220730⑰「柿本人麻呂の石見相聞歌 巻2」
前回は安騎野の歌という軽皇子・後の文武天皇が亡き父・草壁皇子の形見の地を訪れて、狩りをする歌を読んだ。まだ10代の少年である軽皇子を、皇太子のままで亡くなった父の再来であるかのように描く。それは直系相続を望む持統天皇の意志に沿うものであった。ここまで読んで来た柿本人麻呂の歌は、何れもそうした政治的背景を持った、天皇の皇位継承に関わる歌であると言っても過言ではない。但し柿本人麻呂の歌が全てそういうものであるかといえば、そうではない。ここから暫くは、柿本人麻呂の別の面を見て行こう。
今回読む石見相聞歌というのは、巻2の相聞の部に載る
「柿本人麻呂石見の国より妻と別れてくる時の歌二首」131-139の歌の事である。
二首と題にあるのに9首あるのは、二首がこの歌文に含まれる長歌の内の二首を指しているからである。その二首にそれぞれに二首の反歌がついており、更に反歌の異伝、又最初の長短歌の異伝と様々に異伝の歌が示されている。要するに異伝が含まれて多くなっているのである。
巻2-131 柿本人麻呂石見の国より妻と別れて上京する時の歌 二首
石見の海 角(つの)の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺を指して 柔田津(にきたつ)の 荒磯(ありそ)の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝羽振る 風こそ寄せめ 夕羽ふる 浪こそ来寄れ 波のむた か寄りかく寄り 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万(よろず)たび かへり見すれど いや遠に 里は離(さ)かりぬ いや高に
山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎(しな)へて 偲ふらむ 妹が門(かど)見む 靡(なび)けこの山
「内容の解説」
柿本人麻呂が石見国(島根県西部)から妻と別れて都に上って来る時の歌 歌はまず石見の海の景観から述べる。
妻は江の川(ごうのかわ)河口の江津(こうつ)から海岸沿いに西南に下った所、山陰本線江津駅辺りである。この辺りは確かに砂浜が連なっている単調な海岸線である。良い浦が無いと船の停泊が出来ないし、良い干潟が無いと貝や海藻が採れない。つまらない海岸だと人は思うかもしれない。しかしそんなことは自分にとってはどうでもいいことだと歌うのである。何故そのように力んでいるのかは、段々と明らかになる。鯨魚(いさな)取りは、海に掛かる枕詞。柔田津(にぎたつ)の 荒磯(ありそ)の上に生えている玉藻、沖藻。朝羽振る 風こそ寄せめ 夕羽ふ.る..
の羽ふるは、ここにしか出てこない言葉で、意味ははっきりしないが、羽振ると書いてあるので、鳥の羽ばたきに似たもののような音を立ててと解する。日本海は風が強く、波も荒い。朝には羽ばたきのような音で、風が寄せてくるだろう。夕べには羽ばきのような音をさせて波が寄せてくるだろう。その波と共に、玉藻はあっちに寄り、こっちに寄りしてゆられている。玉藻のように靡き合い、寄り添って寝た愛しい人という事で、ようやく妻が出てくる。それまでは長い序詞であったのだ。しかしその妻は置いて行かねばならない。
その旅は山を登ることで始まる。その道の多くの曲がり角毎に、何度も何度も振り返って見るけれども、もうはるか遠く、里は離れていく。益々高く山を越えて来てしまった。妻は夏草のようにしおれて、自分事を偲んでいることだろう。
その妻の家の門が見たいので、山よ靡いてくれ、この山よ。という叫びで長歌は終わる。門を見たいというのはそこに妻がいるからである。人を見送る時、迎える時に立つのが門なのである。靡(なび)けこの山という結びから、自分は既に山の反対側に降りているという説がある。靡(なび)けというのは、草などが押し伏せられて、一斉に横になることをいう言葉である。それで、山が平たくなって向こう側を見せてくれと解するのである。しかし実際に登って見れば解る様に、山はアップダウンを繰り返しながら、次第に高くなっていくのであって、しかも道は山の木の間を抜けていくので、峠を越える前に下界が見えなくなるのが普通であろう。いや遠に 里は離(さ)かりぬ いや高に 山も越え来ぬを受けて、靡(なび)けと言っているのであるから、降りているのではない。
伊勢物語82段 渚の院に「おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくば 月も入らじを」→押しなびかせて峰も平になって欲しい。山の端が無ければ、月も沈まないだろう。」という歌があるが、これは惟喬(これたか)親王が狩りを終えて寝てしまう事を、月が沈む事に例えた遊び的な歌である。
