.こころをよむ「漢詩に見る日本人の心」 宇野 直人(共立女子大学教授)
150524⑧「涙の手まり唄~良寛」
「良寛」
江戸時代後期の禅僧 良寛について話す。その生活は曹洞宗の僧として一貫していたが、詩・書・和歌をよくした。越後出雲崎の人で、名家の出。18歳で出奔し、諸国を行脚して20年後に帰郷、以後は郷里で過ごした。儒学は、荻生徂徠に繋がる古文辞学派。良寛の少年時代は読書好きで物思いにふけり勝ち、これは後の述懐より。「冬の夜、私は灯の油を何度も注ぎ足して読書をした」と。
帰って来た時の言葉「父の意に背いて出奔した。そして虎の絵を描こうとしたが、結局猫の絵さえ満足に描けなかった。私は単なる、山本 栄蔵(本名)に過ぎない」 村の有力者の援助を受けながら、孤高の生活に入る。
70才の時、貞信尼という尼僧と出会い、意気投合。この医師の未亡人との交友が続く。貞信尼 29歳。
良寛はいわゆる好々爺にはならず、厳しい面を持っていた。世間一般の詩と自分のは違うのだという自負があった。或る時人から「あなたの詩は、詩の基本的な約束事として、平仄とか韻の踏み方が規則的ではない。」と指摘されると、「自分はきれいに整った詩ではなく、心の中を綺麗に映し出した詩を作りたいのだ。規則には囚われない」と言った。
「良寛の詩」
しからば良寛の詩はどのような内容であるのか。巾の広いものでまず心境を正直に詠む。或いは農村での生活に密着したなど多岐に亘る。
最初の禅僧の心境を表した作品は激しいものが多いので、例えば「人はとかく愛欲の為に振り回される、しかし愛欲の願望が充足されても、人生自体そう長いものではない。例えて言えば、秋の夜、湖面に浮かんだ月、その月を取ろうとした猿が、水の中に落ちて死ぬようなものだ。」
そういう辛辣な詠み振りを随所に見せている。そうした良寛の詩の中からまず、小動物を題材にしてそこから深い教訓を導いた作品を見てみよう。
「雑詩」 其二十七 五言古詩
雑詩というのは、これと言った題材を決めずに様々な事を詠みこんだ詩のこと、或いは折にふれ色々な感想を詠んだ詩。この詩では猫と鼠について、ある時ふと思ったことを書きつけたという趣きのもの。
1句~4句 歌い起こし、我が家に猫と鼠がいるという所から始まる。
5句~8句 猫は恵まれている 鼠は虐げられている その理由は夫々の習性の違いにあると言っている
9句~12句 猫の方が罪が重いという結論
家有猫与鼠 家に猫と鼠と有り 我が家には猫と鼠がいる
同是一蒙皮 同に是れ一に皮を蒙る どちらも皮をかぶっている
猫飽膝上睡 猫は飽いて膝上に睡り 猫は満腹して 私の膝の上で眠り
鼠餓夜中馳 鼠は餓えて夜中に馳す 鼠はひもじくて 夜中に走り回る
猫児有何能 猫児 何の能か有る 猫には何の能力が有るのか
捉生一曷奇 生を捉えること 一に曷ぞ奇なる 生き物を捕まえる技が 何とも素晴らしい
鼠子有何失 鼠子 何の失有る 鼠に何の落ち度があるのか
穿器也可悲 器を穿つ也 悲しむ可し 器をかじるのは 悲しい習性だ
逝者不復帰 逝く者は復た帰らず 死んだものは生き返らない
倘較罪軽重 倘し罪の軽重を較ぶれば 若し罪の軽い重いを比べれば
秤可傾猫児 秤は猫児に傾く可し 天秤は猫に傾くであろう→猫が悪い
・ネズミは書物や器具をかじるので嫌われる。猫は鼠を取り、可愛い仕草で可愛がられる。しかしそれは人間の勝手な位置づけでしかない。
殺生の罪を犯している分、猫の方が罪深い。
・良寛はこの詩で、皮相的な物の見方や自分本位の考え方を戒めている。もっと大局的な物の見方を養うべきと言っている。
これには、古今東西の書物を詠んで、勉強するしかないとも。
「雑詩」 其七十九 五言古詩
次に春のある晴れた日に子供たちと毬つきをして遊ぶ、そのいきさつを述べた詩を取り上げる。良寛は和歌でもしばしば手まりの歌を
詠んでいる。子供たちと毬つきをする良寛のイメ-ジはなじみの深いものである。
(この宮の 森の木下にこどもらと 手まりつきつつ この日くらしつ)
(この里に 手まりつきつつ 子供らと 遊ぶ春日は 暮れずともよし)
