190504⑤「福原への遷都」其の二
この遷都は全く準備もされず、突然に強行された。この状況の確認のために、鴨長明は現地調査に出掛けていく。
朗読1
「その時、おのづからことの便りありて、津の国の今の京に至れり。所のありさまを見るに、その地ほど狭くて条理を割るに足らず。北は山にそひて高く、南は海近くて下れり。波の音、常にかまびすしく、潮風とくにはげし。内裏は山の中なれば津、かの木の丸殿もかくやと、なかなか様変はりて、優なるかたも侍りき。
日々にこぼち、川も狭に、運び下す家、いくに作れるかにあらむ。なほ空しき地は多く、作れる屋は少なし。」
その頃、たまたま用事のついでがあって、摂津の国にある現在の都(福原=神戸)に行った。その場所の有様を見ると、そ土地は狭くて、都の条理をつくることは出来ない。北は山に沿って高く、南は、海が近くて下っている。波の音がいつも騒がしくて、潮風が特にひどい。内裏は山の中にあるので、あの木の丸殿(斉明天皇の筑前国の朝倉宮)も、このようなものかと、却って、風変わりで風雅なところもある。
京では、毎日毎日家を壊して、淀川の川幅も狭くなるほどに運び流す。これをどこに作るのだろう。
福原には空き地が多く、建築された家は少ない。
・鴨長明の意見
この遷都に極めて批判的。福原の立地について口を極めて批判し、都になる土地ではないと
言っている。 狭い、すぐ山、潮風、波の音
・摂津
五畿の一つ。大阪府・兵庫の一部。
五畿 大和・山城・河内・和泉・摂津)→奈良・大阪、京都、兵庫
・木の丸殿
斉明天皇が百済救援のため筑前滞在中の仮の行宮。天皇はここで没した。
朗読2
「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は、みな浮雲の思ひをなせり。もとよりこの地に居る者は、地を失ひて憂う。いま移れることは、土木のわづらひあることを嘆く。道のほとりを見れば、車に乗るべきは馬に乗り、衣冠、布衣なるべきは多く直垂を着たり。都の手振りたちまちに改まりて、ただひなびたる武士に異ならず。」
旧都はもう荒廃して、新都はまだ完成しない。ありとあらゆる人は、浮雲のように落ち着かない思いをしている。元々この地に居る人は、土地を取り上げられて悲しんでいる。今度移った人は建設工事の苦労を嘆く。道端を見ると、牛車に乗る人は馬に乗り、衣冠や布衣を着けるべく人(貴族)は多く、直垂(武士の衣服→活動的)を着ている。都の風俗は忽ちのうちに変わって、ただ田舎めいた武士と異ならない。
・新都の現状
もともと住んでいた人も、京から移った人も大いに難儀している様子を描写。
・対句 古京と新都
朗読3
世の乱るる瑞相とか聞けるもしるく、日を経つつ、世の中浮き立ちて、人の心もをさまらず。民の憂へ、つひに空しからざりければ、同じき都市の冬、なほこの京に帰り給いにき。されど、こぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、ことごとくもとのようにも作らず。
伝へ聞く、古の賢き御世には、あはれみをもって国を治め給ふ。すなわち、殿に茅葺きても、その軒をだに整えず、煙の乏しきをみ給ふ時は、限りある貢ぎ物をさへ許されき。これ、民を恵み、世を助け給ふによりてなる。今の世の中のありさま、昔になぞらえて知りぬべし。
世の中が乱れる兆しとか聞いていたこともはっきりとして、日が経つにつれて、世の中が動揺して、人心も落ち着かず、人々の心配が現実になったので、同じ年の冬に、京都にお帰りになることに
なった。しかし壊してしまった家々はどうなってしまったのか、元のようには直されていない。
伝え聞くところによると、昔の賢明な帝の御代には、慈愛を持って国を治めておられた。即ち、宮殿に茅を葺いても、軒先をさえ切り揃えなかった。炊事の煙が少ないのをご覧になった時は、決められた税金も免除なさった。これは、民に情けをかけ、世の中を助けようとなさったからである。今の世の
有様は、昔に較べて悪くなっているのが分かるであろう。
(遷都に関する当時の論調)平家一族を含め、朝野を挙げて反対
・高倉院 後白河天皇の皇子で高倉天皇。安徳天皇に譲位して高倉上皇となる
遷都によって、病状が悪化してすぐ没する。母建礼門院が夢で「遷都を何故許しのたのか」と問うた
と臣下に言った。
・賀茂 重保(しげやす) 賀茂神社の神職
藤原忠通(氏の長者・関白)が夢枕に立ち「遷都は無益である」といったと。
・平 宗盛 清盛の三男、重盛亡き後兵士の棟梁。
清盛に遷都反対を提言する。
(還都)
清盛も福原から、京都への還都を行う。治承4年11月(遷都と同じ年)
「コメント」
古代は天皇親政であったが、藤原不比等以来藤原一門の摂関政治、保元の乱以降の武士の台頭で天皇の政治力はいよいよ弱体化している一つの例。賀茂神社の一族としての鴨長明は、天皇一族との繋がりは深く、平家への反感は強かったのであろう。それにしても福原(神戸)の地への酷評は凄い。「坊主憎けりゃ袈裟まで」
当時の文学作品では、政治批判はタブ-であったが、方丈記の論調は珍しいとか。