.こころをよむ「漢詩に見る日本人の心」 宇野 直人(共立女子大学教授)
150531⑨「燃ゆる心を~頼山陽」
「頼山陽」
今回は歴史書「日本外史」の著者として有名な頼山陽の話をする。頼山陽は江戸後期の人、歴史書の著述をライフワ-クとした人、詩文・書画にも優れていた。日本の歴史の中でも有名な文化人であった。
父は朱子学者の瀬春水、母は和歌に優れた教養人で、特に日記を58年間書き続け現存している。親族や知人に優れた学者が多く、色々なことを学べる環境であった。彼自身、幼い頃から読書好きで9歳で、安芸の藩校で学ぶ。歴史物を好み、「保元物語」「平治物語」を愛読した。18歳で江戸に出るが当時江戸は文運が盛んで、寛永の三博士(朱子学の古賀精里・尾堂二州・柴野栗山)がおり、又塙保己一の「群書類聚」とか、本居宣長の「古事記伝」そういう大きな著作が出版されていた。
「群書類聚」というのは、日本の古い書物を分類して収めた巨大な叢書で、正編で530巻、後編で1150巻。完成まで40年間かかった大事業であった。本居宣長の「古事記伝」も35年間を要している。
当時はこういう大きな企画が実現するに適した時期であった。しかし頼山陽は1年で帰郷し再び江戸に出ることはなかった。京都に無断で出たことを藩に咎められ、自宅軟禁となり、この間に「日本外史」の初稿を完成した。後、京都に定住し、塾を開く。彼の名声は徐々に広まり、この時生涯の弟子で女性の江間細香と出会う。日本各地を旅し、著作と教育に生きた人生であった。
52才の生涯であったが、まずは彼が最も得意とした歴史・古事に関する作品から見てみよう。史書の著述をライフワ-クにしただけに、史詩の名作が多い。
① 題不識庵撃機山図 七言絶句 不識庵 機山を撃つの図に題す
戦国時代末期の「川中島の戦い」を詠んだもので、不識庵は上杉謙信の号、機山は竹田信玄の号。この詩を謙信が信玄に打ち掛かる場面を描いた絵に描きつけたもの。川中島の戦いは北信濃を巡っての戦いで12年間に及ぶ。この時一騎打ちがあったとされる。
前半は謙信の軍が夜陰に乗じて明け方、信玄の前に姿を現すという場面から始まる。
全体として謙信の立場に立って彼の心境を思いやる内容。詩吟や剣舞でも有名な作品。
鞭声粛粛夜過河 鞭声 粛粛 夜 河を過る 馬の鞭の音が静かに響き 夜半 河を渡っていく
暁見千兵擁大牙 暁に見る 千兵の大牙を擁するを 夜明けに現れたのは 大軍が大将旗を囲んでいる姿
遺恨十年磨一剣 遺恨なり 十年 一剣を磨き この時 恨みをもって 十年間 剣を磨いて来たのだ
流星光底逸長蛇 流星 光底 長蛇を逸す それが流星のようにひらめいた瞬間 大蛇の様な宿敵を
取り逃がしてしまった
・鞭声 馬に鞭を当てる音
・粛粛 静かにひっそりとしたさま
・千兵 大軍
・大牙 大将の旗
・長蛇 大物
② 本能寺 七言古詩 本能寺の変を取り上げ、光秀の言動を中心に詠んでいる。
謀反の直前、光秀は京都の愛宕山で連歌の会を催し「時は今 天が下しる 五月かな」の句を詠んだ。
その席上、光秀はちまきを皮ごと食べたり、茶人の里村紹巴に本能寺の濠の深さを尋ねたりして、列席の人々から不思議がられる。
前半4句はその会での光秀の言動を、後半4句は老いの坂で謀反を告知する劇的瞬間を詠み、最後に光秀への忠告を述べている。
本能寺 溝幾尺 本能寺 溝 幾尺 本能寺 其の濠の深さはどれくらいか
