巻1,2の他巻3,4にもあるが、これ以降は殆どない。

それに代わって巻7910111213などに柿本人麻呂歌集に出づと左注に記される歌が大量に出てくる。これらを人麻呂歌集歌と呼んでいる。人麻呂作歌が異伝歌も含めて、80数種であるのに対して、人麻呂歌集歌は360首ほどであるから、いかに多量であるかが分かるであろう。

人麻呂歌集歌については、以前巻2の有間皇子の歌の所で、大宝元年の紀伊行幸の時に歌われた歌 145の題詞に柿本人麻呂歌集に出づと注記があることに触れた。それは必ずしも人麻呂歌集から採録されたという事ではなく、同じ歌が人麻呂歌集にも載っているという事だろうという推測も述べた。

2にその一ヶ所、巻3にもう一ヶ所、人麻呂歌集の名前が見えるが、これ等はどちらも注記的に記されるだけのものである。

つまり麻呂作歌人麻呂歌集歌とでは、載せられる巻が違っている。それは人麻呂作歌の世界と人麻呂歌集歌の世界とは分離していて、性格がかなり違うという事である。巻7910111213に共通するのは、基本的に作者名を表示しないという事である。巻9だけは、作者を記す巻だが、大半は人麻呂歌集その他の既存の歌等のつぎはぎになっている。又面白いことに、この巻9の作者名は、氏が名前かどちらかしか書かれていない。以前人麻呂の吉野讃歌を読んだ時に紹介した巻9に載る人麻呂歌集に載る吉野の歌は、元人、絹、鴫足、麻呂という名前だけになっている。

それは恐らく巻の編集方針であって、作者をぼやかした形で示すのである。従って人麻呂歌集歌が多く見られる巻は、どれも個々の歌を誰の作であるかを隠したうえで、載せているといって良い。それは今まで読んで来たような初期万葉の歌や、人麻呂作歌がなるべく作者を特定し、作家の事情を明らかにしようとする形で載せてきたのとは対照的である。

つまり人麻呂作歌はどれも、いつ、どこで作られたのかははっきりしない、その為にこの柿本人麻呂歌集が本当に柿本人麻呂の歌集なのかという事が疑われることもあった。この柿本人麻呂歌集は、歌集としては現存していない。あくまでも万葉集の中に、引用吸収されて、柿本人麻呂歌集に出づと注記されて、それと知ることができる存在である。

しかしややこしい話であるが、柿本集或いは人麻呂集と呼ばれる歌集が現存する。それは平安時代半ばの藤原公任が選んだ36人選に従って作られた36歌集の一冊となったもので、実態は万葉集に載る人麻呂作歌や人麻呂歌集歌の他、人麻呂関係歌ではない万葉集歌までも含んでいる。中には明らかに平安時代風な歌まで含まれていて、後の時代の編集であることが明らかである。

  あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかもねん 

 これは柿本人麻呂の歌ではない

例えば あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかもねん 拾遺集 恋3 773

この歌は万葉集には載っているが、人麻呂作歌ではないし、人麻呂歌集歌でもない。巻11-2802の作者未詳歌に対する異伝歌として載せられているという正体不明の歌なのである。

11-2802 作者未詳

思へども 思ひもかねつ あしひきの 山鳥の尾の 長きこの夜を

11-802 異伝歌

あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寐む

ところがこの歌が、柿本集に載せられ、そこから更に拾遺和歌集に拾われ、更には人麻呂の代表作として百人一首に採用されることになる。拾遺和歌集古今集、後撰和歌集に次ぐ勅撰集。

柿本集、人麻呂集は平仮名で書かれているし、平安時代に誰かが編集したもので、万葉前期の歌人 柿本人麻呂のあずかり知らぬ歌集であることは確かである。そして後の時代 奈良時代の人が、柿本人麻呂の名前を騙って編集したものだと長く考えられていた。江戸時代半ばの国学者 賀茂真淵がその時に考え、真淵の弟子たちもその説を踏襲した。

