211204紫式部日記⑪「帝の行幸」
敦成(あつひら)親王の誕生を受け、父親の一条天皇が道長の土御門邸を訪れる場面を読む。寛弘五年(1008年)の十月、天皇29歳。今は亡き中宮定子の親王敦康親王を中宮定子は養育するが、これを支持する定子の親族の力はなかった。中宮彰子が生んだ敦成(あつひら)親王が天皇となるのは、祖父の道長が政治権力を維持している限り、確実であった。
「朗読1」道長が準備の様子を確認している。作者は、公卿たちが向う側にいるし、どうせ遅れるだろうと、たかをくくって、仲良しの小少将の君とゆったりしていた。所が行幸が思ったより早かったので、大慌てする。
その日、あたらしく造られたる船ども、さし寄せさせて御覧ず。竜頭鷁首の生けるかたち思ひやられて、あざやかにうるはし。行幸は辰の刻と、まだ暁より、人々けさうじ心づかひす。上達部の御座は、西の対なれば、こなたは例のようにさわがしもあらず。内侍の督(すけ)の殿の御かたに、なかなか人々の装束なども、いみじうととのへたまふときこゆ。
暁に、少将の君まゐりたまへり。もろともに頭けづりなどす。例の、さいふとも日たけなむと、たゆき心どもはたゆたひて、扇のいとなほほしきに、また人にいひたる、持て来なむと待ちゐたるに、鼓の音を聞きつけて、急ぎまゐるさまあしき。
「現代語訳」
行幸の日、新しく造られた船などを、道長様は岸に寄せて確認のために御覧になる。竜頭や鷁首の船が、まるで生きている姿が想像される程、見事に出来ていて、とても綺麗である。行幸は御前八時頃という事で、夜明けごろから起きて、女房達は化粧をする。公卿たちの席は、西の対なので、こちらの東の対はいつものように騒がしくない。あちらの内侍の督の方では、女房達の衣装なども、とても
立派に準備なさるという事である。
明け方に、私の仲良しの小少将の君が実家から帰ってこられた。一緒に髪をくしけずったりした。
例によって、行幸などはきっと遅れて昼頃になるだろうと、油断して、扇が平凡なので、別なのを持ってきて欲しいと待っていたら、行幸を報せる鼓の音がしたので、慌てて参上するのはみっともないことだった。
「朗読2」帝の御輿を担ぎ上げる人の苦労と、立場は違うが私の苦労も似ているなあと共感している。
御輿むかへたてまつる船楽、いとおもしろし。寄するを見れば、駕輿丁の、さる身のほどながら、階よりのぼりて、いと苦しげにうつぶしふせる、なにのごとなる、高きまじらひも、身のほどかぎりあるに、いとやすげなしかしと見る。
「現代語訳」
帝の御輿をお迎えする音楽がとても面白い。御輿を担ぎ上げるのを見ると、御輿を担ぎあげるのを見ると、駕籠丁が、低い身分なのに、とても苦しそうに這いつくばっているのは、私の苦しさと違っていようか。高貴な人との交わっての宮仕えも、安らかな気分がしないものだなあと思いながら見つめていた。
「講師」
紫式部の和歌を連想する。父親と共に越前に下向した独身時代の紫式部は、現地で雇った駕籠丁たちの嘆きの声を耳にしている。そして歌を詠んでいる。紫式部集という歌集で、人足たちの嘆きを聞いて歌を作っている。
知りぬらむ 行き来にならす 塩津山 世にふる道は からきものとは
塩津山を行く人足たちよ そなたたちも人生の道はこの峠のように、辛いと知っているだろうに
名前が塩だから、辛いのだと言葉遊びをしている。下層の人々への一種の同情。同時代の人々とは違う感覚を持っている。塩津山→滋賀と福井県境の険しい山
「朗読3」二人の内侍が出て来て、今日の行事が始まる。その姿の見事さの描写が細やかである。
御帳の西面に御座をしつらへひて、南の廂の東の間に、御椅子を立てたる、それより一間へだてて、東にあれたるきはに、きたみなみのつまに御簾をかけへだてて、女房のいたる、南の柱もとより、簾をすこしそきあけて、内侍二人出づ。
その日の髪上げうるはしき姿、唐絵ををかしげにかきたるようなり。左衛門の内侍、御佩刀とる。青いろの無紋の唐衣、
裾濃の裳、領巾、裙帯は浮線綾を櫨緂に染めたり。表着は聞くの五重、掻練は紅、姿つき、もてなし、いささかはづれて見ゆるかたはらめ、はなやかにきよげなり。弁のないしはしるしの御筥。紅に葡萄染の織物の袿、裳、唐衣は先の同じごと。いとささやかにをかしげなる人の、つつましげに、すこしつつみたるぞ、心苦しう見えける。扇よりはじめて、好みましたりと見ゆ。頭巾は楝緂(あうちだん)。夢のようにもこよひのだつほど、よそほひ、むかし天降りけむをとめごの姿も、かくやありけむとまでおぽゆ。