吾就大事在今夕 吾 大事を就すは 今夕に在り 私が重大なことを起こすのは今夜なのだ
茭粽在手併茭食 茭粽 手に在り 茭を併せて食う ちまきを手にして 皮ごと食べてしまった
四簷梅雨天如墨 四簷の梅雨 天 墨の如し 建物の四方に降る雨は梅雨の雨 空は墨を流したようだ
老坂西去備中道 老の坂 西に去れば 備中の道 老いの坂を西に行けば備中への道
揚鞭東指天猶早 鞭を揚げて東を指せば 天 猶 早し 鞭を上げて東を指した時 夜はまだ明けていなかった
吾敵正在本能寺 吾が敵は正に本能寺に在り 「吾が敵は本能寺に在り」とあなたは言ったが
敵在備中汝能備 敵は備中に在り 汝 能く備えよ 真の敵は備中にいる あなたはしっかりそれに備えなさい
以上2首は頼山陽の思い入れと言うか、主人公の心境を想像して共感する傾向が強い。この人の詩は思い入れがあるから、歴史上の事が生き生きと感じられる。故に人々に読み継がれているのだ。この根底には、頼山陽の歴史観の一端「歴史を作るのは人である」という考え方がある。この人物中心の歴史観を学校の歴史教科書にも反映させると、もっと子供たちの興味を引き出せると思うが如何?
③ 泊天草洋 七言古詩 天草灘に泊す
39歳の時、門人たちと九州を回った時の作。船泊まりする夕刻から、日暮れまでの情景を描いている。頼山陽の詩、ひいては日本の漢詩の中でも特に有名な作品である。この雄大さは見事である。天草は、熊本南西部の天草諸島、対岸は中国大陸。
特に1句が調子が高く印象に残る名句である。
雲耶山耶呉耶越 雲か 山か 呉か 越か あれは雲か 山か 呉の国か 越の国か
水天髣髴青一髪 水天髣髴 青一髪 海と空の果てに かすかに青く 一筋見えるもの
万里泊舟天草洋 万里 舟を泊す 天草の洋 遥かに遠くに来て 舟泊りする この天草の灘
煙横篷窓日漸没 煙は篷窓に横わって 日 漸く没す 夕もやが窓の外に流れ 日は次第に沈んでいく
瞥見大魚波間躍 瞥見す 大魚の 波間に躍るを ちらりと目に入った 大きな魚が波間に躍ったのを
太白当船明似月 太白 船に当りて 明 月に似たり 金星(宵の明星)が真向かいに上がれば その明るさは 月の光のようだ
・呉・越 中国の春秋時代、長江下流にあった国の名。
・髣髴 ぼんやり見える かすかに
・青一髪 青い一筋の髪 海を隔てて遥かに見える陸地の事
・万里 極めて遠い距離
・篷窓 苫を掛けた船の窓
・太白 金星 この場合は夕方西の空に出る宵の明星
④ 売花声 七言絶句 花を売るの声
頼山陽はこれまでの様な豪快な線の太い詩ばかりではなく、繊細な感受性を示したものも少なくない。
花売り娘の声を聞いて、杏の花の季節になったことに気付いたという繊細な風流心を詠んでいる。
(雨上がりの朝、露地に響く花売りの声を聞く)という状況設定は、南宋・陸淤の七言律詩「臨安にて 春雨 ・・・」に見られる。
細雨軽塵曲巷斜 細雨 軽塵 曲巷斜めなり 霧雨が土ほこりを落ち着かせ 横町はうねうねと続く
声声呼徹碧窓紗 声声 呼徹す 碧窓の紗 花売りの声が 窓の青いうすぎぬを通して聞こえる
城南紅事深多少 城南の紅事 深きこと 多少ぞ 町の南の花々は どれほど咲いているのだろうか
又識東風到杏花 又 識る 東風の 杏花に到るを そこで思い当った 春風が杏の花を咲かせたのだ
