220109和泉式部日記⑧「暁起きの手習い」

女が和歌を散りばめた独自の散文を書き上げる場面である。このような文章は枕草子、源氏森語、更級日記に匹敵する素晴らしいものである。平安時代における日本語表現の到達点の一つである。この銘文を書くに至る経緯を見てみる。

 

「朗読1」宮は久し振りに女を訪ねようと、女の門の戸を叩いた。女は起きていて、物思いに耽っていた所であった。

ほっておいたら、帰ってしまったみたい。

長月二十日あまりばかりの有明の月に御目さまして、「いみじう久しうもなりにけるかな。あはれ、この月は見るらむ。人やあるらむ」とおぼせど、例の童ばかりをお供にておはしまして、門をたたかせたまふに、女、目をさまして、よろづ思ひつづけ臥したるほどなりけり。すべてこのごろは、折からにや、もの心細く、つねよりもあはしれにおぼえて、ながめてぞありける。

有明の月→明け方近くまで空に残っている月

「現代語訳」                                        

920日頃の有明の月の頃に、宮は目を覚まして「女に久しくご無沙汰をしてしまった。女は、この月をしみじみと見ているだろう。でも誰か男が来ているかも知れない」と思ったけれども、供の童に門を叩かせると、女は目を覚ましてして色々と物思いに耽っているところであった。此の頃は秋のせいもあって、心細くしんみりと物思いに耽っていた。

女房を起こして門を叩くのは誰かと調べている内に、音がしなくなり宮は帰ってしまったみたい。

 

「朗読2」女は寝ずに物思いに耽っていると、宮から文が来る。折を見てきちんとされていると嬉しくなって、先ほど手習いのように書いていた文章を、宮に送った。

女は寝で、やがて明かしつついみじう霧りたる空をながめつつ、明くなりぬれば、このあかつき起きのほどのことどもを、ものに書きつくるほどにぞ例の御文ある。ただかくぞ、

「秋の夜の有明の月の入るまでにやすらひかねて帰りにしかな」

「いでやげに、いかに口惜しきものにおぼしつらむ」と思ふよりも、「なほ折ふしは過ぐしたまはずかし。げにあはれなりつる空の景色を見たまひける」と思ふに、をかしうて、この手習のように書きゐたるを、やが引き結びてたてまつる。

「現代語訳」

女は寝ずに夜を明かした。霧の空を眺めつつ、この朝の事などを紙に書き付けていると、御文の便りがあった。

「有明の月が沈むまで待っていられないので、門の前から帰ってしまいました。」

女は「なんと詰まらない奴と思われたであろう」と思いながらも、折々の風情は御覧になるのだと思うと嬉しくて、手元の手習いを宮に送った。

 

「朗読3」激しい風が吹いていて時雨が降る。こんな悲しい秋では私の袖は涙でボロボロ。誰かの袖を借りねば。

風の音、木の葉の残りあるまじけに吹きたる、つねよりはものあはれにおぼゆ。ことごとしうかき曇るものから、ただ気色ばかり雨うち降るは、せむかたなくあはれにおぼえて、

「秋のうちは朽ちはてぬべしとことわりの時雨にたれが袖はからまし」

嘆かしと思へど知る人もなし

「現代語訳」

風の音が、落ち葉一枚も残さぬように吹いているのは、風情が感じられる。空はすっかり曇っているというものの、少しばかり雨が降るのは、しんみりと思われて

「秋の内に私の袖は涙でボロボロになるに違いない。長月の時雨にはどなたのかの袖を借りなければならない。」

悲しいがこんな思いを知る人もいない。

 

「朗読4」草の色まで今までと違ってきた。時雨の風に草がなびいているみると、草の露のような私は消えてしまいそう。悲しいので、部屋の端に寝てみたが眠れない。人はのんびりと寝ているのに、私は物思いに耽っている。

草の色さへ見しにもあらずなりゆけば、しぐれむほどの久しさもまだきにおぼゆるかぜに、心苦しげにうちなびきたるには、ただ今も消えぬべく露のわが身ぞあやふく、草葉につけてかなしきままに、奥へも入らでやがて端に臥したれば、つゆ寝らるべくもあらず。人はみなうちとけ寝たるに、そのことと思ひわくべきにあらねば、つくづくと目を飲みさまして、なごりなう恨めしう思ひ臥したるほどに、雁のはつかにうち鳴きたる、人はかくしも思はざるらむ、いみじうたへがたき心地して、