万葉集巻12-3155 作者不詳 長歌は、この歌と同じことを歌っているのである。
悪しき山 木末(こぬれ)ことごと 明日よりは 靡(なび)きてありこそ 妹があたり見む
悪しき山の梢の全ては、明日から靡いておくれ。妹が住んでいる辺りを見たいから。
長歌の前半は海、後半は山である。叙述が二分されている。妻は海辺の里に住む女である。その海は単調だと人は思おうが関係ない。自分には掛け替えのない所なんだと最初に述べるのは、そこが妻の住む所だからであろう。
夏草の 思ひ萎(しな)へて→悲しんでいる妻の姿が浮かぶ。露霜の 置きてし来れば→
露や霜が置くように置いてきた に暗示されるように、季節は秋である。夏草は夏の間ははびこるが、秋になるとしおれてしまう。同じ様にあれほど元気だった妻が、今は去っていった自分を思ってしおれていると表現している。柿本人麻呂の修辞の巧みさが表れている。靡(なび)けこの山と、大きく歌っているのが、柿本人麻呂の非凡な所であろう。
現代語訳
石見の海の角の浦の辺りを良い浦が無いと人は見るだろうが、良い干潟が無いと人は見るだろうが、構わない。浦等無くとも、構わない、干潟が無くとも構わない。海辺の方に向かって、柔田津(にきたつ)の荒磯の上に生えている、青々とした玉藻が、朝も夕も風が吹き、鳥が羽ばたくように波だって、そうした藻を海岸に吹き寄せる。玉藻のようになびき合い、寄り添って寝た愛しい人と離れてきた。来たこの道の曲がり角毎に幾度も振り返って見るけれども、里は遠くに離れている。
いや高い山も越えてきた。夏草のように思いもしぼんで、妻の家が見たくてたまらない。こんな山など無くなればいいのに。
巻2-132 反歌二首 1 柿本人麻呂が石見の国より妻と別れて、上京する時の歌二首
石見のや 高角山の 木の間より わが降る袖を 妹見つらむか
この歌は長歌末尾の妹が門(かど)見む 靡(なび)けこの山に対応する歌である。里は遠く離れて行き、山を高く越えて来てしまった。こちらからは容易に妹の門は見えない。反対に妻の方から私は見えているのだろうか。繰り返し言っている様に、見る・見えるという事は、万葉人にとって存在していることの確かな証明であった。袖を振るという行為は、自分の存在を相手に最大限に見せると同時に、自分が最大限に相手を思っていることを知らせる事である。万葉集の中では、度々現れる表現で
ある。
巻2-133 反歌二首 2 柿本人麻呂が石見の国より妻と別れて、上京する時の歌二首
笹の葉は み山もさやに さやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば
妻の方も又、門の所で袖を振っているのである。長歌で歌った山を登る間、万(よろず)たび かへり見すれど時に自分も必ず袖を振ってきたのであろう。しかし山を登っていくと、木々が覆って姿を消してしまう。それでも出来るだけ妻に見える様に、木の間から袖を振るのである。靡(なび)けこの山が、山に平たくなれという事ではなく、具体的には山の木々に靡き伏せる事を命じたとしたのも、此の反歌との関係に基ずく。第一反歌が高角山というのに対して、反歌ではみ山として山に霊的な物を感じて、みを付ける表現になっている。笹の葉は み山もさやに→山全体をさやさやと鳴らす笹の葉に自分は囲まれているのである。この歌には見るという言葉が出ていない。笹の葉に囲まれて、もう妻の姿は見えない。別れ来ぬれば→もう別れて来てしまったのだ。断念された見るに代わって、思ふが現れている。別れた以上、心の中に妻を思う事で、妻と繋がる以外にない。山の神の声のような笹の葉のさやぎに囲まれるのは恐ろしい。それに心を占められようとしながらも、その山の向うにいる妻を一心に思う。もう別れて来てしまったのだから。
要するにこの歌群は、第一反歌と第二反歌との間に時差がある。第一反歌は長歌末尾と表裏していて、まだ何とか妻の姿を見ようとし、又別れた妻に自分の振る袖を見て貰いたいと願う。見る事によって繋がろうとしている。しかし第二反歌では、妻の姿を見ようとしていない。決定的な別れをしてしまったのだから。せめて心に妻を見ようとする。旅の行程が進んで、別のステ-ジに入ってしまったのである。この石見相聞歌も前回の安騎野の歌で見たような時間による連作であることが解るであろう。
巻2-135 柿本人麻呂が石見の国より妻と別れて、上京する時の歌二首