・軽塵 空に漂う塵やほこり 王維の詩「渭城の朝雨 軽塵を潤し …」からの引用
・曲巷 横町
・紅事 お祝いごと→ここでは花が咲くことを言う
⑤ 中秋無月侍母 七言絶句 中秋 月無くして 母に侍す
母を安芸から招いて、月見をした喜びを歌ったもの
近江・宇治などを案内して、その間中秋の宴を共にした。当夜はあいにくの曇り空であったが、それを嘆かず、月明かりが
届かないお蔭で、私の白髪頭を母に見られなくて済む、母に心遣いを示している。
不同此夜十三回 此の夜を同じうせざること 十三回 中秋の名月を共に見られないまま 十三年が経った
重得秋風奉一厎 重ねて秋風に一厎を奉ずるを得たり しかし今宵は秋の夜風の中 杯を差し上げることが出来た
不恨尊前無月色 恨みず 尊前 月色無きを 残念がるのは止そう 酒樽の前に月の光が届かないことを
免看児子鬢辺糸 看らるるを免る 児子 鬢辺の糸 此の私の髪に白髪が増えたのを 母に見られなくてすむのだから
⑥ 雨窓与細香話別 七言律詩 雨窓に細香と別れを話す
頼山陽が京都に来た高弟の江間細香に贈った別れの詩。細香は大垣の女性で、一時結婚を考えた仲。
山陽 51才、細香 44才。
名残を惜しんで引き留めるように詠い起こし、気心の知れた仲なのに、何かと意に沿わないことが多かったと総括した。
この時山陽は結核を患っており2年後に没す。
離堂短燭且留歓 離堂 短燭 且く歓を留む 送別の宴のこの部屋の 短くなった蝋燭を前に もう少し楽しい時を過ごそう
帰路新泥当待乾 帰路の新泥 当に乾くを待つべし 帰り道の新しいぬかるみは 乾くのを待つべきだ
隔岸峰巒雲纔斂 隔岸の峰巒 雲 纔かに斂まり 鴨川の向こう岸の峰々 その上の雲はやっと収まり
隣楼糸肉夜将闌 隣楼の糸肉 夜将に闌ならんとす 隣の茶屋の三味線や歌声の中 夜は次第に更けていく
今春有閏客猶滞 今春 閏有りて 客 猶 滞り 今年は閏三月が有ったので 君はまだ留まっているが
宿雨無情花己残 宿雨 情無くして 花 己に残す 長雨は容赦なく降り続き 花はもう散ってしまった
此去濃州非遠道 此より去れば 濃州は遠道に非ず ここから美濃迄は遠くないが
老来転覚数遭難 老来 転覚ゆ 数ヾ難に遭うを 歳を取るにつれて感じる 私たちの縁はままならないものだった
・離堂 送別の宴を開いている部屋
・隔岸の峰巒 川の向こう岸の峰々
・糸肉 三味線と人の歌う声
・濃州 美濃の事
「まとめ」
・詩を作ることは彼の仕事の中核ではなかった。18歳で江戸に出た時に、寛政の三博士の一人・柴野栗山に「君は詩人になるには
勿体ない。是非歴史家におなりなさい。司馬光の資治通鑑を読みなさい。」と言われた。これが彼の方向に影響を与えた。
・山陽の歴史を扱った詩のいかにも要点をつかんだ表現の巧みさは水際立っており、それから天草洋の詩は読むたびに作者の心の
大きさに感銘する。
・自分の心を見つめた詩、母上・かって愛人だった高弟に寄せる愛情は床しいもので、こういうすべてを含むのが、頼山陽の人柄と言うべきであろう。
「コメント」
・頼山陽の名前と、詩の一部は知っていたが、これで結びついた。知らないことばかり。
・「雲か山か・・・」が熊本・天草が舞台とはこれも寡聞にして知らず。恥ずかしい限り。
・これまた引用が随所にある。中国の漢詩を知らないとチンプンカンプン。いつもながら記録を造るのに2日がかり。