「まどろまであはれ幾夜になりぬらむただ雁がねを聞くわざにして」

「現代語訳」

草の色まで今までと違って色づいていきたので、時雨はまだだけど時雨が運んできたと思われる風に草が辛そうになびいている、わが身が思い出されて悲しくなる。部屋の奥にも入らず、端に寝ているが眠れない。人はのんびりと寝ているのに。目を覚まして身を嘆いていると雁が鳴いた。人はこれを聞いてしみじみとしないだろうが、私にはとても辛い。

「まどろみもしないのは幾夜になったろう。毎晩雁の鳴き声を聞くのは。」

講師

文体は源氏物語というより、枕草子に似ている。又徒然草の自然描写を連想させる。

 

「朗読5」外を見ると、空の様子、月、鐘の音、鳥の鳴き声など、私ほどしみじみと見る人はいないであろう。

とのみして明かさむよりはとて、妻戸を押し開けたれば、大空に西へかたぶきたる月のかげ、遠くすみわたりて見ゆるに、霧りたる空のけしき、鐘の声、鳥の音ひとつにひびきあひて、さらに過ぎし方、今、行末のことども、かかる折はあらじと、袖のしづくへあはれにめづらかなり。

「われならぬ人もさぞ見む長月の有明の月にしかじあはれは」

「現代語訳」

こんなことをして夜を明かすよりはと戸を開けて外を見る。西に傾いた月の光が遥かに見え、霧のかかった空の様子、夜明けを報せる鐘の音、鳥の鳴き声が響きあっている。過去の事、将来の事などが思われる。全くこんな状況は中々ないと、袖を濡らす涙もいつもと違う感じがする。

「私ではない人もこの情景を見るだろうが、長月の有明の月ほどしみじみとするものはないと思うのは私だけではなかろうか」

 

「朗読6」今、こんな気持ちの時に私に逢いたいと思う人が居たら嬉しい。でも現実にはいないだろう。

ただ今この門をうちたたかする人あらむ、いかにおぼえなむ。いでや、たれかかくて明かす人あらむ。

「よそにてもおなじ心に有明の月を見るやとだれに問はまし」

「現代語訳」

今、門を叩き私を訪ねる人が居たらとても嬉しい。そもそもこんなにして夜を明かす人がいるだろうか、いやしない。

私と同じ気持ちで有明の月を見てた居る人がいるだろうか、いやしない。

「よその何処かで私と同じ気持ちで有明の月を見ている人がいますかと誰に聞いたらいいのか」→誰もいない。

「講師」

この文体と表現が和泉式部日記の魅力で、現代性がある。

 

「朗読7」女が手習い文を差し上げると、あふっけないほど水具に返事が来る。

宮わたりにや聞こえましと思ふに、たてまつりたれば、うち見まひて、かひなくおぼされねど、ながめゐたらむにふとやらむとおぼして、つかわす。女、なかずめ出だしてゐたるにもて來たれば、あへなき心地して

「現代語訳」

女は手習い文を宮様に差し上げたら、御覧になって、詰まらないものと思った訳ではないが、女が物思いしている内に返事をしようと、文を出された。女は物思いしている時にあっけなく返事がきたので、もう返事が来たかと思った。

 

「朗読7」宮様の五首の返歌。

「秋のうちは朽ちけるものを人もさはわが袖とのみ思ひけるかな」

「消えぬべき露のいのちと思はずは久しき菊にかかりやはせぬ」

「まどろまで雲居の雁の音を聞くは心づからのわざにぞありける」

「われならぬ人も有明の空をのみおなじこころにながめけるかな」

「よそにても君ばかりこそ月見めと思ひて行きし今朝ぞくやしき」

「現代語訳」

「袖が涙で朽ちたのは自分だけのことと思っておられるようですが、私の袖も涙でボロボロでず。」

「自分のことをはかない露とお思いですが、何故不老長寿の菊にあやかろうとしないのですか。」

「まどろみもしないで、雁の鳴き声を聞いているのは、他の男との関係があるからでしょう」

「私だけではなく、誰かも有明の月を眺めているのですね。貴女もでしたか。」

「貴女だけは月を見ていると思い、訪ねたが門を開けて貰えなかったのは悔しい事でした。」

「講師」

この歌を見て、女はもっと深い気持ちを期待したがまあまあ満足したのだろう。

 

「コメント」

ゲ-ムは続く。女の一人よがりで自分勝手なル-ルで。しかし女に引かれるものがあるのだろう、結構ぞんざいに扱われても続いている。こういうのばかり読んでいる古典の国文学者というのはどんな人たちなんだろう。