190831㉒「長明の半生 其二『歌人として』」
和歌の道を修行していた。28歳で「長明集」歌集を作る。和歌の道を支えてくれた人が二人。
・賀茂重保(上賀茂神社禰宜) 歌集「月詣集」に、長明の歌を四首入れている。
・俊恵 平安末期の僧。和歌に優れていた。和歌結社「歌林苑」、長明の師。
「長明 勅撰集 千載和歌集に一首入選」 七番目の勅撰集→勅撰歌人となった。
後白河法皇の院宣で藤原俊成が選者。長明は喜びを歌論書「無名抄10条」でこう言っている。
『千載和歌集に私の歌が一首入った。伝統ある家の人間でもないし、歌がうまいわけでもないし、人から認められた風雅な人間でもない。名誉なことであると喜んでいた。故・筑前守(中原有安)がそれを聞いて次のように言った。「千載集にあなたの歌が一首採られて、喜んで言っていることを一通りの
ことを言っていると思っていたが、本気で言っておられるのでしょう。そうするとあなたには、歌道に
関して神のお加護があるのです。心底、そのように思う人は少ないのだ(自分はうまいと思ってる) この千載和歌集には、大したことのない人の歌が10首とか入っている例がある。そうしたことをあなたが見ると、普通面白くないと思うだろうが、そういう不満も言わず、心から喜んでいるのは素晴らしい。道を学ぶということは、まず第一に心を美しく正しくすることが大切である。自分の身の程を弁えず、文才も知らず、気位ばかり高くて傲慢で、口やかましく不満を述べて、間違ったことをしている人が
多い。このことを思い出して頂きたい。」
このことを聞いて、長明は本当に歌の道の登竜門は、自分の身の程に過ぎたものである。そして、
中原有安の言葉は、大切で意義深いと言っている」』
「正治百首歌に参加」 一人が百首詠むもの 正治二年
これは後鳥羽院が企画し、当時の錚々たる歌人が参加。→宮廷歌人として認められた。
「和歌所の寄人となる」
後鳥羽院の命で、宮中に和歌所が設置され、長明はその寄人となり、精励する。源 家長が事務局で、「家長日記」に長明のことが、好意的に書かれている。寄人に任じられて喜びの歌を作っている。
「我が君の千代を経んとや秋津洲にかよひそめけん海士の釣り船」
自分を後鳥羽院のご威光をしたって船で参上した卑しい漁師としている。
「歌合せで定家に勝つ」 判者 藤原俊成 →この時に後鳥羽院から勅撰和歌集「新古今和歌集」編纂の命が下る。
「夜もすがら一人深山の真木の葉に曇るも澄める有明の月」 定家が褒めた。
「後鳥羽院の三体和歌 歌合せに長明も参加」
それぞれの題を、姿を変えて6首読む歌合せで、後鳥羽院の命で実施。難しさに辞退者も出たが、
鴨長明は参加。
参加者 6人 藤原良経、定家、家隆、慈円、寂連、長明
春・夏 太く大きく(堂々と壮大に)
秋・冬 繊細に枯淡に
恋・旅 艶麗で優雅に
(長明の歌)
春 雲さそふ天つ春風かおるなり高間の山の花盛りかも
夏 うちはぶき今も鳴かなむ時鳥卯の花月夜盛りふけゆく
秋 宵の間の月のかつらのうす紅葉照るとしもなき初秋の空
冬 寂しさはなお残りけり跡絶ゆる落ち葉が上の今朝の初雪
恋 忍ばずよ絞り兼ねぬと語れ人もの思う袖の朽ち果てぬ間に
旅 旅衣立つ暁の別れよりしおれし果てや宮城野の露
後鳥羽院の難問に、長明は見事にこたえたのである。
「コメント」
長明の一つの絶頂期で、当時の一流歌人となって、後鳥羽院の寵を得たのである。