つのさはふ 石見の海の ことさへく 唐の崎なる 海石(いくり)にぞ 深海松(みる)生(お)ふる 荒磯ぞ 玉藻は生(お)ふる玉藻なす 靡(なび)き寝し子を 深(ふか)海松(みる)の 深めて思へど さ寝し夜は 幾だもあらず 延ぶ蔦の 別れし来れば 胆向ふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれば 大船の 渡の山の 黄葉(もみちば)の 散りの乱(まが)ひに 妹が袖 さやにも見えず 妻ごもる 屋上(やがみ)の山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけれとで 隠(かく)らひ来れば 天(あま)伝ふ 入日さしぬれ 大夫(ますらお)と 思へる我れも 敷栲の 衣の袖は 通りて濡れぬ
この長歌も海の叙述から入る。つのさはふは、石見、言さへく は、唐に掛かる枕詞。海石(いくり)は、海に隠れている岩礁、深海松(みる)は、海草の一種で、深い所に生えるので、深(ふか)海松(みる)という。石見の海の唐の崎にある岩礁には、深海松が生えて、荒磯には玉藻が生えている。玉藻のように靡き合って寝た、あの子を深海松のように深く思うけれども、共寝した夜は幾らもない内に、這う松が枝分かれするように、別れてきたのだ。前の長歌と同じく、石見の海に生える海草を示し、それと同じ様に共寝した人として、妻を表し出す。しかしそうした夜は幾らもない内に、別れてきてしまったという。別れるという言葉がここに出てくるのは、重要である。前の長歌では妻を置いてきたとは言っているが、別れるという言葉が出てくるのは、前の第二反歌である。もう妻の姿を見る事を断念した所で、別れ来ぬれば→別れて来てしまったと述べられるのである。胆向ふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれば 大船の 渡の山の 黄葉(もみちば)の 散りの乱(まが)ひに 妹が袖 さやにも見えず 胆と向ふは、心に掛かる枕詞。大船は、渡の山にかかる枕詞。妻に別れて心が痛むので、思い乍ら振り返るけれども、あたりの山には黄葉が目の前で散り行くので、妻の袖ははっきりとは見えずと続く。思ひつつ かへり見すれば→妻を思っては振り返って見るけれども、妻の降る袖がはっきり見えることはない。見えないと歌う事でこの歌のステ-ジが表されているのである。その次の妻ごもる 屋上(やがみ)の山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけれど 隠(かく)らひ来れば 天(あま)伝ふ 入日さしぬれは、文脈の取り方に問題がある。
妻ごもるは、屋上の山の枕詞。屋上の山の雲間を渡って来る月のように、雲が隠れてしまったので、と解するのが一般的である。何が隠れたかというと、妻の姿が次第に隠れて行ったのが名残惜しいと言っている。
しかし屋上(やがみ)の山の 雲間より 渡らふ月のという表現はあり得るだろうか。山に掛かる雲と雲の間を、月が渡っていくという場面は私には想像できない。屋上(やがみ)の山の 雲間と、続けるべきではないと思う。ここは屋上の山が雲間を渡る月のように次第に隠れて見えなくなると取るべき。
屋上の山には、妻ごもるという枕詞がついていた。それは単に地名に掛かるのではなく、妻が隠れるという意味を持っているのだ。つまりあの向こう側に妻がいるのだと思って、振り返ってみてきた屋上の山までも、次第に見えなくなったという事と考えられる。雲間を渡る月のようにという比喩は、山が見えなくなる事こそ相応しいのである。
枕詞に象徴的な意味を担わせるのは、もののふの 八十(八十)宇治川の 網代木に いさよふ波の ゆく方知らずも→宇治川の波に揺れる網代木のように、→ここまでが序詞 行く末も分からない身の上だなあ これらは柿本人麻呂独自の方法という事が出来る。そうして屋上の見えなくなった頃、天(あま)伝ふ 入日さしぬれ→入日が射してくる
これで一日の行程が終わったという事であろう。旅人は、朝出発して、夕方に宿るものである。今晩一人で旅寐をしなければならない。そう思うと、大夫(ますらお)と 思へる我れも 敷栲の 衣の袖は 通りて濡れぬ→立派な男と自任していた我も、衣の袖が濡れてしまった。と述べて長歌は終了。
次はその反歌を読む。
巻2-136 反歌1柿本人麻呂の妻と別れて石見の国から上京する時の歌の反歌二首
青馬が 足掻きを速み 雲居にて 妹があたりを 過ぎて来にける
馬が速度を上げてここまでやってきたが、あの雲のかかっている辺り彼女の里を越えて遠くになってしまったなあ。
巻2-137 反歌2 柿本人麻呂の妻と別れて石見の国から上京する時の歌の反歌二首
秋山に 落つる黄葉 しましくは な散り乱(まが)ひそ 妹があたり見む
