190907 ㉓ 「長明の半生 其三『音楽家として』」
「歌人として、音楽家として」
鴨長明は音楽と歌道に打ち込んでいた。千載集(勅撰集・八代集の一つ、後白河上皇・藤原俊成)に入集。歌人として後鳥羽上皇に見いだされ、「正治百首」という大きな歌会に召された。一方音楽家としても活動した。後年、方丈記にも、方丈の庵で、「方丈の庵には和歌・管弦・往生要集の書物を
置き、傍らに琴・琵琶を一丁ずつ‥‥」とあり、音楽を楽しんでいたことが記されている。
〇「方丈記の一節」 方丈の庵での生活 「春は藤波を見る・・・・」
「航跡の白波に我が身を比べる朝には、行き交う船を眺めて、満沙弥の歌の風流を思い出し、桂の木に吹く風が葉を鳴らす夕べには、白楽天が作った琵琶の歌を思い、一人で琵琶を弾き、自分自身で楽しむのである。」
〇音楽の師は、中原有安。「無名抄」に長明に対する教訓が載っている。
歌人で著名な音楽家で、鴨長明の師。長明が千載集に入集したことを、謙虚に喜んでいることについて次のように言ったとされる。→「勅撰歌人であることを表に出さないようにしなさい。頑張るのは当然だけど、歌人となってあちこちに呼ばれるであろう。そうすると言わなくてもいいお追従を云ったり、軽々しく振舞ったりする様になる。それは良いことではない。奥床しくありなさい。」
これは長明の目立ちたがり屋で得意になりたがる性格を見抜いたアドバイスであったのだろう。
〇このアドバイスに対する長明のコメントが「無名抄」にある。
「今思い出すと、中原先生には大変な恩を受けたものである。我が子にも教えない芸の道を、隠さずに教えてくれた。後継者とも思っていただいていたようで、貴重な教えも頂いた。」
「無名抄に見る音楽家のエピソ-ド」
〇巻6 第7話 「永秀法師 数寄のこと」
「石清水八幡宮別当頼清の遠縁で永秀という法師がいた。貧乏でもっぱら笛を吹いていた。きちんとしていたので周囲から軽んじられることもなかった。別当頼清は、気の毒に思って「何か必要なものはないか」と聞いた。永秀は「有難いことだ、一つお願いがある」と返事した。別当頼清はとんでもないことを言われるのではと、言ったことを後悔した。永秀は「筑紫に領地をお持ちなので、漢竹の笛を一本頂きたい。これは私にとって最高に幸せなことだ。」と言った。別当頼清は早速笛を取り寄せて、食料、酒や身の回りの物を持たせた。永秀は楽人仲間を呼び集めて、食事をしながら音楽を楽しんだ。皆は流石、数寄者であると感心した。 →普通人は生活大事、数寄者は趣味大事。
漢竹 漢渡来の竹、多く笛に使う。
〇巻6 第8話「時光・茂光の数寄 天聴に及ぶ事」
「時光という笙の名手がいた。茂光という篳篥の名手と歌を歌いながら碁を打っていたら、宮中からお呼びがあった。何も返事しなかったので、使者はこの旨天皇(堀河天皇)に申し上げた。天皇はこう
仰った。「他の事を忘れて一つの事に没頭していることは素晴らしい。」
「コメント」
一般的に「無名抄」は鴨長明の歌論書として認識されているが、音楽の事も多く含まれる。世捨人ではあるが、各方面の三面記事に詳しいのだ。色々と聞いて回っていた?