220409⑬①萬葉集とは何か
20巻、4500首の歌を収めているだけでなく、歴史的な歌集である事に特徴がある。歴史的というのは、様々な意味がある。まず萬葉集は歴史的に形成されていった歌集であるように見える。実は萬葉集は、何時誰が編纂したのか分かっていない。奈良時代の貴族官人であった、大友家持が最終的に編纂した事は確実と思われるが、彼が一人で編纂した訳では無さそうである。万葉集を読んでいると、ある編者が他の配列は変であるが、元の資料にこうあるので、そのままにしておくことと、註を付けている所が見つかる。
又この歌はここで作られたとあるけれども、その人物はその場所に行っていない筈だから、それはないだろうともある。
こうした事は編集が複数いて、層を成していないと有り得ないであろう。
萬葉集は雑然として見えるが、逆に言えば整然としているともいえるであろう。この歌集が歴史的に形成されていったことを、それ自身が語っているのである。
そして、萬葉集は全体が歴史的に配列されている。巻1や巻2は天皇の代毎に、小分けされている。古い天皇の時代の歌から、新しい天皇の代への歌と順を追って並べられている。
そうした時間を追った配列になっている。その歴史的配列という事だけが、強固な原則で、他は巻によってバラバラと言っても過言ではない。一応、雑歌、相聞、挽歌という部類があって、これを三大部位と呼んでいる。
雑歌は儀礼や宴会、行楽、旅、地域の物語のような歌が含まれている。
しかし、部立ては萬葉集全体を分ける原理にはなっていない。巻1が大体雑歌、様々な歌というタイトルを持っているのは変である。
古今和歌集では、四季の恋の歌の後に、雑の部がおかれている。巻3は、雑歌、譬喩歌となり、段々部立ても出来てくる。そして、巻を追うごとに繰り返し同じ様に部立てで現れてくる。ところが部立てがない巻もある。巻17から最後の4巻は、部立てがない。ここは大友家持の歌を中心に日付順に並んでいて、家持歌日誌とも呼ばれる。
この人が萬葉集の最終的編者と思われている。
そうすると巻20の最後の歌が一番新しい歌という事になる。それは天平宝字三年正月一日。759年。奈良時代の中頃。
巻1、2は和銅三年710年の歌で終わっている。始まりは正確には解らないが、7世紀の前半、630年頃、舒明天皇の時代ではないかと言われている。
例えていえば、最初の2巻が630年~、奈良時代の古い歌。最後の4巻が、759年なら時代の半ばまでの歌を収めている。
つまり萬葉集は全体として古い時代の歌から、新しい時代の歌へと移っていくのである。その間130年。そしてその間に国家を揺るがす大事件が幾度も発生している。
・663年 唐と新羅の連合軍に大敗 白村江
・壬申の乱
・701年 大宝律令制定
何よりも日本という国が出来たのもこの時代である。対外戦争に敗れて後、国を立て直し701年に大宝律令を整えて、新たに中国と外交を始めた時に、日本という国号を名乗ったのである。
7世紀は律令国家建設の時代。8世紀はそれを維持発展させていく時代である。和歌という定型詩もその7世紀に生まれて130年間発展していき、万葉集にまとめられた。630年~760年
だからその間に和歌は大いに変化している。その返歌は130年間に怒った出来事に大きく影響されている。
萬葉集は歴史であるという意味が理解されたであろうか。
さて萬葉集の歌は激動の時代につれて、余りにも大きく変化している。時代的に区分して考えることが行われている。
先程7世紀と8世紀に二分したが、区切りの710年の平城遷都において、前半後半となる。
それぞれの時期の歌を詠んでみよう。
第一期 630年~672年壬申の乱
第二期 672年壬申の乱~710年平城遷都
第三期 710年平城遷都~733年山上憶良没から大友家持歌作り開始
第四期 733年山上憶良没~759年萬葉集最後の歌 家持新年の歌 天平宝治三年
第一期 巻1-20 額田王
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
天智天皇と天武天皇の、額田王を巡る三角関係を歌ったとされているが、現在は否定的。枕詞多用の歌は解りづらい 初期万葉の歌に共通する。
