210501蜻蛉日記⑤「小倉百人一首の名歌誕生」
夫の兼家には第一夫人(時姫)が居て、道隆・道兼・道長ト全員関白となった母親。又娘を冷泉天皇、円融天皇の室に入れて外戚として君臨する。作者は第一夫人とはライバル関係であるが、これ以外の女性関係には激しい嫉妬心を持つ。その場面を読む。
「朗読1」別の女にやる手紙を見付けて、そこに見たという文を書き付ける。
しかし兼家は知らん顔。厚かましい男ではある。
さて、九月ばかりになりて、出でにたるほどに、箱のあるを手まさぐりに開けて見れば、人のもとに遣らむとしける文あり。
あさましさに、見てけりとだに知られむと思ひて、書きつく。
「うたがはしほかに渡せるふみ見ればここやとだえにならむとすらむ」
など思ふほどに、むべなう、十月つごもりがたに、三夜しきりて見えぬ時あり。つれなうて、「しばしこころみるほどに」など気色あり。
「現代語訳」
さて九月(ながつき)になって、あの人が出て行った後に、置いてあった文箱を何の気なしに開けてみれば、他の女にやる手紙が入っている。見たということだけでも悟らせようと、次の事を書きつける。
「疑いますよ。他の人に渡す手紙を見ると、もう私の所にはお出でにならないのですか。」
そんなことを想っている内に、案の定、十月(かんなづき)の末に、三夜姿を見せない時があった。あの人は、素知らぬ顔で、「暫らく貴女の気持ちを試していたよ」などという。
「講師」
後に書かれた源氏物語でも、手紙が重要な役割を果たす場面がある。「若菜の上の巻」。光源氏の正妻の女三宮と柏木の関係で、柏木から女三宮に宛てた手紙を、源氏に見られる。蜻蛉日記と似ている。紫式部は蜻蛉日記を愛読していたので、さてはと面白い。
「朗読2」急に出かけるので付けさせると例の女の所に行った様子。
腹が立つので、皮肉一杯の歌を送った」 小倉百人一首
これより、夕さりつかた、「内裏にのがるまじかりけり」とて出づるに、心得で、
人をつけて見すれば、「町の小路なるそこになむ、とまりたまひぬる」とて来たり。
さればよと、いみじう心憂しと、思へども、いはむようも知らであるほどに、二三日ばかりありて、あかつきがたに門をたたく時あり。憂くて、開けさせねば、例の
家とおぼしきところにものしたり。つとめて、なほもあらじと思ひて、
「なげきつつひとり寝る夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る」
と、例よりはひきつくろひて書きて、移ろひたる菊にさしたり。
「現代語訳」
私の家から、夕方「内裏に大事な用事かある」と言って出ていくので、人に後を付けさせると、「町の
小路のどこそこに行きました」と報告してきた。やっぱりと思うが、全く残念だけど、言う方法も思いつかずいる内に、二三日して夜明け方に戸を叩くものがいる。憂鬱で門を開けさせずにいると、例の家の方に行ってしまった。このまま、黙っていられないと
「嘆きながら独り寝すると、明けるまでの時間のどんなに長く辛いものと分かりますか」と、普段よりは改まって書いて、色変わりした菊に挿して送った。
「講師」
古文の教科書にもシバシバ取り上げられる名歌。
「朗読3」返事はとぼけたものであった。
返りごと、「あくるまでもこころみむとしつれど、とみなる召使の来あひたりつればなむ。いとことわりなりつるは。いとことわりなりつるは。
「げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸もおそくあくるはわびしかりけり」
さても、いとあやしかりつるほどに、ことなしびたる、しばしば、忍びたるさまに、内裏になど言ひつつぞあるべきを、いとどしう心づきなく思ふことぞ。かぎりなきや。
「現代語訳」
返事は、「夜が明けるまで待とうと思っていたが、召使が急に来たので帰りました。貴女がいうことは尤もなことだ」 和歌
「誠に仰る通り、戸を開けて貰えないのは辛いものと思い知りました」
その頃はまだ言い訳を言っていたが、後には、平然と女のもとに通う様子はどうにも理解に苦しむ。内裏に用事があってとでも、言うのが当然なのに、気遣いのなさがやりきれない。
「講師」
嘆きつつ独り寝る夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る
この歌は、三番目の勅撰集「拾遺和歌集」に撰ばれている。蜻蛉日記では門を開けなかったと書いてあるが、拾遺集の詞書ではそうでない。
作者は道綱を出産するが、その頃兼家の文箱に他の女あての手紙を見付ける。
二三日後に兼家は訪れるが、門を開けずに中に入れない。そしてこの歌を送る。
拾遺集にはこの歌の詞書として、「入道摂政まかりたるけるに、門をおそくあけければ、たちわづらひぬといひ、入れてはべれば・・・」とあって、兼家を迎え入れたことになっている。