秋の山の黄葉よ しばし散らないでおくれ 妻のいる里の辺りを眺めたいから
泰一反歌は青い馬の歩みが早いので、雲のかかる所にまで、妻の辺りは離れてしまった。当時の青は、指す意味の範囲が広く、灰色の馬、葦毛の馬を青馬という。馬に乗って旅立った、その馬が自分の後ろ髪を引かれる様な思いとは裏腹に、どんどん進むものだから、妻のその辺りはもう雲のかかって見えるような遠くになってしまった。
過ぎて来にけるの過ぎるは通過するというより、ある時点から離れた事を意味する。
第二反歌は、秋の山に落ちていく黄葉は、暫らくは散りまかないでおくれ。妻のその辺りを見ようと思うからという事である。黄葉が散り頻るせいで、向こう側が見えないという事は、先の長歌にも、
黄葉(もみちば)の 散りの乱(まが)ひに 妹が袖 さやにも見えずとあった。しかし長歌では見えないのは、妹が袖、妻が別れを惜しんで振る袖なのに対して、此の最後の反歌では、妹が辺り、妻が住む土地という漠然としたものを見ようとしたという相違がある。
更に時が進み、妻との距離が離れているのである。辺りという言葉は、第一反歌にも、妹があたりを 過ぎて来にけると出ていた。意図的に繰り返してと感じざるを得ない。その言葉は、前に紹介した
巻12-3155 悪しき山 木末(こぬれ)ことごと 明日よりは 靡きてありこそ 妹があたり見むに使われている。どこそこの辺りを見るとか、見ゆとかいう表現は遠く離れて、自分の家とか恋人の家を望み見る時によく使われ、国見的望郷歌、国見的恋歌という類型を作っている。離れていてその辺りという漠然とした把握しか出来ないけれど、それでも見る事で、繋がっていたいという思いが表現されている。反歌は、妻のいる辺りは、雲のかかっているあの山の向うだ、それでも見たい、せめても黄葉よ、視界を塞がないでおくれと歌っている。
二種の長歌と、それぞれの反歌について
第一反歌と第二反歌はよく似ている。長歌二首共に、前半に海の記述があり、そこに生える藻から妻との愛の日々を連想し、後半の山の叙述で、その人と別れてきたことを歌い、反歌では別れて来てしまったとそれに抗うように、妻と繋がっていようとする心を歌っている。これを二番煎じのように思う人もいるかもしれない。しかしそれは柿本人麻呂が敢えて、同じ構造を繰り返すことによって、ステ-ジの違いを作り出そうとしているのではないか。別れてきたばかり、まだ近くにいる時と、時間が経って遠く別れてきた時とでは、変わる部分と変わらない部分がある。もう妻の姿を見る事は断念せざるを得ない。もう妻は心に描くしかない。そうした変化と普遍が長歌二首の連作によって、表現されている。
異伝 以上の事を反対側から照らし出すのが異伝の存在である
巻2-138 異伝
石見の海 津の浦をなみ 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺を指して 柔田津(にきたつ)の 荒磯の上に か青なる 玉藻興つ藻 明け来れば 波こそ来寄れ 夕されば 風こそ来寄れ 浪のむた か寄りかく寄り 玉藻なす 靡き我が寝し 敷栲(しきたえ)の 妹が手本(たもと)を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万(たび) かへり見すれば いや遠に 里離(さか)り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ はしきやし わが妻の子が 夏草の 思ひ萎(しなえ)て 嘆くらむ 角の里見の 靡けこの山
巻2-139 異伝
石見の海 打歌(うつた)の山の 木の間より 我が振る袖 妹見つらむか
これらが既に読んだ歌の異伝であることは明らかである。異伝があるという事は、柿本人麻呂が石見から上京するという体験があったとしても、石見相聞歌がそのまま上京の時に作った歌とは考えられない。それはフィクションとして作りあげられたものである。それは何の為かと云えば、これまで読んで来た吉野讃歌、皇子たちに対する挽歌と同様に、宮廷で披露するという事が契機として考えられる。妻との別れといった個人的な事柄でも、人に聞いてもらう、読んでもらうために作るのである。その点で柿本人麻呂は作家であったと言うべきであろう。
「コメント」
理解度50%。異伝は何回も発表の度に少しずつ違って行ったためという事か。万葉集編集者は、そのたびに記録し留めなければならないのでそれは大変な事であったろう。そうなるとこれらの歌が、何となく有難みが減ってくる気がするのは仕方ないであろう。宮廷歌人なのだから
モット事実に忠実にやって貰いたいものだ。