 土屋文明の人麻呂歌集の評価

明治時代に入っても、例えばアララギ派の歌人土屋文明は、人麻呂歌集は全て民話だとして殆ど作品として評価していない。確かに人麻呂歌集歌の多くは、人麻呂作歌のような重厚さが無いので、そう考えるのも無理はない。しかし人麻呂歌集歌は人麻呂の作成或いは人麻呂が集めた歌である。その証拠として、この集で唯一製作された時が分かる歌 巻10-1033がある。人麻呂歌集歌は多くの歌が纏めて引用され、最後には右は柿本人麻呂歌集に出づと記されている場合が多いが、ここも例外ではなく10-1996-203338首が人麻呂歌集歌である。

 庚辰年(かのえたつ)の年にこれを作るという注記

その最後の歌 2033の歌は、庚辰年(かのえたつ)の年にこれを作ると注記されている。干支なので60年に一回となるので、万葉集の時代でいうと680年か740年。かって万葉集は、奈良時代に作られていたと考えられていたので740年とされていた。しかし740年は大宝12年に当たる。大宝律令が701年に定められ、そこから大宝とか天平と言った元号を使って年を表すようになっていた。

よって元号を使っていないのは、元号のない時代のものではないかと考えられる。680年は天武9年で、まだ制度化された元号のない時代である。人麻呂作歌は分かっている一番古いのが、草壁皇子挽歌の689年、一番新しいのが明日香皇女挽歌の700年。持統朝から文武朝で、天武朝の歌はない。680年なら人麻呂の若い時の作と考え無理はない。

庚辰年(かのえたつ)の年にこれを作るというのは、歌集を編む時の中期であるから、こうして歌を作ったのもこれを歌集に編んだのも人麻呂と考えられるのである。人麻呂の歌集の世界は非常に多様である。そしてそれは収められた巻は部立てによって大体区別されている。

 歌集は部立てによって区分けされている

9の人麻呂歌集歌は人麻呂以外の作者名のつく歌もあった。それ以外はほぼ人麻呂の歌と考えられ、皇子に奉る歌と旅の歌が多い。挽歌の部の1682-1709まで人麻呂歌集歌が並んでいるが、その中から1704-17085首を読んでみる。

9-1704 柿本人麻呂 舎人皇子に献ずる歌二首  左注 柿本人麻呂歌集より出ず 1

ふさ手折り 多武(たむ)の山霧 繁みかも 細川の瀬に 波の騒げる

9-1705 柿本人麻呂 舎人皇子に献ずる歌二首  左注 柿本人麻呂歌集より出ず 2

冬こもり 春へを恋ひて 植えし木の 実になる時を 片待つ我れぞ

9-1706 舎人皇子御歌一首 左注 柿本人麻呂歌集より出ず

ぬばたまの 夜霧は立ちぬ 衣手を 高屋の上に たなびくまでに

9-1707 柿本人麻呂 鷺坂にて作る歌 左注 柿本人麻呂歌集より出ず

山背(やましろ)の 久世(くぜ)の鷺坂 神代より 春は張りつつ 秋は散りけり

9-1708 柿本人麻呂 泉川の辺にて作る歌 左注 柿本人麻呂歌集より出ず

春草を 馬昨(うまくひ)山ゆ 越え来なる 雁の使いは 宿り過ぐなり

 

1704  ふさ手折り 多武(たむ)の山霧 繁みかも 細川の瀬に 波の騒げる

多武(たむ)の山は、地名で藤原鎌足を祀る談山神社がある多武峰の事である。

ふさ手折るは、多武峰にかかる枕詞。多武峰に立つ霧が濃いせいか、その山から流れだす細川の瀬には波が立ち騒いでいる という自然詠である。

1705  冬こもり 春へを恋ひて 植えし木の 実になる時を 片待つ我れぞ

 

