220423③舒明天皇と国見歌巻1」
天皇の歌は実作ではなく、仮託であろう。
前回は巻1と巻2の巻頭の話をした。これらは万葉集の中でも最も古い歌をまとめてある巻で、天皇の代毎に分けて並べてある。巻1は21代雄略天皇、巻2は16代仁徳天皇と5世紀の歌である。
余りに古い時代なので、雄略天皇、磐の姫の歌も共に実作とは考えられない。それは後の時代に、その人だったらこう詠んだであろうと、イメ-ジして作られた伝説の歌と考えられると話した。
雄略天皇、磐の姫は共に、古事記、日本書記の歌謡物語の主人公たちである。そういう天皇、皇后の歌を巻頭に置くことで、万葉集の和歌の歴史は作られた時期より長くなるのである。
さて今回は巻1の2番の歌。
巻1-2 天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌 34代舒明天皇・岡本天皇
天智天皇、天武天皇の父
大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ 美(うま)し国ぞ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は
香具山は畝傍山、耳成山と並ぶ大和三山の一つ。三山の一つとして取りあげられる時は、単に香具山と呼ばれるが、
特別にこの山を取り上げる時には、天の香具山という。
それは天から降ってきた山と考えられていたからである。伊予国風土記には、伊予にも天山というのがあって、天から降ってきたのが二つに割れて、片方が天山、片方が大和の天の香具山だという。
古事記にも天の香具山は度々登場して、特に天照大神がスサノオの乱暴によって、天の岩戸に隠れた時、神々が相談して天照を引き出す場面にも五つもの香具山の事物が登場する。
この天の香具山は、高天原のものであるが、同じものが地上にあると信じられていた。つまり天の香具山は神話的な山なのである。そのような山に登り立って、見るのであるから、見えるものも普通ではない。
新古今707 仁徳天皇 実際には平安時代に作られた歌
高き屋に登りて見れば煙立つ民の竈はにぎわいにけり
高殿に登って国のありさまを見わたすと、民家からは煙がたちのぼっている。民のかまども豊かに栄えているのだった。
実際に海が見えたと考えるべきであろう 国土の豊穣 言霊信仰
仁徳天皇は聖帝とされる。古事記、日本書記には高台に上って遠望し、国の中に煙が立たないのを見て、民が貧しいのを知り、課役を免除して三年。もう一度遠望して、今度は煙が立っているのを見て、人々が富んだと知ったと伝えられる。そして海原はもっと不思議である。現実の香具山は150M の小山に過ぎないので、海は見えない。麓には埴安池(はにやすのいけ)という池がある。それを海に見立てたという説もある。しかし、ここは本物の海とカモメが見えたと歌っているというべきであろう。
海にカモメが立に立っているというのは、海面に魚が群れている状態。これは海の豊穣を表す。国土の豊穣と海の豊穣、煙が立ちに立っている。というのは国家にとって理想である。
今は見えないから見えると歌う。そうすることで、実現を願うのである。言葉は現実から遊離して現実を表すことが出来るが、その言葉が言葉通りの現実を呼び起こす、その力を言霊といい、それを信じる事を言霊信仰という。
そして舒明天皇はこうした理想を目指して「美味し国ぞ秋津大和の国は・・・」と国を誉める。美味し は、古代では満ち足りているの意。
この歌のポイントは神の山である天の香具山であることが大きいのである。
天皇という称号 推古か舒明か 遣隋使の派遣
天(あめ)のイデオロギ-を背負った天皇という称号がいつごろから使われてきたかというのは、歴史学でも論争が続いている。舒明天皇の一代前の推古天皇の7世紀初頭に成立していたという説と、672年壬申の乱後に即位した天武天皇とする説で対立している。しかし推古朝に天のイデオロギ-が高められていたことは確かである。
589年中国の統一王朝となった隋に対して、600年使いを送り、姓を天(あめ)、名をタラシヒコと名乗って、天を兄とし、地を弟とするとした。これは随書に出ていることである。そして、推古15年607年にふたたび遣隋使を派遣し、有名な聖徳太子の「日出ずる国の天子・・・」という書き出しである。来日した髄の使者に同行した時の文面が日本書紀にあり、
「東の天皇謹みて、西の皇帝に申す・・・」とある。倭の五王の時代には、臣下としての挨拶であったが、ここに至ると互角としている。かなりの背伸びである。隋は高麗を侵略したように周辺を圧迫するので、周辺国は一斉に統一国家をつくるようになる。大和も例外ではない。推古朝の冠位十二階、17条の憲法をはじめ、様々な体制固めを行っている。
遣唐使 天皇という君主像
隋は大運河を作り、高麗遠征を繰り返したことで疲弊し、皇帝煬帝が殺されて滅亡し、618年唐となる。
その唐に631年舒明天皇の時に、使者を送る。遣唐使である。
大国等に対して和親を図ると共に、仏教をはじめとする文明を輸入することが目的であった。そうした中で、天皇が天皇になっていく。つまり天といった超越的な権威を持った存在として、君臨するように変化していく。
天の香具山という天から降ってきた聖なる山の上に立って、国全体を治める事を歌う国見歌はそうした新たな時代の君主像なのである。
国土の豊穣を言霊の力で招き寄せようとする天皇は、祭祀を司る王という印象である。
巻頭の女性に言い寄る天皇とは、大きなレベルの違いを感じざるを得ない。
「コメント」
推古天皇、舒明天皇の時代になると、外国との関係、国の安全などを否応なしに考えるようになるが、それまでは国内で単に強ければよかったという事。しかし、どう考えても雄略天皇を
巻頭に出しているのは理解できない。