191130 ㉟「長明歩く」(其の二)鎌倉への旅
長明は建暦元年(1211年)に和歌所寄人 飛鳥井雅経の推薦で、鎌倉へ。源実朝と面談。これには後鳥羽院の配慮もあったとも言われる。又鎌倉の政治状況探査の目的も。当時の都の歌人は東国に強い興味を持っていた。長明も東国の歌を作っていた。
「長明 歌集」 36話 37話
・下総の岬の月 太陽と月が海から登ることに驚いている。ここは日本の東の果てであることよ。
「正治後度百首」 後鳥羽院の指示で制作した歌集
・武蔵野の花の枝に露が落ちて、月の光を際立たせているなあ。
「発心集 巻6 12話」 西行が武蔵野を訪れた時のエピソ-ド
西行が東国に行った時、月の夜に武蔵野を通った。遠くから経を読む声が聞こえた。萩、女郎花に囲まれた草庵に老いた僧が法華経を読んでいた。
・都人の武蔵野のイメ-ジ 「武蔵野は月の入るべき山もなく草より出でて草にこそ入れ」
「発心集 巻7 12話」
平 宗親が東国下向で、歌枕探訪
長明が東国下向の時の様子を探ってみよう。
「菟玖波集」 最初の連歌集 同行の飛鳥井雅経と連歌を作っている。
昔にもカエデと見ゆるうつのやま → いかで都の人に伝えん
昔にも変わらずカエデがあるなあ。この事を都の人に何とかして伝えましょう。
この地のカエデは「伊勢物語 9段」で在原業平が見たという、また知り合いの行者に会い、都への
便りを託したという故事にまつわるもの。いわば歌枕。
「吾妻鏡」
飛鳥井雅経の紹介で数度実朝に面会。命日には頼朝の墓に詣で、一首詠み柱に書き付けた。
「草も木も靡きし秋の露消えて空しき苔を払う山風」→あの強い頼朝も亡くなってしまった。
「長明が東国に行って実朝に会った理由」 講師推測
・実朝に歌の指南役として召し抱えられること
・鎌倉方の状況探索という、後鳥羽院の指示
「太宰 治/佐藤春夫の長明感」
・太宰は小説「右大臣実朝」で、面会の時の長明の様子を描く。散々である。
「身なりのぱっとしない歯抜けの老人で、軽々しい。ひねくれた我儘で油断のならない、浅ましい人」
・佐藤 春夫は、歴史小説「長明」
歌所寄人の飛鳥井雅経が後鳥羽院の意を受けて、日野の草庵に長明を訪ねる所を描く。
「金槐和歌集に見る実朝・長明と会見の様子」
「千早ぶるみたらし川の底清みのどかに月の影はすみけり」
「君が代も我世もつきじ石川の瀬見の小川の絶えじと思えば」
瀬見の小川は、長明がこの事を歌って下鴨神社宮司と大騒ぎとなったことは記述。実朝が瀬見の小川という言葉を使っていることは、二人の会見は友好的であったのか?
「コメント」
一介の世捨て人が、長い旅をして時の将軍に会うというのは稀有。当時京と幕府は政治的に極めて微妙な時だけに、後鳥羽院の敵情視察説に賛成する。それにしても、当時の歌人が古い歌を
知っていること、また講師が長明に関するすべての資料を調べていることには驚嘆する。