第二期 巻3-266 柿本人麻呂
近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ
歌詞に経緯は書いてないが、意味は明瞭。人麻呂は、天智、天武、持統、文武の時代の人。
天智が作った近江の宮は滅んでしまった。古はこの時代までとしている。この時代の歌は分かり易い。
第三期 巻6-918 山部赤人
和歌の浦に潮満ちくれば潟を無み芦辺をさして鶴鳴き渡る
聖武天皇即位の年。和歌浦に行幸の時の歌。前に長歌、そして反歌がついている。細かな叙景の歌が多い。
第四期 巻19-4292 大伴家持
うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば
孤独感が現れるのが第四期。この歌は孝謙女帝の時、次の皇太子が決まらないままに藤原独裁が進む状況。家持の孤独感は、こうした政治情勢と結びついている。
それぞれを見ると歌の性格が大きく変わっていることが分かる。文学史の教科書で、万葉集の歌は雄大と一括りにされているが、初期万葉集の歌はともあれ、人麻呂以後の歌はそうとは言えない。家持の先程の歌などは、折口信夫、窪田空穂と言った近代の歌人で研究者であった人々は、近代的で驚いたと言っている。但し、万葉集の歌が古今和歌集に比べて、素朴な点があるとすれば、それは時々の政治や社会と結びついていて、その歌がそれと切り離せないということである。
萬葉集の万葉仮名と古今集以降の平仮名中心違い
古今和歌集になると、歌がいつ作られたかという事に関心が薄くなる。万葉集と古今和歌集の間には、和歌の性格に大きな差異がある。その変化を齎した最大の原因はメディアの違いにある。書かれる文字の事である。万葉集は全て漢字で書かれているのに対して、古今集は平仮名を中心に書かれている。古今集では縁語、枕詞が発達して、技巧的と教科書にはかいてあるが、それは平仮名の上に成り立つ歌だからである。
平仮名はそれ自体、意味を持たないから二つの言葉を乗せやすい。そうすると掛詞が出来る。その掛詞を繋げると縁語になる。そうやって新機軸を作ったのが、古今和歌集である。一方万葉集の時代、7~8世紀はまだ平仮名がないので、漢字で日本語を表さねばならなかった。漢字で日本語を表す方法は、今も昔も同じである。漢字音そのまま使うことは、
萬葉集では稀であった。仏教語に限られていた。餓鬼・布施・・・
音の利用として大半を占めるのは、万葉仮名である。というのは漢字を仮名として使うという事である。
平仮名には文字自体には意味がない。故に漢字から見て、仮の名、仮名と呼んだ。
仮名に対して意味を持つ字は、真の文字という事で真名と呼んだ。従って仮名は意味のない文字という事で、万葉仮名と葉、漢字の意味を無視して音だけを利用する使い方だという事になる。
万葉仮名の例
例、家持の歌 巻19-4292 うらうらに照れる春日にひばり上がり→比婆理安我里
萬葉集は全て万葉仮名で書かれているかというと、そうでもない。例がある。
例 家持の歌 心悲しも→情悲 訓読みの使い方をしている
題詞は漢文、和歌とは全く違うことは当然であった。
今述べた漢字で書かれた和歌の原文を漢文本文というが、これは非常に大事である。これこそが万葉人が残した表現である。今は漢字混じりの読み下しで書くのが普通であるが、詠む時の基礎となるのは漢字本文である。ここからは萬葉集が出来上がった後の話である。
萬葉集の中に歴史が刻み込まれていると話したが、万葉集の辿った歴史という物がある。漢字を崩して平仮名が出来ると、和歌は大いに書かれるようになる。続け書きが出来るので、漢字を一つ一つ書くより早く書ける。日本語の散文もそれで書けるようになった。漢字だけの日本語を書くという事がなくなると、逆に漢文だけで書かれた日本文が読めなくなる。
萬葉集の巻末の一番新しい歌が作られた天平宝字3年759年から、古今和歌集が出来る演戯5年908年まで、薬150年間は、万葉集の130年間より長い時間がかかっている。又その頃、万葉集という歌集がどんなものかがはっきりしなくなっている。
紀貫之が古今集の仮名序に、万葉集の事を書いているので読んでみよう。