冬こもりは、春に掛かる枕詞。春恋しく思って、植えた木が実をつける時をひたすら待っている私です という意味。

実になる時を 片待つ我れぞというのは、立派に成人するのを期待していますという寓意を含むのである。

1706  ぬばたまの 夜霧は立ちぬ 衣手を 高屋の上に たなびくまでに

ぬばたまのは、夜に掛かる枕詞。衣手は、地名、高屋に掛かる枕詞。夜霧が盛んに立った高山辺りの上に、棚引くほどに といった意味。高屋はどこかはっきりしないが、今の桜井市の辺り。

1707  山背(やましろ)の 久世(くぜ)の鷺坂 神代より 春は張りつつ 秋は散りけり

旅の歌で山城の久世(くぜ)の鷺坂、今の京都府城陽市の久世神社のあたりで作ったもの。

山城の久世鷺坂の神代から、春は木々が萌え出で、秋にはその葉が散っているのだなという。神代から自然が繰り返す営みを思う事は、人麻呂歌集によく見られる主題である。この部分の旅の歌は、北陸へと向かう作が多い。次の1708も泉川、今の木津川の岸辺での歌である。

1708  春草を 馬昨(うまくひ)山ゆ 越え来なる 雁の使いは 宿り過ぐなり

前作に続き、泉川、今の木津川の岸辺の歌である。春草を 馬昨(うまくひ)山 今の京都府田辺市飯岡にある山の名。この歌は、3-264 柿本人麻呂 近江の宇治川の辺りで作る歌 

もののふの 八十宇治川の 網代木に いさよふ波の ゆくへ知らずも

これと同じで、この修辞が柿本人麻呂に愛用されていたことを示す。歌は馬昨山を越えてきた雁の使いは、私達の宿を通り過ぎていくらしい という意味で、家からの便りを持ってきたと思ったが、私達のではないらしいという旅愁を読んでいる。雁を使いに見立てるのは、中国の漢代に蘇武という人が、異民族に抑留されて故郷へ飛んでいく雁に手紙を付けたという故事に基づいている。柿本人麻呂の漢籍に対する知識を伺わせる。

 

旋頭歌 

次は巻7を見よう。7の雑歌部には、重要な反歌の部があるが、それは次回に回して今回は旋頭歌を読む。旋頭歌というのは577 577という形式の歌である。雑歌部の終わり近くに、23首が並んでいるが、その中から1273-1275までの3首を読む。

7-1273 柿本人麻呂旋頭歌 左注 右三首柿本人麻呂歌集より出ず

住吉(すみのえ)の 浪豆麻(はづま)の君が 馬乗衣(うまのりころも)  さひづらふ 漢女(あやめ)を 据えて 縫へる衣ぞ

7-1274 柿本人麻呂旋頭歌 左注 右三首柿本人麻呂歌集より出ず

住吉(すみのえ)の 出見(いでみ)の浜の 柴な刈りそね 娘子(をとめ)らが 赤裳の裾の 濡れて行かむ見ゆ

7-1275 柿本人麻呂旋頭歌 左注 右三首柿本人麻呂歌集より出ず

住吉の 小田を刈らす子 奴かもなき 奴あれど 妹がみためと 私田(わたくしだ)刈る

 

三首とも住之江を舞台にした歌である。住之江は今の大阪市南部の住吉区の辺りである。平安時代から住吉と呼ぶのが普通となるが、上代では住之江である。言葉通り、澄んだ美しい入江で、今の横浜や神戸のような観光地だった。

1273 住吉(すみのえ)の 浪豆麻(はづま)の君が 馬乗衣(うまのりころも)  さひづらふ 漢女(あやめ)を 据えて 縫へる衣ぞ

浪豆麻(はづま)は、人の名前としておく。さひづらふ漢女(あやめ)即ち漢人の女性に掛かる枕詞。

住之江の浪豆麻(はづま)の君の乗馬用の衣は、渡来人の女性を雇って縫わせた衣だよと言った歌である。湊町に住む伊達男の着るものは、技術の高い外国の人に縫わせた高級品だというのであろう。この歌は馬乗り衣を提示して、それに注釈を加えていく形の歌である。

