220227王朝物語㊸和泉式部日記⑮「新年の恋」

この作品の最終場面に入る。夏に始まった和泉式部と敦道親王の恋は秋の恋、冬の恋を経て、翌年の新年で終わる。十二月十八日に女は宮の邸に迎えられた。

ここで和歌は終わり、散文だけとなり、物語でも日記でもなく小説となっていく。

 

「朗読1」お正月の公式行事の中で、女を巡って興味津々で北の方の女房達が騒いでいる。

年かへりて正月一日、院の拝礼に、殿ばら数をつくして参りたまへり。宮もおはしますを見まゐらすれば、いと若ううつくしげにて、多くの人にすぐれたまへり。これにつけてもわが身恥づかしうおぼゆ。上の御方の女房出でゐてもの見るに、まづそれをば見て、「この人を見む」と穴をあけ騒ぐぞ、いとあさましきや。

「現代語訳」

年が改まって正月一日、冷泉院(63代天皇)への拝礼に廷臣達が大勢参上した。宮もその中におられるのを拝見すると、とても若々しくて美しい。それにつけても、女は我が身に気が引けた。宮の北の方の女房が見物しているが、廷臣の方を見ないで、「まずこの女を見よう」と、障子に穴を開けて騒いでいるのが全く見苦しい事である。

 

「朗読2」女の噂が広まって、宮は機嫌が悪くなる。北の方の部屋にもいかなくなる。女は気になるがどうしようもない。

暮ぬれば、ことはてて宮入らせたまひぬ。御送りに上達部数をつくしてゐたまひて、御遊びあり。いとをかしきにも、つれづれなりしふる里まず思ひ出でらる。

かくてさぶらふほどに、下衆などのなかにもむつかしきこと言ふを聞こしるして、「かく人のおぼしのたまふべきにもあらず。うたてもあるかな。」と心づきなければ、内にも入らせたまふこといと間遠なり。かかるもいとかたはらいたくおぼゆれば、ただともかくもしなさせたまはぬままにしたがひて、さぶらふ。

「現代語訳」

日が暮れると、拝礼式も終わって、宮は邸にお戻りになった。お見送りに廷臣達が揃って、管弦の遊びがなされる。大変趣があって、女は自分の家の侘しさが思い出される。

こうしてお仕えしているうちに、北の方の召使などが女について色々嫌な噂をしているのを、宮はお聞きになって「これは北の方が女のことを悪く思うからで、不愉快なことである」と思われた。
そして北の方の部屋にも足が遠くなった。女はこうしたことは気が咎めるが、どうしようもない。

今は宮の仰るままにお仕えしている。

 

「現代語訳3」お姉さんが心配をして、私の所にいらっしゃいという。北の方はそれに従い家を出ることにする。

北の方の御姉、東宮の女御にてさぶらひたまふ。里にものしたまふほどにて、御文あり。「いかにぞ。このごろ人の言ふことはまことか。われさへ人げなくなむおぼゆる。夜のまにもわたらせたまへかし。」とあるを、かからぬことだに人は言ふとおぼすにいと心憂くて、、御返り、「うけたまはりぬ。いつも思ふさまにもあらぬ世の中の、このごろは見苦しくことさへはべりてなむ。あからさまにも参りて、宮たちを見たてまつり、心もなぐさめはべらむと思ひたまはる。迎えにたまはせよ。

これよりも耳にも聞き入れはべらじ思ひたまへて」など聞こえさせたまひて、さるべきものなどとりしたためさせたまふ。

「現代語訳」

北の方の姉は東宮(冷厳天皇の長男居貞親王→のちの三条天皇)の奥方が里帰りをしておいでの時で、北の方に文を寄こされた。「どうしていますか。噂は本当ですか。私も人並みに扱われているとは思いません。夜のうちにでもいらっしゃい」と書いてあるので、些細な事でも人は噂をするのにましてと思うと、情けなくなって「分かりました。思うようにならない世の中ですが、最近は見苦しい事があります。そちらに伺って、若い宮様方に会って、心を慰めたいと思います。

迎えの車をお願いします。これから宮が何か仰っても聞かないことにしますから。」と申し上げて、行くに必要な物を取り揃えさせられる。

この部分の進み方から、この「和泉式部日記」の作者が、和泉式部自身ではないことがはっきりする。自分自身のことだけではなく、嫉妬する北の方の具体的状況をも描写している。

 