「今は、和歌は漢詩に押されて衰えている。公式の場には出せないものになっていることを述べている。そういう認識の中で、万葉集の時代はそうではなかったと主張している。大昔から伝わってきた中にも、特に奈良時代から和歌は広がったのだ。その時代は、天皇自身が歌の心を御存じだったのか、正二位と言った高い位にあった柿本人麻呂が歌の聖であった。これは君臣が和歌を通して一心同体であったというべきだ。又、山部赤人という人がいて、人麻呂と甲乙つけがたい存在であった。それ以外にも、優れた歌人が沢山いた。これ等の歌を纏めて萬葉集と名付けられたのである。」
貫之をはじめとする古今和歌集の編集者たちは、皆、身分が高くなかった。和歌が衰えているという現状認識は、認めざるを得なかった。それに対して、和歌のかっての栄光を象徴するのが萬葉集であったのだ。天皇自身が、歌の心を知っていた和歌の聖人として柿本人麻呂は高い地位であった。
しかし、この文言と萬葉集の実質随分とずれている。
先ずは柿本人麻呂の、残っている作品に奈良時代の物はない。第二期中に、活動を終えている。そして万葉集の挽歌部に納められた題詞に「柿本人麻呂の死する時・・・」てあって、正三位の扱いではない。万葉集では下位の六位以下となっている。又山部赤人は聖武天皇の頃、奈良時代の人物であるが、柿本人麻呂と同時代ではない。人麻呂は身分は低くとも、万葉集の中で特別な存在感を持っているが、山部赤人はそうでもない。聖武天皇の行幸に随伴の何人かの歌人の一人にしか過ぎない。赤人の歌風は一寸ひねった歌風があり、平安時代になって人気が出た。
貫之は昔を理想化しようとして、万葉集を実態以上に立派に描いている。しかし、古今集成立の頃には、萬葉集が一般には良く解らない存在になっていたことの裏返しであった。
古今和歌集の真名序を書いた紀淑望のもう一つの漢文の序には、古今和歌集は最初「続萬葉集」という企画であったと書かれている。そして古今和歌集には、万葉集の歌が原則として取られていない。万葉集が全て読めないならば、その歌を排除することも出来ないので、ある程度読めることは読めたのであろう。しかし、音と訓を交えて書かれた萬葉集は、正確に読み下すことは出来なかったに違いない。
萬葉集の解読
本格的に解読がはしまったのは、古今和歌集の次の勅撰和歌集後撰和歌集の頃である。平安宮の御所梨壺に和歌所というのが作られて、後撰和歌集の編纂と、万葉集の解読が行われた。
梨壺の五人 大中臣能宣(よしのぶ)、清原元輔、源順(いたごう)、紀時文、坂上望城(もちき)
清原元輔は清少納言の父。
此の梨壺の五人が付けた読み方を「古点」と呼ぶ。今は古点のみを保存した記録はないが、全ての写本に共通した読み方の部分は、古点と見てよいと考えられる。しかし、彼らは全部の歌に詠み方を付けられたのではなかった。判読できない所は、そのままにしておいた。特に長歌は平安時代になると、作られなくなって、参考にする必要もないとして、多くの場合そのままになった。
この様な混乱を整理したのが、鎌倉時代の仙覚 天台宗の学問僧。鎌倉将軍頼経の命で、万葉集の写本を集めて、全てに訓を付けた。これを「新点」という。
これで萬葉集読解の基礎が出来た。
萬葉集の名の由来
沢山の歌を集めた歌集という云い方もある。万葉という言葉は、日本書記にも出てきて、長い年月という意味で用いられている。それに従えば、万葉集とは長い期間の歌を収めた歌集とも取れるし、長く続けるという祈り籠った歌とも取れる。
萬葉集は巻を追うごとに時代も進み、その時代時代を刻み込んだ歌の表された歴史的な歌集である。そして、それ以後
1300年近く浮き沈みしながらも、歴史を積み重ねてきた。万葉集はこの日本という国の出来た頃の歌を残すものである。
和歌という詩型も出来上がったばかりの物であった。これは日本や日本語の文芸によるまだ若々しい姿を現している。
これが後世の人々を、自分たちのル-ツとして引き付け続ける事になったと思う。
「コメント」
文字のない民族が、漢字を使って四苦八苦して作ったのが萬葉集。中国がいてくれて助かった。さもなくば、文化のない民族になる所であった。そしてそれを使いこなし、更には仮名を作り、現在の漢字仮名交じり文を作り上げていく。大変な苦労でした。