201121和泉式部日記2㉚「夏の恋の予感」

今日から本文を読み始める。一つの試みとして水戸で江戸時代編纂された「扶桑拾葉集」による。皆さんが読むのは、三条西家旧蔵本を底本としている。よって少し違うかもしれない。

「和泉式部物語」は、夏の恋から始まる。

「朗読1」去年亡くなった宮様を嘆きながらいるうちに、今年も夏になった。宮様が使っていた小舎人が現れた。

「夢よりもはかなき世の中を、嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下くらがりもてなく。築地の上の草あやかなるも、人はことに目もとどめぬを、あはれとながむるほどに、近き透垣のもとに人のけはひすれば、たれならむと思ふほどに、故宮にさぶらひし小舎人童なりけりき。

「現代語訳」

儚い人の世、亡くなった人を嘆き悲しみながら暮らしている内に、四月十日過ぎになれば、木々の葉陰の闇も深くなっていく。築地の草も青々として、人は目もくれないけれど、心に沁みて見える。(墓に草が生えていくのを連想、源氏物語から)。庭先に人が来た気配がするので、誰かなと思っていると、亡き人が使っていた小舎人であった。

「講師」

この物語は夏から始まる。小舎人が登場すると、今は亡き楊貴妃と玄宗皇帝との文遣の役割を果たした魔法使いを思い出させる。

 

「朗読2」小舎人は今は弟宮にえて、橘の花を預かってきた旨を伝える。それを見て、ある歌を思いだした。

「あはれにもののおぼゆるほどに来たれば、「などか久しく見えざりつる。遠ざかる昔のなごりにも思ふも」など言はすれば、「そのこととさふらはでは、なれなれしきさまにやと、つつましうさぶらふうちに、日ごろは山寺にまかり歩きてなむ。

いとたよりなく、つれづれに思ひたまうらるれば、御かはりにも見たてまつらむとてなむ。帥宮に参りてさぶらふ」と語る。「いとよきことにあなれ」その宮は、いとあてにけけしうおはしますなるは。昔のようにはえしもあらじ」など言えば、「しかおはしませど、いとけじかくおはしまして、「つねに参るや」と問はせおはしまして、「参りはべり」と申しさぶらひつれば、「これもて参りて、いかが見たまふとてたてまつらせよ」とのたませはせつる。とて、橘の花をとり出でたれば、「昔の人の」と言われて見む。

「現代語訳」

しみじみとしている時に小舎人が来たので、「どうして来なかったの」と聞くと「遠慮していました。近頃は山寺詣でをしていました。最近は弟宮に仕えています。」と答える。そこで「それはいい事です。その宮様は近づきにくい人で、亡くなった宮様のようではないでしょう。」と言うと、そうですが、私をお近くお使いになって「あの人にはいつも伺うのか」と聞かれるので「いつも参ります」と答えたら、「これを持っていって、どう御覧になりますかと、差し上げなさい」と仰った。そして、小舎人は橘の花を取り出したので、「五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」という歌をつい口ずさむ。

 

「朗読3」言葉で返事するのも、気が引けるので、歌で返事をした。

「さらば参りなむ。いかが聞こえさすべき。」と言へは、ことばにて聞こえさせむもかたはらいたくて、「なにかは、あだあだしくもまだ聞こえたまはぬを、はかなきことをも」とおもひて、

「薫る香によそふるよりはほととぎす聞かばやおなじ声やしたると」と聞こえさせたり。

「現代語訳」

小舎人が「これで帰ります。どうご返事しましょうか」というので、言葉でご返事するのも気が引けるので、宮様は軽薄との噂もないので、歌でよかろうと次の歌を差し上げた。

「橘の薫る香にかこつけたりなさる位なら、直にお声を聞きたいものです。兄宮とそっくりにお声かどうか。」

 

此の歌を見て、弟敦道親王(冷泉天皇第四皇子)は、返歌をする。

「おなじ枝に鳴きつつをりしほととぎす声は変はらぬものとしらずや」

→おなじ枝でないていたほととぎすです。声は変わりませんよ。」

これを小舎人はまた、女の所に持ってきたが、返事は出さなかった。次に又、弟宮は歌を送った。

「うち出ででもありにしものをなかなかに苦しきまでも嘆く今日かな」

→気持ちを申し上げなければよかった。言ったばかりに、苦しく乱れている今日の私です。

女は元々、思慮の深くない性格で(軽薄)、今の状況が孤独なので、返事を出したのである。

「今日のまの心にかへておもひやれながめつつのみ過ぐす心を」

→今日と仰いますが、私は辛い物思いの毎日を続けていますよ。

 

「講師」

こうして、兄宮(為尊親王)が亡くなって翌年の夏、弟 敦道親王との恋が始まった。

 

「コメント」

自分で自分の性格が分かっていたのだ。少し軽薄で、好奇心旺盛で、才気があり、コケットリ-。是では紫式部の好餌である。