一般的には、農村の子供は年頃になると長男を除いて奉公に出るのが普通。良寛としてはそういう子供たちに、今自分ができることは何か、せめて今一緒に遊んで楽しい思い出を残してやるのが精一杯と言う心境であったのだろう。一見、素朴で無邪気なこれらの詩もそこにはこのような悲しい思いが潜んでいたのではないか。
青陽二月初 青陽 二月の初め 春の二月の頃
物色稍新鮮 物色 稍く新鮮 ものみな 次第に生き生きとしてくる
此時持鉢盂 此の時 鉢盂を持し 此の時とばかり 托鉢の鉢を手に
得得游市塵 得徳として市塵に游ぶ うきうきとして 町の中に出ようとした
児童忽見我 児童 忽ち我を見 子供たちはたちまち 私を見つけて
欣然相将来 欣然として相将いて来る 嬉しさ一杯で 一緒に走り寄ってくる
要我寺門前 我を要つ 寺門の前 私を待っていたのだ 寺の門の前で
携我歩遅遅 我を携えて 歩み遅遅たり 私の手を引いて ゆっくり歩く
放盂白石上 盂を白石の上に放ち 鉢を白い石の上に置き
掛嚢緑樹枝 嚢を緑樹の枝に掛く 頭陀袋を緑樹の枝に掛け
于此闘百草 此に于て百草を闘わし いよいよ草遊びを始め
于此打毬子 此に于て毬子を打つ さあ今度はまりつきだ
我打渠且歌 我 打てば 渠 且つ歌い 私が打つ時 子供たちは歌い
我歌彼打之 我 歌えば 彼 之を打つ 私が歌えば 子供たちがつく
打去又打来 打ち去り 又 打ち来たりて ついてはつき 又 ついて
不知時刻移 時刻の移るを知らず 時の過ぎるのを忘れてしまう
行人顧我咲 行人 我を顧みて咲い 通りすがりの人は私を見て笑い
因何其如斯 何に因ってか 其れ斯の如くなると どうしてこんなことをなさるのですか
低頭不応伊 頭を低れて伊に応えず 私は下を向いて答えられない
道得也何似 道い得るも 也 何ぞ似ん 説明してもうまく言えない
要知箇中意 箇中の意を知らんと要むるも この気持ちを問われても
元来祇這是 元来 祇 這れ是れのみ もともと ただもう これだけのこと
・良寛がここで口ごもったのは何故か。子供たちの将来を案じていたからである。
「雑詩」 其二十五 五言古詩
次に悲しい現実を詠んだ詩を紹介する。伝説上の女性である「真間手児奈」に託して、ある娘の悲しい生涯を悼んだものである。
「真間手児奈」
下総葛飾郡真間(千葉県市川市真間)にいたという伝説上の美女で「万葉集」に出てくる。彼女は多くの男から求婚され、悩んだ末に入水自殺をしてしまう。真間に今は記念碑がある。
(勝鹿の真間の入り江にうち靡く玉藻刈りけむ手児奈し思ほゆ) 山部赤人 万葉集 巻3 「勝鹿の真間娘子の墓に過る」
余郷有一女 余が郷に一女有り 私の郷里に ある娘がいた
齠年美容姿 齠年より容姿美なり 幼いころから 綺麗だった
東隣人来問 東隣より 人 来り問う 東隣から 是非私のお嫁さんになってほしいと申し込まれ
西舎客密期 西舎より 客 密かに期す 西のお宅からもそっと逢いましょうと
或者伝以言 或者は伝うるに言を以ってし ある時は手紙を
或者貽以資 或者は貽るに資を以ってす ある時は贈り物を
如此歴歳月 此の如くにして歳月を歴れども そのようにして月日は経ったが
志固共不移 志固くして 共に移らず 双方の若者の気持ちは固く譲らない
吁妾一人身 吁くらくは妾一人の身 ああ この私はただ一人
豈随両箇児 豈 両箇の児に随わんや 二人のお方にはついていけない
決心赴深淵 心を決して 深淵に赴く 思い余って深い淵に身を投げた
哀哉其爾為 哀しい哉 其の爾く為せること 何と痛ましい事だろう その結末は
第一句に「余が卿に一女有り」とあるが、良寛の故郷は新潟なので、真間手児奈とは合致しない。この詩は、新潟に手児奈と似た境遇の娘がいたのか、或いは新潟の娘が成長してもあまり幸せになれないのを悲しんでいた良寛が手児奈伝説に心を打たれたのか。どちらかであろう。
若い頃からの挫折感・無力感は良寛の心から終生消えなかった。
彼の心の奥底に潜む本心を吐露したのが漢詩であったろう。彼の和歌よりも、漢詩の方が本心をうかがえる。
「コメント」
・良寛のイメ-ジは子供との遊びであったが、実像はかなり違ったいたので何故かほっとした。悟った禅僧と言うのは近づきにくい。
・むしろ、前出の二十八歳の未亡人との交遊を知りたいものだ。週刊誌的興味。禅僧と言うのは一休と言い、結構やるもんだ。