1274 住吉(すみのえ)の 出見(いでみ)の浜の 柴な刈りそね 娘子(をとめ)らが 赤裳の裾の 濡れて行かむ見ゆ

住之江の出見浜(いでみのはま)の柴を刈ってくれるなよ。乙女たちが裾を濡らしながら行くのを見たいから。何でと思わせておいて、それは乙女たちの赤いロングスカ-トの裾が濡れるのを見たいから。伊勢行幸の時の歌 

1-40 あみのうらに 舟乗りすらむ をとめらが 玉藻の裾に 潮満つらむかとあったように、女性の赤いスカ-トに水がついて、色が鮮やかになるような水辺の情景が見物の一つであった。この歌も、最初の三句で提示した事柄に、自ら注釈を加えているのであるが、聞き手に謎掛けをして、後で答えというと言った趣向になっているが少し異なる。

1275 住吉の 小田を刈らす子 奴かもなき 奴あれど 妹がみためと 私田(わたくしだ)刈る

住之江の小さな田の刈り取りをなさっている御方よ、下男はいないのかという問に、下男はいるが愛しい女の為に秘密の田を刈っているのだよ と答えている。

人品賤しからぬ男が、自ら田を刈っている。貴方は下男にやらせたらよかろうに、いないんですかと、問いかけている。それに対して、男はこれは付き合っている女が、隠し持っている田なので、他人に任せないで自分で刈っているんだよと答える。公地公民制で、公に配られた他は、納税の義務があるが、隠したなら自分のものである。しかし秘密だから、奴(げなん)も使わず、自分で刈っているのである。これは前半と後半が問答形式になっている。

 旋頭歌はすたれてしまった

577は長歌や短歌では歌を終わらせる形式である。それを二つ並べた旋頭歌は、いわば終わりが二つあるので前半と後半にくっきりと分かれるのが特徴である。古事記、日本書紀に同じ問答の例があるので、それが旋頭歌の淵源とされたこともあった。しかし旋頭歌は問答となっているものも、今の三番目の歌のようであるが、むしろ最初二番目のように、主題を前半で提示して、後半で説明していくという形のものが多くて、それは歌謡や短歌の基本的な形式なので、現代では問答が起源ではなかろうかと考えられている。

そして内容が今見たような卑俗なものに偏りがちなので、それは前後に二分される形式にも原因があるので、自然にすたれてしまった。

 

もう一つ、巻7では、譬喩歌の部にも注目しよう。

7-1301 柿本人麻路 題詞 玉に寄する   左注 柿本人麻呂歌集より出ず

海神(わたつみ)の 手に巻き持てる 玉故に 磯の浦廻(うらみ)に 潜(かづ)きするかも

7-1305 柿本人麻路 題詞 木に寄する 左注 柿本人麻呂歌集より出ず

見れど飽かぬ 人国山の 木の葉をし 我が心から なつかしみ思ふ

7-1308 柿本人麻路 左注 柿本人麻呂歌集より出ず

大海(おおうみ)を さもらふ港 事しあらば いづへゆ君は 我()を率()しのがむ

 

1301 海神(わたつみ)の 手に巻き持てる 玉故に 磯の浦廻(うらみ)に 潜(かづ)きするかも

題詞は玉に寄せるとある。

海の神(わたつみ)が手に巻き持った美しい球、その玉を採りたくて磯の辺りの海に潜っているのだ。

譬喩歌については、以前額田王の歌の時に触れた。男女の間の普通の言葉では憚られる様な事柄について、物の譬喩を使って述べる歌を言う。今の場合は、海神が手に巻き持っている玉というのは、恐らく親がしっかりガ-ドしている娘の事なのであろう。磯の周辺に潜るような危険を冒して、逢いに行く男の事を歌っている。