「朗読4」ついに北の方は姉の薦めで実家に帰ることを決意する。おつきの女房達も応援する。

「しばしかしこにあらむ。かくて居たればおぢきなく、こなたへもさし出でたまはぬも苦しうおぼえたまふらむ」とのたまふに、「いとあさましきや。世の中の人のあさみきこゆることよ。」「参りけるにも、おはしまいてこそ迎へさせたまひけれ。すべて目にあやにこそ、「かの御局にはべるぞかし。昼も三たび四たびおはしますなり。」「いとよくしばしこらしきこえさせたまへ。あまりもの聞こえさせたまはねば」などにくみあへるに、御心いとつらうおぼえたまふ。
「さもあらばあれ、近うだに見聞こえじ」とて、「御迎へに」と聞こえさせたまへれば、御せうとの公達、「女御殿の御迎へに」と聞こえたまへば、さおぼしたり。

「現代語訳」

北の方は、「しばらく姉の帰っている実家に行って居ましょう。このままいても面白くないし、宮様にしても私の部屋に来るのは心苦しいだろうから」と仰る。女房達も「全くあきれたことです。世の中の人も宮様を悪く言っています」「女がお屋敷に上がる時にも宮様はわざわざ出かけてお迎えになったのです。まともではありません」「あのお局に住んでいるのですよ。宮様は、日中三回も四回も通われるそうです」「宮様を懲らしめておやりなさいませ。余りにないがしろになさるから」などと口々に言う。これを聞く北の方はとても辛く思われた。「もうどうなってもいい。近くに居てお話したくもない」といって、かねてより「迎えに来てください」と言っていたので、「女御からのお迎えです」とお聞きになると、頼んだ車だなと思われた。

 

「朗読5」北の方が里に帰る様子を宮付きの女房が宮に知らせる。宮は慌てて北の方の部屋に行く。これから修羅場。

御乳母、曹子なるものむつかしきものどもはらはするを聞きて、宣旨、「かうかうしてわたらせたまふなり。春宮の聞こしめさむこともはべり。おはしましてとどめきこえさせたまへ」と聞こえさわぐを見るにも、いとほしう苦しけれど、とかく言ふべきならねば、ただ聞きゐたり。聞きにくきころ、しばしまかり出でなばやと思へど、それもうたてあるべければ、たださぶらふも、なほもの思ひたゆまじき身かなとおもふ。宮入らせたまへば、さりげなくておはす。「まことにや、女御殿へわたらせたまふと聞くは。など車のことものたまはぬ」と聞こえたまへば、「なにか。あれよりとてありつれば。とて、ものものたまはず。

「現代語訳」

北の方の御乳母が部屋の汚れ物を掃除しているのを聞きつけて、宮の係りの女房が「これこれの事で、北の方はお里に帰られます。東宮様(宮の兄)のお耳に入ると問題なので、お止め下さい」とあわてて言うのを見るにつけても、女は心苦しく辛いが、口出すべき事でもないので、ただ黙って聞いていた。嫌な話の間は、退出していようとて思うが、それにつけても物思いが絶えないなあと思う。

宮が北の方の部屋に入ると、北の方はさりげない様子。宮が「お里に行くというのは本当ですか。車の用意を私に仰らないのですか。とお聞きになるが、北の方は「別に。向こうからお迎えがあったので」とだけで、あとは何も言わない。

 

「講師」

ここで和泉式部日記は実質的に終わり、後は読者の想像に任せることになる。さてどう想像するか。

まあ普通であれば、女が身を引いて一件落着か。宮はこの後2年後に病死する。
「敦道親王略歴」

冷泉天皇の第四皇子。三条天皇(文中では当時東宮)の弟。最初に和泉式部の恋人であった兄為尊親王の死後、和泉式部と恋仲になったのが、この物語。そして女を屋敷に住まわせたことで、正妃の怒りを買い、後に離婚。そしてすぐに病死する。

 

「朗読6」この物語は本に書いてあるのを写したので、実際にはこんな事ではないであろう。

宮の上御文書き、女御殿の御ことば、さしもあらじ、書きなしなめり、と本に。

「現代語訳」

北の方と姉の文の言葉は、実際にはこんなものではあるまい。誰かが作ったようであると、私が書き写した本には書いてある。

 

「コメント」
15
回にわたる和泉式部日記講座は終了。作者不詳。しかし実際の和泉式部をモデルに誰かが面白おかしく書いたのであろう。紫式部あたりが絡んでいる可能性は?

 

「和泉式部」

父母は受領(国司)の家系。和泉守橘道貞の妻となり、任国へ。この時の子が小式部内侍。

帰京後最初の恋人が、為尊親王。その死後、「和泉式部日記」の物語となる弟・敦道との恋。

破綻後、一条天皇の中宮藤原彰子の女房に出仕。武勇で有名な藤原保昌と再婚、任地丹後に下る。

同僚女房であった紫式部からは、優れた歌人として評価されつつも、多くの男と浮名を流した好色な女として批判されている。与謝野晶子は情熱的な歌人として評価している。

「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」 娘小式部内侍を亡くした時の哀傷歌。

 

和泉式部は、あらかじめ決められた歌題について和歌を詠む、12世紀初頭の題詠成立以前の歌人であった。