210717蜻蛉日記⑯「唐崎祓い」

天禄元年、作者は35歳。前回は宮中での、賭弓(のりゆみ)の儀式に、道綱が弓を射たり、舞を舞う

場面を読んだ。兼家も、我が子の活躍に上機嫌であった。

これ以降、兼家の来訪はさっぱりなかった。作者は兼家の来なかった日を数えている。

 

「朗読1」会ってない日々を、数えている。

かくて、数ふれば、夜見ることは三十余日、昼見ることは四十余日になりにけり。

「現代語訳」

数えて見ると、夜会うことは三十余日、昼会うことは四十余日の間を置いたことになる。→この間、

会っていないという事。

 

「朗読2」むしゃくしゃするので、気晴らしに琵琶湖の唐崎に、お祓いを兼ねて出掛ける。

かくながら二十余日になりぬるここち、せむかた知らず、あやしくおきどころなきを、いかで涼しきかたもやあると心ものべがてら浜づらの方に祓もせむと思ひて、唐崎へとてものす。

寅の時ばかりに出で立つに、月いと明し。わがおなじようなる人、またともに人ひとりばかりぞあれば、ただ三人乗りて、馬に乗りたるをのこども七八人ばかりぞある。

「現代語訳」

こんな状態で、六月も二十日過ぎになってしまい、私の気持ちもどうしようもなく、やりきれないので、涼しい所にでもと、気晴らしに浜辺の方に、お祓いをしたいと唐崎に出掛けた。

夜明け前の寅の時に出掛けたが、月がとても明るい。私と同じような境遇の人()、それに侍女は一人だけ連れて、三人で同じ車に乗り、馬の従者たちが七、八人ほどいる。

「講師」

ここで思い出すのが和泉式部である。最後の夫である藤原保昌から忘れられつつある不安を感じて、京都の北の貴船神社に、夫の復活を念じて詣でる。蜻蛉日記の作者は、琵琶湖の西岸の唐崎に出掛ける。

 

「朗読3」出発して賀茂川を通って、逢坂の関にかかる。きこりが木を切っているのを見て、

     とても気分が変わる。

賀茂川のほどにて、ほのぼのと明く。うち過ぎて山路になりて、京にたがひたるさまを見るにも、このごろのここちなればにやあらむ、いとあはれなり。いはむや、関にいたりて、しばし車とどめて、牛かひなどするに、むな車引きつづけて、あやしき木こりおろして、いとをぐらき中より来るも、ここちひきかへたるよえにおぼえていとをかし。

「現代語訳」

賀茂川のほとりで、夜が明ける。そこを過ぎて、山路になって、京と全く違う様子を見て、この頃の

自分の心境のせいであろうか、しみじみとした思いになる。まして、逢坂の関に着いて、暫らく車を

留めて、牛に餌など与えていると、荷車を何台も引き連れて、見たこともない木を伐り出して、暗闇から出てくるのを見ると、気持ちが変わって、とても面白く感じる。

 

「朗読4」逢坂の関を超えると琵琶湖が見えてくる。感動的である。

関の山路あはれあはれとおぼえて、行先を見やりたれば、行く辺も知らず見えわたりて、鳥の二つ三つゐたると見ゆるものを、しひて思へば、釣舟なるべし。そこにてぞ、え涙はとどめずなりぬる。いふかひなき心だにかく思へば、まして異人はあはれと泣くなり。はしたなきまでおぼゆれば、目も見あはせられず。

「現代語訳」

逢坂山の山路に感動しながら、行く手を見ると、果てしもない湖が見えて、鳥が二羽三羽飛んでいる様に見えたが、よく考えると、釣舟であろう。そこで、涙を堪えられなかった。絶望的な私の心でさえ、こんなに感じるのだから、同行のもう一人は、感動して涙にむせんでいる。きまりが悪いので、目も

見合わせられない。

 

「朗読5」浜辺で車の方向を変えて、お祓いをする。

さて、車かけて、その崎にさしいたり。車引きかへて、祓しにゆくままに見れば、風うち吹きつつ波高くなる。ゆきかふ舟ども、帆引き上げつつ行く。浜づらにをのこども集まりゐて、「歌つかうまつりてまかれ」と言へは、いふかひなき声引き出でて、うたひてゆく。祓のほどにぞ、はしたになりぬべくながら

来る。

「現代語訳」浜辺でのお祓いの様子である。

車に牛をつけて、唐崎に到着した。車の向きを変えて、お祓いをしに行きながら見ると、風が吹いて

波が高くなっている。

湖を行き交う船も、帆を引き上げて行く。浜辺に土地の男どもが集まっていたが、供の者が「歌をお聞かせしろ」と言うと、歌いながら行く。お祓いも中途半端になってしまったが、どうやら出来た。

 

「朗読6」お祓いの様子の詳述、とても暑い。未の刻に帰途に就く。

いとほどせばき崎にて、下のかたは、水際に車立てたり。あみおろしたれば、しきなみに寄せて、なごりには、なとしと言ひふるしたるかひのありけり。しりなる人々は、落ちぬばかりのぞきて、
うちあらはすほどに、天下の見えぬものども取り上げまぜて騒ぐめり。若きもをのこも、ほと゜さし離れてなみゐて、「ささなみや志賀の唐崎」など、例のかみごゑふり出だしたるも、いとをかしう聞こえたり。風はいみじう吹けども、木陰なければ、いと暑し。いつしか清水にと思ふ。羊の終はりばかり、果てぬれば、帰る。

「現代語訳」

とても狭い崎で、水際すれすれに車を止めている。網を下ろした所、無いと言われる貝があった。→ここに来た甲斐があった。後ろに乗っている人は、落ちそうになって覗き込んで、皆騒いでいる。若い男達も少し離れた所で、「さざ波や志賀の唐崎」などと神楽声で歌っているのも、とても面白い。風は頻りに吹いているけれども、木陰が無いのでとても暑い。

早く、あの清水をと想う。羊の時の終わりごろに、お祓いが終わったので、帰途に就く。

「朗読7」

走り井にはこれかれ馬うちはやして先立つもありて、いたり着きたれば、先立ちし人々、いとよく休み涼みて、ここちよげにて、車かきおろすところに寄り来たれば、しりなる人、

うらやまし駒の足とく走り井の

と言ひたれば

清水にかげはよどむものかは

「現代語訳」

走り井には、馬で先に到着したものがあって、私たちが着くと、その連中が十分に休息して、涼んで気持ちよさそうである。車に寄ってきたので、同じ車に乗っている人()

羨ましい。馬は早くて、とっくに走り井で休んでいるとは
と言ったので私は

馬は清水に影も止まらないほど速いので、休んでなんかいませんよ→うらやましくもありません

 

「コメント」

夏の琵琶湖行きは暑いだろう。大阪在住の頃に通っていた国道一号線の逢坂山が思い出さ

れる。お供を連れての物見遊山である。