1305 見れど飽かぬ 人国山の 木の葉をし 我が心から なつかしみ思ふ

見ても飽きない人国山の木の葉を自分の心の中で慕わしく思う

見ても飽かぬは、吉野讃歌にも用いられた誉め言葉。

1308 大海(おおうみ)を さもらふ港 事しあらば いづへゆ君は 我()を率()しのがむ

大海を覗き見るような港に居て、一旦事が起こった後は、何処に私を連れて逃げてくれるのという意味である。

これは女の歌で、相手の男が優柔不断なのを責めているのである。さもらふは、ここでは様子を窺う事で、いつまでも湊から海に出ようとしないことに、男が何時までもグスグスしていることを例えている。

 

譬喩歌は、おおよそ、それ程深刻な内容にはならない歌である。柿本人麻呂歌集に譬喩歌の部があったかどうか、議論が分かれているが、人麻呂歌集がこの様な俗っぽい内容の歌を含んでいたことは確かである。

 

10は季節分類の巻で、先ず全体を春夏秋冬の四季に分け、更にその各部を雑歌と相聞に分けている。その雑歌、相聞歌のそれぞれの先頭に人麻呂歌集歌が配置されている。但し夏の部には、雑歌、相聞共に人麻呂歌集が見えない。それは人麻呂歌集にも分類があって、その部はなかったからである。まず春、雑歌部の人麻呂歌集歌から最初の三首を読む。

10-1812 柿本人麻呂 題詞 春雑歌 左註 柿本人麻呂歌集より出

ひさかたの 天の香具山 この夕 霞たなびく 春立つらしも

10-1813 柿本人麻呂  左註 柿本人麻呂歌集より出

巻向の 桧原に立てる 春霞 おほにし思はば なづみ来めやも

10-1814 柿本人麻呂  左註 柿本人麻呂歌集より出

いにしへの 人の植えけむ 杉が枝()に 霞たなびく 春は来ぬらし

 

ここの人麻呂歌集歌は、7首並んでいるが、何れも春の霞を歌っている。

1812 ひさかたの 天の香具山 この夕 霞たなびくむ 春立つらしも

天の香具山にこの夕へ、霞がたなびいている。春になったのであろう。

ひさかたのは、天に掛かる枕詞。天の香具山の詠と言えば、春過ぎて 巻1-40 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山 持統天皇の一首が思い浮かぶ。聖なる山の変化から、季節の移り変わりを見て取って、らしと推測するという点で共通する。同時期の歌なので、互いに影響し合っているのかも知れない。

1813 巻向の 桧原に立てる 春霞 おほにし思はば なづみ来めやも

巻向の檜の林に立っている春霞のように、ぼんやりと思っているのならば苦労してここまでやってくるものかという意味

切にあなたの事を思っているからこそ、こうして苦労してやってきたのだよと、自分の誠意を売り込む男の歌である。

巻向は三輪山の北側にある土地で、人麻呂歌集歌にはよく詠まれる。その巻向の檜の林が、春になってぼんやりと霞んでいる。それを序詞にして、恋心がはっきりしないことの譬喩にしている。これは恋歌仕立てになっているが、雑歌に分類されているので、やはり季節詠の一つであろう。

1814 いにしへの 人の植えけむ 杉が枝()に 霞たなびく 春は来ぬらし

古のひとが植えたのだろう杉の枝に、霞が棚引いている。春が来たらしい。

第一首と同じで、霞が棚引いていることから、春の到来を推測している。古の人が植えた杉は、今は巨木となっている筈である。そこに今年も霞が棚引き、春が巡ってきたというのである。

 

万葉集の中で霞は春の代表的景物となっていくが、そうした季節を表す景物の固定化に、柿本人麻呂歌集は大きな役割を果たしたのである。

指揮分類の部分を持ったという事は、新たな暦を施行した持統朝の歌人として相応しいと言える。

 

