200215 ㊻「長明の執着と妄念(其の三)断感
前回までは執着、執念について話した。長明にとって、執着、執念にどう対処するか、どう抑え込むかかが、大きな問題であった。断惑という言葉がある。仏教用語で、煩悩を断ち切る事。これが、長明が生涯をかけて考えていたことである。
今日は執着、執念から逃れる為に人々はどのような行動を取っていたかを探る。
「発心集 巻1 7話」 小田原教壊上人、水瓶を打ち割る事付、陽範阿闍梨、梅の木を切る事
浄瑠璃寺の近くの小田原と言う地に、教壊上人と言う人が居た。自分が使っている水瓶(仏具の一つ)が、とても気に入っていた。比叡山奥の院で祈祷している時に、お気に入りの水瓶の事を思い出してしまう。盗られてしまうのではないかと心配になって、修行どころではなくなった。それで帰るやいなや、水瓶を打ち割ってしまったという。
また比叡山の横川に陽範という僧がいて、立派に紅白の梅の木を大切にしていた。人が枝を折ったりすると、文句を言ったりした。ある時、小坊主に斧を持ってこさせ、根元から切ってしまった。弟子たちが驚いて理由を聞くと、「つまらないものだから切った」と答えた。
二人の行動は執着を恐れたからである。そして二人は往生した。人間は煩悩の奴隷である。その事を好くないと判っていても、思い切れないものである。
「徒然草 38段」
黄金は山に捨て、玉は淵に投げ捨てるべし。
「発心集 巻1 9話」 神楽岡清水谷仏種坊の事
神楽岡(京都の吉田山)に仏種坊という聖人がいた。ある時、檀家の家を訪れた。そして「庵室を作る時に来た職人が、魚をおいしそうに食べていたので、私も食べたくなったので、出してほしい」と言った。檀家は驚くが、魚を出すとムシャムシャと食べて、残りは持って帰った。檀家がその時は、急なことで十分でなかったと言って、後日沢山の魚料理を持って行った。そうすると仏種坊は「もう要らない。十分食べたので飽きた」と言った。
「発心集巻1 5話」 多武峰増賀上人、遁世往生の事」
幼少時より、人に優れ、ゆくゆくはやんごとない人になるだろうと言われていた僧がいた。
しかし心の中では俗世を儚み、名利を求めず、極楽に行くことを願っていた。ある時比叡山根本中堂に千夜籠る修行をした。満願の日の恒例として、宴会の残りの食物を庭に投げ、人々が争ってそれを拾い食べる。僧賀上人も、庭に降りて、一般の人に交じって食べ始めた。それを見た人々は、上人が狂ったと罵ったが、「私は狂っていない。お前たちの方が狂っている。」と言った。この後、上人は多武峰に籠ったという。の後、色々な奇行で有名であった。
「宇治拾遺物語 143話」 増賀上人、三条宮に参り振舞いの事」
増賀上人の奇行は、宇治拾遺にも出ているので引用。
上人は時の皇后が出家するときの、戒師となった。式が終わり上人は大声で言った。「私を呼んだのは何の為だ。私の一物が大きいからか。しかし今は練り絹のように柔らかくなって使い物にならない。」これを聞いて、周囲の人々は驚き騒いだ。上人は退出しようとしたときに「風邪をひいているので下痢をしている。」といって、庭に座って尻を出して下痢をした。音も多く、臭気も激しかった。人々は、呆れ果てた。このような奇行は、わざとやっていることで、上人の評判は却って上がった。今までに述べた人々は、物狂いと言われるが、執着から逃れんとしての所業なのである。
「コメント」
奇行が評判を上げるのではなく、ちゃんと修行して行いも正しい人が、突然奇行を行うことが効果的。奇を衒っての事ではない。これを勘違いする輩が時々いるのには閉口する。それにしても、
長明は週刊誌の記者並の取材能力があるのには感心する。