「現代語訳」
御帳台の西側に帝の御座所を設けて、南廂の東の間に御椅子を立ててあるが、そこから一間於いて東に離れている部屋の境に、御簾をかけて女房達が座っていた。その南の柱の元から、簾を引き開けて内侍が二人出てくる。
その日の髪上げした綺麗な様子は、まるで唐絵を美しく書いた様である。左衛門の内侍が御佩刀を、捧げ持つ。内侍の服装の描写は省略。その姿や振る舞い、扇から少し外れて見える横顔は、華やかで清らかである。
弁の内侍は御玉璽の筥を持つ。衣装は略。とても小柄で可愛らしい感じで、気恥ずかしそうにし、固くなっているのは、気の毒に見えた。扇を始めとして、左衛門の内侍よりは趣向を凝らしているように見える。その二人の内侍の風情は、昔の天女が天下ったようである。
近衛司の役人が、この場に相応しい姿で、御輿の事などを世話している。その様子はとてもきらびやかである。藤の中将が、御佩刀や御御璽などを左衛門の内侍に伝達する。
「講師」
女房文学は、若い女房達の教科書ともなるので、全てに渡り、細やかで具体的。衣装がどうであり、着こなしの具合は。立ち居振る舞いは。
「朗読4」女性から見た女性論。優劣を論じている。
うちとけたるをりこそ、まほならぬかたちもうちまじりて見えわかれけれ、心をつくしてつくろひけさうじ、
劣らじとしたてなる、女絵のをかしきにいとよう似て、年のほどのおとなび、いとわかきけじめ、髪のすこしおとろへたるけしき、まださかりのこちたきがわきまへばかり見わたさる。さては、扇よかみの額つきぞ、あやしく人のかたちを、しなじなしくも下りても、もてなすところなんめる。かかるなかにすぐれたりと見ゆるこそ、かぎりなきならめ。
「現代語訳」
普段より打ち解けている時こそ、整っていない顔つきも混じっていれば見分けもつくが、この様に精一杯に身なりを整え、お化粧をして、飾り立てている時は、女絵にそっくりで、区別も付けられず、年齢のいっているのと、極若いのとか、髪がすこし衰えているさま、まだ若く豊かなるのとの違いばかりが、見分けられる。こんな状態で顔を隠した扇の上の額の様子が、不思議に人々の容貌を上品にも下品にも見せる物の様である。こういう中で、優れていると目に付く人こそ、最上の美人なのであろう。
「講師」
沢山いる女房達の優劣をどうつけるかの考えが書かれている。女性から見た女性論を展開している。
「朗読5」帝が若宮をお抱きになる様子。介添えした弁の宰相が、注目を浴びて恥ずかしげだが、
衣装も立派であった。
殿、若宮い抱きたてまつりたまひて、御前にゐたてまつりたまふ。主上抱きうつしたてまつらせたまふほど、いささか泣かせたまふ御声いとわかし。弁の宰相の君、御佩刀とりてまゐりたまへり。身屋の中賭り西に、殿の上おはするかたにぞ、若宮はおはしませたまふ。主上外に出でさせたまひてぞ、宰相の君はこなたに帰りて、「いと顕証に、なしたなき心地しつる」と、げに面うちあかみてゐたまへる顔、こまかにをかしげなり。衣の色も、人よりけに着はやしたまへり。
「現代語
道長様が若宮を抱いて、帝の御前にお連れ申し上げる。帝が若宮をお抱きになる時、すこしお泣きになるお声がとてもかわいい。弁の宰相の君が、お守り刀を捧げて進み出られる。母屋の西の方にいらっしゃる、北の方の方に、若宮をお連れ申し上げる。帝が御簾の外に出られてから、宰相の君は私達の所に帰ってきて、「とても、全てが露わで、決まりの悪い気持ちがしました」と言って、本当に顔を赤くしている顔は、上品で美しい。この方は、他の人達よりも、一段と引き立つように着ておられる。
「講師」
帝には、亡くなった中宮定子との間に、親王がいるが、今度の和宮は道長の孫であるので、扱いがまた格別である。今日の儀式が、道長が演出した若宮の初見である。一条天皇は32歳で崩御し、東宮が三条天皇として即位したが、3年後の1011年であった。その三条天皇が退位し、今回生れた敦成(あつひら)親王が、後一条天皇として即位したのが、5年後の1016年である。8歳であった。
道長が没したのは1027年で67歳。後一条天皇は1030年、29歳で急死、糖尿病とされる。
「コメント」
外孫誕生に有頂天の道長が彷彿とする。紫式部の観察眼には、実に恐れ入る。当時はメモなどの習慣もないし写真もないのに、実に細かく衣装や髪形、立ち居振る舞いを記憶している。そして気に入った人は好意的に書くのもいつもの事。