10の雑歌では、秋の雑歌部冒頭に、38首も収められた七夕歌が注目される。その最後が、先程触れた庚辰(かのえたつ)の年に作ったという2023で、以前は七夕歌では山上憶良が養老年間720年頃に作ったのが、最も古いとされていたが、天武天皇9年まで40年ほど遡ることになった。その中から20002018を読んでみる。

10-2000 柿本人麻呂 題詞 七夕 左註 柿本人麻呂歌集より出

天の川  安の渡りに 舟浮()けて 秋立つ待つと 妹に告げこそ

10-2018 柿本人麻呂 題詞 七夕 左註 柿本人麻呂歌集より出

天の川 去年(こぞ)の渡りで 移ろへば 川瀬を踏むに 夜ぞ更けにけり

 七夕伝説

七夕伝説は、ご承知のように中国から渡ってきたもので、織姫が牽牛との仲に耽って、機織りを怠ったので天帝の怒りをかって、天の川を隔てて77日に一年に一度だけの、逢瀬を宿命づけられたというものである。77日は奇数の重なる節句なので、その行事と共に日本に伝わったと考えられる。漢詩にも七夕伝説を歌ったものがあり、懐風藻にも日本人の作った詩が残るが、それに倣って七夕の物語も作られた訳である。但し中国と日本とでは、結婚の形が違うので、それに合わせて詩と歌とでは、歌われる内容も異なる。漢詩では織女の方が橋を渡って牽牛を訪ねるが、和歌では妻問婚習慣に従って、牽牛の側が織女を訪れる。加えて人麻呂歌集の七夕歌は、奈良時代の作と思われる、

2000 天の川  安の渡りに 舟浮()けて 秋立つ待つと 妹に告げこそ

牽牛の立場の歌。安の渡りは、古事記、日本書紀の神話で天にある川 天の安川と呼んでいることと一致する。神話の舞台を借りるのは、和歌に相応しい工夫である。第四句 秋立つ待つと秋が立つのを待つと解する本が多いのだが、江戸時代までの訓に従って、秋立ち待つと読むのが正しい。天の川の安の渡りに、舟を浮かべ秋を立ったまま待っていると、妻に告げておくれ と解する。牽牛が早々に舟を浮かべ、天の川の渡し場で立ったまま、秋の逢瀬の日を待っているというのでうる。77日は秋の始めであるが、人麻呂歌集の七夕歌には、この様に秋以前の時点に立つ歌が多いのも、特徴の一つである。

2018 天の川 去年(こぞ)の渡りで 移ろへば 川瀬を踏むに 夜ぞ更けにけり

天の川の去年、渡った浅瀬が無くなってしまったので、浅瀬を探している内に、夜が更けてしまったという意味である。

天の川も洪水があったのか、流れが変わって去年渡った場所が渡れない。浅瀬を探している内に、年に一度の逢瀬の夜は更けてしまったという牽牛の焦りを歌う一首である。これは七夕当夜の歌であるが、やはり自分たちの体験を踏まえてか、面白い趣向だと思う。最初の歌では舟で渡っている所、この歌では徒歩渡りになっている。七夕歌は年一度の逢瀬という約束事が守られていれば、後は自由な想像力で自分なりの設定で歌って良かったようである。

10では人麻呂歌集には、恐らく人麻呂だけでなく多くの人達によって、七夕の宴で歌われた歌が収録されているのだろう。

 

1112は全て相聞歌である。その中には先程述べた旋頭歌の部など様々な部類分けがされているが、特に目立つのは 正述心緒(せいじゅつしんちょ→心に思う事を直接表現する歌)と、奇物陳思(きぶつちんし→物に託して思いを表現する いわゆる隠喩)の二つの部類で、巻11、巻12共に人麻呂歌集の正述心諸と奇物陳思を連続して載せている。

特に巻11は、その後の問答の分も合わせて149首もの人麻呂歌集をまとめて乗せている。巻11の正述心緒から、24012408の二首、奇物陳思から2430,2465の二首を読む。

11-2401 作者不詳 題詞 正述心緒 左註 柿本人麻呂歌集より出

恋ひ死なば 恋ひも死ねとか 我妹子が 我家の門を 過ぎて行くらむ

11-2408 作者不詳 題詞 正述心緒 左註 柿本人麻呂歌集より出

(まよ),根掻()き 鼻ひ紐解け 待つらむか いつかも見むと 思へる我を

11-2430 作者不詳 題詞 奇物陳思 左註 柿本人麻呂歌集より出

宇治川の 水泡(みなあわ)さかまき 行く水の 事かへらずぞ 思ひ初めてし

11-2465 作者不詳 題詞 奇物陳思 左註 柿本人麻呂歌集より出

我が背子に 我が恋ひ居れば わが宿の 草さへ思ひ うらぶれにけり

 

2401 恋ひ死なば 恋ひも死ねとか 我妹子が 我家の門を 過ぎて行くらむ

恋死にするなら死んでしまえという事なのか、我が愛しい女は私の家の門を素通りしていくらしいよ

思う女につれなくされて、嘆く男の歌である。平安時代の女流文学では、前渡りと言って男が女の家の前を素通りして、別の女の所に行くのを嘆く場面がよくある。この歌では男女が逆転しているのである。男にとっては、恋死をしてしまう程、辛いことなのだろうが、読む側としては失笑を禁じ得ない。人麻呂歌集の相聞歌には、実際に交わされたというよりは、様々な恋の場面を醸し出すような歌が多くある。

2408 (まよ),根掻()き 鼻ひ紐解け 待つらむか いつかも見むと 思へる我を

眉を掻きくしゃみをし、靴の紐が解けたりして待っているのだろうか、早く会いたいと思っている自分のことだよ 

眉が痒くなる、くしゃみが出る、靴の紐が解けるというのは、いつも思う人と逢える兆候と信じられていた。今でも人が自分の噂をするとくしゃみが出るなどと言うのと同じ俗信である。自分は女の元に急いでいるのだが、その間にも向こうにはその前兆が現れているだろうかと推測しているのだ。漸く会える女の様子を想像しながら、期待を膨らませている歌である。以上二首は、正述心諸の歌で、敢えて物に読み込まないで直接心境を表現するということ。

2430 宇治川の 水泡(みなあわ)さかまき 行く水の 事かへらずぞ 思ひ初めてし

宇治川の泡を逆巻いて流れる水のように、後戻りが出来なく、思い始めているという歌。第三句迄は序詞。宇治川の激流がもう止められない恋心の譬喩になっている。奇物陳思の歌は、何か物を読み込んで思いを表現するものであるが、序詞は大体物の表現によって心情を引き出すので奇物陳思には多い。

2465  我が背子に 我が恋ひ居れば わが宿の 草さへ思ひ うらぶれにけり

私の愛しい方を恋しく思っていると、我が家の庭に生える草迄が、思いに萎れているのだった。植物に自分の思いが投影されている。石見相聞歌の 夏草の 思ひ萎えて 偲ぶらんの表現を思い起こさせる。これは女の話で、人麻呂歌集には女の立場の恋歌も多く含まれている。

 

正述心緒、奇物陳思とも、人麻呂歌集歌は続く出典未詳の歌と見比べると、配列方法が違っており、人麻呂歌集歌は人麻呂自身の編集方法を取っていることが分かる。つまり人麻呂歌集歌の原本の配列が保存されていると見られるのである。従って正述心緒、奇物陳思などは恐らく、柿本人麻呂の考案した歌の部類なのであろう。柿本人麻呂は多様な歌を作り出すだけでなく、独自の理論を持って歌集の編纂にも携わっていたのである。柿本人麻呂歌集については、その独特な表現法についても、触れなければならない。

 

「コメント」

 

自分の歌だけでなく、色々な人の歌を集めて歌集を作っていたのだ。そして、その歌は虚実を取り混ぜているので、読む側は要注意。斉藤茂吉も完全に騙されているくらいだから。あの時代に歌を生業と出来た数少ない人なのであろう。